歴史と素適なおつきあい

対馬歴史探訪2日目

対馬歴史探訪2日目  歴史と素適なおつきあい   2012・2・18

対馬グランドホテル9;00出発
昼食は豆酘産直の駅でマルタイのカップラーメン
宿泊は豆酘 美女塚山荘

内院厳原町豆酘内院
神崎灘にうつろ舟が寄り付きその中に女御がいた。女御は内院邑に住み着き、日光に感じ懐妊した。
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      内院の浜

多久頭魂神社 対馬市厳原町大字豆酘字字龍良山1250  

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祭神:天照大御神・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見命ひこほほでみのみこと)・鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)―明細帳による

摂社:高御魂神社(境内社)、淀姫神社(与止日女命=豊玉姫)、五王神社(素戔嗚尊)
境内に八丁郭と同様におそろし処といわれる塔がある。祭祀場で、不入の地とされる。


多久頭魂神の父である高皇産霊尊を祀る「高御魂神社」という高い格式の延喜式内社を当社が境内社として存在すること、稲作の伝来を伝える「赤米神事」が今でも伝わっていることから、現在の祭神(朝廷関係者)とは一致しない気がする。

ここ豆酘には前述のタカミムスビがうつろ舟にのってやってきたという伝承がある。

タカミムスビは天道の親、祖である。天神多久頭魂神社のそばにある佐護の神御魂神社の神はカミムスビで、天道の母である。

ということは、多久頭魂神は天道である。

両部神道の時代では祭神は天道法師とされていた。両部神道とは仏教が伝来したころ、元々の神と仏を習合する考えで神仏習合の基礎になった。

多久頭魂神社は天道山を神体山とするので、本殿はない。

神体山を拝する拝殿も後から作られた。三輪山の大神神社と同じである。

この神社の天道山は龍良山である。

龍良山南東の麓に天道法師塔、北西麓に天道法師祠がある。

もともと弥生期に龍良山の磐境に天神地祇を祀るところで、山麓には三か所の遥拝所がある。

これが、表八丁郭と裏八丁郭と現多久頭魂神社である。

白鳳期に天道の出現で、表八丁、裏八丁と呼ばれるようになった。

卒土山(そとやま)のおとろし所といわれ、人を寄せ付けない場所であった。

中世近世には、氏神、観音、天道が習合して神仏分離令まで、豆酘観音堂で、

両部神道がさかえ、天道信仰や、天道まつりも盛大におこなわれたと対州神社誌にある。

卒土は蘇塗と似ている。

蘇塗は古代朝鮮から伝わったものと思われる。蘇塗は祭祀にかかわるもので、鳥居の原点といわれている。

鳥居は神が鳥になって降りる場所である。天道法師塔は蘇塗と似ている。

天道法師塔―表八丁郭 浅藻地区に入ると標識あり、山側に曲がってせまい道を直進。左の橋を渡らないで直進。広くなり駐車できる。
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龍良山の南山麓にあり、鳥居の奥に石積みの塔がある。天道法師の墓とされる。

天道法師は1週間読経しながら、この地で入定したといわれる。

(雪が降り続き、凛とした空気に包まれた場所で、緊張してしまい、カメラは向けなかった。)

「おとろし所」といわれ、人を近づけなかった。

木の葉、枝木一本持ち帰ることもなく、迷ってここに差し掛かったときは、背中を見せず、
履物を頭の上にあげ、犬や猫の鳴き声を真似して、後ずさりして去るようにする。

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この木の近くまで後ずさりしてきた

子供の健康を願い祈るとき、生まれたばかりの赤ちゃんを横たえて祈るそうだ。

15歳になったとき、もう一度お参りをする。また、病で苦しむ人に元気な赤ちゃんを横に寝かせて若いエネルギーをもらうこともしたそうだ。

天道法師祠―裏八丁郭
鮎もどし公園の駐車場に龍良山原始林入口の看板があり、そこから600m先に登山口がある。登山口は通り過ぎて先にいくと左手に鳥居がみえてくる。公園から歩いた方が原始林を楽しめる。登山をするなら2週間前までに入山申請が必要。


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天道法師の母の墓であるという。龍良山の北にある。

この地に祀られた天道様はおそらく昔対馬の人々に王と呼ばれた人であった。

日神、祖霊神で、今でも赤米神事が残り、朝廷に神田を与えられた穀物神である。

海から目印になる天道山(龍良山)、そして天道法師の伝説にある海からやってきた母はわだつみの神といえる。先に述べた娘媽神女と融合する考えもある。(天道山参照)

多久頭魂神社の観音堂では赤米神事など古くから伝わる神事・祭礼を行ってきたが、明治の神仏分離令で、天道菩薩を多久頭魂の古名に戻し、観音堂を社殿としたと、「日本の神々1」にある。観音は十一面観音(天照大御神)となったようである。

この動きは明治の神仏分離によって全国の神社で祭神を変更することが多く行われた結果である。

赤米は豆酘の産直の駅で購入できる  対馬市厳原町豆酘2708
美女塚山荘がお昼が休みだったので「産直の駅」でカップラーメンを食べさせてもらった。
対馬に来て以来初めてのコンビニ感覚である。
近所の農林水産大臣賞10回連続受賞の永尾賢一氏による冬菇しいたけも購入。
http://www.tsushima-net.org/gourmet/goodsshop.php


ツツという地名考

①ツツは星か!?②ツツノオか!?③米を筒に入れて伝えたからか!?

①ここの石灯籠には星がある。ツツは星の古語で枕草子に、ゆうづつとあるのは、夕方の星、宵の明星ということである。

「星はすばる ひこぼし ゆうづつ よばひ星 すこしおかし 尾だになからましかば まいて」

すばるはプレアデス星団、六連星(むつらぼし)、ひこぼしはわし座、ゆうづつは金星、よばひ星は彗星、流れ星のことだそうだ。

沢史生氏によると、太白星のことであるという。

豆酘はつつと読み、星の意味ではないかというのである。

もともと、古代から星信仰はあったと思うが、道教や陰陽道で、いろいろな神や仏様にかわっていく。太白星は金星のことで、陰陽道ではスサノオノミコトといわれている。

共通するのは、王権守護、一族繁栄のための信仰で、アマテラスオオミカミが北極星、スサノオノミコトが金星といわれ、のちに日蓮宗では妙見信仰となり、それが庶民に広がると虚空蔵菩薩になる。(鬼の日本史:沢史生)

② 住吉神社のツツノオである。豆酘の男ではないかという説である。

豆酘に住吉はないが、都都智神社があった。雷神社の元の名である。

ツツは筒、チは蛇でツツチは雷神だという。空に光る稲妻を蛇にみたてる。

壱岐の筒城に海神社があり、雷神だという。筑前糸島市(旧前原市)が伊都の国といわれるが、背振山の麓

に昔大きな池があり竜神(雷神)がいたという。

それと地図上で伊都と、壱岐の筒城、豆酘は一直線に並ぶという。住吉三神の底筒男、中筒男、表筒男を宗像三神の女神同様に配祀したものではなかったかという。

宗像三神は玄海の辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の奥津宮に配されている。

和多津美わだつみが対馬発祥で、住吉のツツノオも対馬発祥なのだろうか。(参考:海童と天童:永留久恵)


③ 美女塚山荘のオーナーから聞いた話
   米(籾)を筒に入れて、この豆酘から稲作を伝えたのではないか。赤米神事が伝えられ稲作発祥の地であるかもしれない。

雷神社 豆酘西井坂2852

御祭神: 雷大臣命

由緒: 雷大臣命は神功皇后新羅を征し給ふ時、御軍に従ひ勲功あり、凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝ふ。由りてその古跡に祠を建て亀卜の神として祭り、毎年旧正月三日に卜部氏天下国家の吉凶を卜する処の社なり。  

「嶽之神」その名は「豆豆智神社」だったという。龍良山は雷雲が湧き立つ山で、、前述のツツは筒、チは蛇を表すことからツツチが蛇の神、雷様になる。

川に沿った境内で、もともと社殿はなく磐座であった。ナギナタと呼ばれる祭事につかう棒のようなものが並んでいる。ここでは明治まで、亀卜が行われていた。

宿は豆酘の美女塚山荘。無茶苦茶親切で、きれいな宿だ。


参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研
   街道をゆく:司馬遼太郎 天道法師の縁起:多久頭魂神社宮司 本石正久 
# by gannyan1953 | 2012-02-22 21:34 | 対馬の歴史 | Comments(0)

対馬歴史探訪1日目

対馬歴史探訪1日目     歴史と素適なおつきあい番外編    2012・2・17


羽田7:20発福岡乗り換えで対馬やまねこ空港10:50着 レンタカーで出発
昼食はあがたの里で対州そば
対馬グランドホテル宿泊 口コミの評価は低かったが、部屋、料理とも価格のわりに、とてもよかった。
部屋は海のみえる過ごしやすい部屋である。温泉もある。  
対馬唯一のリゾートホテルではないかと思う。

阿麻留神社 (あまてるじんじゃ)対馬市美津島町小船越字河岸川三五二
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祭神:天日神命(ひにみたま)

阿麻氐留神社の場所は、日神命ひかみのみこと(天照魂命)が住まわれた土地であると云う。

日神命(ヒノカミ・天照魂命)はタカミムスビの末裔で、皇孫降臨の時に、お供をした神である。

由緒:天日神は対馬県主等の祖であるという。

壱岐の月神に続き、阿閇臣事代(あへのおみことしろ)が対馬に立ち寄った時に、今度は日神が人に憑依し「我が祖高皇産霊(タカミムスビノミコト)に大和の磐余に神田を十四町、献上しろ」と、託宣した。

天孫族が神田を献上しているのである。

ムスビノ神

阿麻氐留は天照(あまてる)であり、それは本来この地方の神名で、天照神、で照日神(テルヒノカミ)ともいう。日神は神代三代の神で、タカミムスビといい、「日本書紀」に、巻十五の「顕宗紀(けんぞうき)」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する。

アマテラスの子アメノオシホミミはタカミムスビの娘と結婚しニニギが生まれている。ということは、ニニギの祖父である。

豆酘の伝承に「タカミムスビはうつろ舟に乗ってやってきた」まさしく客人神(マロウドカミ)である。

ムスビノ神は八百万の神で天地の諸霊に君臨する日本神話の最高神である。
対馬は皇室と同じ神(天照魂アマテルタマと高皇産霊タカミムスビ)を昔から祀っていたのである。

アマテルは天照大神のことなのかもしれないが、永留久恵著「海童と天童」にはアマテルとアマテラスの関係を述べている。

「天照大神は別名大日孁貴(おおひるめのむち)という。貴(むち)は敬称で、日孁(ひるめ)は日の神の妻の意味である。

その後裔が日子と称したのは祖が大日孁だったからである。

天照大神という皇祖神は大日孁をモデルとして哲学的に作られた女神である。

新嘗(にいなめ)の田を営み、忌服屋(いみはたや)で、神の衣を織る女の姿は神女のことである。

その神女は神妻となり、日子の母となった。

伊勢の大日孁は天武天皇の時代、やんごとなき身分となり天照大神となった。」

梅林寺

6世紀のころ、五経博士(513年)が来日したが、朝鮮からやってきて、この小船越に上陸したそうだ。百済の使者は持ってきた仏像や、経典を一時安置する場所として梅林寺を建立したそうである。

その隣が阿麻氐留神社である。 

琴崎・胡神社(きんざき・ころくじんじゃ) 対馬市上対馬町琴1


祭神: 表津少童命(うわつわだつみのみこと)中津少童命(なかつわだつみのみこと) 底津少童命(そこつわだつみのみこと) 太田命 宇都志日金折命(うつしひかなさくのみこと) 豊玉彦命

安曇氏の祖先にあたる神々である。


「胡簶」と書いて「ころく」と読むが、「やなぐい」とも「しこ」とも読むらしい。

「やなぐい」は、「しこ」ともいい、矢を入れる道具で、腰に矢じりを収めた。

今は存在しない神だが、扁額にある山元しこ島大明神は、山元神社としこ神社の合体したものなのか。

箸墓伝説にある丹塗りの矢は三輪山のご神体蛇である。矢は蛇をさす。

神功皇后の新羅征伐の時、当社沖に停泊していたが、碇が海底に沈んだので、安曇磯良が潜って引き上げたという。

山辺(やんべ)遺跡 峰町三根1136
  
弥生時代の集落。製鉄址あり。362号線峰照寺近くに標識あり。対馬最古の製鉄遺跡である。 

峰町歴史民俗資料館に立ち寄ったが、山辺遺跡から発掘されたものはなかった。
遺跡跡も探したが現在畑の下に埋もれており、詳しい標識もなかったので、場所が特定できずこのあたりというもので、終わった。

天神多久頭魂神社(てんじんたくずだまじんじゃ)対馬市上県町佐護洲崎西里286
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祭神:多久頭魂命(タクツタマノミコト) 天神地祇(テンジンチギ)

天神多久頭魂とは、いわゆる天道と見なされており、対岸の天道山(千俵蒔山)の頂上に鎮まっているという。

境内は天道山の遥拝所にあたる。祭壇が磐座(イワクラ)である。

対馬の南端、豆酘の龍良山には多久頭魂神社があるが、北と南で対をなしている。

大嘗祭では、悠紀(ユキ)殿と主基(スキ)殿が設営され、京都以東以南の悠紀地方と、以西以北の主基地方の両地方の斎田でとれた新穀を献上する。

それで、対馬の南北にある多久頭魂神社を、当社(北)を「主基(すき)宮」といい、豆酘の多久頭魂神社(南)は「悠紀(ゆき)宮」とする。

悠紀と主基が何を意味するのかわからないが、一説に、軍事を表す靭ゆき(矢を入れる道具で背負った)と、農事を表す鋤すき(鍬より古い土壌を耕す農具)であるという。


対馬野生生物保護センター 上県町棹崎公園
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ーパンフレットのメッセージー
対馬には 今 日本から失われつつある自然と共に生きる文化と本当の豊かさがあります

このすばらしい対馬を 子供たちや孫の代にまで残していけるように 対馬に住むひとりひとりがこの島のことを気にかけてください ヤマネコの棲む島 対馬を


海神神社(かいじんじんじゃ) 長崎県対馬市峯町木坂247 
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鳥居の文字がおもしろい


祭神 豐玉姫命(とよたまひめのみこと) 
 
配祀 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 宗像神(むなかたしん) 道主貴神 (みちぬしむちのかみ・宗像三神のこと)鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)

b0228416_2110767.jpg周辺の木坂山(伊豆山)は千古、斧が入らないという。

天然記念物の原生林で「野鳥の森」となっている。

伊豆山の伊豆とは「稜威」「厳」であり、不浄を許さない聖地を意味する。

 海神神社の伝説では、神功皇后が伊豆山に強い神霊を感じ、そこに鰭神(ひれがみ)を祭らせたとある。

 鰭とは羽衣説話もアジアに広く分布し、似た話が多くある。
  
羽衣とは儀礼用の頒布(ひれ)のことで、招魂、鎮魂など物忌みし、神を招く呪術儀礼に用いられた。
  
日本では絹の長い白布である。隼人は朱色を用いる。


近くの弥生時代のヨケジ遺跡から出土した銅矛の一部と海神神社の銅矛の欠損部分が一致したそうで、遺跡と関係があったと思われる。

この階段!ツシマヤマネコが横切ったかも!?
何か動物が横切った!

中世に八幡神を祀り、祭神は応神天皇と神功皇后となり、明治4年に海神神社に戻った。

継体天皇のころ八幡宮と称し、八幡様の発祥の地といわれている。

和多津美神社と同じ名称のため明治6年に海神神社となった。

仁徳天皇のころ異国の船が来襲し、この木坂の峰から雲が生じ烈風が起こって退けたという。

摂社・行先殿、摂社・濱殿御子神、摂社・乳母神を祀る祠。

木坂は両墓性が明治まで続いた。死者は村の南の保利の山に埋葬され、拝む墓はふもとの寺に作られる。

また、分娩は家でなく産屋で行われた。トヨタマヒメの出産を連想させる話である。

ヤクマ祭りは今も続き、石の塔を積んで伊豆山南西の天道山を礼拝する。

天道山とは美津島の天道山か、豆酘の龍良山のどちらなのか、わからない。

延喜式によると、卜部(うらべ)と呼ばれる主に亀卜(きぼく・亀甲を用いて吉凶を占う法)による国占いをする人々を都に召し出された。対馬から10人、壱岐・伊豆半島から5人ずつ任命された。対馬が古代の祀りごとに貢献できたのは、いち早く大陸から占いが伝わったからである。

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            波が打ち寄せる浜辺にあるヤクマ

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              海をみつめる還暦を迎えた我が夫

和多都美神社(わだつみじんじゃ)対馬市豊玉町仁位字和宮55 
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祭神: 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

山幸彦(御祭神・彦火火出見尊)が辿り着いた「海宮」との伝承が残される地。

神代の昔、海神である「豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)」が当地に宮殿(海宮・わたづみのみや)を造った。

豊玉彦尊の御子には一男二女があり、一男を「穂高見命」、二女は「豊玉姫命」「玉依姫命」という。

ある時「彦火火出見命(山幸彦)」が、なくした釣針を探しにこの地を訪れ、この海宮に三年滞在し、豊玉姫を娶り結婚をした、との伝承が残される。

日本神話で語られる「山幸・海幸伝説」の場所といわれる。


b0228416_21162458.jpg磯良恵比寿の磐座
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      豊玉姫命の墓(磐座)


磯良恵比寿

神功皇后の道先案内人である。

潜水海人の神、精霊。磯良は、海底の磐座(竜宮)に住むエビスで、顔に牡蠣などの貝やフジツボなどがびっしりと付き醜い容貌を持つと伝えられる。

対馬の和多都美(ワダツミ)には磯良恵比寿という鱗のような亀裂の入った磐座(いわくら)がある。磯良は、また、中世の『八幡愚童訓』、『八幡宮御縁起』では阿曇氏の祖神とされている。

朝廷、平家は絶大な住吉信仰を形成していったが、源氏の時代には神仏習合により八幡信仰が進展した。その根拠地は豊前の宇佐神宮である。
 
豊玉毘売命の子で、鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある。

また、春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている(八幡宮御縁起)。

また、神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。

そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。

磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を借り受けて皇后に献上し、皇后は三韓出兵に成功することができたという。

志賀海神社の社伝に、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある(太平記)。

阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある。

宮中に伝わる磯良前(イソラガサキ)という神楽歌で、阿知女作法と呼ばれる神の呼びかけで、(袖で顔を隠した巫女が「アジメアジメ」というと磯良の返事で「オオオオ」という。磯良は亀に乗って現れるが同じように袖で顔を隠す。

海底にいて「石花ハセ」が顔に付いた姿を恥じ、なかなか姿をあらわさないが、舞を踊ると現れたという伝承に準じている。




参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研 
   街道をゆく:司馬遼太郎 
# by gannyan1953 | 2012-02-22 20:37 | 対馬の歴史 | Comments(0)

対馬の神様

歴史と素適なおつきあい番外編 
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和多津美神社


 

対馬の神様には天神(あまつかみ)と海神(わだつみ)がある。

天も海もアマと読む。水平線が天とも海とも境目がなく茫洋としたとき、海の民は神々の国、また黄泉の国と思い、漂着したものを神と考えた。折口信夫が称した客人(まれびと)信仰である。

客人は経済的、優性学で考えても島の人にとって有難いことで、神がやってきたと考えた。

沖縄のニライカナもそのひとつで、後に山岳からやってくるものは、降臨という考えになった。

海神がさきで、天神はあとだという。

海神は、目の前の海を体験しているので、縄文からあったと思われるが、天神は大陸から伝わってきた天帝という哲学思考なので、弥生に伝わったものと考える。

ということは、天神も海神も同一のもので、対馬の天神は北の天神多久頭魂神社(てんじんたくずたまじんや)、南の多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)で対をなし、海神は東の和多都美神社、西の海神神社などがある。


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豆酘崎の朝日


対馬の天道


天道とは太陽信仰のことで、対馬にはアマテルで日神、壱岐にはツクヨミで月神がいるといわれる。

太陽を祀ることは世界中にあり、原始宗教共通のものである。

天道地とは、不入の聖地のことで、自然が守られ今では原生林になっている。

そして母神と童神二神を祀る母子神信仰は、三韓征伐で九州に縁のある神功皇后=息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と応神天皇=誉田別尊(ほむたわけのみこと)の母子の祭神につながり、九州にキリシタンが多いのは母子信仰に抵抗がなく、聖母マリアとイエスを受け入れやすかったとも考えられる。

天童と天道


天童は神話の時代、天道は仏教が入ってきてからの呼び名である。

少童命をわだつみのみことと読む。
なぜ、童、子供を表すのか。大昔、海の神は童形(どうぎょう)で表す原始信仰があった。

子供は生まれて死ぬまでの一生を輪にすれば、最も死に近い位置にあることから、神聖なもの、霊に近い者とみると何かの本で読んだことがある。

この考えが一寸法師、かぐや姫など、小さい子供の霊的な話が作られたという。

天道法師の伝説

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天道法師塔の前にある大きな木



高句麗王朝の始祖・朱蒙(ちゅもん)の生誕伝説のように、神気に感精して懐妊するという北方系の「日光感精型神話」が、対馬に天道法師の神話を伝えさせたと思われる。

天道法師とは、豆酘(つつ)郡内院村に照日某(てるひなにがし)という者がいて、その娘が生まれた。

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内院の浜

天武天皇の時代、娘は日の光に感じ懐妊した。その子が天道法師である。

他に、宮中の女院が懐妊し、密通の疑いでうつろ舟にのせられ、漂着したのが豆酘内院の浜であった。

そして生まれた子が天道法師だという話もある。

いずれもその子は聡明な子に育ち、9歳で都に出て、巫祝(ぶしゅくー神の言葉を伝えること)の術を得た。

そして帰郷して718霊亀2年、元正天皇が病に倒れた時、陰陽師の占いで「天道法師を呼んで、祈らせよ」と託宣がでた。この時33歳の天道法師は空中を飛んで、都に向かい見事天皇の病気は癒えたという。

*修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)が空中飛行をしたという伝説があるが、小角は701年64歳で亡くなっている。

694年に天道法師は都に出ていることになるが、関係があったのだろうか。

空中飛行の話は実際のところ、弟子たちがあちこちに布教したため、役小角が超人的にあちこち移動したことになり、空中飛行伝説が生まれたといわれている。

病気平癒の褒美に対馬の税を免除し、天道法師の神域(龍良山)に罪人が逃げ込んだ場合、追捕しない約束をしたという。

これについて、対馬と朝廷が関係していることは、白村江の敗戦以来新羅外交に朝廷が苦心していたこと、天武、持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことがある。

天武、持統朝の交易は遣新羅使のことで、この往来で天然痘が国内に流入したとも、日本から遣新羅使により、流入したともいわれているが、天然痘発生は後に奈良の大仏建立のきっかけのひとつといわれる。


天武時代に天道法師はいたのか!?


ところが、天道法師の出現は実はもっと以前で、仏教が伝えられる前から天道信仰はあったのではないか。
山を神体とする自然信仰で、全国の神社の原点である。

今ある神社の前に祖霊神と祀られていたのだ。対馬の祖霊=わだつみ=天道神=日の神だと思われる。

結局昔からあった対馬の祖と仏教を結びつけて対馬を朝廷寄りに抱き込むことが目的だったのではないか。

674年対馬は朝廷に全国はじめての国内産銀を献上している。


天道山


神の山で、航海の目印にもなる山であった。

鹿児島県野間岬の野間岳、長崎県野母崎の権現山、海の女神を祀る。

娘媽神女であるニャンマとかニャンニャン、ロウマともいう。

媽祖(まそ)は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。

「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」などいろいろな呼び方がある。ロウマが訛って野間になったといわれる。

 つまり海の民の象徴である。東シナ海など行き来する海洋民族で海の民(蜑民タンミン)を治めていた海洋民族は、地元に派手な媽閣廟(マーコウミウとマカオでは読み、マカオの語源)を構え、船の舳先に娘媽神を飾って船出していく。横浜中華街にも媽祖(まーそ)は祀られている。

日本神話の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日本に上陸したとき、本当に天から降りるわけがないのだから、海からやってきた海の民ではなかったかと思う。

闇の日本史:沢史生氏は、妻の阿多都比売(あたつひめ)=木花開耶姫 (このはなさくやひめ)は大山祇命(おおやまつみのみこと)が父で、その父は地の神、海の神といわれる。

海の民だった瓊瓊杵尊が日本に上陸し、娘媽が海の神の娘、木花開耶姫に変化していったのではないかという。




参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研  
   街道をゆく:司馬遼太郎 
# by gannyan1953 | 2012-02-13 22:49 | 神様の話 | Comments(0)

鎌倉駅西口~極楽寺駅

歴史と素適なおつきあい          平成15・6・13

鎌倉                
JR鎌倉駅西口~御成小学校前~六地蔵~甘縄神社~(高徳院 露座の大仏)~(御霊神社)~長谷寺~極楽寺坂切通し~極楽寺~江ノ電極楽寺駅

御成小学校


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昭和8(1933)年創立の小学校で武家屋敷から御用邸になり、明治天皇皇女の避寒地であった。関東大震災で壊れ、跡地は払い下げられ、小学校が建てられた。宮大工が造った校舎だったが老朽化したため、現在木造を中心とした一部鉄骨造りの校舎が3棟並ぶ。日本と西洋の様式をとりまぜた造りで旧校舎のおもかげを伝える。昭和12(1937)年ヘレンケラーが講演した講堂があり、開校当時の建物で今も残る。二つの塔屋をもつ入母屋造りで、内部は寺院によくある格天井がある。宮大工が腕を競って造られた。門も御成門といわれ貫禄を漂わせ、門札は高浜虚子の文字である。


佐助稲荷神社

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佐助稲荷入口 ちょっと一人で入るのは雰囲気がありすぎて怖い
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拝殿右横にあり、今でも水が湧き出る霊狐泉
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奥にある拝殿

銭洗い弁天の近くで鎌倉隠れ里といわれる。
頼朝の挙兵を勧めたことで、佐殿を助けるから佐助となった。

訪れる人は少なく緑に囲まれた落ち着いた気のある場所である。
鎌倉ではとてもやさしいパワースポットといえる。


六地蔵

由比ガ浜の大通りと今大路の交差する所に赤いよだれかけをした六地蔵がある。鎌倉時代裁許橋のあたりに刑場があった。処刑された罪人を供養したのがはじまりである。人間のもつ六つの苦しみから救ってくれる。背後に芭蕉の「夏草や つわものどもが夢の跡」の句碑があることから芭蕉の辻とも呼ばれる。
*仏教では、いっさいの衆生は生前の業によってつねに生死を繰り返す輪廻思想がある。まわる世界は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六つで、これを六道という。地獄、餓鬼、畜生は3悪道という。11世紀以降、死者が六道に迷うことのないように辻や墓地の入り口に六道のそれぞれで人を守り、案内する六道地蔵が置かれた。そうした辻を六道の辻という。


甘縄神社
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鎌倉最古の社である。710年、染屋太郎太夫時忠の創建といわれる。
時忠は藤原鎌足の玄孫で、東大寺良弁僧正の父である。
東8カ国の総追捕使となり東夷を鎮めた。永く鎌倉に居住し、「由比の長者」といわれた。祭神は天照大神で、源氏の義家誕生の地といわれる。義家は1081年社殿を再建、以降義家が氏神になった。
その後、北条時頼の母松下禅尼の実家である安達泰盛邸が建てられ、その跡である。安達は霜月騒動で平頼綱に攻められ激しい戦闘が行われ、一族は滅亡した。時宗の誕生地で、産湯の井戸がある。
裏山は御興ヶ嶽(見越ヶ岳)といい、
都には はや吹きぬらし かまくらの見越ヶ崎 秋の初風
と詠われている。

源義家(1039~1106)


八幡太郎義家と称し、前9年後3年の役で活躍した。永保3(1083)年陸奥守兼鎮守府将軍となる。父頼義が由比に建てた由比若宮(元八幡)を修復した。

北条時頼  (1227~1263) 


鎌倉幕府五代執権。宝治合戦で三浦泰村一族を排除。執権職を北条長時に譲るが、権力を保持し、政治を操った。36歳で若くして死去。有能な政治家として知られ、得宗専制の道を開くが、御家人の意思をくみあげ負担の軽減もはかった。質実剛健な鎌倉武士として説話にのこる。時頼回国伝説は吾妻鏡にはみあたらず、疑わしい。が、政道の乱れは上下の遠きことにあると、考えた。謡曲「鉢の木」にある時頼の諸国巡業は下の者、庶民の実情を知るためとある。墓は明月院。時宗の父。

安達泰盛  (1231~1285) 

鎌倉幕府有力御家人。五代将軍藤原頼嗣の側近となって力をつけ、訴訟審理にあたる引付衆、評定衆として活躍。娘が執権時宗の妻となり九代執権貞時を生み北条氏との血縁が深くなる。しかし北条嫡流の得宗に仕える御家人平頼綱と対立、急襲(霜月騒動)され、一族滅亡する。

平頼綱   (?~1293) 

八代執権北条時宗に用いられ、九代執権北条貞時の時代、内官僚(御家人筆頭)として専制的な政治を行った。時宗死後、政敵安達泰盛を滅ぼし、安達関係者500名あまりを粛清したといわれる。若い貞時の陰で政治を操った。しかし正応6(1293)年貞時に急襲(平弾門の変)され、討ち死にした。

北条時宗  (1251~1284) 

五代執権時頼の嫡男。9歳で小侍所別当、13歳で連署、18歳で執権。しかし、文永11(1274)年と弘安4(1281)年元寇があった。御家人以外の出陣要請をした。元の国使の処刑、派兵も計画、防塁を築いたりしたが神風台風の恩恵もあり難局を乗り切った。その間腹違いの兄時輔らを討ったり、幕府に批判的な日蓮を処刑しようとした専制的な面もあったが、禅宗に深く帰依し、文永、弘安の役の戦死者敵味方の霊を慰めるため円覚寺を創建した。墓は円覚寺。


高徳院 

  
宗派:浄土宗                山号:大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)    
創建:暦仁元(1238)年         本尊:阿弥陀如来(国宝指定)

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大仏様の内部 20円で胎内にはいれる

開山、開基は不明。源頼朝の侍女・稲多野局(いなだのつぼね)が思い立ち、僧浄光が資金集めをして作ったといわれている。
奈良の大仏は勅命によって作られたが、鎌倉大仏は民衆の浄財によって完成にいたったといわれている。

暦仁元年に着工し、6年後に木造の大仏が完成。
しかし、大風で倒壊、建長4(1252)に現在の青銅像が鋳造され大仏殿に安置された。
大仏殿はその後、2度の大風で倒れその都度復興されたものの、明応7(1498)年、津波で流されてからは露座の大仏として今に至る。

鋳造した人物として大野五郎右エ門、丹次久友の名が伝えられる。総高約13m、総重量121tの大仏は宋の影響をうけ当時の工法としては最高の水準で造られている。

境内観月院に与謝野晶子の歌碑がある。

「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」


御霊神社  

大庭御厨(おおばみくりや)の開発領主であった鎌倉五郎景政が氏神である。

吾妻鏡にもよく出てきており当初は関東平氏の五家である大庭、梶原、長尾、村田、鎌倉の祖先を祀る五霊
だったが、のちに景政一人になり御霊、ごんごろう様とよばれるようになった。

本殿は大正年間に建てられ屋根は銅葺きである。
境内には国木田独歩が居住していたこともある。
面掛け行列は県無形民族文化財に指定されている。
祭礼は毎年9月18日に行われる。
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面掛け行列は当ブログ「鎌倉の歴史」をご覧下さい。


長谷寺


宗派:浄土宗(単立)               山号:海光山慈照院長谷寺
創建:天平8(736)年              開山:徳道上人
開基:藤原房前(ふささき)           本尊:十一面観世音菩薩

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散策路 良縁を願うお地蔵様
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散策路からの鎌倉、由比ヶ浜

日本最大級(9,18m)の十一面観世音菩薩像で知られる。伝承では本尊は奈良の長谷寺の尊像と同じ、一本の楠の霊木より彫られたという縁起をもつ。長い石段を登ると境内には観音堂、阿弥陀堂、大黒堂、経蔵といった堂宇が建つ。また坂東三十三観音霊場第四番札所に数えられ、往古より庶民の信仰を集めてきた。見晴台からは海や三浦半島まで一望できる。春はボタン、モクレン、サクラ、フジ、夏はアジサイ、ハナショウブ、サルスベリ、フヨウと草花が美しい。境内に鎌倉文士久米正雄の胸像がある。長谷の別荘で震災にあい、長谷寺の高台に避難した様子が「鎌倉震災日記」に記されている。また俳人高浜虚子の句碑、評論家高山樗牛の住居跡がある。

極楽寺坂

御霊神社をすぎ星の井を右手にみながら上がる坂である。かつては成就院の山門の高さまで上がる坂であったが現在はより低く切り開かれている。坂の頂上付近に上杉憲方の墓がある。七層の塔で宝筺印塔の基本形の層塔である。
元弘(1333)年、新田軍大将大館次郎宗氏10万の兵と、北条軍大将大仏貞道甲斐、信濃、駿河の5万の兵が激突した。新田軍の大館宗氏は討ち死にした。新田義貞が2万の兵を率いて深沢、津村を経て腰越に迂回し、援軍にかけつけたが、北条軍は強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もなかった。いくどとなく両軍の攻防は繰り返され多数の死者をだした。義貞は極楽寺坂の突破を諦め、稲村ガ崎からの攻略に切り替えた。

成就院

宗派:真言宗大覚寺派              山号:普(ふ)明山法(みょうざんほう)立寺(りゅうじ)成就院(じょうじゅいん)
創建:承久元(1219)年             開山:弘法大師
開基:北条泰時(伝)                本尊:不動明王

極楽坂切通しの旧道沿いにあり、アジサイが美しい。本尊の不動明王は縁結びのご利益がある。弘法大師が諸国巡業の折、100日間にわたり虚空菩薩をまつる修法を行ったと伝えられる。そのとき香の煙、鈴の音の響きに付近の人は感激し涙した。以来作物はよくみのり暮らしが楽になったといわれる。その後承久元年、鎌倉幕府3代執権北条泰時が都から高僧を招いて寺を創建したという。新田義貞により幕府が滅んだとき戦火で焼け落ちたが江戸時代に再建。法隆寺の夢殿を思わせる八角堂がある。門前からは鎌倉の街並み、由比ガ浜がみわたせる。恋愛成就のご祈祷があるらしい。ヨン様来訪の写真もあった。

極楽寺

宗派:真言律宗                 山号:霊(れい)鷲山(しゅうざん)感応院(かんのういん)極楽寺(ごくらくじ)
創建:正元元(1259)年            開山:忍性菩薩
開基:北条重時                 本尊:釈迦如来

正嘉年間(1257~59)一人の老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置し極楽寺ろ称した。老僧死後、義時の三男重時が再建したと伝えられる。6代執権になった重時の子、長時と業時兄弟が、当時多宝寺に入山していた忍性(にんしょう)を招き
開山した。忍性はここで施薬院、非田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済する福祉事業にとりくんだ。人間だけでなく病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てた。人々から医王如来と崇められた。橋をかけるなど土木事業にも力をそそいだ。完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭をもつ大寺院だったが自然災害、火事に見舞われ、現在は本堂のみ残る。境内に製薬鉢、千服茶臼がある。

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極楽橋


参考    鎌倉の寺小事典 かまくら春秋社・鎌倉ぶらぶら・Area2.よくわかる鎌倉
ekamakura.cool.ne.jp   http://kuniomi.gr.jp/html 

                                       
和田塚


高塚式古墳。明治中期まで、「無常堂塚」と呼ばれていた。和田合戦の死者を弔うために建てられた塚であろうといわれている。20基の五輪塔が並ぶ。



和田氏


三浦氏の系統。建保元(1213)年信濃の泉親衡が、源頼家の遺児千寿を擁して北条打倒を企てた。未遂のまま発覚しその中に和田義盛の子義直と甥の胤長が加わっていたことが判明。義盛は二人の赦免を願い出たが、胤長は許されず、陸奥に配流された。北条義時が専制政治を行うには三浦氏、和田氏の抹殺が必要であった。1213年5月2日和田義盛は北条打倒の準備をした。当初、三浦吉村も協力することになっていたが、土壇場で裏切られる。三浦氏は謀反を北条に訴えた。和田一族は軍兵150騎で攻撃し、幕府の建物は全焼、源実朝、北条義時は法華堂へ逃れた。翌日幕府軍の数が増えたため、和田氏は劣勢となり、67歳だった義盛は討ち死にした。
その後三浦氏も権威失墜した。明治25年、新道路建設のため掘り起こしたところ、たくさんの人骨埴輪片が出土した。人骨は和田合戦のものだろうと碑が建てられた。和田氏の中で越後に名を残すものがあった。重茂の子次郎実茂で、幕府方についたため鎌倉に残ったが、1247年「三浦の乱」で、越後に移り、越後三浦和田と称し、黒川、中条、関沢と続いた。

朝比奈三郎伝説

この合戦で和田義盛の三男で、安房の国で生まれた朝比奈三郎がいる。母は、木曽義仲の妾で、義仲死後和田の世話になっていた巴御前である。執権北条泰時は自ら陣頭に立つほど朝比奈の切通し開削に熱心であった。和田氏は北条支配の前に六浦を支配しており、朝比奈の切通し開削に参加、湧き水の多い難工事のためか朝比奈三郎が一夜にきりひらいたとの伝説を残す。
朝比奈三郎は和田氏滅亡の時五百騎の兵と6隻の船で安房に逃れ行方不明になった。
そのため、伝説を残すこととなる。宮城の七ツ森や木曽には墓が、海で遊んだ折潜ってサメをかかえて浮き上がるなどがある。

別説 御霊神社 権五郎神社 

権五郎景政は鎌倉党であった。景政は大庭御厨の開発領主で在地領主であった。もともとこのあたりは佐助稲荷、銭洗い弁天など金属ゆかりの場所があり、産鉄民がいたと思われる。田畑に使われる金属器、鎌倉党の武器製作に携わっていた。天養年(1141あたり)源義朝が御厨を襲う。
「天養記」はその惨状を伝える。この侵略で鎌倉党の怨恨をかい、御霊本来の意味の神社となったのかもしれない。銭洗弁天には頼朝が湧き水を汲んだ伝承があるが、佐助稲荷にも伝承が残る。銭洗いを「かねあらい」といいかえると真砂(まさご)とよばれる砂鉄をこの水で洗いタタラで吹き上げる。炉からだした灼熱のコロ(鉄塊)を冷やし、ケラ割り(鋼を採取する)するための金池だったと思われる。佐助稲荷は頼朝が蛭ヶ小島にいたころ、この地の宇賀福神が夢枕に立ち挙兵をすすめ神霊の加護を約束したといわれ、のち梶原景時に命じ社殿建立したと伝えられる。頼朝がこの土地の娘を身ごもらせた話は、長吏頭弾左衛門とかかわりがあるという。最後の弾左衛門は浅草にいたがその前は鎌倉の景政の配下であった。弾左衛門頼兼の祖は秦武虎で、鎌倉権五郎の片腕となり産鉄、漁業にたずさわり、弾左衛門を世襲名とした。頼朝と契った菜摘御前の父矢野弾左衛門は秦武虎から3代目くらいと思われる。菜摘御前の父が頼兼とも、子が頼兼ともいわれるが定かではない。頼という字は鎌倉党を頼ったということからか、頼朝から頼の字を賜ったかわからないが、その後弾左衛門一党には頼の字のつく名が多い。 
            
参考文献: 鎌倉ぶらぶら 氏名辞典 徳川将軍家の謎宝島社  闇の日本史沢史生 
# by gannyan1953 | 2011-12-30 09:31 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

逗子大師と六代の墓

歴史と素適なおつきあい 番外編 2011.11.13

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                     秋谷海岸の夕日


逗子大師延命寺逗子3-1-17

天平時代に行基によって作られた延命地蔵尊を安置したことによる創建である。

そして弘法大師が立ち寄り延命地蔵尊の逗子を設立され地名の逗子の由来となる。

道香主従の墓

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三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の東相模の武将、小大名。通常、出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。その子道香主従の墓である。
道寸は北条早雲と敵対し滅ぼされて平安時代から続いた三浦氏最後の当主である。
早雲は永正9年(1512)古河公方家と山内上杉家の内紛に乗じて扇谷上杉家方の道寸の岡崎城(平塚)を落城させた。三浦道寸、道香父子は住吉城(逗子小坪)に籠るがここも落城、新井城(油壷)三崎城に立てこもった。早雲は玉縄城を築き糧を断つ攻めを行った。そして永正13年(1516)新井城も落城した。
道香主従はこの寺で自害した。


六代御前最後之故址

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             六代の墓

六代は「平高清」といい、平維盛の子である。父維盛は義仲の攻勢で都落ちしたときに、都を離れるのは可哀想だと思い、妻子を都に残した。
六代は、母とともに大覚寺の北に潜伏していたが、平家が滅亡してから、北条時政の捜索で捕えられてしまった。
文覚上人の計らいで頼朝に助命された。頼朝は自分の境遇と似た立場であると同情したかもしれない。

六代は文覚庇護のもと、僧になり、母は頼朝の信頼する公家に再嫁した。
ところが、頼朝が亡くなり、文覚が土御門通親襲撃計画を企てたとして隠岐国に流罪に処される。(三左衛門事件)この事件の連座で、六代は捕えられ、田越川のほとりで処刑された。  享年26歳という。

六代が僧になったとき、六代は「僧になって翻意はない」と頼朝に挨拶にでかけている。
頼朝は、整った顔立ちとその聡明さに気づき、危険視したともいわれている。

その後、碑には「付近の住民が、夜毎に平家公達の処刑の夢を見て、きっとこれは、六代及平家の供養を絶った祟りではないかと、おののき、逗子佛教会の協力を得て、当刑場の露と消えた平家一門の大法要を行なった」とある。

六代の死で、清盛の嫡流は途絶えた。
# by gannyan1953 | 2011-11-15 09:11 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)



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