歴史と素適なおつきあい

江戸を守護する二大他界ゾーン・千住編


歴史と素適なおつきあい  2006 2・10(金)


江戸を守護する二大他界ゾーン 千住編 

 2015年12月12日 中川歴史ウォーキング開催 終了しました
お天気よく槍かけだんこのお店は新しく立て直されており
荒川の土手で小菅拘置所を見ながら終了


日比谷線「三ノ輪」駅 3番出口9:50集合  2006・2・10(金)
                           

三ノ輪駅・進行方向の出口~永久寺~浄閑寺~回向院~小塚原刑場跡~円通寺~荒川ふるさと文化館~スサノオ神社(天王社)~誓願寺~千住大橋~橋戸稲荷~奥の細道矢立初の碑~やっちゃ場~勝専寺~吉田家~横山家~かどや槍かけだんご~名倉医院~橘井堂跡~金蔵寺~北千住駅

江戸を守護する2大他界ゾーン 地図

江戸を守護する二大他界ゾーンとは?

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江戸は平安京のように「四神相応」という古代中国の陰陽道に基づく呪的理
念によってつくられたという。
風水思想にとっては理想の地であった。
その地に築いた徳川王権を武力だけでなく宗教的に守る空間の存在があった。

内藤正敏氏(写真家・民俗学者)によるとそれを「徳川王権を守護する二大他
界ゾーン」という。

江戸城からみる鬼門の寛永寺、裏鬼門の増上寺を聖とする。
江戸内部の穢れを清め外側からの穢れの侵入を防ぐ場所、それが他界に通じる
空間となる。
家康は奥州街道一の宿千住と、東海道の六郷川(多摩川)に橋をかけた。

二つの街道が江戸城を中心につながり、江戸の境界におかれた二つの
場所が穢れを清める浄化装置の配置とみるのである。

内藤氏は江戸城を真ん中に北と南にそれぞれのびる奥州街道と東海道を同一線上に配置すると、二つの街道が隅田川と多摩川にぶつかる手前の土地である浅草から千住と品川から大井にかけての両側に共通した要素があるという。

その要素とは、密集する寺社群、処刑場、遊里、被差別部落などの存在である。

江戸の南北の両端を結界とする他界ゾーンの役割は、

江戸の中心から離れた境界に死(刑場)・性(遊里)・賤(被差別部落)を配置し、
と同時に外からくるものには,死(刑場)・聖(寺社)をもって畏怖させ性(遊里)で懐柔した。
浅草・千住と品川は江戸の中心を守るための緩衝地帯だったという。





永久寺
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目黄不動といわれている。
一説に江戸の市街地を囲むように「五色不動」が配置されていたという。
①目黒は目黒区の滝泉寺(りゅうせんじ)、
②目白は豊島区の金乗院、
③目赤は文京区の南谷寺、
④目青は世田谷区の教学院、
⑤目黄はもうひとつの候補地である江戸川区の最勝寺とここ永久寺のふたつである。

家光や天海が江戸鎮護のため設置されたというのが通説である。

しかし五不動が存在したかどうかわからない。
五不動説、三不動説(目青と目黄がない)目黄はどちらが本当なのか、陰陽道から、密教からと諸説がたくさんある。

目黒は家光と関係をもち徳川家菩提寺の寛永寺の支配下に置かれる。
目赤は羽黒山の流派からはじまり寛永寺の末寺になって南谷寺となった。
最初に直接幕府が関与したのは目黒だけだったと思われる。

この三不動は幕府直轄の寺の下部組織に組み込まれ、不動尊の霊験と、物見遊山という形で庶民の心に安らぎを与えることとなった。

風景もよく、後期には富籤興業もあった。民衆の安寧と考えれば鎮護の役目を果たしているといえるのかもしれない。
本堂前に鎌倉時代末期の嘉暦3(1328)銘と戦国時代初めの享禄2(1529)銘の板碑がある。

罪人の試し斬りの供養に建てられた永久寺

山野永久が江戸初期に罪人の試し斬りをした。約6000人だったという。
殺された罪人たちの供養のためこの永久寺が建てられ、その子は幕臣となり試し斬りだけでなく
罪人の処刑も行うようになった。
江戸中期に弟子だった有名な山田朝右衛門が代々処刑人となった。
首切り朝右衛門という名で呼ばれた。


浄閑寺
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江戸時代吉原の遊女が亡くなるとこの寺に運ばれ「投げ込み寺」と呼ばれた。
埋葬された遊女は2万人といわれ平均21.7歳であったという。
寛政5(1793)に建てられた昭和4年に改修された新吉原総霊塔がある。
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「生まれては苦界、死しては浄閑寺」(花又花酔の川柳)が刻まれている。
永井荷風は遊女達の死を悼みしばしば訪れ掃除もした。文学碑がある。
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本庄兄弟の首洗い井戸がある。
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鳥取藩士白井権八

本名 平井権八は本庄助太夫を飼い犬の喧嘩が原因で殺し、江戸に出奔、あとを追う遺児本庄助七、助八は三ノ輪に家を借り仇敵白井を探すが逆に白井に知られてしまい、万冶3(1660)浅草田圃で兄助七が殺されてしまう。

弟助八が兄の首を洗っていたところ又白井に襲われ命を落とす。

仇討ちはなかなか成就しないということである。その後強盗をかさね鈴が森で処刑されたというが、幡隋院長兵衛と結びつけられ歌舞伎、浄瑠璃、狂言となった。


「あしたのジョー」は泪橋のたもとの丹下ジムにいた。

品川の鈴ヶ森処刑場の近くにある立会川にかかる泪橋と共に刑場にむかう罪人が家族に見送られて涙する橋である。
ちなみに品川の泪橋は現在「浜川橋」と呼ばれ、かつてボラちゃんフィーバーした橋である。

ちょっと寄り道(2015年11月)


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                                    泪橋

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泪橋交差点から交番、右に曲がると商店街
そこを突っ切ると
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明日のジョーが立っている

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なんかいつものジョーじゃない・・・


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いろは会
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いろは会

山谷をはじめて歩いた
道端でお酒飲んでる人も多かったが
外国人もいた
目にした所ではいちばん安い宿泊が2200円だった(2015年11月)







小塚原刑場跡
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江戸時代に罪人を処刑したお仕置き場跡で、「こつかっぱら」と呼ばれた。

間口60間(108m)奥行き30間(154m)で明冶の初年に廃止されるまで約20万人が磔、斬罪、獄門などに処せられた。

高架わきに延命寺があり小塚原回向院の別院であったが1982年独立した。

寺名は延命地蔵(通称首切地蔵)にちなむ。刑死者の菩提を弔うために寛保元((1741)に建立された。

元は貨物線の南にあったものを現在地に移した。常磐線をくぐって進む道はコツ通りと呼ばれる。
常磐線の陸橋から南に泪橋があるが現在橋はなく交差点の名に残るだけとなった。


コツ通り
平成10年つくばエクスプレスが開通、その工事のとき
おびただしい人骨がでた。
年間1000体 そして220年続いた処刑場だったからである。
が、コツ通りの由来は骨ではない。
小塚原を昔は「コツ」といった。
千住の岡場所のことをそうよんだ。
歌舞伎の演目「小袖曽我」より

「それじゃあ 三次がコツの馴染みは 二枚がけの熱燗だな」

船頭三次との台詞にある。   広辞苑より






小塚原回向院 浄土宗
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刑死、牢死者、行き倒れの死体など両国の回向院に埋葬されてきたが、手狭になったため寛文7(1667)両国の別院として建立された。

橋本左内 (1834~59)
越前藩士で緒方洪庵の適塾に学び藩主松平慶永を補佐、幕藩体制の再建強化と親露反英、新米の開国論を唱えた。一橋慶喜将軍擁立に奔走。井伊直弼大老就任後、安政の大獄によって処刑。

*頼 三樹三郎
 (1825~1859)
尊皇攘夷派の志士。儒者で、「日本外史」を著した頼山陽の3子。安政の大獄で処刑。

*梅田源三郎(雲濱)(1815~1859)
小浜藩士。塾を開いていた。海防策を建白し藩主に疎まれ浪人になる
新選組池田事件の発端となった古高俊太郎の師でもある。
京における尊皇攘夷派の中心となる。慶喜将軍擁立に奔走、安政の大獄によって処刑。

吉田松陰 (1830~1859)

長州藩士。山鹿流兵学を学び東北諸藩を歴訪、海外渡航を企み失敗。投獄される。
獄中で開いた松下村塾からは高杉晋作、伊藤博文など多くの人材を輩出。安政の大獄で処刑。辞世の句が有名である。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」

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奥の墓が松蔭


 観臓記念碑

明和8(1771)前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らはこの地で刑死者の腑分けをみてターヘル=アナトミアの
翻訳を決意し4年後「解体新書」を出版した。

有村次佐衛門 

桜田門外の変の薩摩藩士。井伊大老殺害事件。

金子孫次郎

桜田門外の変の水戸浪士


水戸浪士

老中安藤信正を襲った坂下門外の変。

高橋お伝
明冶9(1876)内縁の夫を殺害、最後の惨殺刑に処せられた。

鼠小僧次郎吉


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円通寺  曹洞宗
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延暦10年(791)坂上田村麻呂の創建と伝えられる。
秩父、板東、西国霊場の観音があったことから百観音と呼ばれた。
鎌倉時代の板碑がある。彰義隊はじめ戊辰の幕府関係者の供養塔、墓がある。
当時の住職が放置されている彰義隊の戦死者を弔った縁で上野寛永寺の総門が移築されている。黒門といい、上野戦争の弾痕跡が残る

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黒門の弾痕

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官営千住製絨所跡


南千住1丁目の交差店西にあった。
蒸気を利用した日本最初の毛織物工場である。
当時の煉瓦塀が残る。東京スタジアムから現在荒川区スポーツセンターになっている。


素盞雄神社
  創建延暦15年(795)伝
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天王社とも呼ばれる。
荊石信仰(石神信仰)の神社で瑞光石なるものがある。
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随光石

石が光を放ち素盞雄命と事代主命(アスカ大明神)があらわれ神託を告げたといわれる。

荒川ふるさと文化館   

荒川の歴史、文化を紹介する施設

誓願寺 浄土宗
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いつも門は閉ざされているのに今日は開いていた
鳥の声がする森のような境内だった
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本尊の阿弥陀如来は聖徳太子造といわれる。家康が腰をかけたといわれる榎があった。親の仇をうった子狸の塚、板碑などがある。

千住大橋
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文禄3年(1594)に普請奉行伊奈忠次によって架けられた。
隅田川で最初にかけられた橋で「大橋」という。日光、奥州街道の出入り口の橋となった。
北詰西に奥の細道矢立初の碑が立っている。
芭蕉の旅立ちは、深川を舟で出発し千住大橋の北岸に上陸したとの考えから建立したものである。


橋戸稲荷

土蔵の観音開きの扉の裏に幕末から明冶にかけての鏝絵(こてえ)(漆喰ぬりの絵)の名工といわれた入江長八の男狐と母子狐の作品が残る。

長八は又の名を伊豆の長八といわれ伊豆松崎に生まれ、左官を学び狩野派の絵師のもとで勉強した。

漆喰でレリーフのように浮き出した絵画、装飾をほどこした鏝絵を芸術の域にした画家ともいえる人である。

震災、戦災で多くを失い貴重なものである。

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長八の鏝絵 レプリカ




やっちゃ場 青果市場
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河原町は江戸時代青果市場があり、現在中央卸売市場がある。
信長が安土城を築いたころからはじまったといわれる。
ここから通りには屋号の看板がある家がおおくなる。

この河原町には尾崎豊の終焉の地「尾崎ハウス」がある。
2011年に取り壊された。

千住宿歴史プチテラス

天保元年(1830)に建てられた横山家の蔵を平成5年に移築。
高札場、一里塚道標

勝専寺 浄土宗
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文応元年(1260)創建。朱塗りの山門から赤門寺といわれ、赤顔、赤腹の閻魔様で知られる。
一説に千住の地名の由来は、本尊の千手観音からきているという。秀忠、家光、家綱など立ち寄ったといわれる。

千住宿本陣跡(3-113)

千住の絵馬屋(吉田家)

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伝馬屋敷 (横山家)
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地紙問屋として栄えた旧家。江戸時代の商家造を残す。
玄関柱の刀傷跡は負けた彰義隊がつけたものといわれている。近くに「かどや」槍かけだんごがある。

槍かけだんごのかどや
以前は古い佇まいだったが改築されたようだ
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いつ食べても美味しい・・・

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名倉医院
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明和年間(1764~72)に開業した接骨医で、幕末に建造された長屋門が残る。
ほねつぎとして評判をよび患者の列が街道にあふれるほどだったという。
ここで技術を学んだ弟子たちは全国各地で名倉の名で開業しているという。
今でもお年よりたちは秘薬の黒膏をお願いするそうだ。

荒川の土手

荒川は荒ぶる川の名のとおり大洪水をよくおこした。
明冶44(1911)に大改修に着手し14年の歳月をかけて岩淵から中川にいたる全長22kmの人工河川である。
荒川方水路とよばれていたが、現在では荒川というようになった。

土手と千住の東にある柳原は金八先生のロケ地である。

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東京拘置所


橘井堂(きっせいどう)跡

都税事務所は森鷗外の父静男が14年間病院を開業していた所で、鷗外も陸軍軍医副に任官しドイツ留学前
ここから三宅坂の陸軍病院に通った。

金蔵寺 真言宗

南無阿弥陀仏とあるのは、千住宿の飯盛女の供養塔。無縁塔とあるのは天保7(1836)の大飢饉の犠牲者
の供養塔。側面に勝専寺、不動院、金蔵寺にそれぞれ埋葬と記されている。

北千住駅

常磐線、東武伊勢崎線(半蔵門のりいれ)、東京メトロ日比谷、千代田、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線があり、
乗換えで重要な駅となり足立区の中心繁華街となった。

参考文献 
東京都歴史散歩上巻・徳川将軍家の謎(別冊宝島)
荒川区HP・鬼平ゆかりの地巡りツァーHP
# by gannyan1953 | 2011-05-06 11:46 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

渋谷庄を訪ねて

歴史と素適なおつきあい 2008

日時:2008年4月11日金曜日・9:50 雨天中止・お弁当持参
集合:相鉄線海老名駅改札口 (相鉄線、小田急小田原線、JR相模線があります)
    相鉄線 横浜駅発 : 8:51 ・ 9:02 ・ 9:10

海老名駅~(バス)~国分寺台7~五社神社(渋谷氏ゆかりの神社)~武者寄橋~江川天神社(渋谷氏ゆかりの神社)~早川城址(渋谷氏の居城跡)~お銀様墓(渡辺崋山)~長泉寺(渋谷金王丸の墓・見学は不可)~小園橋(渡辺崋山)~相模国分寺跡~ビナウォーク(相模国分寺の塔のモニュメント)

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振り返っているのが金王丸 ウイキペディア



五社神社
祭神 天(あま)照(てらす)大日霎(おおひるめ)貴(むち)尊(みこと)・天(あま)忍(おし)穂(ほ)耳(みみ)尊(みこと)・天津彦彦火瓊々(あまつひこひこほのにに)杵(ぎ)尊(みこと)・彦火々(ひこほほ)出(で)見(み)尊(みこと)・彦波瀲武鸕(ひこなぎさたけ)草(う)葦不合(がやふきあえず)命(みこと)の五柱。日本武尊創始。ご神木は樹齢370年の大椎の木。早川城の西、国分寺台の突端にあり、物見の砦によい。

この神社には日本武尊のこしかけ石がある。
日本武尊の野火遭難の地について日本書紀では、駿河国、焼津神社・草薙神社・庵原神社。
古事記・古事拾遺では、相模国 とある。    
ここではこの相模国が野火遭難伝説の地であるという。

そのころは深く入江になっていてこの国分寺台地の麓は海老名からずっと草地であったと思われる。
ここに着いた尊はしばらく軍をやすめさせたと思われる。
この辺に居住する相武の国造りは偽り、尊を迎えていうには、
「この原野に大沼があり、ここに、大変乱暴な神がいる。その神を平らげてほしい」
尊は単身、奥深く進入したところ、突然原野の風上より火をつけられ、危機に瀕した。叔母の倭比売から贈られた剣をもって草を薙ぎ無事をえたという。

武者寄橋
兵の集まる場所だったといわれる。

江川天神社
渋谷氏ゆかりの神社。素朴でいかにも地の神様という感がある。湧水がある。

早川城址
渋谷重国が建てた城。古くはこの早川台地には縄文、奈良、平安遺跡もある。
遺構としては周囲の湿地帯が堀の名残。後北条の支城となり、現在に残る遺構となった。
物見台あとには東郷氏祖先発祥の地の碑がある。現在早川公園として整備されている。

お銀様の墓
田原藩主三宅康友の侍女となり、友信を出産したが、実母が急逝し、やむなく実家に帰る。その実家がこの早川村であった。その後、友信が藩主になるところ、事情で「巣鴨の老公」として隠居せざるを得なかった。その事情とは、藩の財政逼迫のため富裕な藩からの養子を迎えるためであった。
友信の子守役が渡辺崋山であった。藩主になれなかった友信の意中を察して実母お銀様をたずねたことが「遊湘日記」にある。
小園橋は無事お銀様に会って、厚木にむかう崋山を村人たちが見送ってくれた橋である。
その近くにお銀様の墓がある。


長泉寺 曹洞宗
本尊は釈迦如来で、寛永11(1634)年格雲守存により、開基される。
かつてここには渋谷氏の菩提寺といわれる寺があった。
ここに、金王丸の墓があるという。渋谷氏関係者のみの案内となっている。
定心(じょうしん)(入来院氏)は曹司五郎と名乗っており小字名に祖師谷があるため曹司が訛ったのではないかと思われる。
館跡はないがこのあたり一帯に重国の墓という伝承の墓、定心の僧名からそのゆかりが伝えられる。

相模国分寺跡
国分寺とは天平13(741)年、聖武天皇の詔で国ごとにつくられた官寺である。
相模国分寺は法隆寺と同じ伽藍をもつ大規模なものである。

七重塔

温故館という資料館に相模の国分寺の七重の塔の模型があったが、今は閉鎖されて、文化会館に展示されている。
ビナウォーク内にある、海老名中央公園に27、97メートルの塔のモニュメントがある。
実際は67メートルあったそうだ。


渋谷氏家系図


平高望―国香                  (秩父権守)
     ―良兼               武綱―重綱―重弘―重能―重忠
     ―良将 (村岡) (秩父)  (川崎冠者)  (渋谷庄司)      
     ―良文―忠頼―将常―武基―基家―重家―重国―――――光重 ――――重直~相模渋谷氏
                                ―金王丸             ―実重(早川)―忠重―重高~東郷氏 
―重保(吉岡)―重尚―重松~祁答院氏
                                                   ―重諸(大谷)~鶴田氏
                                                   ―定心(曹司)~入来院氏
                                                   ―重貞(落合)
                                          ―高重―武重(渋谷)(長男)
                                          ―時国  
―重助
―女(佐々木秀義室)               








参考資料
渋谷氏
桓武平氏秩父氏の流れで、東京都渋谷、神奈川県綾瀬、藤沢、大和あたりに勢力があった。
のちに薩摩島津氏とともに移住した一族は東郷氏(東郷平八郎)、入来院氏、祁答院(きとういん)氏となった。
基家が前九年の役の恩賞に渋谷郷渋谷庄(東京都渋谷)を賜り、川崎冠者といわれた。
基家をさかのぼると、先祖に良文がおり、平将門の父良将と兄弟にあたる。将門の乱のとき、良文はどちら側だったのかと調べてみると、将門とは敵対していなかったようである。伝承ではやさしい器量のよい人で、923年良文36歳のとき醍醐天皇より関東の賊を討伐せよとの勅命に藤沢市あたりを本拠として賊を滅ぼしたという。村岡郷(藤沢市)のことで良文は「村岡五郎」とよばれた。基家の子重家は、渋谷氏を賜り、渋谷にある金王神社あたりに城をもった。この金王神社はのち金(こん)王(のう)丸(まる)の出現により
金王八幡宮といわれるようになった。領地は、横浜小机をへて、重家の子重国が高座郡渋谷に進出する。
頃は頼朝挙兵前で、平氏か源氏かという時代になる。

佐々木氏
平治の乱で源義朝方について敗れた、近江源氏佐々木秀義は、奥州平泉におちのびる途中、重国の所領地渋谷を通過した。秀義の伯母が平泉の藤原秀衡に嫁いでいたためであったが、遠すぎるからと、重国は佐々木一族を匿う。
それから、佐々木一族は重国とも縁戚となり、20年近く滞在することになる。
佐々木秀義の4人の息子は頼朝が挙兵したときには源氏側にたつ。4人の息子は伊豆の韮山に配流されていた頼朝の家に頻繁に出入りしており、憂慮した平氏方の大庭景親が父親の佐々木秀義に注意をうながした。
「そのうちに、以仁王と源頼政が挙兵するときには、伊豆の頼朝のところにも、令旨がある」 
その情報はいちはやく4人の息子から頼朝に伝えられた。
そして息子たちは、頼朝旗揚げの挙兵に加わり、以後活躍して、近江の佐々木庄にもどった。
佐々木秀義の四男の佐々木高綱は名馬池(いけ)月(づき)(生食、生唼)で、梶原景季の名馬「磨(する)墨(すみ)」と先陣争いをしたことで有名である。横浜市港北区鳥山に居館があったとされる。 乃木希助は、佐々木高綱の末裔といわれる。
近江にもどった佐々木氏はのちに京極氏、六角氏につながっていく。

渋谷重国
佐々木氏庇護の背景として、重国の領地渋谷は現在の海老名東部にあたり、昔国府があったといわれる場所である。
当時、国府は大住から淘綾に移っていたが、国府時代の古道は、太平洋側の道より逃避行にむいていたと思われる。
佐々木氏が源氏方についたとき、渋谷重国は石橋山合戦で頼朝征伐軍として戦うが、のち鎌倉幕府に服属する。頼朝の死後、重国の二男高重は、武蔵七党横山党の横山時重の娘を妻にしていたことから和田合戦では、義盛方についた。
渋谷氏はこの和田合戦の後、勢力が衰退する。が、細々と続いていたようである。
早川城には重国の四男重助の末裔、石川氏がいた。後北条に仕え、「石川衆」と称され、家康江戸入府時には石川重久が城主であった。重国の長男は鎌倉方につき、のちに薩摩に移住、島津氏と並ぶほどにな
るが、戦国時代に島津氏に服属する。
渋谷の道玄坂に、和田一族の大和田道玄が寺をつくったといわれる。地名の由来である。名所図会には和田の残党がこの坂道の窟に住み山賊を業としたとある。渋谷氏と全く関係がないとはいえないかもしれない。

渋谷金王丸
渋谷重国の兄弟といわれるが、定かではない。
平治の乱で敗戦した義朝一行は、近江、青墓(大垣)、舟で愛知県知多の野間の長田忠致(おさだただむね)の屋敷へと平治物語にはある。
ここからは内海のタクシーの運転手の話である。
「青墓から桑名あるいは伊勢から舟で内海へ、それから山中を進み岡部の大岩で腰掛け休憩をした。
農民たちからいろいろ世話をしてもらったため、義朝は、農民たちに大岩の姓を賜った。」
実際その運転手も大岩さんだが、やたら、大岩姓が多い。そして山中を野間に向かったという伝承である。

とにかく野間に到着したが、なぜ野間に行ったかというと、長田氏は源義朝の家来、鎌田正清の妻の実家である。道中4人といわれるが、義朝、正清、金王丸らは、馬、馬具の調達を頼み、急いで東国に落ちのびるつもりだったが、「ゆっくりしていけ」と長田忠致に引き留められる。長田は義朝を裏切るつもりであった。
鎌田正清は山田城主である。都筑区の山田神社の地にあった。
義朝は金王丸に背中を流してもらい湯につかっている。正清は酒の歓待をうけていた。
金王丸は刀をもってはいっていたため、長田の郎党は襲うことができない。金王丸は着代えがないので郎党に声をかけたが返事がない。長田の郎党は、あえて着代えは用意しなかった。しかたなく金王丸は、着代えを取りに外にでた。
そこへ、長田の郎党たちが義朝を襲い殺してしまう。正清は異変に気付き、かけ出すが郎党に囲まれ殺される。
正清の妻は自らの父の裏切りを嘆き、夫の後を追う。
金王丸は急いで戻って戦うが劣勢になるや、馬で飛び出し京都まで戻る。義朝の愛妾常盤御前に知らせ、僧となって
義朝の菩提を弔う。

知多半島の野間には役小角が創建、中興が行基といわれる野間大坊がある。のちに頼朝はここに父義朝、自分の助命をしてくれた池の禅尼、鎌田正清夫妻の供養塔を建てた。

金王丸は興福寺の衆徒となり土佐坊昌俊と名乗る。大和国で乱暴を働き土肥実平に捕えられた。
が、頼朝は昌俊の義朝への忠誠心にうたれ、家臣として迎えた。鎌倉の小町に屋敷跡がある。
頼朝と義経との仲が悪くなり、土佐坊は京都堀河の義経屋敷を襲うよう暗殺を命じられる。いきさつは、誰も義経暗殺を引き受ける者がいないので、自ら申し出て、下野にくらす母親の面倒を頼朝に依頼したという。が、暗殺に失敗し鞍馬山に潜むが、義経郎党に捕まり、六条河原で斬首される。
この土佐坊昌坊は常盤御前に知らせに行ったとき、常盤御前と三人の子の都落ちを涙で送ったというが、果たしてその子義経の暗殺に向かうだろうかと疑問視されている。他説に、義経は父の郎党だったことから、逃がしたともいわれている。
金王丸の話は、謡曲「正尊」 浄瑠璃「御所桜堀川夜討」、狂言になっている。

金王八幡宮
渋谷駅東側、宮益坂をはさんだ小高い場所に渋谷城跡がある。そこに金王八幡宮がある。

当社は第73代堀川天皇の寛治6年(1092)渋谷氏の祖川崎土佐の守基家の創始という。高望王の後裔秩父別当武基は源頼信の平忠常追討に大功を立て軍用の八旒を賜り、内日月二旒を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す。武基の子武綱は嫡子重家と共に義家の軍に従い奥州の金沢の柵を攻略せる功により、名を河崎土佐の守基家と賜り武蔵谷盛の庄を与えられた。これ即ち月旗の加護なりと、義家、基家と共に親しくこの地に来たり月旗を奉じて八幡宮を勘請すと。重家の時始めて渋谷の姓を賜る。渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし代々氏族の鎮守とあがめた。当社は元渋谷八幡宮と称したが、金王丸の名声にちなみ金王八幡宮と称せらるるに至った。これが渋谷の地名の起こりとも言われ渋谷城の当時の砦の石も現存しております。
                            金王丸八幡宮「参拝の栞」より

このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、居館を囲んでいるうえ、かっては数箇所に湧泉があるという好条件を備えていました。
しかしその居館(城)は大永4年(1424)、北条氏と上杉氏の合戦の時、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
                              渋谷区教育委員会
境内には金王桜がある。一重と八重の花が一本の木に咲く珍しい桜で頼朝が植えたといわれている。

長田忠致
現在野間では長田家跡地はいまだに荒涼としている。田んぼの中の荒れ地である。土地の人に今でもよく思われてないからかと思ったが、その地は縄文時代の遺跡であった。
そのすぐそばに磔の松がある。のちに頼朝のもとで功績をあげた長田親子が恩賞に「美濃尾張をくれ」といったことに応え、「身の終わりを授ける」と処刑された場所といわれる。
長田忠致の祖は将門の父と兄弟で領地争いをして、将門の乱では敵対していた。その後一族は流浪したこともあり、ようやく知多に領地をもち開拓していた。そこに、追われた義朝主従が現れたので困惑したはずである。息子と相談の末、このまま義朝が東国に戻っても再起不能だろうと考え、清盛に服すことにした。
清盛からの恩賞は壱岐の守であった。そして頼朝の時代がきてしばらくは壱岐に隠れていたらしい。
壱岐には玄海灘で活躍した長田氏がいたことから子孫は残っていたらしい。

参考:「相模のもののふたち」永井路子ウイキペデイア・尾張歴史と伝説・城郭図鑑・平治物語絵巻・綾瀬市HP・大和市HP・海老名市HP・渋谷氏・金王丸関連のHP・渡辺崋山と大山道・野田かずこ創作切りえ・神奈川県 神社検索
# by gannyan1953 | 2011-05-06 11:36 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

東海道 川崎宿

                        歴史と素適なおつきあい  2006年10月13日(金)

集合:京急「六郷土手」駅 改札口 2006年10月13日(金)9:50 
    (特急、快速は止まりません)

天候がよければ熊野神社境内で昼食をとります。熊野神社の近くのスーパーにお弁当があります。付近で外食も可能です。

「京急六郷土手駅」北野天神~六郷の渡し~明冶天皇渡御碑~川崎稲荷社~「京急川崎駅」万年屋跡~旧田中本陣跡~助郷会所跡~宋三寺~砂子の里資料館~高札場跡~問屋場跡~佐藤本陣跡~小土呂橋擬宝珠~上手土居~芭蕉句碑~「京急八丁畷駅」廃線跡~無縁塚~熊野神社(昼食休憩予定)~「京急鶴見市場駅」市場一里塚~鶴見橋関門橋跡~寺尾稲荷道標~鶴見神社~「京急鶴見駅」


川崎宿
設置:元和9(1623)年  東海道宿駅伝馬制度がしかれたのは1601年
管轄:天領  小土呂、砂子、新宿、久根崎で構成
家数:641軒
本陣2・飯売旅籠33・平旅籠39・名主、問屋、年寄、馬役、歩行役149・屋敷借地26・家398・火の番屋6
人数:2433人 (男1080人 女1353人)
名物:奈良茶飯(万年屋)、ハゼ料理(新田屋)、米饅頭(鶴屋)     (文久3(1863)年調べ)


 東海道で最もおそく開設された宿である。品川、神奈川の伝馬継立が往復十里になるため伝馬百姓の負担を軽くするために設置された。
小土呂方面の生産向上のため新川掘用水が慶安3(1650)年に開削された。
宿起立時には幕府からの援助で常備伝馬の保持を図ったが、伝馬継ぎ立ての重い負担に、早くから疲弊を訴え、たびたび幕府の援助も続いた。が、問屋もつぶれ逃亡する馬百姓も続いた。財政が立ち直ったのは六郷渡しの渡船権を得てからである。宝永6(1709)年に田中休隅の意見が幕府に採用されて、渡船を宿が請負うこととなった。
 又旅籠に飯盛女を置くことが許可され、川崎大師やその南の石観音の参拝者も増え江戸後期には宿の繁栄を見ることになった。
 幕末期の将軍家茂の上洛や長州征伐で助郷体制が賄いきれず、多くの村が助郷に加えられた。助郷だけでなく将軍上洛に伴う御用金の調達も重なり川崎宿では打ちこわしが起きた。米穀商や名主が襲われたため、幕府はその対応に本百姓に非常用の竹槍を与え、富豪の子弟を中心に農兵隊が組織された。
 明冶5年の品川~横浜の鉄道開通にともない宿駅制が廃止になり、宿機能は停止した。
以降商業地域として発展した。

北野天神     祭神―菅原道真

将軍吉宗が乗った馬が暴走した時、落馬を止めた天神としての評判が、旅人たちにより遠くまで広がり、東海道を行き来する大名、武士たちの間で「落馬止め天神」と呼ばれた。ほど近い東海道の一角に「柳生様」とよばれる地があり将軍家剣術指南役柳生家の屋敷があった。北野天神の加護にあやかってこの地に住んだという。

六郷の渡し

多摩川の下流の渡船場あたりでは六郷川という。慶長5(1600)年に家康が橋を架けた。しかしたびたびの洪水で流され貞享5(1688)年に流出してからは架橋しなかった。
渡船になり、その権利をもった宿場は繁栄した。
東海道の四大橋  瀬田・矢作・吉田・六郷
江戸の三大橋   両国・千住・六郷

明冶天皇渡御碑

明冶元(1868)年10月12日、明冶天皇は東下りの道中、川崎田中本陣で昼食を召されその後23艘でつくられた舟橋を渡御された。

大師河原道印石と川崎大師の燈篭

道標の左手に川崎大師への参道の入口があり、ここに川崎大師の燈篭と寛文3(1663)年に造立された「從是弘法大師江之道」と書かれた道標があったが現在は川崎大師にある。

川崎稲荷

昭和26年ころ再建され土留めに二ヶ領用水に架かっていた石橋の部材を使用、又社殿の下に将軍吉宗が江戸にむかう時休んだといわれるけやきの根株が残っている。

万年屋跡

もともと一膳飯屋であったが、そこで出される奈良茶飯が有名になると明和年間(1764~72)から旅館も兼業するようになった。

イギリスの園芸学者ロバート・フォーチュンが万延元(1860)年に在日した時の見聞録「幕末日本探訪記」にかわいらしい女の子が案内してくれ、お膳にお菓子や果物が並べられ女の子はゆで卵をむいて塩をつけて口に運んでくれたと書いている。

万年屋の奈良茶飯は大豆、小豆、粟、栗などをお茶で炊き込んだもので、しじみ汁といっしょに出された。
もともとは東大寺でだされていたもので、起源は寺に納められたお茶を煎じて二煎目のお茶に塩を加えてお米を炊く。蒸らしたあとに一煎目のお茶に漬けて食べる。この中に炒った大豆、黒豆、栗などをまぜたようである。
東大寺二月堂のお水とりで練行衆の食事に茶粥とともに出されていて古くから僧達の厳しい修行に耐えるための大切な栄養源とした必要~生まれた食事だったようだ。
現在の茶飯はほうじ茶をいれ塩、醤油、酒で味付けし焙った大豆をくわえて炊いたものである。「奈良茶飯三石食ふて後はじめて俳諧の意味を知るべし」と詠んだ芭蕉も好み、句会には奈良茶飯がだされたようである。

旧田中本陣

大名、公家、旗本などが泊まる施設で231坪の堂々たる構えであった。
主人の田中休愚(丘愚)は本陣経営、名主、問屋の三役を兼務し六郷の渡船権を江戸側より川崎宿側に譲りうけ川崎宿の財政を立て直した。「民間省要」を著し二ヶ領用水や酒匂川の治水(宝永山の噴火で水害に悩まされていた)に尽力し幕府の役人に登用された。大名なみであったという。

田中休隅(丘隅)

寛文2(1662)年多摩郡平沢村の農家に生まれ絹物の行商をして見聞を広めた。
川崎宿の田中源左衛門の養子になり50才で土木、測量、経済、数学を学んだ。
「民間省要」で、金と商品の流通、その影響と農民との関係を詳しく論じ八代将軍吉宗の目にとまり、活躍した。後には代官(支配勘定格)となり三万石を支配した。百姓から代官になるのは異例の抜擢である。が、5ヵ月後江戸の役宅で享年68才で亡くなった。
「民間省要」の執筆のねらいは民間生活の実態を為政者に再認識させようとしたもので成島筑道により大岡忠助を通じ献上された。この中に穢多のことが書かれているが、「穢多はいかに金持ちになっても四民の上には絶対立てない」とある。身分に対する抑圧政策が強化された時期でもあった。

稲毛神社

平安時代に河崎庄の鎮守として祀られた。祭神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)である。古くは山王社と呼ばれていた。山王銀杏、子の神社、田中休愚一族に奉納された手水石、安政の大地震で倒れた石の鳥居の台座、小土呂橋の遺稿、平成に奉納された天地睨みの狛犬は撫でてお願いすると体の悩みを治してくれるご利益がある。
宋三寺
寺伝によると頼朝の時代に僧玄統が開き建長寺末に連なる臨済宗の寺であった。玄統が若いころこの付近を通りかかると亀があらわれ池に導いてくれたので喉をうるおすことができた。再びこの地を訪れたとき大亀があらわれ亀の恩に報いるため小さな堂を建てたのがはじまりとされる。その後佐々木高綱の菩提寺となったが、のちに衰え後北条に使えた高綱の子孫が鶴見の宝泉寺の僧自山を中興として招き曹洞宗となった。墓地には飯盛女の系譜をひく貸座敷組合が建てた遊女らの供養塔がある。
(2006年お盆前に訪れた時吉原と書かれた風鈴が供えられていた。寺の関係者から風鈴は毎年贈られてくると聞いた。山本)

砂子の里資料館

海鼠壁の江戸町屋の雰囲気があり、東海道川崎宿をテーマにした資料館。
浮世絵を中心に企画展を行い、約200年前の川崎宿の模型が展示されている。

中の本陣

問屋場にむかいあう形で建っていた「中の本陣」は正式には「惣兵衛本陣」といわれ
佐藤、田中本陣の中ほどにあったので中の本陣と呼ばれた。江戸後期に廃業した。

高札場跡

幕府や領主がきめた法度などを木の板札に書いて人目に着くように掲示する所。
江戸から京都にむかう右側にある。

問屋場跡

江戸時代公用で旅をする人たちの便宜を図るため人足や伝馬を常備した。

佐藤本陣跡

惣左衛門本陣といわれ181坪あった。将軍家茂が上洛する時宿泊した。佐藤惣之助の実家である。

佐藤惣之助  詩人

明冶23(1890)年に雑貨商を営んでいた父慶次郎、母うめの次男として生まれた。
小学校高等科を卒業後麻布に丁稚奉公にでた。その後暁星中学で仏語を勉強し、
12才頃から詩をつくっていた。
人生劇場、人生の並木道、青い背広で、緑の地平線、六甲おろしなどのヒット曲も生み出した。

小土呂橋擬宝珠

東海道の新川掘に架かっていた橋の欄干の親柱が残っている。昭和7(1932)年に川は埋め立てられたため交差点脇に置かれている。新川掘は慶安3(1650)年関東郡代伊奈半十郎忠治によって開削され橋の最も古い記録は正徳元年(1711)で板橋であった。田中休隅が享保11(1726)年に石橋に改め、寛保2(1742)年洪水で流されたため、翌年普請奉行水谷郷右衛門によって再建されたものがこの橋である。以来200年間人々が行き交った橋だった。六郷八幡塚村の名工永井左兵衛、仕手吉六(飯島吉六)の名が銘文にみえる。

小土呂橋を渡った象

1729年に吉宗の注文で中国人が連れてきたベトナムの象も歩いたといわれる。雌雄だったのが長崎上陸の3ヵ月後にメス象は亡くなりオス象だけが東海道の箱根も越えてやってきた。長旅の疲れで飼育係の苦労は大変なものだったらしい。室町にも象は渡来したが、今回は陸路をいくことで多くの庶民の目に触れることになった。途中京都においては「従四位広南白象」を与えられ、御所に参内し前足をおり最敬礼の芸をしている。江戸にはいった象は熱狂的な江戸庶民に迎えられ市中を練り歩いている。浜御殿に収容され。二日後には江戸城に参上し、吉宗を喜ばしている。何度か吉宗は江戸城に召し出しているという。
その後1741年「見晴らし」という掛け小屋をもつ中野村の源助という百姓に払い下げられ見世物の他、糞を乾燥して薬として売ったらしい。管理の悪さから一年後に象は病死した。

上手土居

宿場の京都側入口のことで京口土居という。切石がつまれた土居が築かれていた。

芭蕉句碑

元禄7(1694)年5月郷里の伊賀へ帰るため、深川の庵を発った芭蕉は、同行してきた弟子たちとここにあった茶屋で休息した。弟子たちと別れを惜しみつつ詠んだ俳句である。

芭蕉 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

弟子 「麦畑や出ぬけてもなお麦の中」
「刈りこみし麦の匂いや宿の内」   と返した。

この5ヶ月後、芭蕉は大坂で病にたおれ51才でこの世を去った。
文政13(1830)年俳人一種は、天保の三大俳人と呼ばれた桜井梅室の筆による文字を石碑に刻み、俳聖芭蕉を、ここに偲んだ。

廃線跡

大正7(1918)年から昭和48(1973)年まで川崎から浜川崎まで走っていた南武鉄道の廃線跡の煉瓦壁である。イギリス積みである。
東海道線を貨物列車が多く往来していたころ東京の方からやってきた列車を浜川崎や鶴見線方面に向かわせる路線として使われた。首都圏を走る貨物が武蔵野線に迂回するようになって廃線になったようである。往時を偲ぶ少しの間の姿である。
八丁畷の名前の由来は川崎宿から鶴見市場までの間が八丁(870m)あり縄手というのは道が田畑の中をまっすぐのびていることで畷に当てた。道は松や杉、榎の並木が続き八丁畷並木と呼ばれた。
JR八丁畷駅は京急と南武支線があり、尻手から鶴見線の浜川崎までをつないでいる途中駅である。2010年までに新八丁畷駅が開設され今の駅は廃される予定である。踏切には監視員が常駐している。

無縁塚


明冶以降人骨が並木から多数掘り出された。人類学社の調査の結果、江戸時代に災害や飢餓などで亡くなった人を埋葬したのではないかといわれる。これら無縁仏の供養のため供養塔がたてられた。

熊野神社


弘仁年間(810~824)に紀州熊野の別当尊敬の勧請といわれる。
家康が関東入国前に武運を祈ったと伝えられる。鎮守の森はなぜかない。
宮司家に伝承された市場神代神楽が知られる。
近世の実態を詳しく記述している
「萩原文書」があるが、奉納舞に荏田村
からおとよ、数馬らが参加したことが記
されている。現在この熊野神社では神楽が
なく鶴見の矢向の日枝神社に受け継がれ
ている。

専念寺

紫式部の持念仏と伝えられる「市場観音」
が安置されている。富士山から飛んできた
「夜光石」「お乳岩」でも有名である。

市場一里塚

日本橋から5番目の一里塚で、昭和初期
まで大きな榎があった。この向えには
地主が施す「畑の灸」があり、子供の疳
の虫に効くといわれた。有名な円海山の
峰の灸があるが、ここは一里塚の前で、
便利だった。

鶴見橋関門橋跡

安政6(1859)年横浜開港とともに、
神奈川奉行は外国人に危害を加えることを
防ぐため、横浜への主要道の要所に番所、
関所を設けた。
鶴見橋関門は万延元(1860)年に設けら
れ橋の左右に杉の角柱をたて大貫を通し
黒渋で塗った。文久2(1862)年8月生麦事件発生により川崎宿~保土谷宿に20ヶ所の見張番所が設けられた。ここは5番目であった。6番目は鶴見駅前にあった。

寺尾稲荷道標

寺尾稲荷とは今の馬場稲荷で馬上安全、馬術上達のご利益があるとのことで祈願をする人が絶えなかったといわれる。伝えでは寺尾城主5代目の諏訪馬の助は、乗馬が下手で何とか上達するように祈願したところ、馬術は上達し、北条氏康の十勇士の中に名を連ねるようになったといわれる。

鶴見神社

推古天皇のころ創建といわれ、杉山大名神といわれたが、大正9(1920)年に鶴見神社に改称した。昔は5000坪もある大きい古社だった。杉山明神、素盞鳴尊など祀られる。
境内から多数の祭祀遺物が出土し弥生後期から鎌倉時代の土器も出土したことから、横浜では最古の社といわれる。「かげ参り」といわれるが、350年ほどまえ、幸区小倉にあった鎮守天王社(現在八幡社に合祀)の祭礼で誤って御輿を川に流してしまった。これが鶴見川の潮見橋付近に流れ着いたといわれる。以来祭礼の日には「かげ参り」といわれるようになった。
かつて鶴見川は水田の広がる農耕地帯であった。「鶴見の田祭り」は鎌倉時代がはじまりといわれ稲の豊穣を願った祭だったが、水田が消えていくとともに途絶えていた。近年宮司や研究者によって復活した。
仁治2(1242)年 鎌倉幕府4代将軍藤原頼経らが立ち寄る。
仁治3(1242)年 大江広元らが一帯の開拓事業を行う。
元弘3(1337)年 新田義貞が鎌倉攻めをしたさい末吉付近で戦う(鶴見合戦)

信楽茶屋

東海道の立場として栄えた。立場とは宿の間の休憩場で宿泊は許されなかった。「江戸名所図絵」にも描かれ竹の皮に包んだ梅干が好評だった。

鶴見騒擾事件

大正14(1925)年鶴見で起きた乱闘事件。現在の騒乱罪にあたる騒擾罪で500人が起訴された大きな喧嘩騒動であった。主な闘争地は潮田だったため事件の名が適切かどうか問われている。事件は、震災後の東京から神奈川への工場移転が建設ラッシュになり、火力発電所の建設からはじまる。首都圏への電力供給を有利に運びたい東邦電力(首都圏の電力会社と地方からの電力会社の電力戦争が起きていた)が発注した工事をめぐり、受注した元請会社2社の下請け(地元を縄張りとする業者と中央から派遣された業者)の争いである。そこに関西博徒、業界団体、大物右翼が解決にのりこみ死傷者をだす騒ぎとなった。当時は縄張り意識が強い慣習もあり、それなりの挨拶(念達、金銭)も必要だったと思われる。事件を題材にした「闘いの構図」青山光二著は平林たい子賞を受賞している。
犠牲者慰霊地蔵が、池袋荏子田の曹洞宗能万寺にある。

この事件に関わった人物は後に港湾、土木、運送、工場労務事業などで成功したものが多く、現在も関わった人物の流れを汲む企業が多く存在している。

青山芳蔵(池袋のとび職)は事件の裁判、差し入れ等をひきうけ破産している。
「今幡随院」と呼ばれ窮屈したようだが、頭山満(アジア主義の立場の国家主義者)と知己を得て晩年張作霖事件について何か語ろうとしたらしい。

松尾嘉右衛門はこの後、貴族院議員、花月園、花月園競輪場の経営にかかわった。旭硝子の工員から土木建設業界に君臨するまでの成功物語は京浜工業地帯の隆盛を物語るといえる。

総持寺

明冶44(1911)年石川県鳳至郡櫛比荘にあった曹洞宗の本山総持寺が1898年の大火で焼失したため移され、大伽藍が連なる。曹洞宗の本山は二つあり、この総持寺と福井の永平寺である。ここに俳優石原祐次郎の墓がある。




      
参考:HP ウイキペデイア・横浜市・川崎市教育委員会・東海道川崎宿2023
     悠悠人の写真紀行 ・大人の塗絵・横浜市歴史博物館ニュース

   東海道ルネッサンス・・歴史と素適なおつきあい2001年度資料
# by gannyan1953 | 2011-05-06 11:21 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

早稲田周辺散歩

東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい 2011
日時   : 2011年 3月11日 (金)9:50
集合場所 : 東京メトロ東西線「早稲田」2番出口方面改札口
中野方面進行方向の出口
早稲田2番出口~夏目漱石誕生の地~穴八幡宮~高田馬場跡~水稲荷~甘泉園~胸突き坂(永青文庫・蕉雨園・芭蕉庵)~リーガロイヤルホテル東京(ランチ)~寶(ほう)泉寺(せんじ)~早稲田大学構内(坪内博士記念演劇博物館・會津八一記念博物館~地震のためホテルに避難



       
夏目漱石誕生の地


漱石は慶応3(1867)年1月5日、この地に生まれた。誕生の地(喜久井町1)から若松町の方へと上がる坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克である。このことは漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷士として土着していた夏目氏は、元禄時代以降、馬場下の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は家紋「井桁に菊」に因み、町名を当家にゆかりのあるものとした。
漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、店先の古道具の横にいつも寝かされている漱石を見た姉が、不憫に思い、すぐに生家に戻された。2歳11カ月になると再び、内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になる。養母は夏目家の使用人である。その後実父と養父の関係がこじれ(養父の浮気が原因で養母が夏目家に帰る)、22歳のときにやっと復籍することができた。
隣家の酒屋「小倉屋」は堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つときに、ここに立ち寄り升酒を飲んで行ったという。(漱石山房HP)

夏目漱石(1867~1916)

小説家・英文学者。本名 夏目金之助。
代表作「吾輩は猫である」「こころ」。正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝大を卒業して松山、熊本で教鞭をとる。その後、英留学して鬱、胃潰瘍に悩まされる。帰国後、帝大で教鞭をとるが、精神的に不安定な日々を送る。教師か小説家か悩んだ末、帝大を辞職し朝日新聞に入社する。精神衰弱を和らげるため高浜虚子の勧めで小説を書き始め文豪への道をたどる。ちなみに漱石は「浪漫、新陳代謝、流石、経済、電力」など多くの造語を作っている。死後、解剖され、脳はエタノールに浸されたまま東大医学部に保存されている。

弁天町に漱石終焉の場所があり、漱石公園となり漱石の胸像、猫塚がある。(漱石山房HP・ウイキペデイア)

穴八幡宮(高田八幡宮)

祭神: 応神天皇・仲哀天皇、神功皇后
康平 5(1062)源義家が凱旋祝いにこの地に兜、太刀を納め八幡宮を勧請したとある。
寛永13(1636)幕府の御持弓組頭松平直次が、的場を築き八幡宮を守護した。
寛永18(1641)別当放生寺を造営する際横穴が現れ、金銅の阿弥陀如来像が現れた。これにより
穴八幡とよばれるようになった。
このころ、神木の松が瑞光を放っていたので光松山放生寺となった。徳川家光は当社を北の総鎮護とし、幕府の祈願所とした。吉宗が世継ぎの疱瘡平癒祈願のため流鏑馬が奉納された。
又、加賀藩も深く崇敬し金沢城内に勧請している。
明治以降衰微したが、大正天皇が皇太子のとき虫封祈祷を行ったことから崇敬者が増え、現在では「一陽来復」の御札(冬至から節分まで)を求める人で賑わっている。

一陽来復―易経で陽と陰が繰り返し、どん底の状態にあっても又いいことが巡ってくるという意味であるが、ここの参拝客は、お金がまわりまわって自分の懐に帰ってくる商売繁盛の意味ととっているらしい。
このあたり、早稲田大学建設に伴い移転している神社仏閣が多いが穴八幡は江戸時代から同じ場所である。
(ウイキペデイア)
江戸時代、牛込のほとんどの町は穴八幡と赤城明神両社の氏子であるが、牛込には幕臣が多く住み、日光参拝に供奉しなければならなかった。ところが、赤城山の神と日光の神はたびたび戦をして仲が悪い。赤城明神の氏子が日光参拝すると山が荒れるという話があり、牛込の総鎮守は穴八幡とした。
神楽坂の地名の由来は諸説あるが、穴八幡の神楽の御旅所があったことからだという。(赤城台の歴史HP)

因みに早稲田の東、鶴巻町に元赤城社があり、現在の赤城神社はもう少し東の神楽坂(元赤城町)にある。ここは2010年新しい社殿になり、モダンな造りに圧倒される。

<将門伝説>

赤城明神―将門の首が飛んできてここに落下、木に血がついたのでアカギと名付けられた。
(赤城台の歴史HP)


高田馬場跡
西早稲田3丁目1,2,12,14番地を含む長方形の土地が江戸時代の高田馬場である。滑走路のような形だったという。寛永13(1636)年に造られ、旗本の馬術練習場であった。穴八幡の流鏑馬も行われた。享保年間馬場の北に数件の茶屋ができ堀部安兵衛が叔父の菅野六朗左衛門の決闘の助太刀をしたことで有名である。(東京紅團HP)

水稲荷



祭神: 倉稲魂大神 ウケノミタマノオオカミ 伊勢と同体 豊穣
    佐田彦大神 サダヒコノオオカミ   交通安全
    大宮姫大神 オオミヤヒメノオオカミ 夫婦、人々の円満
元の社地は早稲田9号館の敷地である。
天慶4(941)藤原秀郷が富塚(渡塚~戸塚)―富塚古墳(横穴式)の地に稲荷大神を勧請し冨塚稲荷
  と命名する。
天文19(1550) 牛込主全膳正時国が社殿造営。
天和 2(1682 )佐藤駿河守信次が社殿造営。
元禄15(1702) 神木の椋の根元より霊水が湧き眼病に効くと評判になり水稲荷と改名。
安永 8(1779) 高田村の植木職人・高田藤四郎(日行)が模造富士をここに造った。 
高田富士である。
天明 8(1788)「江戸の水稲荷」と名乗る翁が現れ京都御所の大火に功績を認められ関東稲荷総領
           職を賜る
昭和38(1963) 早稲田大学との土地交換で甘泉園である現社地に遷座する。

堀部武(たけ)庸(つね)加功遺跡の碑中山武庸後堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされる碑。
高田馬場茶屋通りにあった碑が移転された。


太田道灌駒繋の松

この地は山吹の里といい、道灌が農家に立ち寄った際、馬を繋いだ松という伝承が残る。
道灌は、突然のにわか雨に農家で蓑を借りようと農家に立ち寄った。娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。この話を家臣にすると、それが御拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」の歌にかけて、貧しく蓑を持ち合わせていないことを奥ゆかしく答えたのだろうと教わった。

高田富士 (堀部安兵衛碑の前)

高田籐四郎は、富士山烏帽子岩で断食行の末亡くなった食行身禄の弟子で、その墓は宝泉寺にある。この富士塚は江戸最古のもので早稲田大学9号館建設の際、破壊され、今ある塚は早稲田9号館から移設されたものである。7月20日前後の山開きに公開される。講は丸藤(まるとう)宮(みや)元講(もとこう)といい、現在も活動し、無形文化財に指定されている。                            (富士講アーカイブHP)

甘泉園

江戸中期に清水家の下屋敷があった。明治30年相馬家に、昭和13年早稲田大学に、戦後都に移管された。名称の由来は湧きだす水がお茶に適すと評判になったことからついた。(ウイキペデイア)

胸突坂

神田川から目白台に上がる坂で、勾配がきついので休憩所が設けられている。(ウイキペデイア)

芭蕉庵

松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後、神田上水の改修工事を請け負った。この際、延宝5(1677)から延宝8(1680)までの4年間竜隠庵と呼ばれた水番屋に住んだ。といわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。後に芭蕉33回忌に建物が建てられた。現在は講談社、光文社、キングレコードが中心となって設立された関口芭蕉庵保存会によって維持管理されている。(ウイキペデイア)

永青文庫


熊本藩細川家伝来の美術品、16代細川護立の収集品の収蔵、展示をしている。建物は昭和初期の細川家の事務所だったものである。入館料600円。(永青文庫HP)

蕉雨園(非公開)


旧田中光顕邸で明治30(1897)建築。大正になって渡辺銀行総裁(渡辺治右衛門氏)に譲り昭和初期講談社が購入した。
田中光顕―天保14(1843)~昭和14(1939)は土佐出身で武市瑞山に師事しのち中岡慎太郎の陸援隊に加わる。維新後は明治政府の岩倉遺外使節団に加わり外遊し、晩年、宮内大臣職につき宮中に大きな影響力をもった。吉田東洋暗殺に関与したともいわれている。(ウイキペデイア・猫の司書HP)

和敬塾(非公開)


目白の男子学生寮で「ノルウエイの森」の作者村上春樹が在塾、作中のワタナベの寮のモデルといわれている。本館は旧細川邸である。月1~2回の一般公開をしている。入館料1050円。(和敬塾HP)

リーガロイヤルホテル東京


大隈庭園を借景に豊かな緑の中にたたずんでいる。1階ロビー奥に眺めることができる。常時開園はしていない。ホテルは2011年2月21日 TBSテレビ「シリーズ激動の昭和 総理の密使」のロケに使われた。(リーガロイヤルホテル東京HP)

寶泉寺・天台宗(西早稲田1)


水稲荷神社の別当で本堂は早稲田大学大隈重信像あたりにあったという。現在の寶泉寺北側に水稲荷があり、ここに江戸最古の富士塚(高田富士)があった。
和漢三才図会(江戸時代の百科事典)や吾妻鏡によると810年ころの草創と伝えられる。又承平年間(931~938)平将門の乱を平定した藤原秀郷(俗称・俵藤太)の草創とも伝えられどちらにしても千年の歴史をもつ古寺である。南北朝で荒廃したが、文亀元年(1501)上杉朝良が私財を投じ伽藍を復興するも戦乱に巻き込まれ再び荒廃する。その後牛込時国が天文19(1550)に再興した。
江戸時代本堂、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁した。江戸で最初に富くじが行われた。高田富士の富士講が盛んで早稲田大学キャンパスの大部分が寺領であった。(寶泉寺HP)

<将門伝説>


将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の開基といわれる。付近には俵藤太駒繋ぎの松があるという伝承がある。毘沙門堂には藤原秀郷の念持仏が安置されていた。(高田富士HP)


早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
昭和3(1928)


坪内逍遥博士、古希の祝いに、その半生を傾倒したシェイクスピア全集全40巻の翻訳が完成したのを記念して設立された。演劇、映像の貴重な資料を揃えている。建物はエリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計された。(早稲田大学HP)

會津八一記念博物館


會津八一(1881~1956)は東洋美術の研究者であり、書家、歌人としても有名な人である。坪内逍遥の弟子で、早稲田大学卒業後、英語教師として新潟の有恒学舎、早稲田の中高で美術史の教授として早稲田大学に勤務した。八一は「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法をみてゆくことは大切である。どれ程理論が立派に出来上がっても実物を根底にする真実性が含まれていなければ、即ちそれは空論だ、取るに足るものではない。」と述べた。この趣旨で、昭和9(1934)早稲田恩賜館にコレクションを展示する。昭和29(1954)會津博士記念東洋美術陳列室が移転、再開される。1998年現在の會津八一記念博物館として生まれ変わった。(會津八一記念館HP)



東日本の地震とリーガロイヤルホテル


この日、会津八一記念館の一階に下りた時、受付の方が地震だと叫んだ。東日本大震災である。
記念館の受付の女性は耐震工事を済ませているので、外より安全だといわれるが、
古い記念館のガラスが音をたてて揺れるので怖くて建物をでて、みんなでしゃがみ込んだ。
学生たちといっしょにうずくまっていた。
早稲田の先生のスマートフォンの地震情報をみせてもらうと、地図上の宮城に赤の点が集中し、東北全体に広がっていた。
駅までいったが、電車は止まり、マックなどお店は即休業、外に突っ立っているのも疲れるし、
会員全員で、ランチをした早稲田のリーガロイヤルホテルに入り、
夜遅くまでレストランで、様子を見た。
沢山の人がヘルメットをかぶった人、ずっと携帯で話しながら歩く人を眺めていた。
テレビで名取の様子を流していた。
そのまま帰宅難民となり、
結局宴会場を避難所に準備してくれたホテルで、一夜を過ごした。

本当にお世話になりました。ありがとうございました。リーガロイヤルホテル様!!

その日休んだ会員の一人はヨーロッパから帰国する日で、成田に飛ぶ飛行機がなくなってしまい、
ヨーロッパの国々を右往左往して、二日かかって帰国したそうだ。
# by gannyan1953 | 2011-05-06 11:18 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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