歴史と素適なおつきあい

横浜市都筑区八幡山・港北ニュータウン

都筑区八幡山の変遷           2009年12月5日   

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八幡山に集う犬たち

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                 八幡山夕景 2011・10

字中村、現在の中川7-13にあり、面積約3万㎡ 標高36mの山である。
ここに遺跡があり、1977年7月から12月にかけて港北ニュータウン建設のため急ぎ発掘された。当時は山のまわりは森林と畑であった。早渕川の左岸に位置し多摩丘陵下末吉台地の主脈から早渕川にむかって南にのびる舌状台地を東漸寺裏台地という。八幡山遺跡はこの台地東側の低位台地上に位置する。台地の北に支谷がはいりこみ東中央にも浅い谷がある。東西70m南北85m
遺跡の西半分が緑地として残された。
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縄文早期~中期竪穴住居5・炉穴1・焼土5・土壙(どこう・落とし穴)15・土器石器(尖頭器)

弥生竪穴住居10・掘立倉庫1・土器1・炭化米

弥生~古墳竪穴住居28・倉庫1・土器

平安*住居1・炉穴2・土器・焼土・金くそ

*平安時代の住居は内部に焼土があり火災にあっているものと思われる。8~9世紀のもので、中央に炉が2か所あり鍛冶に関係しているとおもわれる。住居がほかにみあたらないので鍛冶の作業場だったか?!(港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告31)

八幡山の地名の由来は八幡社があったことからつけられた。最後の項の「八幡と源氏」を参照

八幡信仰が、関東に広まったのは鎌倉時代である。八幡神とは天平9年(737)に続日本紀にヤハタの神として登場する。その後、神仏習合で八幡大菩薩の神号が与えられた。祭神の応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。八幡神は武神で鍛冶の神である。(ウイキペディア)

八幡社は明治44年(1911)一村一社制の命で大棚の杉山神社に合祀された。このとき吾妻山にあったお吾妻様こと吾妻社、センター北駅東にあった神明社もともに合祀された。八幡社は25坪の敷地であったが隣接した同じ25坪の敷地の御霊社は廃された。                 (中川の地名・吉野孝三郎)


遺跡図によると八幡社は南面にあったと思われる。矢崎橋から公園に向かうと階段がある。その上に祠があったという話を聞いた。

八幡社

近年まで八幡社があったとされる中川町内会館で毎年3月26日に祭礼が行われていた。祭礼を行わないと村が荒れるという言い伝えがあった。氏子を一軒一軒まわってもち米を集め、餅をついてなげ餅をした。早渕川の水神様、八幡様とお参りをして、そのあと町内会館で神主が神楽を舞った。このときに使用した神楽のお面が今でも剣神社に保管されている。(都筑の民俗) 宮司さんは剣神社の方だが、近くの杉山神社も多数兼任しておられ、新しく宮司さんになられているので、詳細はわからないといわれる。

第六天

杉山社にいつからかあるといわれるが、杉の森にあったころにはすでに存在していたらしい。天魔といわれ仏道修行を妨げる神である。平安時代から密教の自在天ともよばれた。相模、伊豆、武蔵には多い理由は武田が織田に敗れたとき民衆は占領軍(織田)への迎合として「第六天魔王」を自らの護符にした。一方武田の家臣から隣国北条氏に広まったといわれる。秀吉の小田原征伐のあと、北条、武田の家臣は権力から隠れるように百姓として定着を図りこれらの人々が第六天を担ぎこみ周囲の農民に民衆信仰として広め一部は常陸、東北まで逃げた。江戸幕府以降、民衆は魔王より身近な神に変えていった。第六天神として面足尊(オモダル)と惶根命(かしこね)の両神となり五穀豊穣、夫婦和合の神に変貌していった。ただこの地の伝承は近くの松が曲がる、祠を蹴ったら翌日起き上がれなくなったなどあまりいいものではない。昔から怖れられ明治期には人が近寄らなかったという。明治に修験道が禁止され民間宗教はそれに通じるので廃止、消滅が続いた。(祐泉寺HP)

八幡社の隣にあった御霊社

御霊信仰は、世の中に災厄をもたらした神を鎮め慰めることにより災厄から守ることから発し、有名な祭りが祇園祭である。祇園祭は厄病払いが祭りのはじまりである。御霊信仰は、奈良時代末からはじまりさまざまな形で祖霊信仰とともに日本人の信仰の基本となった。民間の御霊信仰は神事祭儀の場として御霊社を中心に民俗行事、民族芸能を生み、現代に伝えている。害虫駆除祈念の藁人形を仕立て、太鼓を打ちながら畦を行く虫送りや、雨乞いの呪術、念仏踊り、そして今も残る盆踊りはその代表的なものである。(横井清HP)武蔵国には権五郎景政が御霊社として多く存在する。八幡山では毎年盆踊りが行われている。

水神

早渕川に水神がある。農耕する人たちの田の神である。象徴として河童、蛇、龍などがある。八幡社の祭礼の日は、この水神のお参りから始まった。

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2013・3・29


宗教法人 杉山神社移築記念碑

横浜市は昭和40年2月、六大事業の一つとして「横浜国際港都建設事業・横浜北部新都市土地区画整理事業」を発表、同49年建設大臣の事業認可。横浜市高速3号線の免許取得、着工に至る。
杉山神社は中川町1084番地から同町757番の元吾妻社の跡地へ58年11月30日仮社殿を設けここに遷座し、元旦祭・大祭は此処で執行された。換地も間近く建設委員会の結成に着手、資金計画に入る。
移設補償金と寄付金を念頭においたが、神社地の一部80坪を売却し基金とすることに決し、その承認を神社本庁に申請し、同時に社殿・社務所・鳥居等の新築・改築・移築をも承認された。
平成4年4月、中川町1194番地に仮換地指定された社殿は木造とし長野県諏訪市大字四賀、株式会社石田組と、同5年3月工事契約を結び6年9月竣工し、同10月13日祭神勧請と配神遷座式を行い社務所・鳥居・付属建物・植栽等の完成を待ち平成7年10月15日遷宮式典と落慶祝賀に及ぶ。
御霊璽については杉山神社と最も由緒深いとされている和歌山県の伊太邪曽神社へ赴き親しく御分霊を受け五十猛命の霊璽を拝受し御主神日本武尊と並び崇め祭る。
社頭掲示板
杉山神社碑銘

武蔵国都筑郡大棚郷杉山祠祭日本部尊延喜式所謂四十四座之一而是為杉山明神本祠蓋大棚之為郷和名称載都筑七郷内綴喜店屋郷後為大店又称大棚郷実為式兵部省所謂武蔵国四駅之一郷中有古道蹠今尚寂然可尋有地称宿根入者武蔵演路以為駅址又荒原往往出有文古瓦郷人以為古駅之徴続日本後記曰承和三年二月授武蔵国無位杉山名神従五位下蓋謂此祠也又聞昔者祠在後山一旦罹災因従之於山下天正十九年所製□籍載祭田四□五拾六歩至文禄三年為 官所収遂□祭田而方今因循伝訛以郷為村祠亦殆廃天保五年別当龍福寺住僧長伝深慨其祠之衰替之□其所伝之神璽以請白川神祇官総司乃賜以杉山神社四字題額実係神祇伯雅寿王所書掲之於祠前焉間者村民恵吉□相謀将立碑書其顛末以伝無窮而請文於余乃記其所説又係以銘曰
白鳥之神英武之質西伐東討偉功無匹杉山古祠久就埋没貞□載文神威斯述
嘉永五年歳次壬子嘉平月 林司成家塾都講河田興撰并書
社頭石碑

八幡と源氏


現在、神社の数をランキングすると1位は稲荷社、2位八幡社、3位神明社である。2位の八幡社の総大社は豊前国宇佐神宮(大分県宇佐市)である。宇佐神宮は応神天皇の御神霊を祀っている。人間、天皇を祀ったはじめての神社である。

司馬遼太郎の「この国のかたち」によると
八幡神は5世紀初頭朝鮮半島から渡来し、宇佐にすみついた人々によって生まれた神であるという。
東大寺の鬼門にある手向山神社は東大寺の守護神として宇佐神が鎮座している。
仏教との習合に積極的で、仏教側から「八幡大菩薩」の尊称を賜った。
平安時代になると平安京の裏鬼門に岩清水八幡宮が勧請される。
清和源氏は 清和天皇の第6皇子貞純親王を祖とする。
貞純親王の孫多田(源)満仲から諸家に分かれ地方の実力者として成長していく。
源氏と八幡とのかかわりが深くなる のは、後々に武家の棟梁となる満仲の三男源頼信一家で、
その孫義家は岩清水八幡宮で元服する。

ここから「八幡太郎義家」とよばれるようになり、源氏の氏神 として祀られるようになる。


# by gannyan1953 | 2011-05-07 19:00 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

秩父 平将門伝説巡り

                                        2010.8.13
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             秩父十三地蔵

将門は秩父にきたのか。

「新編武蔵風土記」大滝村大達原の円通寺縁起、皆野町円福寺縁起の三通にある。

しかしやはり伝説の域はでないが、なぜ秩父にこうも将門関連の言い伝えがあるのか興味がわく。

将門は武器(蕨手刀・直刀からヒントを得て騎乗で戦いやすい反刀を考案)の制作、馬の鐙、農作物の器具制作など、鉱物の多い秩父に関心があったことは確かである。

親王を名乗り各地に国司を任命したとき秩父(武蔵守)の国司を任命していない。

武蔵には瑞穂町の阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)が青梅街道沿いにある。将門の祖父の高望王が創建したと伝えられる。

青梅の金剛寺(青梅の語源)をはじめ奥多摩の将門神社など数多くの伝説が残る。

将門の弟将平、将門の子良門のことが将門伝説に置き換えられたこともあると思う。

敗退した将門軍の行動や反逆のヒーローへの憧れも民衆にあったかもしれない。

b0228416_1820984.jpg円福寺(埼玉県秩父郡皆野町大字皆野293) 
         
 新編武蔵風土記には将門開基とある。

 
日野沢谷の入り口、皆野町の椋神社の下にある円福寺墓地に平将平の墓地がある。
現在では弟平将平の墓といわれている。

「将平は石間村(吉田町)幡武山の城主である。

兄将門が武蔵権守興与王の議を入れて大志をいだき、神託といって僭上の謀りがあったのをこれが諌め、止めさせようとしたが、聞き入れられなかった。

将門は貞盛、秀郷によって討たれ、将平は源経基王によって滅ぼされた。

このことより先に将門はおのが宗地として、当地に一宇の伽藍を建立した。

円福寺開基のいわれである。その所以により、僧侶比丘は将平の遺骸を石間にもとめて

当寺に葬り墳墓を建てた

b0228416_18211675.jpg 城峯神社(埼玉県秩父市吉田石間4716)

将門が、この城峯山に籠もり、追討軍と最後の決戦をしたが、

愛妾桔梗姫の裏切りにより最期を遂げたため城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという。

周辺には、門平、館跡、将門馬場、隠れ穴等、の地名も多い。

新編武蔵風土記では弟がこの城に籠もり、ネズミの大群に武具が襲われそのあと秀郷に攻められたという。

山頂からの眺望は素晴らしく360度の展望である。
城峯山の山頂直下に城峯山神社が鎮座している。
社殿正面には「将門」と書かれた扁額が掲げられている。



九十九神社(きゅうじゅうきゅうじんじゃ)(埼玉県秩父市大滝)

国道140号線を太陽禅寺に向かう途中、秩父源流水の工場をすぎてすぐの小道にある。

道路からはみえない。

将門の妾桔梗姫は将門亡き後一族を連れてこの地まで逃れてきたが追手の探索に逃げられないと覚悟し自害した。
将門の妾たち、家来、付き人たちが九十九人次々と自害したので、川は七日七晩血に染まった。それからこの川を大血川と呼ぶようになった。

b0228416_1824528.jpg 桔梗塚(埼玉県秩父市大滝大血川部落)

国道140号線を太陽寺に向かう途中、左側に高い位置に民家、畑がある。桔梗塚の標識あり。
桔梗が自害した場所。

幸島家(埼玉県秩父市中津川)(210号線中津川キャンプ場近く)
大滝村落合は荒川と中津川の合流点で将門残党を追った追討軍は中津川から流れてきた大きなわらじをみて捕らえられたのが猿島一族でのち生き残った一族は幸島という名に変えて土着した。
のちに平賀源内が鉱山開発のため当家に立ち寄ったという。
# by gannyan1953 | 2011-05-07 18:22 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(2)

都筑区 中川の地名 港北ニュータウン

歴史と素適なおつきあい               2006・7・14
         
中川村の地名                               

地名にはそれぞれの歴史がある。特に明冶以降法令により人為的に定められるようになって地名の変化は激しくなった。

古代からの都筑の地形


工事現場のむきだしの高い崖をみると上から1メートルが黒土、次いで10メートルが赤土、
下部が砂礫層・泥岩となっている。

現在の地形は砂礫層、泥岩の骨格の上に黒土や赤土が肉付けされて形づくられている。

関東地方の基盤をなす泥岩は数十万年前に海底で形成された「三浦層群」である。

その上の貝を含む砂礫層が「下末吉層」で古東京湾が関東平野一帯に広がった下末吉海進期(12~13万年前)に堆積した。
ところが5、6万年前の武蔵野期に海は現在の海岸線付近まで退く。

最後の氷河期が始まり現在の台地の原形があらわれてくる。
その上に富士山火山灰、箱根火山灰が降り積もり(武蔵野ローム層)のちに多摩川、鶴見川によって切り刻まれた。

その後
氷期は頂点に達し、海の深さは100メートル以上しりぞいた。
古東京湾は陸化し、その中央を利根川、多摩川の水を集めた「古東京川」が流れていた。

したがって都筑のあたりは150~200メートルの山の上となった。
この間ずっと火山灰の堆積が続く。

1万数千年前には氷河時代が終わり火山活動もしだいにしずまり、現在の地形に近いものにできあがった。
気候が温暖になり海面が上昇、鶴見川の谷にも海水が入り込んできた。

縄文海進である。

およそ6千年前海は第三京浜道路付近まで広がり「古鶴見湾」が形成された。
それ以後数千年の間に土が谷を埋めつづけ、およそ千年前には川沿いの低地ができあがった。

今日では大規模な土木工事で丘も一部を残すのみとなった。    (坂本彰:鶴見川流域の考古学)

都筑郡の歴史と命名

大化改新で律令制下におかれた東国において、相模八郡と武蔵国南部の三郡が現在の神奈川県にあたる。

武蔵野国三郡は橘樹(たちばな)郡、久良(くらき)郡、都筑(つづき)郡であった。
万葉集には755年に筑紫に派遣される防人の一人として服部於田(はとりべのおた・うえだ・おゆ)の歌がある。
930年頃編纂された「和名(わみょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)」(平安時代に作られた辞書)を見ると都筑には「豆々岐」の読み方がついており「つつき」と呼ばれていたことがわかる。

和銅6(713)年に都から「諸国の郡郷名は好字(よきじ)で著せ」と命じられる。

これにより漢字2字での表記が定まり「つつき」の音から「都筑」「綴喜」が当てられたと考えられる。
都と筑の字は「都賀(つが)、都家(つげ)」「筑紫、筑後(ちくご)、筑摩(ちくま)、筑陽(つきよ)」など古代地名によく使われており、
都:天子が居住する場所、行政、聚(あつ)まる、大きい、盛ん、みやびやか、美しい
筑:琴に似た楽器、湖北省竹山県の筑水川

の意味がある。どの意味が適用されたかはわからないが、

*鶴見川支流にある地形から筑水川(多分長江のこと)に見立てた。湖北省(長江中流域にある)の竹山県の地図をみると鶴見川、早淵川流域の地図と似ている。

*産物である竹からの景観をなす竹林。
(この説については、古代に竹林があったのかわからない。孟宗竹ならば江戸時代に薩摩から分布したといわれているからである)

などが考えられる。                              

なぜ「つつき」と呼ばれたかは不明であるが、
「つき」は貢物・調、土器:杯、けやき・槻の意味がある。これに接頭語の「つ」と組み合わせたとも考えられる。                                            (横浜市歴史博物館「都筑の村々」)

「和名類聚抄」によると、郡内には交通の要所に駅(うまや)が置かれ、朝廷に良馬を提供する御牧(みまき)といった重要な施設が置かれた。
鎌倉時代1254年につくられた「古今著文集」に「武蔵国の住人つつきの平太経家は、高名な馬乗馬飼なりけり」とあるのは古代からの伝統が引き継がれていることがわかる。

江戸時代の都筑郡には41の村があった。
北の端が今の都筑区にあたり正保年間には13の村があった。
山田、牛久保、茅ヶ崎、大棚、勝田、荏田(一部)、東方、川向、大熊、池辺、佐江戸、川和村である。

今回は明冶に命名された中川村の地名について探ってみた。


中川村の誕生

県令第9号
各町村ノ内、内務大臣ノ認可ヲ得、明冶二十二年三月三十一日ヲ以テ別冊ノ通リ分合改称ス        
明冶二十二年三月十一日 神奈川県知事 沖 守固

都筑郡(抜粋)

中川村  (山田村・ 勝田村・ 牛久保村・大棚村・茅ヶ崎村 )     

ここに従来の五ヶ村が合併して中川村となり、中川の地名が生まれたのである。
そして旧五ヶ村名は中川村の大字として残った。

中川の由来

「大日本地名辞書」(明冶32)によると「山田、牛久保、勝田、大棚、茅ヶ崎など合わせ中川村と改む。
新羽、高田の西北に隣り、石川村より来る早淵川を貫き、吉田に至り、鶴見川に入る。
中川はこの渓名ならん。長三里」

とある。

この説は吉田博士の推測らしい。なぜかというと早淵川を中川と呼んだ記録はどこにもない。

明冶22年に村の中央を川が流れているので中川と命名されたものである。

昭和14年(1939)4月1日横浜市は港北区を新設して中川村を横浜市に編入、ここで字は町と変わる。

大字山田は東山田、北山田、南山田(すでに中区に山田が存在していたため一字を冠した。ヤマタと読む)に分かれ、大字大棚は上大棚が中川町に、下大棚は大棚町になった。

昭和37年(1962)「住居表示に関する法律」の施行に伴い何町何丁目何番何号と表示されるようになり大字、小字が消えていった。

古くからの自然地名は法令地名にかわっても会話に残り、バス停、橋名に残ったりしているものもある。

公称地名(土地台帳、戸籍簿)に残る地名もある。

地名はいつ誰が命名したかということはわからないが、東山田の「鎌田屋敷」や南山田の「掘ノ内」は平安末期あたりから、勝田の「鍛冶田」、中川の「鍛冶屋」は鎌倉・室町時代から、中川の「宿の入谷」は江戸時代の命名と思われる。


方言と当て字


地名は言葉、会話によって作られ文字は必要になってから使われた。

その結果言葉が先で文字が後となるため当て字が使われる。先に書いた「好字を当てよ」の命から、
地名の命名に大きな影響を与えた。

二字化のために、大、小、上、中、下などの接頭語、田、川、沼、島、野、井、原などの接尾語をつけたりした。

好字のために徳、久、吉、末、福、富、利、得、梅、柳など多く使われた。
発音から当て字を判断するが発音も時代によって変わる。

*ウトウ坂:オトウ坂ともいう。この地方ではウをオとよく発音するので打越はウッコシがオッコシ、古梅はコウメがコオメとなる。ウトは狭い峠道。

ウト、ウトー、ウド、ウドー:有道、有戸、宇登、宇頭、宇道、宇堂、宇土、宇戸,宇藤、宇簡舞、宇都、有東、凹道、鵜頭、鵜峠、鵜殿、鵜藤、洞、唄 などである。

ウトウ坂は有馬から江田に向い下る坂道だが最近建設された坂途中のマンション名がOTOSAKAになっていた。やはりオトウ坂といわれてきたのか。

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有馬にむかうウトウ坂
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江田宿にむかうウトウ坂


*古梅:梅の古木伝説があるが「埋め」で埋立地である。

大棚村の鵜目は早淵川の流れを南に移動させその跡を埋めた場所が鵜目であり、その裏側の小梅川でなく丘を崩してわずかな谷を埋めたので小埋、埋もれる意味はよくないので梅という好字をあてた。

*権太:人名でも田でもなく低い湿地帯のことをいう。

*牢場:籠はコム・ロウと読み崖地を伴う険しい地形、入り組んだ場所をいう。
牢場は老馬となる。
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老馬不動湧水







神無もコムであるがシンナシと当て字から読みを変えた。

丘陵地の地名

小高い場所を丘、台、小山などという。風土記にある「多摩郡にツツキタル地ナレハ小山カサナリテ連綿タル岡ナリ」は古き都筑郡の地形をよく表現している。

すみれが丘,あゆみが丘など新しく命名された場所は地形を表現したというより、美化した地名で希望がみえる。

傾斜した道を坂、切り立った岩肌、地肌を崖、周囲が高く中央が窪んだ場所を窪、久保という。麓は山、丘、台の裾で根、根岸などという。

麓に近く小高い場所をコシといい、人体の腰にあたる部分で腰の字を当てる。

腰から平地にかけて家を建てると生活がしやすい場所になる

。しかし生活のため住宅、寺社、墓地などは不毛の地を当て、日当たりのいい場所は農耕地とした。

集落と集落を往来するには崖や坂があり登りつめた場所は峠になる。

腰越、打越などで打越は武蔵国に多い。

ハザマ、ヤトは谷の湿地帯である。関東ではヤ、ヤト、ヤツ、サクという。中川ではヤトがほとんどである。

荏田の矢羽、大棚の矢崎は弓矢伝説があるが、川沿いの湿地帯にあるので谷の意味ではないかと思われる。


開墾地の地名


アラク  :荒久、阿良久    オコス:沖ノ谷、奥ノ谷

アラキ:新墾。荒木、荒城    シンボリ、ニイボリ:新墾、南堀(ミナンボリ)

コーヤ:荒野、紺屋、興谷、興野、高野、神野、高谷、幸谷、耕谷

サンヤ:山野、山谷、三家、三谷、三野、散野、散家

デミセ:出店(大棚村鈴木家の屋号)    ウケヂ :請地

開墾地からみて親村のことを本村、中村、本郷、中郷、内郷、中里、内野、本田

開墾地の子村は分村、枝村、脇村、出村、新郷、新堀、新田、出戸、出店といった。

人名からの地名

漆原:南山田の漆原氏で上野国群馬郡漆原村出身。漆原氏と漆原十二騎の名が伝わる。
漆の多い原野だったのだろう。

織茂:南山田の織茂氏で、上野国多胡郡長根村折茂出身と見られる。

朝見:浅見、浅海、阿左美、阿佐美、阿佐見、阿作見、朝見、朝美、芥生、阿射弥、
   田并美、莇

唐戸:武蔵国入間郡河越庄唐人(元川越市江戸町)とみられ秩父平氏の河越氏で畠山重忠とは同族である。

漆原氏、朝見氏、唐戸氏いずれも家紋が三柏である。

参考文献:中川の地名(吉野孝三郎著)
# by gannyan1953 | 2011-05-06 12:18 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(2)

浅草神社~白髭神社

東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい番外編      2012・3・18

舟渡御

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平成24年(2012)3月18日14時すぎ
毎年5月に斎行される三社祭は元和元年(1312)に三社の神話をに基づき行われた「舟祭」が起源である。
平成24年は三社斎行700年にあたり、再現された。

江戸時代まで続いていたが、明治時代に途切れ、昭和33年11月に浅草寺本堂再建落慶に記念して復活された。それから54年後に5月22日のスカイツリー完成記念行事と相まって行われた。

53年前の経験者はもういなくなり、昭和33年の写真、江戸時代の屏風絵などの資料を参考に企画が進められた。

一つの舟に三社様の神輿が乗り、七福神や、金龍などがのせられた舟がいっしょに隅田川を行進した。






歴史と素敵なおつきあい 平成15年2月14日(金)

渡来人の足跡を訪ねてー浅草寺・白髭神社
集合日時  :  平成15年2月14日(金)  9:50
集合場所  :  浅草 雷門

浅草寺(浅草観音)

本尊は 聖観世音菩薩で、金竜山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)の歴史は古い。
寺伝では、飛鳥時代の推古天皇36年(628)檜前(ひのくま)浜成、竹成兄弟が隅田川で網にかかった1寸8分(約5センチ)の黄金の観音像を、土地の文化人であった土師真中知(はじのまつち)に鑑定してもらった。ありがたい観音であることがわかり、その頃すでに仏教の信者だった真中知は、お堂をたてて安置した。
大化元(645)年僧勝海が現在地に堂をたて夢のお告げにより本尊を秘仏にした。
天慶(てんぎょう)5(942)年安房国守平公雅(きんまさ)が再建、治承4(1180)年には、下総から鎌倉にむかう頼朝が参詣、寺領を寄進した。鶴岡八幡宮を造営する際、浅草の宮大工を招集している。(「吾妻鏡」)これが史料に浅草の地名がみえる最初である。
戦国時代には北条氏綱によって再建され、家康の時には、幕府の祈祷所となった。
寛永19(1642)年に焼失。関東大震災(1923年)、太平洋戦争(1945年)など数次の被災にもかかわらず、堂宇はそのつど再建され今にいたる。かつては天台宗に属し,東叡山寛永寺に所属していたが、現在では聖(しょう)観音宗をおこして子院24の総本山となった。

ご利益

観世音菩薩は祈る人のすべての願いを分け隔てなく聞き、苦しみを除きその願いを叶えられる菩薩といわれる。松下幸之助も病気快癒の願いが叶ったお礼にと雷門を寄進した。

檜前の馬牧

大宝元年(701)大宝律令で厩牧令がだされ、全国に国営の官牧が39箇所と、皇室に馬を供給するため32箇所の勅旨牧がつくられた。武蔵野国には、「檜前の馬牧」、「浮島の馬牧」、「神崎の馬牧」がおかれた。順に浅草、本所、牛込ではないかといわれる。

檜前氏

明日香村大字檜前は飛鳥時代、渡来人の居住地であった。
ヒノクマのクマは入り込んだ谷間、浦の意味で檜前の地形は低丘陵に囲まれた盆地状の小平地である。
明日香村の檜前には、於美阿志(おみあし)神社があり、百済系の阿智使主(あちのおみ)の居住地といわれる。
異伝では、於美阿志神社は磐橋(いわはし)神社ともいわれ、高市郡久米郷にあって、高市連、安知造らの祖、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祀るとされる。
阿智使主とその子都加使主の都加とは、馬韓北部から安羅(古朝鮮の伽耶地方)に移ったと推定されるが安羅の首長をツカという。そのツカが渡来したものであると思われる。 
天目一箇神は鍛冶神である。 川から引き上げた観音像は金属(砂金)のことでこの地では古くから、金属がとれていたという説もある。
檜前も鍛冶、鉱山関係の家系であるらしい。檜前氏は応神朝に渡来した阿智使主の末で、大和の飛鳥のヒノクマをはじめ、その遺跡が山城、遠江、武蔵、上総、上野、摂津、尾張、石見等に残っている。
武蔵造の族には笠原直、物部直、大伴直、刑部直、土師直、檜前舎人(ひのくまのとねり)らがあり、そのうち檜前舎人は宣化天皇の名代である。
武蔵国にあって、加美、那珂郡(埼玉県本庄市)に分布し、丹党と重なるので、秩父丹党はその末裔ではないかともいわれる。
宣化天皇は尾張氏出身で宣化天皇に仕えた可能性は高いと思われる。 
丹党は妙見信仰があり、妙見は、製鉄、鉱山にかかわる神である。                 
 (日本の神々―谷川健一、神奈備にようこそ)                                                                  

土師氏

南埼玉郡鷲宮町の鷲の宮(はにしのみや)神社は「土師(はにし)の宮」ともいわれ、崇神天皇の時代の創建という。河内国から東国へ移住してきた土師氏が先祖を祀ったもので、浅草寺を祀った土師氏の一族が、利根川や荒川を遡って埼玉郡に移住したと思われる。(坂東千年王国)

浅草寺の秘仏

何年に一回のご開帳すらない完全な秘密を維持している秘仏である。
勝海上人は、視力が衰え困っているところ、夢に本尊の観音像が現れ、本尊を直接みることを
戒めた。
以来、平成の今日まで秘仏にされつづけている。しかし、みた人たちがいたと伝えられる。
明治2年新政府の役人があらわれ秘仏をみたいという。僧達の抵抗、忠告も耳にはいらず、
扉の前に進んだ。
まもなくすさまじい音がし、僧達は床に額ずいていたため何が起こったのかは
わからなかった。
役人たちは、丁重な物腰に変わっており「大切にお守りなさい」といって立ち去った。
それから64年後1933(昭和8)年のこと、役人達のひとりの娘が浅草寺に現れ、扉を開けた途端すごい力で吹き飛ばされて、後悔したが役人たちはその後つぎつぎに亡くなったとのことを伝えた。
徳川吉宗も開いたらしいが、すぐ閉めたという。龍の姿をしていたといわれるが真偽は定かではない。                                (日本史の中のこわい話―三浦 竜)

雷門

浅草寺の総門。942(天慶5)年平公雅により創建。
何度も火災にあい1865(慶応元)年に焼失以来失われていたが、昭和35(1960)年松下幸之助の寄贈で大成建設が請負、鉄筋コンクリートの切妻造で再建。通称雷門で親しまれているが正式には風雷神門である。風神、雷神の二神像が左右に安置されている。門の右が風神、左が雷神。

浅草広小路

雷門前に東西に走る道で江戸時代に火除地としてつくられた


仲見世通

浅草寺の掃除役の代償として営業権が認められ、元禄・享保(17末~18初世紀)から、みられたらしい。

宝蔵門
慶安2(1649)年家光の建立した仁王門が太平洋戦争で焼失。昭和39(1964)年に再建され、寺宝を収納したところから名を改めた。

五重塔

慶安元(1648)年に建立。戦災で焼失後、昭和48(1973)年本堂東側から、西側の塔院に再建。

本堂(観音堂)

昭和33(1958)年再建され、内陣上段の間に秘仏の本尊「聖(しょう)観音菩薩」、下段の間に「御前立(おまえだち)本尊」が安置。外陣には江戸から明治にかけて奉納された谷文晁、高公谷、歌川国芳らの著名な絵師の描く10面の絵馬が掲げられている。

浅草迷子しらせ標

左に「たづぬる方」、右に「しらす方」とあり、張り紙によってしらせあった。迷い子、訪ね人探しに利用されたという。

浅草(あさくさ)神社

浅草寺本堂の東の神社。三社様の呼び名で親しまれている。観音像発見の功労者土師真中知、檜前浜成、竹成を祀ったことから三社という。のち東照権現を合祀したので三社権現ともいう。
社殿は3代将軍家光の建てた権現造りでその後の火災、震災、戦災を免れ江戸初期の華麗な姿をとどめている。本殿、拝殿、幣殿ともに国の重要文化財である。
この神社の祭礼は三社祭といわれ、日枝神社山王祭、神田明神神田祭とともに江戸三大祭のひとつ。現在では5月中旬の土曜・日曜に行なわれるがこのとき拝殿で行なわれる「びんざさら舞」は鎌倉時代からの芸能である。

びんざさら舞

五穀豊穣を願う舞で、笛や太鼓とともに木片を綴ったびんざさらを打ち鳴らし悪霊退散を願って
田楽を演ずる。田楽とは田植え行事を芸能化したもの。

二天門(国重要文化財)

もともと1618年に建てられた東照宮の随身門であったが、東照宮焼失後、そのまま残された。
2体の神像は寛永寺の厳有院(4代将軍家綱)霊廟の二天門の木造持国天・増長天を移した。

待乳山聖天
浅草寺の子院で正しくは待乳山本龍院(聖観音宗)という。本尊は歓喜天でヒンズー教の神であるが、仏教にとりいれられると病難、盗難の災いを除き、夫婦和合のご利益があると信仰されてきた。
境内の築地塀は江戸末期に作られたものである。
真土山ともいい、古くから隅田川の景勝地であった。

亦打山暮越えゆきて盧前の 角太河原に独りかも寝む(万葉集)
まつちやま くれこえゆきて いほさきの すみだかわらに ひとりかもねむ

あはれとは夕越えて行く人も見よ まつちの山に残すことの葉(元禄10年戸田茂睡)

聖天横町

聖天の西側がかつての聖天横町で遍照院裏店で葛飾北斎が90歳の生涯を終えている。
現在の浅草6~7丁目は浅草聖天町といわれ池波正太郎の誕生の地である。

言問橋
昭和3(1928)年の完成で「伊勢物語」にでてくる在原業平の和歌 「名にしおばいざ言問わん都鳥・・・」に由来する。

三囲神社(恵比寿・大黒天)

宇迦能魂命(うかのたまのみこと)を祀る。文和(ぶんな)年間(1352~56)三井寺の僧源慶が荒廃した社を改築しようとした時、土中から白狐にまたがった翁(稲の神)の像がでてきた。
そこに白い狐が現れ、その神像を3周して姿を消したことから、三囲神社と呼ばれるようになった。
俳人宝井其角の雨乞いの句、「ゆふだちや 田をみめぐりのの神ならば」とゆ た かの文字をいれたところ、雨がふり、田の中稲荷として江戸町人の信仰を集めた。

弘福寺(布袋尊)

牛頭山弘福禅寺という。黄檗宗の名刹。鉄牛和尚によって延宝2(1674)年に創建。
鉄牛は明の僧で、インゲン豆を伝えたといわれる宇治万福寺の隠元禅師の弟子である。諸国巡業中、小田原城主の稲葉美濃守正則の知遇を得、正則が老中になった時江戸に同行し、寺を興した。幕末勝海舟が参禅、明治の文豪森鴎外も好んだ。境内には咳の爺婆(じじばば)という咳止めのご利益があるといわれる石像がある。

長命寺(弁財天)

創建は不明。寛永年間(1624~44)の3代将軍家光が鷹狩の途中腹痛を起こし、この寺の井戸の水で薬を飲んだところ、たちまち痛みがおさまった。
喜んだ家光が宝寿山長命寺と名づけた。境内には50をこえる句碑、歌碑、塚などがある。
雪景色の名所。桜餅が名物。虚子の句に「桜餅くふてぬけけり長命寺」がある。
近くに名物の言問団子もある。

白髭神社(寿老人)

天暦5(951)年慈恵大師が関東に下った時、近江国志賀郡打下(うちおろし)の白髭大明神を勧請したものといわれ、近江の本社は比良明神と」称する。
祭神は猿田彦命である。白髭大明神は朝鮮からの渡来人の祀った神で、その分布から古代の渡来人のひろがりを知ることができる。
現在の社殿は元冶元(1864)年の造営。七福神の寿老人がぬけていたのでご神体の白髭明神を寿老人にみたて、七福神をそろえた。

向島百花園(福禄寿)

仙台出身の日本橋、骨董屋佐原鞠塢(さわらきくう)が、寺島のこの地に3000坪(9900㎡)の土地を購入、別荘とした。
交流のあった文人、墨客(蜀山人、亀田鵬斎、加藤千蔭、村田晴海、谷文晁、酒井抱一ら)とともに、三百数十本の梅ノ木を植えて造園にあたった。
その後も文人たちが思い思いの木を持ち込んだことから、大名屋敷や社寺の庭園にみられない野趣に富んだ庭園となった。
昭和13(1938)年東京都に寄贈され、東京大空襲で大きな被害をうけたが、昔の姿をとりもどしている。

多聞寺(毘沙門天)

南から参拝すると、最後は多聞寺で終わりとなる。天徳年間(957~61)年創建。
大鏡山明王院墨田寺という。本尊は不動明王、場所は隅田川神社のあたりにあった。
天正年間(1573~92)年現在地に移り、本尊は毘沙門天にかわり墨田山吉祥院多聞寺になった。
昔、同寺に住み着いて夜な夜な住職を悩ませた古狸を毘沙門天が退治した。
その狸を葬った塚があるので狸寺ともよぶ。山門は茅葺で、四脚門は江戸時代中期の建築といわれ、墨田区最古の木造建造物である。

江戸東京物語―新潮社
 東京都の歴史散歩―東京都歴史教育委員会)
# by gannyan1953 | 2011-05-06 12:08 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

小野路~薬師池


東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい

小野路~薬師池

鶴川9:55発(バス)~中宿(徒歩)~小島資料館(当日休館)~小野神社~万松寺~(小野路城址)・(小町井戸)~一里塚~(野津田公園:村野常右衛門家移築)~華厳院~野津田社~町田ぼたん園:北村透谷碑・石阪昌孝家跡(昼食)~自由民権資料館~薬師池公園:はす田・薬師堂(バス)~町田
小野路とは、相模国の国府がおかれた場所が小野の里、武蔵国の府中には小野の宮があり、この二つの小野を結ぶ途中の道を小野路とよぶ。


小島資料館 

毎月第1,3日曜開館。

新選組関係資料、自由民権資料、近世、近代文書など所蔵。
小島家は、和歌、狂歌、漢詩など親しみ文化人を輩出した。これら二十余代にわたる古文書,古書画、古器物を公開している。

小島家は、小野路寄場名主で、応永2(1395)年 室町時代に備後より来住、土着した。庭内には近藤勇の銅像と上野寛永寺にあった石灯籠があり上野戦争の弾痕跡がみえる。

*幕末の小島家と新選組

関東取締役の見張番屋をもち司法の末端を担い、捕り方道具や鉄砲まで所持していた。
幕末には20代目鹿之助が代官所の要請により小野路農兵隊を組織し、小島家所有の山林の一部を整備、屯所を建築し小野路の若者を集めて訓練した。
天然理心流の試衛館から出稽古にきていた関係で新選組とも親しく、資金面での援助など新選組に大きな役割を果たしている。
道場には近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬介らが訪れている。
日野宿の土方歳三の義兄佐藤彦五郎とも親しく、甲陽鎮撫隊に加わった佐藤彦五郎率いる日野農兵隊が甲州街道を進み、小野路農兵隊も参加しようとしたが八王子鑓水(やりみず)で甲陽鎮撫隊敗走の報を聞き、撤退した。

*明冶の小島家と民権

鹿之助は野津田の石阪昌孝と義兄弟となり民権運動を支援した。

その民権運動は薩長土中心の明治政府に対し、理論という武器で挑んだ民衆闘争であり、多摩の人々にとっては戊辰戦争の延長戦に位置する。


小野神社 祭神 小野篁  天禄年間(972年ころ)建立


小野篁(おののたかむら)は平安時代(802~52)の漢学者で、孫が小野道風。天禄年間、武蔵の国司として赴任した小野孝泰による建立という。
小野篁は承和元年(834)遣唐副使に任ぜられたが大使藤原常継と対立、乗船しなかったため嵯峨上皇の怒りにふれ隠岐に配流された。
隠岐では長者の娘阿古那との悲恋も伝えられる。閻魔庁に仕え冥界往還の伝説もある。

時をしらせる鐘が応永10(1403)年に造られたが文明年間(1469~1487)山内上杉と扇谷上杉が戦い、その時山内上杉が陣鐘として持ち去られた。
伝承では再度永承13年北条早雲の三崎新井城攻撃の時にも陣鐘として使われたという。
江戸になって代官長谷川長綱の手にわたり逗子海宝院を創建した際、寄進された。



万松寺  臨済宗建長寺派


小野郷学舎が造られ、大蔵の中溝昌弘、小野路の小島韶斉(しょうさい):鹿之助などが師匠に迎えられた。昭和20年5月29日の空襲で消失、弾痕が土蔵に残る。



*中溝昌弘
布田の医家に生まれ昌平坂学問所で学んだ。



小野路城址 

大泉寺に居城を構えた小山田有重の築城。その子二郎重義が守護にあたった。
築城は承安年間(1171~1174)である。
小山田氏は秩父平氏の一族で頼朝上洛の際三男三郎重成らを京に派遣、鎌倉幕府開府にあたり尽力した。

頼朝死後北条時政のそしりをうけ実朝に長男稲毛重義、その子重政、弟四郎重朝が誅される。
勢力を落としたが、元弘3(1333)年、末裔小山田太郎高家は新田義貞挙兵に加わり北条泰家を追って鎌倉に攻め入った。
建武の中興である。
小山田高家は勢力拡大をもくろむが新田と足利の争いになり、湊川の戦いで新田義貞を救い討ち死してしまう。

その後小山田氏は文明9(1477)年長尾景春勢に攻められ滅亡する。
その後甲斐国に逃れ武田氏に仕える。小山田信茂は滝山城攻略に参加しているが、
織田信長が武田勝頼を攻めたとき,
反旗を翻し勝頼自害に追い込む。主家を裏切ったことを信長に嫌がられ、捕縛されたのち斬首された。


小野路城は武蔵の国境の要衝として扇谷・山内両上杉の拠点として改修された。
本丸を含む二つの郭と土塁、空堀が残る。



小町井戸

小山田氏の飲料水として使われた。小野小町(小野篁の孫ともいわれている)が病を患い千日この水を飲み、目を洗ったら治ったというで伝説がある。



日限り地蔵

日を限って願い事をすると叶えてくれるお地蔵様といわれる


小島家墓


一里塚

旧大山街道で、次の一里塚は木曾町にある。元和2(1616)年75才で亡くなった徳川家康の遺体を久能山から日光に移すため駿河から箱根、小田原、厚木、座間、木曾村、向坂に至り、荷駄の車輪の軸が折れた。

小島家資料によると乞田村から鍛冶屋をよび修理したという。この件で村々は助郷を免除されたという。(木曾村石川家文書)



野津田公園

村野常右衛門生家が移築されている。大正13年に屋根を茅葺きだったのを当時としては珍しい鉄板葺きに改修している。当時の政治家としての村野の活躍ぶりがみられる。



河合家

戦国時代に小代官河合越中守で、古文書を多く残す。名主「野津田年代記」「堰普請」など多数ある。「権兵衛の生涯」は昭和55年町田在住の薄井清氏が本にした。

*権兵衛の生涯

野津田村、百姓代の次男で、生類憐れみの令廃止後八代将軍吉宗が鷹場復活。
権兵衛を駒場に移し「綱差」という役を与えた。
村人は鷹の餌を探す仕事が増え不満であった。兄甚兵衛は村人の苦しみを気にやみ、首をくくって死んでしまった。
村人たちは「百姓が役人になった権兵衛を殺すには祟りが怖い。
自分で死んでくれ」と権兵衛に縄を投げ出した。

♪ 権兵衛が種まきゃ カラスがほじくる ♪ ズンベラ ズンベラ 
♪ 三度に一度は 追わずば なるまい  ♪ ズンベラ ズンベラ 



この歌は熊野古道の権兵衛さんで有名である。
熊野の権兵衛さんと江戸の目黒の権兵衛さんとは20年の開きがあり、
江戸の権兵衛さんが先の話で流行歌として熊野に伝わり、熊野の権兵衛さんがいた三重県海山町で歌いつがれてきたらしい。
江戸の権兵衛さんは、駒場の権兵衛と目黒の川井家の権兵衛と違いがある?!


江戸の権兵衛さんの話

1716年ころ吉宗の命で鷹狩りが再開。目黒の川井家は代々烏見役:鷹の世話係であったが、生類憐れみの令で36年廃業し烏見役の後継ぎがいなかった。
そこで鷹の世話ができる権兵衛を養子にむかえ狩場をはじめた。
鳥をよせつけるため畑に種をまきカラスにつつかれないよう見張り番をした。
その様子を歌ったものといわれる。権兵衛のおかげで鳥も集まりよい鷹場になった。


熊野の権兵衛さんの話

1736年ごろ武士だった父がなくなり父の願いで百姓になった権兵衛さん。

へっぴりごしで慣れない鍬をもつ姿、種を播いてもカラスにほじくられる滑稽さを村人たちが笑った。
が、一生懸命畑仕事に精をこめた権兵衛は村一番の百姓になる。
猟の腕前も上達し、殿様からもお褒めの言葉をもらう。
褒美は、1年間の村人たちの年貢を免除してもらうことを願いでる。
馬越峠に大蛇がでるので退治にむかうが、お守りのズンべラ石を蛇の眉間に投げ退治したものの、毒を被り死んでしまう。
村人達は悲しんだ。
熊野でズンベラはつるつるしたという意味がある。「ズンベラ」は梵語では「ジンバラ」といい光明の意味がある。
お守りにしたことから丸くつるつるで霊力があったのかもしれない。
尾鷲の近く海山(みやま)町には権兵衛の里資料館がありズンベラ石が展示されている。


華厳院

村野常右衛門の墓がある。最初に小野郷学舎がおかれた場所である。


自由民権資料館・凌霜館跡

板垣退助が起こした自由民権運動は、石阪昌孝、村野常右衛門らによってこの多摩の地でさかんに運動が広められた。
この地は野津田の民権家、村野常右衛門の所有地で明冶16年「凌霜館」を建てた。
その後村野家が寄贈し資料館が建てられた。
資料館の展示をみると八王子千人同心~幕末の農兵隊~新選組~民権運動~多摩壮士の繋がりを感じる。

*村野常右衛門 安政6(1859)~昭和2(1927)年

石阪昌孝の片腕として活動した民権家である。28歳の時大阪事件の関与で自首している。
中堅的な活動家として県会議員、衆議院議員、大正3(1914)には立憲政友会の幹事長となる。

 
野津田社

享保2(1717)年、五明神社といわれ明冶22(1890)年、御霊神社になり
明冶42(1909)年、野津田社となる。祭神はイザナギ、イザナミ、アマテラス、ヤマトタケル、クニトコタチ、アマツコヤネ。春日社(上の原)、幸山社(本村)、伊勢社(並木)、御嶽社(川嶋)を合祀。


北村透谷碑(町田ボタン園)開花期以外は入場無料


透谷は明冶元年(1868)小田原の没落士族に生まれ転居により、数寄屋橋近くの泰明小学校に通う。
透谷の名はスキヤからとったものである。

ロマン主義詩人としての透谷は多摩の地で生まれたともいえる。

15才の透谷は八王子(上川口村)にある近在の政治青年が出入りしていた秋山国三郎の家を訪れていた。

国三郎は若い頃天然理心流に入門免許皆伝し、俳句、義太夫そして放浪の旅にも出ていた。
透谷が訪れたころの多摩は自由民権運動に翳りがさし、困民党騒動が起こっていた。
後に国三郎は困民党壊滅後の後始末に奔走する。

国三郎の家に起居したのは友人である大矢正夫がいたからである。
透谷は15才、国三郎は50代であるが透谷は国三郎に惹かれていく。
石阪昌孝の子公歴や大矢らと親交を深め民権運動にも参加していった。
大矢は八王子の教員で熱烈な自由民権論者であった。
後に大阪事件に関与、強盗までした男である。強盗に誘われ透谷は過激な民権運動に失望し、頭を剃り大矢と決別することになる。

政治活動から脱落した透谷は、公歴と諸国回遊をしたころから石阪家に出入りし公歴の姉美那と出会い、紆余曲折の末キリスト教式で結婚、洗礼もうけていた。
石阪の民権運動の懇親会では、徳富蘇峰や足尾銅山事件の田中正造とも同席している。
政治活動からの脱落、現実行動の喪失は文学活動において自己の内面を発見させた。
農民、貧民、強国の名のために切り捨てられていく民衆をみつめ反戦運動もした。

政治家に配った弾劾文には

「賎を苦しむる封建的圧政の力行われ悲しいかな。愚昧なる小権力者相争うて(略)無力なる助けなく友なき多数の貧民の難やめんとしつつある(略)彼等相奪ふ者は何ぞや、是等貧民を圧抑せんと欲する欲権ならぬか(略)請ふ、汝が政治家の仮面を取り去れ、請ふ、汝が愛国者の衣を脱げ、彼等上下を衣ざれども依然として門閥の毒勢を逞しうして良民を残害す。」 明冶24,5年のものである。

農村では小作と地主が対立、各地で騒動が起き、期待された自由党は貧民の期待にはこたえていない。
透谷は明冶27(1894)年妻子を残し、別居中の芝の自宅で縊死した。
透谷の文学者、思想者として支えたのは民権伸張の思想であった。
痛ましい結末は国権に圧殺された民権の死ともいえた。


石阪昌孝家跡

町田市を代表する民権家。透谷の義父。

*石阪昌孝


幕末は小島家で天然理心流に入門、小野路農兵隊に加わり甲陽鎮撫隊にも参加しようとした。
小島家に出入りしていた真下(元神奈川奉行)の開いた「融貫塾」で新しい時代の動きを学ぶ。
明冶6(1873)年早くも地方議会の開催を上申している。 
6年後県議会の議長就任。自由民権を啓蒙する演説会、懇親会に出席し、多摩地方に急速に団結の気運が高まった。明冶14(1881)年自由党に入党。

石阪は実生活に根をおろした運動を目指した。東京生糸商会を設立、外国資本に対する商権回復を計ろうとしている。
困民党騒動の時は嘆願運動に乗り出している。
しかし嘆願という温和な行動は、士族や石阪ら豪農たちの民権とは連携されず、農民が組織した困民党は自力で対決、壊滅するしかなかった。

大阪事件でも関与の取り調べをうけている。
明冶23(1890)年第一回衆議院議員選挙以来数回当選、群馬県知事となるが半年で罷免、その後1年待つことなく亡くなる。

「井戸塀政治家」といわれるが、言葉どおり財産も使い果たし小島家には石阪の借金証文が残っている。
石阪昌孝の子、公歴(まさつぐ)は大阪事件のあと米国に渡った。
実家の建て直しのため実業の勉強が目的であった。
が、在米日本人愛国同盟会の主要メンバーとなり機関紙を発行、日本政府批判をした。日米戦争がはじまると日系収容所に入れられ敗戦の1年前に亡くなった。

公歴の姉、美那は透谷の死後米国に渡った。



七国山

鎌倉街道の難所であった標高120メートルの峠である。
峠には井戸があり、鎌倉井戸といわれた。
今は枯れている。かつて周囲は沼地でその名残が薬師池である。
近くに井出ノ沢古戦場があり、「中先代の乱」建武2(1335)年、北条高時の子時行が鎌倉を占拠した。
井出ノ沢で足利直義を敗走させ鎌倉では護良親王が殺された戦いである。ここは鎌倉の最前線であった。



はす田

大賀ハスは、1951年千葉県検見川遺跡で発見された、2000年以上前のハスの実から発芽させたものである。発掘した大賀一郎博士の名をとった。
7月下旬から8月が見ごろである。
 

薬師堂


もとは華厳院の建物だったといわれる。本尊は平安時代の行基菩薩の伝承をもつ。この場所の前は暖沢(ぬくさわ)にあったが新田義貞の鎌倉攻めのさい焼失、薬師如来は焼失を免れここに納められたという。



多摩の民権

天子様の世になれば暮らしが楽になると思った農民達に、明治政府は徴兵制、地租改正を行なった。

納税額で免除される徴兵は貧しい農民からは逃れられないものであった。
地租改正とは徳川の時代に米で年貢を納めてきたものを、土地の所有者から現金で納めるようになることをいう。
米のかわりに現金で、土地の広さ、価値から地価を税額にした。
土地の私有化は農民にとって驚異的な「開化」だったはずである。
が、実は政府の真のねらいは豊作凶作に作用されず安定した地租を確保できることであった。

商人、職人、役人からは地租をとらないので余計に農民は重税にあえぐ。
不作で払えなければ高利の金も借金して払わなければいけない。
徳川の時代に比べ維新後は生活が苦しくなってしまった。
そこで地租改正反対一揆が各地で起こった。

多摩では秣場(まぐさば)事件があった。
里山など誰の所有かはっきりしないもの、みんなが山に入り薪を拾ったりできる公共と思われた土地の所有権を巡る争いだった。

 関東平野をとりまく丹沢山地、関東山地、秩父山地、八溝山地の連なりがある。
平野とこの山にはさまれた丘陵、すそ野が開港以来花形輸出品となった生糸産地である。
絹の産地はほとんどが山間のやせ地で、畑作収入も乏しかったが桑は良く育った。
横浜開港はこうした農家に現金収入をもたらした。


後に「絹の道」といわれる神奈川往還もできた。
明冶9年には多摩の農業生産のうち40%が生糸、マユであった。養蚕事業は農耕作業と違いまとまった運転資金を必要とする。
好況の波にのって事業拡大する農家も多かった。

そこへ松方正義のデフレ政策により農産物の価格は下落、借金は雪ダルマ式にふくれあがった。
土地の私有化により農民のものとなった土地は担保として取り上げられていく。
小作に転落し地主の農奴になる者、流民もあふれた。
儲かったのは林立した銀行、金融業者であった。

この負債支払い延期願いを要望したのが困民党事件である。

明冶17年 加波山事件(自由党員による専制政治打倒の挙兵事件) 
そして秩父事件(秩父困民党による負債延期、減税を請願した武装蜂起)は、
はじめての軍隊出動で鎮圧された。

明冶18年 武相困民党が横浜に向け請願行動を決行、瀬谷付近で警官隊に阻止される。
壊滅後困民党のことは村々では恥ずべきこととされ、家族達も口をつぐみ、
孫の代になっても知ることがなかったが、関連文書などが発見され今では随分研究されてきた。

幹部の一人須長蓮造は行商人となり諸国を流浪、故郷近くの野原で倒れて死んだ
須長の倒れた原を見おろす丘の上に透谷の碑「三日幻境の碑」が建てられた。

大阪事件とは明冶17年12月に朝鮮での政変をきっかけに
朝鮮の旧守派に対し開化派を支援し民権化しようとした。

国民は政変時の清国介入から清国開戦を主張した。
旧自由党員の多摩壮士たちはこの主張に便乗し、国内改革をして政府打倒をねらった。

透谷の友人大矢が強盗に誘ったのもこの事件の資金作りのためであった。

ところが幹部の裏切りにより未遂に終わり、多摩の民権家たちの逮捕に及ぶ。

大阪事件のあと政府は対外強硬論をあおり、日清戦争へと突っ走っていく。

自由党は伊藤博文内閣に近づき「民党は海軍の敵にあらず」
「政府といえども助くるべきは助く」と富国強兵を推進するようになった。



参考文献: 鶴見川沿い歴史散歩(金子勤)・多摩の百年(朝日新聞)
参考HP: 町田市・海山町・自由民権資料館・板東千年王国・秩父事件・みえ東紀州の民話・鶴巻孝雄研究室
# by gannyan1953 | 2011-05-06 11:49 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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