歴史と素適なおつきあい

早野の鎌倉古道

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・3・22

お天気よく風は強かったが久しぶりのひとり探索

鎌倉道は南北にあるがそれを横につなぐ道なのか・・
尊氏道 義貞道というのかよくわからないがそんなサイトがあった



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まずはプロローグとかいうイタリアンとパンのレストランを
柿生方面向いて店の裏を右折

すると宗英寺がある

ずんずん登る
突き当たり車の工場のような・・・

道なりに右! もう車が通る道ではない

左側に



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鉄火松の碑

・・・が・・・ぽつねんとある

昭和22年に老松は枯れたそうな

鎌倉街道の並木の松ともいわれる

ここは鉄(くろがね)と早野の境で

焼けた鉄の棒で境界争いの裁断をしたという伝説がある

早野の人がしっかり焼けた鉄棒をつかんだとか・・・

痛そう・・・


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鉄火松から15mくらい進むとこんな感じ

ぐるりとまわり

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鉄火松の碑を振り返った
やっぱり・・ぽつねんとある


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遠くの建物は桐蔭大学

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進むとすぐに狭くなる

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右は工事のフェンス

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フェンスで見えないので手をのばして写真だけとってみた
何の工事かわからない

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ずっとフェンス

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尾根道

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すごく狭い

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やっと抜けて振り返ったところ


早野からもみの木まで抜けました


ここから虹ヶ丘の原子力研究所へ・・・


ヘビでなくてよかった!





# by gannyan1953 | 2017-03-22 23:04 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

江の島洞窟探検

歴史と素適なおつきあい  2017・4・14

以前にも訪れましたが、今回はエスカーを利用し
そしてパワースポット岩屋洞窟へ

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相州江の嶋岩屋之図 歌川広重  江の島マニアックより



集合:9:50 小田急片瀬江ノ島駅改札でたところ

江の島1DAYパスポート 1000円を購入するとエスカー・コッキング苑・展望灯台
岩屋岩窟に入場できます
帰りはお天気よければ洞窟入口から弁天橋まで遊覧船(別料金400円)があります
天気が悪ければ申し訳ありませんが頑張って歩きましょう
帰りのエスカーはありません。階段です。



江ノ島の地形


周囲4キロ、標60m陸繋(けい)島である。

三浦丘陵多摩丘陵と同第三紀層の疑灰砂岩の上に

関東ロームる地である。

古来は引き潮のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)がれて

岸の湘南海岸と地きとなって

いて渡ることができた(トンボロ現象)。


関東大震災全体が隆起して以降は地向にある。

の周は切り立った海崖にまれ、の力をく受けるの南部には

台が発達する。


大正12年(1923)関東大震災の時の隆起で

海面上に海台が姿をし、隆起海台(岩棚)となった。

ここは光客の休憩や磯遊び、磯釣りのとなり楽しまれている。


崖の下部には断層線など波による浸食み、

海蝕洞られる所があり、

「岩屋」と呼ばれている。


さらに侵食が著しくなると、海洞が崩し、

大きな谷状の地形となる。

江のの中央部には南北から侵食がんで

分断するような地形があり、

「山二つ」と呼ばれている。



江ノ島の縁起に鎌倉の深には周40里もある湖があり、

そこには五頭龍が住んでいた。

そのの行った行は山を崩す、洪水を起こす、疫病がはやる

そして生として子供まで食べていたという。


13(552)黒雲が天を覆い、

大地震が起きて高波が村をった。

大地は10間揺れ、れがまると今度は海底が大爆を起こし、

岩を吹きばすとそこには小さながあった。


江の島である。


欽明天皇のころ(6世紀)天地が揺れ

天の暗雲から天女、海から島が出現した。


龍は美しい天女に恋をして求婚したところ、

天女が言うには「龍がおとなしくなるなら」

という条件をだされ龍は結婚し、

おとなしくなったという。


その後は日照りに雨を降らせ、

を防ぎ、津波を押し返すなど、束通り村を守った。


しかしその度に弱って行き、

最期を悟ったは片瀬山となり村を守るようになった。


これが弁才天として江ノ島明神になった。



歴史

頼朝が文覚上人と戦勝祈願を岩屋で行い、弁才天を勧請した。

建保4年(1216)に隆起し陸続きになったこともある。


北条時政は子孫繁栄を願ったところ

美女に姿をかえた龍神があらわれ願いをかなえると約束した。


それが北条氏の家紋が三鱗になった由来だという。


室町時代に関東管領山内上杉氏と鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が

鎌倉幕府主導権を争い江ノ島合戦が行われた。


その後成氏は下総古河に退去した。


16世紀になると後北条氏が治めた。


戦国時代は後北条氏の直轄か

公界所(くがいしょ・誰にも属さない俗界から離れた聖なる場所)

であったか定かでない。


徳川幕府になると岩本院と上の坊、下の坊と

本山争いが起こり


岩本院が地位を確立した。


江戸時代の江ノ島の信仰、観光は人気をよび、

観光収入を巡っての争いだった。



江ノ島は江庶民の行地として

大山- 江の鎌倉金沢八景光ルトが流行した。


明治になると神仏分離で宗像三女神を祀る

辺津宮(へつみや)、中津宮、奥津宮、岩屋は

江ノ島神社に改められた。


明治20年(1887)の通、

明治35年(1902)江之島電気鐵道通は

江のに多くの光客をぶことになり、

鎌倉まで全通すると、


江の鎌倉光ルトが立し、

修学旅行などわうようになった。


関東大震災で島全体が2m隆起し、

岸の津波被害が著しく、内のほとんどの建物は倒した。


江の島桟橋は津波で流失する。


震災の復興む中、昭和年(1929)には

小田急江ノ島線通し、

観光地発展のきっかけを作った。


現在の江ノ島サムエル・コッキング苑 (入場料200円)は

明治13年(1880)

アイルランド人貿易商サムエル・コッキングが

金亀山与願寺(現在江島神社)の菜園を買収し

2年後植物園を開館した。



関東大震災で荒廃した。


戦後江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)による観光開発で今に至る。

和洋折衷の庭園である。


今あちこちで見られるタイワンリスは

ここで飼われていたリスである。

昭和の時代に台風のため飼育室が破壊され、

逃げたリスが繁殖してしまった。



青銅鳥居

延享4年(1747)と文政4年(1821)の銘がある。


正面の額は蒙古襲来に勝利した記念に

後宇多天皇の勅額の写しである。



岩本院

鎌倉時代の「岩本坊」は、のちに「岩本院」となり、

江の総別めた。


文久2年、「岩本院の稚あがり、普段着なれし振袖から、

田に由比ヶ浜」の台で有名な、

河竹阿弥の「白浪五人男」の舞台として取り上げられた。


歌舞伎の白浪五人男に登する「弁天小僧」は、

岩本院の稚がモデルであるとも言われている。


その他、芝居、講談、小など、数々の名作に

岩本院の名は取り上げられ、

740年余りのきにわたってく世にがれてきた。



随神門

朱の居の正面、石段を上ったところにある龍宮城を

模した楼


人々が瑞々しい心でお参りできるようにと名付けられた。


壁や天井には、片岡華陽が描いた牡丹や唐子の画が

られていますが、

子はご祭神の守と参者に厄がふりかからないよう、

の意味がめられている。


をくぐると、江神社ご1450年を念して

奉献された「弁天童子石像」がある。



辺津宮

祭神は田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)。


良信(鎌倉大仏の落慶供養を行っている)が実朝に願い、

創建された。


延宝3年(1675)に再建された。


屋根の社紋は江島神社の向かい波三鱗が見られる。


高低差のある江ノ島の一番低い場所にあることから

下之宮と呼ばれた。


奉安殿(200円)には日本三弁天の

八臂辨天(はっぴべんざいてん)と

裸弁天といわれる妙音弁才天が祀られている。


賽銭箱は巾着型をしており、

相模彫りといわれる独特の彫り物で

昭和34年(1959)に地元商店の奉納でお賽銭をいれると音が出る。



福石

瑞心から石段を数段上ったところにある。


出身の杉山和一(校)は、

幼少の病が原因で失明してしまい、

で身を立てようと意する。


ところがうまく覚えられず修行に入った学校を破門される。


そこで江のにこもり21の断食をして

の技を祈した。


満願の日のり道に、この石につまづき倒れを失ってしまう。


そのの中に弁天がれ、

手を合わせてもうとしたところ、チクチクと身体を刺すものがあった。


からめた和一が、手にとっていたのは

の入った竹の筒。


これをヒントに和一は、

管鍼術(くだはり・かんしんじゅつ)を考案、

開業しておおいに繁盛した。


和一の献身的な施術を受けた徳川綱吉も感心し、

「ほしい物は何か」と尋ねたら


「ひとつで良いから目が欲しい」と答え、

かわりに本所の一町を拝領した。


屋敷内には弁才天が勧請されている。

今も墨田区に江島杉山神社がある。


和一は視覚障害者の組合もつくった。



江の島弁才天道標

福石のそばにある石柱。


杉山校が、参者が道に迷わないよう、

宿から江のkmの参道に建立した48基の道のひとつ。


の正面には「ゑのしま道」、

面には「一切生」「二世安」と刻まれている。



杉山検校の墓


福石のの道を入り朱りのを渡ったところにある。


元禄七年(1694年)に没し弥勒寺(京都墨田区)に葬られるが、


一周忌に人の三浦安一が、

杉山校にゆかりの深い江のに、笠塔婆型の墓を建立。


墓の前の灯は、吉の吉保室が寄したものといわれる。



中津宮

祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。


元上之宮で文徳天皇仁寿3年(853)に慈覚大師が創建した。


元禄2年(1689)五代将軍綱吉により

再建された社殿である。


奉安殿の弁才天は神仏分離前まではこの中津宮にあった。


歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一の石燈籠がある。



奥津宮

祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。


三姉妹の長女で海を守る神様である。

岩屋に近く昔は本宮・御旅所といわれた。


社殿は壮麗だったが天保12年(1841)に

焼失、翌年再建された。


拝殿天井には酒井包一による八方睨みの亀が

描かれていて、

実物は保管されているが復元されたものが見られる。



岩屋洞窟(入場500円)


海蝕洞「岩屋」は、昔から宗教的な修行の場となった。


奈良時代には役小角が、

平安時代には空海、円仁が、

鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、

江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。




寿永元年(1182)に源頼朝の祈願により文覚が

弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、

代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。


鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、

参詣されてきた。


弁才天は水の神という性格を有し、

歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども

数多く参拝した。


ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、

中でも関東総検校となる杉山和一の存在が大きい。



参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、

関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。



参考 神奈川の歴史散歩:山川出版 

ひげの梶さん鎌倉を歩こう:梶本晃司 

岩本楼HP シーキャンドルHP 

江の島マニアック 江島神社HP 

ウィキペディア 湘南なぎさパーク


# by gannyan1953 | 2017-03-04 15:10 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

市が尾から早野の歴史散歩2017

中川歴史ウォーキング31  2017・5・20(土)

歴史と素適なおつきあい2005年6月10日



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線刻画古墳


集合:9:54田園都市線「市ケ尾駅」西口

市ヶ尾~(地蔵堂~市ヶ尾横穴古墳群)~広田花崖~寺下遺跡~薬王寺~稲荷前古墳~鳥見役井上家跡~女学生の家~田園の憂鬱文学碑~〜名主村田家〜桐蔭大学交流会館にてランチ~鉄火松~戒翁寺~殿様墓~義民・今蔵~横浜線画古墳~石仏群~子の神社~馬取橋(6、5キロ)
〜麻生新町からバスで市ケ尾駅




地蔵堂 

創建:江戸初期 本尊:木の地蔵菩薩 開山:宝歴元(1751)年以前。
大山道に面し十体の地蔵が並んでいる。統誉上人が千日の托鉢によって作られた
「千日堂」とよばれる本堂がある。
毎年11月30日、双盤をならし地蔵菩薩を開帳し念仏を唱える。市の無形文化財指定。


市ヶ尾横穴古墳群

6~7世紀頃の横穴式共同墓地。昭和8(1933)に発見された。
元は杉浦氏(綿屋)の山で屋敷はこの古墳の下にあった。
横穴墓の前に広場があり刀、土器などが発掘された。
先祖を祀る祭祀場であったと思われる。
この「前庭部」発見は全国でもはじめてで、以後の研究に進展をもたらした。
横穴の内部は造られた時代によりさまざまな形をしている。


*綿屋  大山道の宿屋で明冶10年ころ近くの「石橋」からの火事で焼失、
再建され現存する。

*石橋茶屋跡  江戸時代大山道の茶屋を営んでいた。
明冶10年の火事で焼失。佐藤春雄の「お絹とその兄弟」のお絹は一時ここで働いた。


広田花崖(1887~1951)山房

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廣田新聞
ひろたりあんにはしょっちゅうお世話になっています

本名:鉄五郎。明冶20年都筑郡中里村下谷本(藤が丘)に生まれる。
中郡(平塚)立農学校を卒業。下宿の傍らを流れる花水川の崖に咲く桜の花から
つけられた名前である。
陸軍技手として赴任した宮城県でトロッコから転落、下半身麻痺となり
車椅子の生活となる。
市ヶ尾に土地を買い独立、文筆生活にはいる。
33歳の時「横浜貿易新報」の通信部を開設する。
チベットといわれるこの地域をバイクのサイドカーに乗って取材した。
代表作は「田園」鉄小学校の校歌。刊行物は農業、キリスト教、
少年向け科学小説、新聞小説、短歌など広範囲であった。

64歳で他界。柿の木台に墓がある。



*横浜貿易新報

現神奈川新聞で貿易商組合の機関紙がはじまり。
神奈川県下で75%の占有があった。
横浜文化の育成に貢献した。

余談だが、横浜はジャズ発祥の地といわれる。
大正14年奇術師松旭斎天勝一座が渡米し帰朝した時の公演で
ジャズ演奏があったと横浜貿易新報が伝え、
公的に記事がでたのはこれがはじめてということで、
ジャズ発祥の地といわれる要因となった。

*広田新聞

大正12年花崖が創業した。
文化伝導のため新聞配達を天職と思えと新聞配達店を開いた。




元薬王寺と寺下遺跡
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寺下遺跡はもうない
元薬王寺は江戸時代、東泉寺といった。
その後寺が焼失し、江戸末期に薬王寺となる。
寺下遺跡は稲荷前古墳と同じ稲荷前という地名にあったが、
稲荷前古墳が先に発見されていたため寺下と名付けられた。
縄文、弥生の住居跡、13、14世紀の板碑、土器など多数出土した。
平成13年度発掘。



薬王寺 
王禅寺末 真言宗豊山派
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幡鐘

元薬王寺全焼のため現在地に移転。


稲荷前古墳

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15号 方墳
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16号 前方後円墳

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16号からの景色
ここは古墳の上に立つことができる

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これが17号かと思ったがどうも違う

高さ60mの丘に築かれた10基の古墳と9基の横穴墓が分布。
ここは前方後円、前方後方、円、方墳、横穴墓と古墳のすべての種類がそろっているので「古墳の博物館」といわれていた。

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昭和42(1967)年に住宅地造成中に発見された。
4世紀から7世紀にいたるさまざまな古墳がある。
この地域に古墳群はなくここは都筑の中心地であったと思われる。

橘郡の観音松、加瀬白山、荏原郡の田園調布、宝莱山古墳では
鏡、多数の玉類、剣や刀などの武器類が発掘されたが
一号墳の発掘品は大変質素であったため
橘郡、荏原郡の支配者より一段下位であったと思われる。

一号墳の発掘によって謎につつまれていた4~5世紀の都筑の様子がはじめて知られ、
古代横浜の歴史を書き換える発見であった。
15、16、17号古墳が残されている。

16号は最も古く4世紀後半といわれている。

*鉄(くろがね) 畦曲という意味で畦(くろ)、畦道が曲がっているという意。


鳥見役井上家跡

もとは阿部姓であったが、天正18(1590)年頃
百姓、井上として鉄に住みついたといわれる。

寛永の頃加賀百万石前田家の鳥見役、鷹師役となり
元禄6年まで50年以上鷹場の管理をした。
13代晴之助は鉄小学校初代校長。
現在17代健二氏がセブンイレブンを経営している。



女学生の家
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 佐藤春夫の著作「田園の憂鬱」にでてくる女学生、
金子美代子17才の家。

「この村に帰省していた女学生、それはY市の師範学校の生徒で、
この村の唯一の女学生は夏の終わりに、
彼の妻と友達になったが間もなく喜ばしそうに、
その学校のある都会へ彼の妻を取り残して帰っていった。」


金子家

鶴見川流域歴史散策の著者金子勤氏の生家。



田園の憂鬱文学碑
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 昭和57年金子美代子さんが建てたもので、
題字は佐藤春夫の姪竹田竜児の書。
竹田氏の奥さんは谷崎潤一郎の長女鮎子である。
姪は古くは甥の意もあった。

*佐藤春夫(1892~1964)

和歌山新宮町の医者の家に生まれる。
中学時代に生田長江(評論家)、与謝野鉄幹(歌人・詩人)と知り合い
文学をめざすようになる。

慶応大学に入るが退学。
文学に行き詰まり油絵にむかうが神経衰弱が悪化し、
療養のため中里村(鉄町)に同棲中の女優と犬2匹を連れて転居をした。

ここで「田園の憂鬱」がうまれる。

谷崎潤一郎の妻千代子と恋愛騒動を起こし谷崎と絶交する。
谷崎の浮気、家庭を顧みないことなど千代子に同情し、
恋愛にいたったものといわれる。

一旦谷崎は二人の恋愛を認めるが小田原で翻り絶交にいたる。
その後春夫はタミと結婚するが別れてしまい、
谷崎の妻千代子を譲りうける。

「谷崎千代子は谷崎潤一郎と離婚し娘鮎子をつれて佐藤春夫と再婚する」

と3者連名で発表、「細君譲渡事件」といわれた。

「あはれ 秋風は 情(こころ)あらば 伝えてよ
夕餉にひとり さんまをくらひて 思ひにふけると」秋刀魚の歌
 千代子夫人への思いを歌った歌である。新宮に碑がある。

門弟三千人といわれ、後輩から慕われた。
72才自宅でラジオ番組収録中、心筋梗塞で亡くなる。


  
名主 村田家
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 中鉄村の名主で完全に近い家系図がある。
傘状血判書、小田原北条からの古文書、高札などが保存されている。

戦国時代初期西国から村田兄弟3人が鉄、上谷本(みたけ台)に定着した。

現在当主は17代で、初代村田祥本は祥泉院を開基、
14代信十郎は近くを流れる小川の上に隠居所を建て、
明冶末期に亡くなった。

そこへ大正5年まだ無名だった佐藤春夫が引越してきて「田園の憂鬱」を書いた。

*谷本
谷川が中世にここの山根を流れていたからといわれる。

*金子 勤氏
今回の鶴見川流域散策の資料となっている「鶴見川沿い歴史散歩」の著者の生家が、
「女学生の家」の後ろにある金子家であると、
畑仕事をしている方からお聞きした。

鉄小、厚木中、高から早稲田大学卒業。
著書に「大山道今昔」「風車のまわる異人館」「佐藤春夫の作品とその背景」などがある。




桐蔭学園

創立昭和39年。
この土地は元臼井英一家他の土地で昭和30年頃日清製粉社長正田さんに売却、
後に東急電鉄の要請で桐蔭学園に売却された。
皇后になられた正田美智子さんも学生の頃、臼井家に遊びにこられたこともあった。

交流会館でランチして、トイレに入ったらドアにこんなものが・・・
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*早野

訛って「へえの」という。近くの稗原も「へえばら」という。




鉄火松 
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 鎌倉古道で鉄と早野の境の峠である。鉄火とはバクチの事で、
峠でよくバクチが行われた。

古銭が多く出土した。松は昭和18年頃枯死した。

昔 早野と鉄の境界でもめ訴えがあった
そこで熱した鉄の棒を持って持てた方が勝ちという裁断があり
早野の人が持つことができた
その裁断を行った場所が鉄火松であるという

鎌倉古道

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鎌倉街道は南北に走るがそれをつなぐ横道と思われる

義貞道 尊氏道ともいう




戒翁寺 曹洞宗
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 天正年間(1953~)草庵、開基は寛永5(1628)年
早野領主・旗本富永重吉である。

開山は貴山玄頓。本尊は如意輪観音(応永年間)。
境内には庚申塔、六地蔵、守谷宇吉句碑がある。



殿様墓
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早野領主・富永主膳安吉3代の墓がある。


早野  川崎市麻生区早野

川崎にある早野の古文書に、杢衛門の子長左衛門親子が不届きな行為をしたので、所払い、田畑取りあげの沙汰がおりたとある。

執行者は知行主富岡氏だと思われる。江戸時代は一領一家中において支障のないときは「自分仕置」をして中央にお伺いをたてる必要はなかったといわれる。
遠島の罪の場合領内に島がなかった場合牢屋にいれるか親戚お預かりとなったという。



義民・今蔵 杉本宅にあり、見学不可


 早野守谷家から夫婦養子に杉本家にはいり
百姓代として池土揚場の件で雑用金納入を不満とし、
江戸の領主に籠訴・直訴した。
3年入牢され12月30日に帰宅した。
杉本家は喜んで、31日に正月飾りを作り新年を迎えた。
当家では今でも31日に飾りを作っている。




横穴線画古墳 早野聖地公園内 見学不可
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奈良時代、8世紀の技法で昭和45年に発見された。
中には線で描いた絵が見つかっている

溜池が多い

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                五郎池 

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中ノ池

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林ヶ池



*掘敷料争い

文化5年早野をとおる用水掘の使用料をめぐっての争いで、
早野村の飛び地(中鉄曲り松)から使用料を毎年一石八斗支払うことになっていた。
この年凶作のため減石を願い出たが早野は不服としたので、
鉄は評定所に訴えたとある。(下鉄金子文書)


参考 鶴見川沿い歴史散歩:金子勤・鶴見川流域の考古学:坂本彰
   HP月間国語教育:清水節冶・HP広田新聞・HP横浜線沿線散歩
# by gannyan1953 | 2017-03-03 15:21 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(4)

西郷山公園

歴史と素適なおつきあい番外編  2017・1・29

西郷山

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竹田城主のお抱え屋敷があり回遊式庭園があった。

明治になり西郷従道が兄の西郷隆盛のために土地を購入した。
しかし西南戦争で隆盛は亡くなり従道は別宅を建てた。
その建物は現在明治村に移築されている。
当時の面影はないが頂上の眺めが素晴らしい。


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菅刈公園
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ここに西郷従道邸があった
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池尻大橋
池尻の由来は池が終わって目黒川に流れ込む境めで、
尻は地名で境界という意味。

このさき目黒川は暗渠になり緑道となっている。



# by gannyan1953 | 2017-01-29 22:58 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

港北ニュータウン 明治の講の旅

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・1・12

明治40年ころ
大棚村にあった講・・何の講なのかわからないが
講の代表で
参拝の旅に出た記録を見せてもらった


2月5日

午前6時 杉山社に集合 
このころはまだ龍福寺あたりにあったという
猫のあしあと 龍福寺について

お神酒2升 みかん4箱を配る

神奈川発11寺40分の汽車に乗車

当時の神奈川駅は、東神奈川と横浜の間にあり
明治5年(1872)に品川と横浜に開通し
一ヶ月後に神奈川駅が設置された
昭和3年(1928)に廃止された

国鉄 神奈川駅

駅まで約11キロ 3時間弱の徒歩である

静岡に午後6時着  
静岡の安田屋に宿泊

昼食代2円 酒9人前含む


どうも9人ででかけ
、6時間の乗車中
早速飲んで食べてをしたらしい

宿泊代は読めないが50銭くらいだろうか
今安田屋はないと思われる

早速静岡着の知らせをはがきで送ったらしい

2月6日
久能山拝観 拝観料ひとり10銭

静岡浅間神社参拝

静岡駅〜久能山まで約10キロ

静岡駅から浅間神社まで約2キロ
往復24キロ

なのに
午後6時 豊橋駅に到着 坪屋に宿泊

歩きで6時間 汽車はわからないが3時間かかるとして

(静岡から豊橋は約113キロ時速40キロで
汽車が走ると・・・約3時間)

朝6時から3時まで9時間あるので
歩きの参拝、参詣は可能
静岡駅には午後3時出発で
夕方6時に豊橋に着ける

とにかく脚力すごい

2月7日
午前6時 坪屋を発ち8寺豊川ステーションへ
汽車にて熱田に至る
熱田神宮参拝
徒歩にて
東本願寺参詣
西本願寺参詣  
散歩にて
名古屋城見物
旅館に入る 


夜散歩 
改良万年筆?
このころの万年筆は6円ほど
見に行ったのか?

宿代 60銭 河内屋 宿泊 
現存せず


2月8日
名古屋より津島まで
津島神社参拝

中食15銭
蜜柑5銭
津島より亀山まで汽車
参宮列車にのりかえ山田に着し
龍太夫支店に3時半に着き茶を喫し
直ぐ人力車にて神風館龍太夫に至り
1泊 棒入参内し神官太神楽10円
伊勢神宮参拝のことと思う
伊勢地図5枚10銭
画紙25枚
竪具後 14枚 14銭

竪具はわからないが障子紙か?
b0228416_12580795.jpg
龍太夫の宿坊は現在伊勢和紙館になっている


2月9日
お神楽料
馬車にて二見ヶ浦見物
帰りニの膳 大盃 古式にて取り飯を喫し
馬車にて二見浦
2円35銭 9人分

2月10日
古市備前屋にて伊勢踊り
龍太夫に帰り一泊

伊勢踊3円50銭
二見ヶ浦館5銭
草履15銭
煙草9銭 5銭

講 ? 9人前

2月11日
10時頃より朝熊岳へ(あさまだけ)
中食5銭
朝熊 札代11銭
子守地蔵 5銭
茶菓子10銭
龍太夫 宿代64銭
朝熊山奉納 20銭か2銭

朝熊山金剛証寺で伊勢神宮の鬼門をまもる寺

2月12日
午前7時35分 山田発の汽車にて
午後1時奈良の南園堂下小刀屋善助方投宿

春日大明神札代 14銭
奈良名所本 10銭
カミソリ25銭
春日大神奉納50銭
人力車
利用料金不詳

荷物山田より神奈川迄


2月13日

橋本より高野山へ3時頃着
高室院へ一泊
宿泊代 70銭
札代31銭
うどん

中食15銭
おかし2銭
高室院は村上天皇の血をひく僧が
寺を開き現在もある
b0228416_18151961.jpg
高室院 宿坊

高室院宿坊のご案内


2月14日

妙寺3時3分の列車にて粉河

粉河寺参詣
札代2銭
b0228416_18172333.jpg
観光協会より



4時51分の列車にて岩キ駅へ
岩キ駅より1里徒歩根来(岩出駅と思われる)
地辻本屋 一泊 
宿泊代 4?銭
地図4枚 12銭
札代6銭

2月15日
岩キ駅停車場より汽車にて和歌山市へ
和歌山天守閣 5銭

大阪道頓堀
人力車  5銭
大阪エビス屋 宿泊
宿代80銭
16日
大阪案内車夫 65銭
多度津舟代 1円40銭
中食 30銭
汽船菓子 12銭
四国松見屋 中食
多度津より琴平汽車賃27銭
箱?園 2円48銭
札代20銭
札代33銭
中食30銭
松見屋宿泊45銭


2月17日
午前6時多度津を発し宮島へ
舟賃 1円47銭

厳島神社
札代11銭
大根屋 70銭
b0228416_18342749.jpg
現在のだいこんや かわぐちか

2月18日 
宮島より神戸まで
汽車賃2円55銭
宮島絵図 17銭
汽車菓子 10銭
中食15銭
神戸より京都
汽車賃75銭
京都より三條小橋
電車賃7銭
湊川社
札代 7銭
午後9時京都三条大橋南詰 伏見屋到着す


池田屋騒動で有名な旅館池田屋。騒動後営業停止となり約7ヶ月後に再開し、
後年佐々木旅館になったとの記述も多く見受けるが、
実際は事変後営業停止となり屋敷・什器・畳1枚まで競売にかけられることになり、
伏見に住む桝谷という人物が「桝屋」という屋号で営業することになる。
その後「大勢館」「伏見屋」「佐々木旅館」と移り変わっていく。
池田屋前の碑は昭和2年京都市教育会によって建立されたが、
寄贈者として碑に刻まれている佐々木フサとは伏見屋の主であり、
その後同地を引き継ぐ佐々木旅館は佐々木フサの親族が経営者である。

参考 よっぱ、酔っぱ池田屋騒動


これによると
どうも元池田屋に宿泊したことにある  大発見!

寺の名前で読めるのが金閣銀閣、等持院

2月19日
平野神社
官幣大社
北野天満宮
芝居 10銭
京都案内7銭
伏見屋宿代70銭
健心寺
三十三間堂
後白河帝
?エリ5枚 1円50銭
清水寺
高台寺
知恩院
信倉院
南禅寺 石川五右衛門の門あり
案内賃 不詳
京都大津船賃10銭

大津竹内 宿泊 70銭

2月21日
近江八景廻り 車で 70銭
三井寺 鐘をついたか
石山寺本堂拝観 3銭
近江石山より静岡まで(静岡行きの間違いではないか)
汽車賃2円49銭
午後7時豊橋坪屋投宿
22日
午前6時36分豊橋発平沼駅 急行列車
急行券50銭
豊橋より平沼まで汽車賃1円52銭
蜜柑4銭
煙草9銭


帰宅



おおよそ筆記してあるだけで1人30円
宿泊代・交通費。昼食代などが書いてないところもあるので
1人50円はかかったのではないか


今の金額で50万円はしたと思う
講の旅19日間・・・おみそれしました040.gif





















# by gannyan1953 | 2017-01-27 10:48 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)



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