歴史と素適なおつきあい

本郷歴史散歩


中川歴史ウォーキング33           2017・9・16(土)


台風の影響で雨が降るところ降りませんでした

涼しくて路地はやはり楽しかったです

いろいろな人と出会いいい一日でした



東大と本郷の文人の足跡を辿ります



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この素適な場所でめぐりあった人
私の近所で都筑民家園で琵琶演奏をなさるとのこと

できれば参加したいなと思います







集合:9:45 南北線「東大前」駅改札口(ひとつしかありません)

東大前駅・・ハチ公と上野英三郎博士像・・本郷追分一里塚跡・・鳳明館森川別館
・・本郷館跡・・求道会館・・鳳明館本館台町別館・・胸突坂・・菊坂・・旧伊勢屋質店
・・樋口一葉旧家跡・・金田一京介旧家跡・・鐙坂・・宮沢賢治旧家跡・・本妙寺跡
・・赤心館跡・・菊富士ホテル跡・・法真寺・・東大赤門
・・安田講堂・・三四郎池・・麟祥院・・かねやす





東大農正門
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ハチ公と上野英三郎博士像


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主人を8年以上渋谷駅で待ち続けたハチ公と博士の像が2015年に造られた


本郷追分一里塚
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中山道と日光御成街道の分れ道でかつては日本橋から出発して中山道最初の一里塚があった。高崎屋は江戸時代から続く酒屋で両替商も兼ねた


鳳明館森川別館
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おかみさんが玄関を見せて下さり
ご親切にしてくださりありがとうございます

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木造2階建の近代和風建築。下宿屋として建設されたが,昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。各室毎に異なったつくりで,部屋の銘木に合わせた部屋名とする。下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える。(文化遺産オンライン)


本郷館跡

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壊された本郷館

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現在の本郷館 賃貸住宅

東大生や芸大生が多く下宿した
明治38年(1905)に岐阜県出身の高橋千代三郎により本郷旅館として建築されのち
御茶の水大学女子寮になり終戦前に人手に渡り下宿となった。
2006年住人に退去を申し出たが、受け入れられず裁判になり住人が敗訴、
惜しまれる中20011年に解体された。(ウィキペディア)


求道(きゅうどう)会館
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近角常観(ちかずみじょうかん)の創設した団体が浄土真宗大谷派の教えを
寝食共にして信仰を語り合う場として建築家武田五一により建てられた。
しばらく使用されていなかったが平成14年に修理改修が行われコンサートなど行われている。



鳳明館本館台町別館
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本館が文化遺産に指定されている。
最近では純和風旅館として外国人ツァー客も多い
昔修学旅行で宿泊した人いるかも

今回も外人(白人さん)ばかりでした
英語の話せない私は寂しいかも

胸突坂
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急な坂道で昔はこちらが菊坂と言った。

本郷倶楽部
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素適な和風の建物だが
多分どこかの会社の所有


菊坂
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昔は菊畑が広がっていた。


みんなでおまんじゅうを買って立ち食い
大福は塩の利いたあんこでした

旧伊勢質店
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樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、
生活が苦しくなるたびに通った質屋。
下谷区竜泉町に移ってからも通った。
一葉が亡くなったときの香典帳に、
伊勢屋から香典が届けられたことが記されている。
伊勢屋は1860年の創立であった。

土日12寺から喫茶あり



樋口一葉旧居跡

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路地と井戸だけが昔のまま




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樋口一葉が使った共同井戸


樋口一葉(1872~1896)の旧居跡。24年間の短い生涯のうち、約10年間現在の文京区内に住んだ。
この地には、父の死後移り、母と妹を養いながらこの地の貸家で小説家として立つ決意をし、半井桃水の指導を受けながら、『闇桜』『たま襷』『別れ霜』『五月雨』などの小説を執筆した。
『大つごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など今も読み継がれる作品や多くの和歌を残している。




金田一京助旧居跡

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言語学者で南部藩の名家に生まれ東京帝大に入学している。
ここでアイヌの知里幸恵さんが住み込みアイヌ語研究の手助けをした。
親友は石川啄木で奥さんは啄木が紹介している。


宮沢賢治旧居跡

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宮沢賢治旧居跡

大正10年(1921)25歳のとき信仰のことで父と折り合わず家出をしてここに下宿した。
東大赤門前の文信堂(現大学堂メガネ店)で筆耕や校正などで働き、
日蓮宗(国柱会)の布教活動とともに、
童話や詩を書いた。
『注文の多い料理店』の中の
「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」なども執筆された。



本妙寺跡
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本妙寺跡のマンションの玄関

明暦の大火の火元ともいわれる


明暦の大火
    江戸三大大火
明暦3年(1657)江戸の大半を焼失する大きな火事になり
三カ所から順に燃え、火元のひとつは本郷の本妙寺だった。

別名「振袖火事」ともいわれ、
ある娘が寺の小姓に一目惚れ、恋煩いで寝込んでしまった。
両親は娘が哀れと思い、小姓がきていた着物の柄だった
荒磯と菊柄の振袖を仕立ててやった。

このころの小姓は娘のような派手な柄の着物をきていた。

ところがじき娘はなくなり、両親は棺桶に振袖をかけてやった。

当時は埋葬する寺男たちがそれをもらい、
それを売る習慣があり振袖は他の娘の手に渡った。

ところがその娘は病で亡くなり、次に手に入れた娘も亡くなり、
さすがに寺男たちも気になって供養に振袖を焼くことになった。

ところがたちまち強風が吹き、火のついた振袖は空高く舞い上がり
それが火事の原因になった。

この話は小泉八雲も小説(振袖)にしているがどうも真実ではなかったらしい。

明暦の大火の真実

実際のところ火元は本妙寺ではなく、
隣接した老中の阿部家であったといわれている。

老中宅が火元では、幕府の威信失墜になると、
本妙寺が罪をかぶったというのである。
本妙寺は大火から3年後に再建され、
関東大震災まで阿部家から明暦の大火の供養料として
260年に渡り奉納されていたことから推測されている。




一葉桜木の宿跡

法真寺隣に樋口一葉が父親と幸せに暮らしていた家があった。
「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と、
当時の法真寺の情景を「ゆく雲」の中で書いている。

住職さんにお会いしました
Tシャツにジーンズのいでたちで

本堂を見せていただきました


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本堂前にお狐さんが・・・なんで
家にきたいというもんだから・・・でした


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ご寄付のステンドグラス

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これはお寺の自前

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畳でなく教会のイスになっています


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仁王様は迫力あり

住職はアメリカに・・もしかしたら布教のためか
いろいろな宗教の影響も受けられたようです
ホームページにいっぱいご紹介されています







東京大学


東大の前身は徳川幕府の学問所昌平黌で、
洋学の研究機関である開成所、
西洋医学の三つがベースになり明治10年(1877)最初の大学として
東京大学が誕生その後東京帝国大学、
東京大学と改称平成16年「国立大学法人 東京大学」となった。
ここにはかつて加賀藩前田家の上屋敷があった。
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大賀ハス

東大のお土産屋さんに入ったらハスの香水の香りがしていた

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た 高い!
しかし
沖縄の戦争で泡盛の黒麹がなくなり幻の酒といわれたが、
黒麹が東大に残っていたことがわかり
1999年に作られた古酒だそうだ
ありがたいお酒だった



安田講堂
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安田財閥の安田善次郎の寄付により建設され安田講堂と呼ばれる。
反戦運動、70年安保闘争に揺れるなか帝国主義支配体制の一翼だとして
大学解体を訴える運動家を中心に全国で大学紛争が発生、
東大では安田講堂に立てこもる学生を機動隊が排除した。
20年ほど物置になっていたが1989年改修工事終了し、
スティーブン ホーキング博士の来日でこけら落としが行われた

高いビルの中のレストランへ

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窓の向うはスカイツリーです
撮れてない・・

美味しかったです
イタリアン カポ・ペリカーノ


今回は学食が空いてて
赤門ラーメンを食べてきました

完食したため少し胃もたれしました
学生と同じ量を食べてはいけませんね

中央食堂は改修中で
メトロ食堂で食べました

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三四郎池

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前田家3代のと利常が秀忠。家光父子のお成りに庭園を整備した。
心字池といわれた。夏目漱石の三四郎の舞台となったので
三四郎池とよばれるようになった

私は数年前まで三四郎は姿三四郎のことと思っていた
とても笑われた・・・
まだ夏目漱石の三四郎を読んでいない

夏休みに読もう
感想
なんだかイジイジした青年の話だった






赤門 加賀藩屋敷御守殿
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11代将軍家斉の娘溶姫が十二代前田斉泰に嫁ぐにあたり加賀藩が建造した。
屋根瓦大棟に三葉葵、軒丸瓦に梅鉢、鬼瓦は學とある



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前田家の煉瓦


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山田君の自販機

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山田君の自販機





麟祥院

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春日局(1579〜1643)は家光の乳母として有名でここは隠棲所として作られた。
墓は無縫塔(卵塔9で四方に穴があいており特異な形をしている




かねやす

享保年間乳香散という歯磨き粉を売って有名になった。
大岡越前が耐火のためかねやすを境に南は土蔵作りの塗屋にすることを命じ、
本郷もかねやすまでは江戸の内といわれた。


東京都水道歴史館

東京の水道は世界有数の水質と規模である。
家康が江戸に来て最初に行った小石川上水(神田上水)の整備に遡る。
上水道の発展の歴史を展示





# by gannyan1953 | 2017-07-13 15:30 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

鎧神社〜皆中稲荷

鎧神社

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平将門に由来する
将門魔法陣
北斗七星のひとつである










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天仰ぐ狛犬



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わきの出入り口


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境内の天神社

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むかって右の狛犬正面
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右の狛犬 横から


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むかって左の狛犬




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左の狛犬 横から

皆中稲荷

当たるというので
参拝客は宝くじが当たることを
願う人が多い

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皆中稲荷は大久保と新大久保の間にあり
混雑している
 この大久保通りをまっすぐ進むと戸山公園がある

以前から気になっていた場所なので訪問

いざ戸山公園へ
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         途中の道に山田君自販機







# by gannyan1953 | 2017-07-02 11:50 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな新宿散歩

中川歴史ウォーキング

な人が行きかう新宿は文人や芸術家など好んで集まり

学生運動でも有名になるなど若者の叫びが聞こえた時代もありました

今でも眠らない街といわれるディープな新宿を歩きます


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これが見たかった
ゴジラ



集合:伊勢丹正面改札口 9:45



新宿の歴史

旧石器時代の遺跡があり古くから人が住んでいた。

平安時代から平将門が関わる鎧神社や鬼王神社があり、

文献に残るものに、1340年の足利義詮から預かった「牛込文書」がある。

江戸時代、甲州街道が整備され、日本橋から次の宿の高井戸まで距離があるので、

名主高松喜六らの願いにより「内藤新宿」という宿場があいだにできた。

甲州街道を護る武士集団も四谷、新宿と配置され笹寺には抜け穴伝説もある。

宿(しゅく)は岡場所も多く飯盛り女、遊女など多く置かれ、江戸時代からすでに歓楽街の気質があった。

関東大震災の時、銀座や浅草に比べ岩盤が強かったので被害が軽微だったことから、震災後に発展をする。

戦後いち早く闇市ができ、人が多く集まった。5年後には闇市は撤去され、

跡地に雑多な店ができゴールデン街など新宿独特の繁華街が形成された。

百貨店も多くありさまざまな人々が集客し「眠らない街」といわれる。

天龍寺は江戸の町の裏鬼門の護りで、二代将軍秀忠の母方の菩提寺であり、渋谷川の水源である。

角筈(つのはず)は北条氏家臣の渡辺与兵の髪型が変だったので角筈といわれた。

大久保は大きな窪地で湿地帯だったことがわかる。

天龍寺あたりは江戸時代から芸人など身分の低い人たちが住み明治になっても貧民窟と言われた場所である。





太宗寺

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太宗寺 浄土宗 本尊:阿弥陀如来

慶長元年(1596)太宗がむすんだ草庵からはじまった。内藤氏の菩提寺として太宗寺となり、内藤氏が高遠藩に移封されても関係は続いた。湧き水があり池があったが埋め立てられたが今でも湧き水はある。

閻魔様の話

子守をしていた赤ちゃんをおんぶしていた乳母が、泣き続ける子供を連れて閻魔様のそばにきた。

「そんなに泣くと閻魔様に食べられてしまうよ」というと泣き声がピタリと止まった。乳母はホッとしたが背中の赤ちゃんがいないことに気づいた。あわてて境内をさがすと閻魔様の口におんぶ紐がぶら下がっていた・・・

閻魔像は文化11年(1814)に安置され内藤新宿のお閻魔さんと親しまれた。



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成覚寺


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文禄3年(1594)創建で内藤新宿の飯盛女を死後埋葬したことから投込寺といわれる。

飯盛女の共同墓、その供養碑である子供合埋碑(ごうまい碑)、遊女白糸塚がある。

橋本屋白糸は青山百人町の鈴木主水と情死し、

主水は家名断絶となった話を瞽女(ごぜ)のヤンレイクドキや盆踊唄に歌われ流行した。






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新宿ゴールデン街

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新宿ゴルデン街

闇市のあとが青線地帯となり飲屋街になった。多くの有名人が飲みにきていた。

昭和初期には永井荷風、直木三十五、泉鏡花、菊池寛、川端康成、大佛次郎、林芙美子。

戦後は佐木隆三、中上健次、タモリを九州から呼んだ会があり、

赤塚不二夫、山下洋輔、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊

など森田を呼ぶ会によってタモリは1975年に上京した。

ブラタモリは大変参考になる番組で森田を呼ぶ会には感謝する。


あまりに出入りする有名人が多いのでウイキペデイアを参考にしてください。


私的には好きなドラマ「深夜食堂」がここにあるという定で、実際のロケはスタジオだったらしい。

歌舞伎町

歌舞伎町

「東京産業文化博覧会」のアトラクションのひとつとして新宿コマの前身となった。

阪急の小林一三が新しい国民演劇をめざし梅田コマの姉妹劇場として建設された。

新歌舞伎といわれたのが歌舞伎町の地名になった。

昔は新宿コマの南東に鴨池があり弁天様があった。

歌舞伎町弁天といわれ今もある。


蟹川が大久保病院あたりからを水源として流れ戸山から神田上水に流れていた。

鴨池は淀橋浄水場建設ででた土で明治末には埋め立てられた。

その西には大久保町といわれ地名をみてもわかるとおり窪地があった。


そこに十二社熊野社があり、森の奥の池には美しい娘が大蛇となって住むという伝説があった。
いかにも新宿の街を象徴するように水、森、蛇、弁天とエロチシズムを感じる土地である。

新宿コマはなくなり現在ホテルグレイスリー新宿になり東宝シネマがある。

そこでゴジラが登場することになった。

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もっと離れればゴジラの顔まで写ったかも

都庁

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職員食堂スペシャル定食

「名古屋めし」


冷きしめん
味噌かつ丼
食べたら下までおりて


北展望室へ

下までおりて
南展望室へ

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真ん中の緑は
明治神宮



成子天神社


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成子天神社 祭神:菅原道真

昔柏木成子の地といわれたところに大神宮があり天照大神を祀っていた。


延喜3年(903)に太宰府で菅原道真公が亡くなり、

その徳を慕い菅公神社から像を持ち帰り、

勧請した。


春日局よりこの地を賜り平成26年に現在の社殿の造営が行われた。


富士山にみたてた富士塚がある。



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鎧神社にいく途中の
山田君の自販機


鎧神社

醍醐天皇のころ(898〜929)行基作の薬師如来が祀られた円照寺が創建され、

その鬼門鎮護のため社が創建された。


ヤマトタケルが東国平定の折立ち寄り、甲冑を隠したと伝わる。


それに加え天慶3年(940)に平将門が藤原秀郷に討たれ、

この地の人々はその死を悼み天歴元年(947)に将門の鎧を埋めたと伝わる。


またその後重病になった藤原秀郷が、将門の祟りと恐れ、薬師如来のある円照寺に参り、

この社に将門の鎧を埋めたらたちまち病が治ったと伝わる。



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天仰ぐ狛犬



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わきの出入り口


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境内の天神社

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むかって右の狛犬正面
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右の狛犬 横から


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むかって左の狛犬




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左の狛犬 横から


皆中稲荷


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皆中稲荷は大久保と新大久保の間にあり

混雑している

 この大久保通りをまっすぐ進むと戸山公園がある


以前から気になっていた場所なので訪問

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途中の道に山田君自販機





そんなには歩いていないと思うが

27884歩 18.4km
とスマホはいう

































# by gannyan1953 | 2017-07-01 16:16 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

戸山公園 陸軍戸山学校跡

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・6・30



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戸山学校跡の碑


戸山公園に行ってきた


ちょっと怖くてなかなか行けなかったが
多くの人が歩き、学校帰りの小学生、
幼稚園のお迎えのおかあさんたち・・
戸山ハイツの住民なのか、ベンチなどで
固まっておしゃべり、
箱根山などまわりを
手をつないだ老夫婦が散歩していて
挨拶してくれた

もう怖くない


なぜ怖かったかというと


この近くの国立感染症研究所は
陸軍が戦時中医療の研究をした
陸軍軍医学校があった場所で
1989年に大量の人骨が発見されている

戦時中の総監は石井四郎氏




かなり恐ろしい想像ができる

発掘された人骨は

どんな人たちだったかは解明されていない

どこの国の人かもわからない

何やら税金を使って火葬をするなと
裁判になったらしい

真意は調査する為に火葬するなという意味だと思うが
敗訴し
火葬せずに納骨されたという

火葬されなかったので
目的は達成できた



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案内板

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箱根山登山口


まず現れるのが

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陸軍将校があれやこれや話をした集会場だった建物

その上に戸山幼稚園が建つ
土台に使われている


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標高44.6m

山手線内では一番高いらしい

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発行してもらわなかった

眺望はあまりない


反対側に下りてぐるりとまわってみた


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この碑はもう一段低い場所にあり
探すのに苦労した

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説明文


このあたりは
鎌倉武士和田義盛の領地だった
頼朝が亡くなってから非業の死を遂げている


江戸時代尾張藩の下屋敷となり
東海道小田原宿などの様子を造った
庭園が造られた


池を造るため掘った土を積み上げて
できた山が箱根山である

箱根山とよばれるようになったのは
陸軍用地になってからである




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これも戦争遺跡で
戸山学校の野外演奏場であった



最寄りの駅は
東新宿駅


生田の明治大学構内にある
登戸研究所はベールに包まれていたが
解放された

このさきどんな人骨だったのか
解明される時がくるかもしれない











# by gannyan1953 | 2017-06-30 22:41 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

秩父の歴史 オオカミ信仰

歴史と素適なおつきあい室内学習   2017・6・26

秩父の歴史
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城峯神社のご眷属  祭神は平将門

知知夫が秩父になったのは元明天皇(661〜721)飛鳥から奈良時代のころである。
全国的に嘉字二文字にせよとの命に「秩父」になったと思われる。
チチブは
①知知夫の国造の名前から
②イチョウが多く古くはチチノキといったから
③鍾乳洞が多くあるので鍾乳石から
④アイヌ語で、冷たい清水をチチブというから!?(チェップ・チップ=魚の意味で、チクシは通路の意で北海道の秩父別はそこから「ちっぷべつ」という。清水はペケレベツという)
⑤峰が連なる地形なので千千峰から
⑥父母のことで、古くはチチボと読んだから     秩父市誌より

秩父の古代
日本列島は海の底で、秩父はお盆のような形で沈んでいた。そこに泥や砂がたまり5000mほど生物の死骸とともに堆積し、武甲山もこのころ堆積した石灰の山である。
秩父には堆積した古生層(ようばけ)が見える場所もあり、化石も多くでる。
百万年前に陸地になり、1万年前から洞窟などに人が住むようになった。有名な遺跡に神庭(かにわ)半洞窟遺跡があり、無土器時代からの痕跡がある。大血川洞窟遺跡では狼の骨片がみつかった。

秩父の奈良時代
大和への服属関係は少しずつ進み和銅献上(708)で秩父が知られることになる。銅の発掘には「羊太夫」の伝説が残る。和紙を伝えた、新羅からやってきた、秦氏の一族である、多胡碑に名を残す、胡からペルシャ人である、シルクロードからきたので、養蚕技術を伝えたなど、秩父の文化を開いた渡来人の伝説である。
山野に囲まれた地域だったので、狩猟技術が高く、そのためか防人が多く出されている。
このころの秩父は、武蔵のうちでは極めて文化的な地域だったと思われる

秩父の平安時代
10世紀になると牧がおかれ、馬が献上された。
そして武蔵七党という武士団が起こり秩父には丹党が存在した。
将門の乱が起こると秩父から将門に同調する者もあらわれ、今でも将門の伝説が多く残る。
その後秩父の武士を束ねていったのは秩父平氏であった。将門の叔父平良文の子と将門の次女が結婚し、秩父氏を名乗った。1083年の後三年の役は秩父武綱が源義家配下で参加している。
武綱から三代の重能の時代に本拠を深谷に移し畠山氏を名乗った。あとの兄弟たちは河越氏、高山氏、江戸氏を称し武蔵各地に広がった。その後畠山氏と河越氏は家督をめぐる争いが続いた。

秩父の鎌倉時代
畠山重忠は、頼朝方につき、従わなかった一族は滅ぼされたが、重忠は秩父氏の家督を相続することができた。が、のちに頼朝の死後、鎌倉北条氏に滅ぼされてしまう。それでも秩父氏の血統は姓をかえて代々続いていった。
鎌倉時代に多い、長瀞産の緑泥片岩の板碑が関東一円にみられることから、山や川を利用して運ばれた。山々には修験者や、木地師、狩猟民など日常的に峠を越えて往来した道がある。
昔から秩父は鉱物資源が豊かで銅をはじめ金、銀、磁石、緑青、寒水石、燧石など採れたという。
鉱物資源の豊かさは戦国時代の武将たちの魅力になる。

秩父の戦国時代
太田道灌に鉢形城を落とされ、後北条氏、武田氏の配下になり、その後豊臣秀吉に屈し、徳川の治世となった。

秩父の江戸時代
江戸時代になると秩父の武士は武士にはなれなかったので、みな農民となった。
武士だった人たちは名主や庄屋になって人々を束ねる役についた。
今でも古い家筋の人たちは、武田氏の流れ、後北条氏の流れという人々が多い。
鉢形衆の法要を、今でも子孫によって続けているお寺もある。

秩父の支配は幕府直轄地、旗本領、忍藩、前橋藩などであった。
わずかな耕地では満足に作物はできず養蚕、たばこ、秩父絹など多岐に渡る産業で生活した。

秩父の明治時代
秩父の生糸輸出が盛んになった。
江戸時代半ばから秩父絹が好評だったが、幕末になり、生糸が輸出されるようになってから
秩父も生糸輸出に参加し、世界につながる産業に大きく変わった。
フランスの蚕の病気で一気に日本の生糸が多く輸出されることになったからである。
秩父は信州などと比べ生糸輸出に偏っており、もともとフランス市場との結びつきが強く、秩父最初の小学校はフランスの援助で建てられている。
幕末にフランス式兵法を取り入れたとき、算術もフランス式を取り入れていた。明治になって、小学校の算術もフランス式であったという。そのためフランス大使書記官が秩父を訪れているほどで、小学校のフランス式算術をみて感動していたという。フランスとの取引が多かったため、1882年リヨン生糸取引所の生糸大暴落の影響をより強くうけることになった。
養蚕農家は生糸の売り上げをあてにして借金をし、設備投資や当面の生活に充当していたので、生糸の暴落はすぐに生活の困窮を深め、窮状につけ込んだ銀行、高利貸しがさらに生活を悲惨な状況にした。
例えば100万借金すると二分切りで、手取り80万円、さらに1年後は金利275%で220万円の借金になった。訴えたところで、銀行や高利貸しは裏で細工をして、悪徳なやり方だと裁かれることはなかった。
税については、明治になり、地租改正で税を現金で納めることになったので、作物を現金化して納めた。政府は西南戦争の出費を補うため税を増税した。そして秩父の新道建設に労働も課せられ、ひとときでも豊かな思いをしてきただけに生糸の暴落、借金返済、増税は秩父の人々の身にこたえた。これが秩父事件につながっていく。

「恐れながら 天朝様に 敵対するから 加勢しろ」 
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映画「草の乱」より

明治17年11月1日、自由民権を唱え農民が蜂起!秩父事件という。
秩父市下吉田の椋神社に約3000名が集結し、大宮郷を目指して進軍を開始したが・・・

要求は借金返済の延期だったが、認められなかったからである。真っ先に高利貸しを襲い証文を
焼却している。
彼らは11月1日、椋神社で困民軍二大隊を編成、五ヵ条の軍律を定め、一般の住民に危害を加えることを厳しく戒めた。2日、大宮郷に入って郡役所を占拠、3日荒川河畔で憲兵隊と交戦して撃退、4日・5日上州金屋と粥仁田峠で鎮台兵と交戦したが破れ、本隊は解散した。
だが、一隊は十石峠をこえて信州に 転戦、9日の東馬流の戦闘を最後に潰走した。
蜂起参加者は最盛時8000人とも1万人ともいわれるが、有罪判決を受けた者3390人(最高幹部は死刑か無期懲役)、官憲の調書に名を残した者4200人である。

明治政府は、この戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている。
この武装蜂起で発揮された秩父農民の楽天性や高揚したエネルギー、それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人々に感銘をあたえている。(秩父観光協会吉田町支部HP参考)

秩父事件が起こる前、全国で数々の暴動がすでに起きており、政府も焦燥感を募らせていたので、秩父の騒動への対応も厳しいものになった。軍の違反や規律を守るための憲兵隊が派遣されており、民衆圧政が明治政府の国のあり方だったのかといわれている。
困民党は鉄砲隊、抜刀隊、竹槍隊から成っており、鉄砲といっても猟銃(ほとんど火縄銃)で、200丁弱だった。夜間山の中で火縄銃を撃っても政府軍から見えてしまい、飛距離は50mだった。
対する政府軍は明治13年に作られた国産小銃の新式村田銃で飛距離は1800m、火力の差は歴然としていた。
鎮圧後、天朝様に逆らった逆賊として秩父は長く口を閉ざすことになる。

秩父の大正時代
大正になって、セメント産業が起こり、運搬のための鉄道も作られた。
秩父セメント株式会社が設立され関東大震災、戦災の復興、高度経済成長期に貢献した。秩父セメントは浅野セメントに吸収された。浅野セメントは、鶴見の海をを埋め立て、工業地帯を作った浅野総一郎の会社である。渋沢栄一、安田善次郎などの援助もあり、浅野財閥を築いた。鶴見線の駅名にもその名と家紋を残す。(浅野・扇町)
現在セメント産業は衰退し、太平洋セメントに名を変えたが第一工場は閉鎖、廃墟化した。

秩父の昭和時代
石灰産業の対象となった武甲山は昭和15年(1940)から現在まで、秩父石灰工業の操業により、山頂が削りとられ変貌した。
はじめて秩父を訪れた時、予備知識をもたずに武甲山を眺めたためその姿に驚きが隠せなかった。
武甲山は秩父のシンボルで、秩父神社の神奈備山である。  
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             かつての武甲山              
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現在の武甲山

「採掘対象となっているのは灰色~暗灰色石灰岩層です。この層は一般に潜晶質で、他層の挟みは極めて少なく、化学成分上も石灰分の高い良質な石灰岩として知られています。 武甲山の石灰岩は推定可採鉱量約4億トンといわれ、日本屈指の大鉱床です。」秩父石灰鉱業のHPより抜粋

とのことで、最盛期より採掘量は減ったものの、今後も他の2社とともに発破をかけての採掘が続くそうだ。石灰岩はコンクリートやセメントだけでなく、車の部品、歯磨き粉、こんにゃく、チョコレートなどにも利用された。普段使われている乾燥剤も石灰で、すでに生活必需品になっている。秩父の人々にとって石灰は、地元経済を潤してきた大切な産業だった。たまたま「経済を潤す対象が信仰してきた山だった」ということなのである。
武甲山麓にある武甲山管理組合が現在5社と契約し、山を管理している。組合員は横瀬町民で構成されており、会社の株の一部が町に譲渡され横瀬の経済が潤うので、秩父市との合併を望まない。それで地元民の採掘反対の運動が起こらないらしい。

秩父の宗教
神道  
秩父の国造が知々夫彦命に下命されたのは崇神天皇(BC97〜30)の時代で、武蔵国は、役70年後の成務天皇の御代であった。(旧事本紀)知知夫彦命は秩父神社の祭神である。
ほかに三峯神社、宝登山神社があり、秩父三社といわれる。
秩父にはオオカミが多く生息したといわれ、オオカミを狛犬にしている神社が多い。
信濃から甲斐に伝達した文化は、雁坂峠を越えて秩父にはいり、武蔵最初の文化を作り上げた。
ヤマトタケルが北方の蝦夷を平定して都に帰る途中、荒川沿いに秩父に入り、宝登山、三峰山で斎場をたて、戦勝報告とその加護に感謝したのはその地の文化が高かったからではないだろうか。
本来秩父の文化は信濃、甲斐の影響が強いといわれているが、金鑽(かなさな)神社を建てた渡来人の影響も強いと思われる。金鑽神社は埼玉県児玉郡神川町にある神社で、ご神体は御室ヶ獄という山であり、古代祭祀の面影を残している。
金鑽とは、砂鉄を意味し、神流川で良質な砂鉄がとれ鉄の材料になった。
砂鉄の採集地を鉄穴(かんな)というが、神流川は金鑽神社の近くを流れている。
魏志倭人伝に、倭人の国の一つ「華奴蘇奴国」(かぬそにのくに)の中心が金鑽神社ではないかという説がある。(秩父歴史散歩:山田英二)
秩父神社は、中世以降に平良文率いる秩父平氏が奉じた妙見信仰と習合し秩父妙見といわれたが、明治になって秩父神社と改称した。
平良文と妙見の関係は平将門にはじまる。小飼川の戦いのときに将門は妙見に助けられる。
だが将門が新皇宣言したとき妙見はあいそをつかし、叔父良文の方に味方するという話がある。

仏教
行基がやってきて仏教を広めた、役小角が三峰山に登山して修験道を広めたと伝わる。
山岳仏教が盛んになるが始めは役小角が伝えたもので、後に空海の真言宗が伝わってきたという。
今でも巡礼する人が多い観音札所巡りは、室町時代のころ形成されたらしい。
江戸時代には、江戸で出開張が行われ、人々に知られるようになったこと、箱根や栗橋などの厳しい関所がなかったことなどから、江戸から出かける人が多くなった。出開張とは、寺社が秘仏やご神体の帳を開いて広く民衆に拝観の機会を与えるというものである。
江戸後期に狼の護符を配布するようになりますます盛んになっていった。現在神社の狛犬にみられ、神道のようであるが、明神と言われ護符が配布されはじめた頃は仏教であった。

キリスト教
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浄瑠璃の説明板
秩父には出牛という地名がある。「じゅうし」という。ゼウスではないか、十字ではないかなど隠れキリシタン伝説がある。キリスト教を広めようとした山口平之進の従者で、善明寺の門前百姓となった中金か竹内のどちらかが、秩父に逃げ込んだという。出牛の西福寺には墓に十字が刻まれていると思われるような墓が存在するという。十字のあるお墓があると聞いたがみつからなかった。

世界のオオカミ信仰
秩父は際立ってオオカミを眷属とする寺社が多い。
世界でも、オオカミは古代から信仰の対象になっていた。
①ギリシャの先住民は、狼は畑の作物を食い荒らす動物から守ってくれると思い信仰した。
②太陽は天の父であるというケルトの民は夜になると狼が太陽を飲み込むと思った。
 ケルトが怖れたのは「天が落ちる」ことだったので、天より狼が強かったことになる。
③北欧神話では天災の象徴に狼が使われる。日本の龍の存在か。
④スキタイの民ネウロイ人は1年に1度狼に変身し元に戻るという。(歴史家ヘロドトス)
⑤モンゴルではチンギスハーンの始祖は蒼き狼だという。モンゴル民族の始祖はチノアで、チノアは狼のことで、母は白い鹿である。蒼いは漢語では灰色のことだという。
だが、チンギスハーンの伝説:蓮見治雄によると、モンゴルでは狼は神ではない。狼は家畜を襲う憎い対象であるという。
⑦トルコ系の遊牧民族にも狼を始祖とする伝承がある。(歴史知とフェティシズム:石塚正英)

日本のオオカミ信仰
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国立博物館


ニホンオオカミの剥製
「日本書紀」によると  
ヤマトタケルは東夷平定の帰りに、甲斐の酒折宮から、武蔵の秩父、奥多摩を通過、上野へ向かって碓日坂(碓氷峠)を越えて信濃に入った。お腹が空いたので、信濃の山中で食事をした。山の神は彼を苦しめようと白鹿になってヤマトタケルの前に立った。ヤマトタケルはいぶかしみ、一箇蒜(ひとつひる)で白い鹿をはじいた。一箇蒜とはニンニクのことである。
それが目にあたって死んだ。それからヤマトタケルは道に迷ったが、どこからか白い犬がやってきて道案内をしてくれたおかげで、美濃にでることができた。
この話から秩父、武蔵にはヤマトタケルに因んだ神社が多く、「大神」はオオカミとなった。
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ハイイロオオカミ 群れをつくる肉食獣より

ニホンオオカミは、ハイイロオオカミの亜種という見方があるが、限られた遺伝子集団で日本にきて孤立化したともいわれている。オオカミ信仰は有史以前、弥生時代にすでにあったと発掘史料から考えられている。奈良時代、万葉集にオオカミを畏れて「大口の真神」と歌ってある。
オオカミは当時の人々の間で畏れをもたれていたのである。その後山岳信仰や妙見信仰の影響をうけて浸透していったが、特に秩父、多摩では地形、オオカミの棲息の多さで、今に至ってもなお信仰が続いている。
三峯神社をはじめオオカミを眷属として祀り、江戸時代後期には護符も配られるようになった。
護符の功徳は、火難、盗難、農難、蚕難、疾病平癒などだが、とりわけ狐憑きの加持祈祷も行われた。オオカミの頭骨の一部を削って飲用され、そのためこの地方ではオオカミの頭骨は完全な形で残らないものが見つかっている。頭骨が民家の棚に大切に保管され、守り神とされている家もある。
たまに頭骨はまじないや、守り神、「狐憑き」治療に借り出されることもあった。
幕末ペリー来航以来、あ免里加狐(あめりかぎつね)や千年も具ら(せんねんもぐら)がやってきたといわれ、病気になると「狐憑き」と怖れられた。「狐憑き」とは、このころ、地震、下田を襲った津波、コレラなど社会不安が大きい時代で、ノイローゼなど精神を患う病気だけではなかった。
ニホンオオカミが姿をみせなくなった理由として、
①享保17年(1732)の狂犬病の流行
②明治以降のジステンパー、狂犬病により、人を襲うようになり、殺されたこと
③開発による環境の変化で、えさが少なくなり、群れをなすといわれたオオカミが明治になって孤狼が増えていったこと                     
④幕末からの信仰で、骨を削って飲用するための頭骨を得るために殺害されたこと
などが上げられている。
上野動物園に、ニホンオオカミを飼育したという記録があるが、写真は残されていない。
当時絶滅するとは思われていなかったからといわれる。

見狼記
ニホンオオカミがまだ棲息するかというと、八木博氏が秩父山中で1996年10月14日に写真をとった。それが、2012年にNHKのETV特集「見狼記〜神獣ニホンオオカミ」という番組で紹介された。専門家が写真をみたが、オオカミだという確証は得られなかった。
内容は、
昔々山にはニホンオオカミが棲息していた。畑を荒らす鹿や猪を食べてくれるので、信仰の対象となった。秩父には三峯神社を筆頭にオオカミを祀る神社が21社ある。釜山神社もそのひとつで、春に護符を配る。オオカミは神ではなくご眷属で神の使いである。毎月17日にお炊き上げというオオカミにご飯を備える神事がある。一升の米を人の手がふれないように御櫃に入れリュックに入れて奥の院の少し下がった谷に備える。備える姿は誰にもみられてはいけない。300年間宮司だけが祝詞をあげながら備える。ひと月前に備えた御櫃を持ち帰る。御櫃のふちには不思議なことに1㎝くらいさがったところに噛みあとが残る。
関東には今でも信仰が残り、講を続けている所もあり、やめると何が起こるのか怖くてやめることもできないという。
写真を撮った八木氏は、今でも山の奥深くに新しく目撃されたという場所にカメラを備えオオカミを探し続けている。自分が死んだら山に土葬してもらい、オオカミに食べられたいと言っている。
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秩父浦山にて八木氏が撮影

福島県飯館村にある山津見神社のご眷属はオオカミである。避難区域になっているが、大変地域に親しまれた神社である。神紋が九曜紋で、千葉一族相馬氏が支配していたからだと思うが、平将門の紋である。秩父からオオカミ信仰が伝わったのかもしれない。残念なことに2013年火災で焼失してしまった。宮司の奥様が亡くなられているが、神社を守るために避難していなかったと思われる。最後に釜山神社の宮司さんが、「自然を怖れる心を持ち続けなければ災害はまたやってくる。」
と言われた。
動物学者のあいだでは最期のオオカミとして、明治38年奈良県吉野郡高見村鷲家口(わしかぐち)で捕らえられた、若い牡のオオカミだといわれている。大英博物館の依頼で英国人アンダーソンが8円50銭で買い求め、今でも英国に毛皮と頭骨が展示されている。なぜか、秩父産のオオカミの頭骨も所蔵されている。


人間とオオカミの話
①秩父の野上にある家から1キロほど山に入った所に洞窟があった。そこにオオカミの親子がいて、人間が子供をさらってきた。近所の人が珍しいと飼うことにした。ところがその晩家の戸をかじる者がいた。どうも母オオカミらしい。3日ほど続いたが、あきらめたのか、静かになった。
戸をあけてみると縁側に殺されたうさぎが置いてあった。子供にやって欲しいということなのか、しばらく続いた。半月ほどすると母オオカミはどこかにいったものか死骸を置くことはなくなった。
子オオカミはよくなつき、すくすく育ったが、3年もたつと凶暴になり隣村の猟師に譲った。
聞いた話では銃殺されたらしい。オオカミがいた穴を「オオカミあーら」という。

②信州の美麻村で、岩穴にオオカミが子を出産したので、赤飯を届けた。オオカミの子が沢山いるので、「良い子を沢山産んだなあ。一匹くれねえか」と冗談をいった。ところが、翌日戸口に一匹のオオカミの子が置いてあった。飼う訳にいかないので、穴に返しにいった。

③飛騨益田郡竹原村では下女が水汲みに外にでると老いたオオカミが頻りに憐れみを乞うような様子をしている。主人がでてきて様子を見るとのどに何かの骨を立てて苦しんでいる様子。手ぬぐいを手にまいて口中に入れ、それを除いてやった。それから、しばらくしてオオカミは轡を持ってあらわれた。「礼なら及ばず」と言ったがそれを置いて去って行った。それからその轡はこの家の家宝になった。

④何となくオオカミがついてくると言ったオオカミ送り伝承が数々ある。襲ってくる訳でもなくあとをついてくるという。松明を振ったり、長いものを垂らして引きずると襲ってこないとか、オオカミの手が肩にふれたら振り向いてはいけない。ちょうど頸動脈がオオカミの口にきて噛まれてしまうからだ。このオオカミ送りの話は古くは襲わないオオカミの話だったが、近世に近づくにつれオオカミの凶暴な姿が語られるようになる。おそらく狂犬病にかかったオオカミがあらわれてからではないかと思われる。
歴史と素適なおつきあい座学

都筑区のオオカミの護符
牛久保西の農家、私の隣家の元農家には毎年張り替えられたオオカミの護符があるので、伺って聞いてみた。
今でも宮司さんの姿で御嶽山から御師(おし)さんが来られて護符を届けてくださるという。
護符は、畑や台所に張る。そのときは、初穂料「2千円」を用意する。
牛久保の農家では大山講が続いており2年に一度大山の下社に参拝する。
牛久保の鎮守である天照皇大神神社の氏子は、伊勢神宮にも代表者が参拝する。
今でも昔ながらの信仰が続いているようだ。

参考——「秩父山の民俗考古」:小林茂 「峠と人生」「日本産動物雑話」「日本産狼の研究」:直良信夫 「秩父歴史散歩」:山田英二 「歴史知とフェティシズム」:石塚正英 「秩父市誌」:秩父市 「三峯神社史料集」:三峯神社 「武甲山写真集」「秩父Ⅰ風土考」:清水武甲 「オオカミの護符」:小倉美恵子 HPー秩父山地の歴史と文化・ETV特集見狼記・埼玉県秩父市贄川猪狩神社の狼信仰に関する一考察:西村敏也・温故知新・秩父事件HP ウイキペディア
# by gannyan1953 | 2017-06-26 16:39 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(0)



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