歴史と素適なおつきあい

増上寺の寺領

歴史と素適なおつきあい 番外編    2011・8・27

東京都歴史散歩

増上寺の寺領

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増上寺は、徳川家の菩提寺で、有名人の葬式で知られる。芝公園にある。

平安時代空海の弟子宗叡が千代田区紀尾井町付近に創建。当時は真言宗で、光明寺と称した。
室町時代1358年千葉氏、佐竹氏庇護のもと建物を再建して浄土宗に改め増上寺と号した。以後江戸の浄土宗寺の由緒ある寺としてその学問所となった。
天正18年(1590)、江戸城にはいった家康は増上寺を菩提寺にして現在の芝公園に移した。
1608年に朝廷の勅願所となり、幕府の保護も受け、1610年に家康から1000石を与えられた。
この時の寺領は、都筑区の池辺村、橘樹郡の師岡村、豊島郡の巣鴨村、荏原郡の中里村の四ケ村だった。
関東浄土宗の総本山となり。1650年代には120余りの建物が並び、3千名以上の学僧がいた。

勅願所とは天皇の発願によって国家と皇室の安泰を祈るために建立された寺をいう。
最初の勅願所は聖徳太子が創建した大安寺とされ、薬師寺、東大寺、延暦寺、大覚寺、仁和寺がある。
明治になって廃止された。

徳川家菩提寺なので、将軍の御霊屋が建てられている。二代将軍秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂とあわせて六人の御霊屋がつくられた。
将軍以外に夫人、側室も祀られている。

増上寺の寺領は二代秀忠のとき五千石になっており、荏原郡九ケ村、都筑郡七ケ村、橘樹郡四ケ村、豊島郡一ケ村の二十一ケ村となった。
享保三年(1718)には一万五四〇石になった。
橘樹郡二十四ケ村、荏原郡十三ケ村、都筑郡七ケ村、豊島郡一ケ村の四十五ケ村であった。
多くは多摩川流域で、池辺、師岡、荏田、東方、茅ヶ崎、川和、王禅寺、塚越、鹿嶋田、下平間、市坪、小倉、上末吉、小杉、宿河原などである。
村の全部だったり村の一部だったりする。


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秀忠・崇源院の位牌


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満願寺  横浜市青葉区あざみ野4-27-6


石川村、王禅寺村は秀忠夫人お江の御化粧料地だったが、秀忠死去とともに増上寺の御霊屋領となった。お化粧料とは夫人の小遣いを意味する。
各御霊屋の維持費を賄うための寺領は、幕府直轄でもなく旗本領、大名領でもなかった。

元禄時代には増上寺のなかに輪番所が設けられ輪番の寺僧と役人が寺領から御霊屋料の出納や村へのお触れ、領内の管理、訴訟の対応、村役人の任免を担当した。

寺領の農民は寺領特有の雑税の負担をするが、助郷役、鷹狩り人足、国役金の負担は免除された。
年貢高も低く定められ年貢米を運搬する人足、境内草刈り人足、正月、盆の御用を勤める増上寺宿坊の泊まり人足、増上寺周辺で火事があったときの人足など、人、馬を提供しなければならなかった。

金納化されたものが、年貢米を運ぶ船頭の給金、寺領の村々に通達を回す人足の給金、境内掃除に使う箒の代金などである。

正月の門松、施餓鬼の竹も現物で納めた。この門松の上納をめぐって石川村と王禅寺で争いが起きている。

寺領の農民は最初は幕府への帰属意識が天領の農民以上に強かったが、近世後期にはいると、御霊屋離れが生じてきた。
背景に増上寺の役体系の変化、村の階級分解、一番に増上寺を崇める意識の低下があった。
幕府の力が弱まり飢饉、農村の荒廃、富裕層の出現もあって没落農民が増えた。これが、不穏勢力となって関東を取り締まる八州めぐりが設けられた。

そんな農村社会の変化が増上寺寺領の支配も変化した。
寺領の村々はいろいろな請願を行うようになり、おおむね成功したらしい。

寛政四年(1792)王禅寺村では諸役負担に反対し村方騒動を起こしている。要求は認められている。

文化二年(1805)王禅寺村の名主は御霊屋領二十五ケ村の肝入名主になり、諸役の免除活動の中心になった。そのため、請願の歴史、伝えられてきた事由の考証、守護不入(領主が租税を徴収できない)、各将軍の来歴、鷹狩りをする場所、火付盗賊改め(犯罪の取り締まり)、上知(土地をお上に返上すること)などの学習に努めた。

文政十一年(1828)石川村で焼けた増上寺のための冥加金で村方騒動が起きた。

文政十二年(1829)先の王禅寺名主により、増上寺独自の組合結成が認められた。
組合村とは、領主権限を越えた治安維持を展開するため組合を設定しようとする幕府の政策だった。
これは助郷割合、年貢徴収などの組合だった。
これに断固反対し増上寺独自の組合を主張した。増上寺にとっても村々にとっても広い連帯と免除特権を守り抜く組合であった。               
増上寺上納御門松之一件(青葉区古文書之会編)
# by gannyan1953 | 2011-08-27 17:55 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

中原街道 丸子の渡しから小杉御殿へ

RSO歴史と素適なおつきあい            2007・10・12
  


「中原街道」丸子の渡しから小杉御殿へ
                                  


集合場所:東急東横線「多摩川駅」改札口 
 
多摩川駅~多摩川台公園・古墳展示室~丸子橋~長屋門~石橋醤油店~小杉陣屋跡~西明寺~カギ道~小杉駅供養塔~庚申様~小杉十字路~ニヶ領用水~泉沢寺~街道地蔵~武蔵中原駅


多摩川台公園

川岸の丘陵からは多摩川の流れ、富士、丹沢、箱根を一望できる。そうした地は古代より好まれ
豪族の墓である古墳が築かれた。ここには4世紀から7世紀に」造られた古墳が10基点在し、亀甲山古墳、北側に宝来山古墳、その間にある8基の古墳は多摩川台古墳群といわれている。公園には古墳展示室が併設されている。

武蔵国造の乱 日本書記「安閑記」より

武蔵国では、笠原使主(かさはらのおみ)とその同族小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位をめぐって争っており、年を経ても決めがたい状態であった。小杵の性格は、けわしく逆らうことがあり、心は高慢で素直さがなかった。そしてひそかに上毛野(かみつけぬの)君(きみ)小熊(おぐま)に援助を求め、使主を殺そうとした。このことを知った使主は、逃げて京へいけり、そのありさまを訴えでた。朝廷は裁断を下し、使主を国造とし小杵を誅した。国造使主はかしこまり喜んで

横停 (よこぬ)  ―多摩横山と埼玉県横美郡の2説がある

橘花 (たちばな) ―川崎市横浜市東北部 

多氷 (たま)   ―多摩

倉樔 (くらき)  ―横浜市南部


の四ヶ所の屯倉を献上した。                

古代の武蔵国

小杵(おき)の地―多摩川の中流域から下流域、鶴見川下流付近 
     笠原直小杵は使主のいとこである。出身は埼玉県鴻巣市笠原 
     野毛古墳は小杵の同族か、本人の墓ともいわれている。
    
使主(おみ)の地―埼玉県鴻巣市笠原  
   13代成務天皇のときその子、兄(え)多毛比(たもひ)命(みこと)を東国に遣わし夭邪志(むさしの)国造(く   にのみやつこ)とした。
   氷川神社の祖である。
   兄多毛比命から7代めが笠原直使主(かさはらのあたいおみ)である。
   
小熊(おくま)の地―群馬県太田市渡良瀬川流域
     10代崇神天皇の子、豊城入彦命を東国に派遣され、上野総社神社に祖を祀った。
     小熊はその末裔で、安閑9年に蒼海明神という称号を上野総社神社に祀った。


多摩川に沿って古墳が造られたのが4~6世紀で、ここ亀甲山(かめのこやま)古墳(こふん)、蓬莱山古墳から世田谷の野毛古墳(おもいはせのみちで見学)、の4キロほどの間に50もの古墳がある。その上流にいくと狛江など古墳が続くが。6世紀には大きな古墳は造られなくなる。
このあと、笠原使主の本拠地につぎつぎ古墳が造られるようになるが、それがさきたま古墳群である。                   
この古墳の流れからは5世紀まで多摩の小杵が勢力を持っていたが、武蔵国造の乱(安閑元年534年)後、勢力が使主に移ったことがよくわかる。   

小杵が力を借りた小熊の地、上毛野(かみつけぬ)の国は群馬県太田市である
。ここにある太田天神山古墳は亀甲山の4倍はある古墳で、東日本最大の前方後円墳である。天神山古墳以降大きな古墳は造られていない。

この小熊の上毛野国も武蔵国造の乱後衰退していったと思われる。
国造の位も大化の改新による国郡制でなくなってしまう。

この乱は大和朝廷にとって関東制圧の絶好の好機となり、屯倉を献上され東国に軍事拠点をもち、
もうひとつの勢力である小熊を、連帯敗北させることもできた。

小熊はのちに屯倉緑野(みどの)を献上している。
白村江の戦いでは小熊の孫の雅子が将軍として赴くことになる。

* 小熊の上毛野と世田谷の上野毛とはかかわりがあるのだろうか?


のちに上毛野は上野にかわり、上野(こうずけ)(群馬)、下野(しもつけ)(栃木)となり、ふたつあわせて両毛という。上野毛の野毛は多摩川の崖(はけ)からきた地名といわれている。

中原街道


江戸と平塚を結ぶ道は「中原街道」と呼ばれた。別名には「相州街道」、平塚で作られた酢を運んだので「お酢街道」、「江戸間道」、「小杉道」「こやし道」などがある。
中世以前からあった道で平塚には古東海道が残り、一部は鎌倉時代の下の道でもあった。
北条時代に整備され狼煙(のろし)をあげる場所があったため直線が多い道である。
家康が江戸入りしたときや、久能山から日光に遺骨が運ばれた時も利用されている。

江戸時代虎ノ門から平塚にあった中原御殿を結ぶ道だったため「中原街道」と呼ばれる。
家光の時代まで鷹狩の際、小杉御殿、中原御殿に休憩、宿泊をした。
東海道が整備されると幹線からの役目はなくなるが大名の多い東海道を嫌い庶民にはよく使われた。直線でつながれているため最速ルートの脇往還となった。
赤穂浪士も人目を避けるために利用している。

宿は設けられず継立場として小杉、佐江戸、瀬谷、用田がある。


丸子


丸子の地名は渡し守りから守る子、モリコ、マルコに変化したという説と、多摩川の流れが丸く蛇行していて丸子になった説がある。
古くは吾妻鏡に「丸子庄」とでてくる。円覚寺の文書には「丸子保」、1477年の文書には「武州稲毛庄鞠子郷」、1478年には太田道灌が「丸子城、小机城に籠もる」、1486年道興准后が丸子に詠めるうたとして「東路の丸子の里に行かかり、あしもやすめずいそぐ暮れかな」とうたっている。 (廻国雑記)

     
准后―貴人のこと
丸子城は、太田道潅に追い詰められた長尾氏の家来が立てこもったという城で、日枝神社がその跡といわれる。

丸子の渡し


中原街道を通る人々にとって昭和10年に丸子橋が完成するまで渡しが唯一の交通機関だった。
丸子の渡しの創始者は、徳川幕府の御用を承ってはじめた大貫市郎兵衛という人で
岡本かの子の祖先にあたる。

* 明冶元年、備州兵が丸子の渡しに陣を構えた。人足242人を提供する。

* 渡し場の近くに青木根、松原集落があったが、明冶43年大水があり、大正9年の築提で姿を消した。青木根と、松原には50軒ほどあり、天神町に移転させられた。

* 東横線鉄橋の河川敷にお伊勢様と親しまれた伊勢神社があった。築堤工事のおり、神社あとの高さ4メートルほどの丘から人物の埴輪が出土した。6世紀のころの古墳であることがわかり、
上丸子古墳と名付けられた。男女一対で男性には右胸に弓が、女性には盾があるとみられた。戦闘時、女性も参戦したと思われる。その埴輪は震災で消失してしまったが、神社脇に住んでいた白井家が別の土偶を所有していたことがわかり、平成8年に市民ミュージアムに寄託された。


安藤家長屋門


江戸時代の中ごろ江戸の代官屋敷より移築されたと伝わる。安藤家は小田原北条配下の武将だったが北条滅亡とともに土着して代々名主をつとめた。
安藤家は小杉宿の問屋をつとめた。

石橋醤油店

明冶3年、農業をしながら醤油作りをはじめた。大正12年には醤油醸造が専業となり商標は
「キッコー文山」であった。現在、醤油醸造は行っていないが、当時の製造蔵が残る。
* 原家は江戸時代、肥料商を手広くやっていて、方々に石橋を造ったため、石橋という屋号でよばれた。原家の親戚も好んで屋号として使ったという。
原家はもともと千葉氏の流れをくむ旧家で、二十代続いている。名主百姓だった原家は吉良氏が勢力を伸ばしてきた時、吉良氏の傘下となった。
子孫の中には紀伊国屋文左衛門と吉原で花魁道中をした人がいたらしい。

小杉御殿跡

小田原北条氏が滅んだあと、徳川家康は関東に入府し、慶長8年(1603)に幕府を開く。
それから、二代将軍秀忠は、近郊各地に御殿とよばれるものを造った。
表向きは鷹狩などの遊興のためとなっているが、実際には領内の状況視察、譜代家臣の結束のためと思われる。
慶長2(1597)年、代官になった小泉次太夫が小杉陣屋を設けた。二ヶ領用水を造営するさいの現場事務所として使った。
慶長13(1608)年、ここ小杉に御殿が造営された。
家康は、すでに将軍職を二代秀忠に譲り、駿河に退いていたが、幕府の実権はまだ握っており、駿河と江戸の往復の際、小杉御殿を宿舎として利用していた。
小杉御殿は、家康の送迎のほか、鷹狩の休憩に使われ、一度荒廃したものを西国大名の参勤交代の宿舎にも利用した。
その後東海道が主街道になると廃れていき、明歴元年(1655)品川東海寺に御殿の資材を譲り渡した。万治3(1660)年には、ことごとく廃止された。
御殿は1万2千坪におよび石橋醤油店の先から西明寺あたりまであった。

西明寺


真言宗智山派、境内の弁財天は時頼の伝説がある。小杉学舎が置かれ近代小学教育の場となった。

龍宿山金剛院西明寺縁起によると、西明寺の名は遠く弘法太子が勅命をうけて渡支した際の宿房の寺号に発し、帰国後この地に留錫し高弟泰範に命じ堂宇を建立するとある。
北条時頼が中興の祖といわれている。

時頼にちなむ弁財天がある。欄干は高村光雲の弟子の作、時頼の木像とその歯、田沼意次の妻の墓がある。

* 別説に龍宿山金剛院西明寺でもとは川崎市有馬にあった。かつて武蔵国有馬村にある有馬西明寺に霊泉があった。大化3年役小角によって霊泉の源のなる滝が発見される。聖武天皇勅願の影向寺の文書に「聖武天皇の子、安部内親王が病にかかりこの地の春日宮に祈祷に参られ泉で沐浴すると病は治り(天然痘らしい)そのお礼に西明寺を建立した。村上天皇、朱雀天皇、源頼義、義家、頼朝、北条時頼など帝、武将が療養した」と記されている。
天安2年(858)円任により影向寺の末寺となった。
1433年の地震で有馬西明寺は倒壊し、再建されないままであったが、1444年ころ鎌倉北条氏滅亡後に小杉に住んでいた鎌倉浪人によって有馬から小杉に移された。

有馬の霊泉は正嘉元年(1257)の地震により途絶えたりしていたが昭和40年源泉が発見され今は「有馬療養温泉」になっている。

この霊泉は安岡という人が八幡神のお告げで有馬の土地を購入、水道がひかれていなかったため、井戸を掘ったところ汚い水がでて半年もすると水が澄んできた。風呂水に使ったら赤い色にかわったが、妻のリュウマチが治ってしまった。驚いて調べてみたら鉱泉で古い歴史があることを知ったという。                         「有馬療養温泉旅館」

カギ道

小杉御殿を敵から守るために作られた道で城下町によくみられる。ここは背後の多摩川、さらに西明寺や近くの泉沢寺もあわせて御殿の守りが固められていた。

小杉陣屋跡 妙泉寺跡

小杉陣屋の陣屋は江戸時代はじめ小泉次太夫がニヶ領用水工事のために陣屋をもうけたことによる地名である。小杉駅供養塔によって宿になったことがわかる。

小杉駅供養塔

川崎宿より50年遅れ延宝元年(1673)に小杉も宿になった。供養塔に稲毛領小杉駅、東江戸、西中原とある。


庚申様
庚申様を祀った供養塔。昔から油屋の屋号をもつ小林家の角にあったので「油屋の庚申塔」とよばれた。台座には南大師道と刻まれている。
昔はこの地点で大師にむかう府中街道と分かれていた。

小杉十字路

明冶になって街道を整備、十字路付近は料理屋、旅館、劇場が集まり賑わっていた。

二ヶ領用水 神地(ごうじ)橋
多摩川中流の南岸、中野島から取水して稲城、川崎の二ヶ領を潤す大用水として慶長16年に完成した。多摩川北岸の六郷用水と同時に、小泉次太夫の進言と指揮により完成まで14年かかった。
この工事は、家康からの黒印状を与えられた、幕府直轄普請事業であった。黒印状は天領だけでなく、私領の農民も人足として徴発できるもので幕府権力を背景にしたものであった。
次太夫は小杉陣屋近くに妙泉寺をたて事業の完成を祈願した。
100年後に、川崎宿名主田中休愚により、多摩川、二ヶ領、六郷用水の総合的な治水が行われた。
しかし、流水量が減ると水争いが起こり訴訟、実力行使などの騒動がよく起こった。
昭和になってサイホン原理で湧き出る水を灌漑面積に応じて下流へ配分する円筒分システムがコンクリートで造られ、水騒動もなくなった。このシステムは全国に普及した。

泉沢寺

世田谷に勢力をもっていた吉良氏の菩提所として延徳3(1491)年烏山に創建された浄土宗の寺である。
諸堂焼失のため天文19(1550)年吉良頼康が上小田中に再興した。
吉良氏は税を免除して居住をうながし、門前町を開いてこの地の繁栄を図った。
吉良氏は小田原北条と強い結びつきがあり、世田谷から横浜蒔田まで勢力が及んだ。
かつて寺の周りには構え掘りとよばれる1.8mの堀があった。今それはなくなり二ヶ領用水となって姿をとどめている。吉良氏が寺を再興する時勢力南下のための拠点とする目的があったと思われる。
北条滅亡後勢力は衰えるが、上小田中に吉良氏の家来が、大谷戸(おおがやと)はその家来の原氏が開墾したといわれる。

世田谷吉良氏

吉良氏は足利氏と祖を同じくし、本家は赤穂浪士事件で有名な吉良上野介の三河吉良氏でその支流になる。鎌倉公方足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領した。
豪徳寺が本城で支城に奥沢城(おもいはせの道で見学)がある。
道潅とともに長尾景春の乱で豊島氏と戦い江戸城を防衛している。
吉良頼康の代のとき、小田原北条の武蔵進出により、北条氏綱とは婚姻で関係をむすび、世田谷城(豪徳寺)を北条に譲り、蒔田に移った。
秀吉と小田原北条の戦い(小田原の役)では吉良氏は戦わず逃亡し、吉良氏は秀吉に領地を、没収された。
のちに家康にとりたてられ「高家」となり1125石「蒔田氏」とよばれる旗本になった。
本家三河吉良氏が赤穂の事件後断絶した時、蒔田姓から吉良姓に復姓し、明冶に知行地であった千葉県長生郡寺崎に移った。


街道地蔵

用水に落ちた子供の供養、街道で行き倒れになった人の供養、川ざらいした時にみつかった
仏像を祀るなどいろいろいわれている。


参考文献 :神奈川の歴史散歩、多摩川台古墳、
インターネット:m@ryko 坂東千年王国、歴史の道探訪 中原街道コース ウイキペデイア
        はぐれ旅、有馬療養温泉,城めぐり.com.
# by gannyan1953 | 2011-08-04 19:12 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

柴犬 朔太郎

2011年7月
橈尺骨成長板障害とうしゃっこつせいちょうばんしょうがい


橈尺骨成長板障害とは?
前足を構成する骨には上腕骨や橈骨、尺骨などがあり、これらは成長期に太く・長く伸長する。
骨が縦に伸びるとき、骨の両端にある「成長板」と呼ばれる場所を基点として骨が作られる。橈尺骨成長板障害では、橈骨または尺骨の「成長板」へなんらかの障害が加わり、橈骨と尺骨の成長が不均衡となり、足が彎曲する。

治療 
歩いたり触ったりしたときに痛みがあり、骨の変形を直す尺骨切除、変形矯正などの外科的治療を行う。

4年経って朔太郎の病名がわかった!現在、
自然治癒し、元気である。


柴犬の朔太郎がもうすぐ4才を迎える。b0228416_149655.jpg4年前の夏、寒川神社の近くで柴犬のブリーダーから購入してきた。
中原街道歩きをしていて、道端にたくさんの柴犬がサークルにはいっていた所に、「柴犬の赤ちゃん生まれました」という張り紙をみつけた。

初めて会ったのは、生後三日目で、やっと飼いたい犬に出会えたと思った。

その1年前にゴールデンレトリバーのガンジーを亡くし、深い哀しみから、だんだん立ち直っていき、
犬を飼っているとできなかった長期のの海外旅行もして、やっと1年後、犬を飼うことができた。

ところが、2ヶ月たったころ橈尺骨成長板障害という病気になった。
その時は病名もわからず治療の施しようがないので殺処分を勧められた。
痛みを伴いながら生きていくにはかわいそうだという理由からである。

実際、前足は彎曲し、とことこ歩いては倒れてしまい、かわいい時期なだけに
みていて大変つらい思いがあった。

さきほど書いた病名は何年もたってからわかった病名で、このときは訳も分からず、
3軒の獣医をまわった。うち2軒はレントゲンをとって原因がわからず様子見。
1軒が、症例はないという。

3軒目の獣医さんから一週間後、殺処分を勧めてきた。

私は動転していたので病名をいわれたかもしれないが記憶がない。
治る手立てはないといわれた。

ブリーダーに相談したら引き取ってくれるという。3ヶ月になっていた。
一番かわいいときだったし、最後まで責任がとれない自分が悔しくて、それは落ち込んだ。


結局朔太郎は、実家である寒川で両親、兄弟に囲まれ1ヶ月間ブリーダーのもとで暮らした。

それから、どういうわけか足の彎曲がなくなり歩けるようになった。
2ヶ月から4カ月までの2ヶ月間患っていたことになる。
自然治癒したのである。

ブリーダーから「回復したが再発もありうるがどうしますか?」 という連絡がはいり、すぐに迎えにいった。
無事、家に戻り、現在何事もなく元気である。

少し兇暴で、大事な時期に手放したこと、帰宅してから甘やかしたことで朔太郎のしつけに失敗してしまった。
ゴールデンのように誰にでも友好的な犬にしたかった。
ただ柴犬の特性と思えば柴犬らしい性格なので、それもよし!!とかわいがっている。
# by gannyan1953 | 2011-07-28 10:15 | 前足 湾曲 柴犬朔太郎 | Comments(4)

空海と冶金

歴史と素適なおつきあい 座学 2010・7・9

           

空海と冶金(やきん)

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辰 砂  (しんしゃ)            
         
空海の生涯

空海は774年、讃岐に生まれ、密教を大成した平安初期の僧であり、日本中の人が「お大師様」として

信仰する超人的な活躍をした「弘法大師」のことである。                     

出自は蝦夷なのか

讃岐国多度郡屏風ケ浦に、佐伯直田公(さえきのあたい たぎみ)の三男として生まれた。
父は豪族でかつては国造であった名門である。

出自は多説あり、大伴氏から派生した佐伯氏、他にヤマトタケルの東征に随行した功績で
蝦夷を統括する讃岐の佐伯氏となったという説である。

当初、蝦夷征伐で三輪山付近に俘囚(ふしゅう)としておかれた蝦夷が、
行い正しからずと地方に分散され別所となる。

統括した役人は同じ蝦夷であったといわれる。
空海の先祖が蝦夷であったといわれる由縁である。
母は阿(あ)刀(と)氏で秦氏系である。


神童だった真魚(まお)


幼いころから勉学に優れ、15才(788)で新京長岡京にでて、
叔父安刀大足に漢学を学ぶ。

大足は伊予親王に学問を教える学者であった。

空海はすさまじい勢いで勉学に励み、後に空海自身が、
真理の追究、根元的な疑問のため知識を身に付けたと語っている。

そのころ奈良仏教は腐敗堕落した仏教といわれ
一般庶民からかけはなれ、農民は疲弊していた。

自身の歩む道として、庶民の上に立つ官吏や寺僧に魅力を
感じることができない状態であった。


金星を飲み込む

18歳(791年)ひとりの沙門(しゃもん・私度僧)勤操(ごんそう)に出会い、
虚空求聞持法(こくうぐもんじほう)の行法を授かる。

50、70、100日のいずれかのうちに100万回真言念誦を
唱えると8万4千の経典の智慧が備わるというもので、記憶法のことである。

ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ

が虚空求聞持法の真言である。


沙門に惹かれた空海は、大学を辞め出奔する。

ここから24歳(794年)ころまで阿波、土佐、伊予など山岳修行に励む。

あるとき、四国室戸岬の崖上に座し、一心に求聞持法を修していた時、
心は澄み渡り、万象を包むような気持ちになった。

体は大自然と一体となり、彼方に明けの明星金星が勢いよく近づき、
いきなり空海の口に飛び込む。

空海は簡潔に「明星来影す」と記している。
こうした体験を記した「三教指帰(さんごうしいき)」を著す。

「三教指帰」

戯曲風につづったもので、
亀毛(きぼう)先生(儒教)
虚亡穏士(こもういんじ)(道教)
仮名乞児(けみょうこつじ)(仏教―空海自身)
がそれぞれの説を主張し、最終的に仮名乞児の唱える仏教に
全員が敬服する内容。


空海はこの真言密教の素晴らしさは仏教であると確信したが、
日本に十分伝わっていないことを、嘆いた。

入唐の決意

修行を重ねるうち、密教根本経典のひとつ「大日経」に出会う。

*密教根本経典

① 大日経・・胎蔵法
  金剛頂教と並んで密教の根本聖典。大日如来(毘廬遮那仏)が
  宮殿で金剛サッタや菩薩たちに悟りを説いたもの。

② 金剛頂経・・金剛法
  大日経で示された悟りを実践的に把握し、
  悟りの心の観察や瞑想の方法を示す。
  金剛界曼荼羅は仏の悟りの境地で、
  これを観想することにより智慧が自分のものになる。

③ 理趣経・・絶対的な現実肯定、
  すべてを空に見て悟りを開き、 
  現実にある欲望を清らかであるという。

根源的な欲望、性愛も清らかであるということから、
空海死後、立川流という真言宗も成立する。

最澄はこの経典を借用したいと申し出て空海に断られることになる。
空海は、経典の意味、修法、真理を知りたいと思った。

しかし、日本にはそれを伝える人物がいないため入唐を決意する。

遣唐使の最低条件として官僧にならなければならないので、
東大寺で得度する。

時に804年空海は31歳になっていた。

困難な旅が続き、長安についた空海は
梵語、儒教、道教、景教、イスラム教、ゾロアスター教、
その他あらゆる宗教を学ぶ。

また。書道、文学、詩、絵画、音楽にいたる唐の
最先端の文化も身につける。

きわめて優秀な日本人の噂は皇帝(順宗)にまで届き、
交流するようになる。
「五筆和尚」の話が残っている。

異国人の空海に密教を伝授

32歳(805年)青(しょう)龍寺(りゅうじ)の
恵果阿闍(あじゃ)梨(り)に会い、
10年はかかるといわれる密教の両部の灌頂(かんじょう)と、
阿闍梨位の伝法(でんぽう)灌頂(かんじょう)を、
わずか3か月という短期間で伝授してしまった。

なぜ異国人の空海に伝授されたか。

① 勉学、修行により灌頂する素質を空海が身につけていたこと

② 恵果の弟子に密教を継ぐべき弟子がいなかったこと

③ すでに中国では密教が下火になっていたこと

恵果はインドから中国に伝わった密教を空海に託し、
日本での大成を願った。

帰国した空海の使命

密教をもって衆生を救う使命を決意した空海は、
薬子の乱で乱れる都に行き、
810年(37歳)高雄山寺で鎮護国家の大法
「仁王(にんのう)経法(ぎょうほう)」を修した。

験あってか薬子一味は捕らえられ、時の帝、嵯峨天皇に認められ、
45歳(818年)高野山下賜を願い出て勅許を得た。

名声は高まり修法、教団整備、寺の造営、
膨大な著作と多忙を極めるなか、
超人的な行動力で、密教浄土の具現にむかった。

満濃池の造成、請雨など行い、東寺を下賜された。

日本ではじめての庶民の学校
「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を東寺の隣に創設した。

八葉の高野山の地形

高野山の地形は、1000メートルの山々に囲まれた深山の平地で、
八葉蓮華(はちようれんげ)に囲まれているようであった。

八葉蓮華とは泥の中に咲く蓮を、迷い(泥)の世界にあっても
染まらず悟り(種実)を開くこと。
胎蔵曼荼羅の中央に中台八葉院が描かれ、
その中央は大日如来である。

空海は高野山の土地そのものを曼荼羅と考えたので、
高野山に修行の場としての寺院を作り始めた。

59歳(832年)高野山で万灯万華会(まんとうまんげえ)を修した。

その3年後62歳(835年)高野山で入定(にゅうじょう)する。

921年 醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号(しごう)を賜る。

入定―元々は瞑想することだったが、不死の命を得る意味になった。

空海の死についてはじめは「入滅」といわれ、
10世紀に仁海が「入定」といい、

それから空海は未だ奥の院に生きているといわれている。

弟子、実(じち)慧(え)の記録には荼毘にふされたとある。

仏陀の捨身信仰からこの伝説が生まれたと思われる。  
           (五来重著空海の足跡)

空海と水銀    

空海と同時に遣唐使として出発した最澄は留学1年、
費用は全額国家負担、金銀数百両といわれる。

空海は無名の僧で留学期間20年、費用は全額自己負担であった。

ところが空海は在唐2年で無理やり帰国してしまう。
(無断で帰国したため許しがでるまでしばらく大宰府に滞在した)
20年分の在唐費用を2年で使ったことになる。

恵果のもとで密教を学んだ際、密教道具、道具の作り方、
写経してもらう人への謝礼、他にも土木、冶金技術、医薬品の
作り方など様々な技術を学んできている。

その上短期間で準備するための人件費もあることから
莫大な費用を払ったと思われる。

その財源が、金属にかかわる人々「山の民」であった。

①空海と水銀と高野山

高野山の地中には銅や水銀が埋まっている。
高野山は中央構造線の上にあり、四国霊場、
空海開創寺院の多数が中央構造線上にある。

真言宗の霊場付近には水銀鉱床があることが多いのは
構造線に鉱物が多いことを知っていたと思われる。

高野山の開創以前は、狩場明神(かりばみょうじん)と
丹生都比売命(にゅうつひめのみこと)が地主神であった。

前者は狩猟、後者は水銀を意味する。

水銀は道教の煉丹術に珍重され丹(に・たん)、丹生(にゅう)地名は
水銀産地である。
山野を巡っているうちに高野山をみつけ、
八葉に囲まれた水銀が埋まる土地が欲しかったので、
朝廷に賜るよう申し出た。

空海自身、丹を薬として用いていたといわれる。
晩年頭に癰(よう)(悪性のできもの)ができて苦しんだといわれているが、
これが水銀中毒ではなかったか。



②山の民(鉱山特殊技能集団)

鉱山技術を持つ人々は、もとは渡来人で海の民から山の民になった人々である。
海の彼方からやってくる来訪神を崇拝し龍神、恵比寿も海神である。
この古代の海洋宗教は山岳崇拝に変容していくのだが、
海に囲まれた四国にはまだ修行の場として存在していた。

四国八十八か所の巡礼の成立の背景には、
この辺路(へじ)修行があり、海洋を遥拝修行する。

聖も「火じり」が語源で、火を熾す(おこす)人である。
火を熾して護摩壇で修することで、岬で行えば灯台の役目にもなった。
空海も幼いころからもともとあった修行者の行場で修行をしていた。

空海は厄年のとき四国を一巡したといわれ、
空海死後「空海にまみえたい」との願いから八十八か所が成立した。
そのうち遍路という文字に変わっていったという。

山の民は鉱山特殊技術集団として大仏鋳造時に富も得たことと思われる。
四国、熊野と空海の修行中彼らと接触し交流があったといわれる。

山は異界であり、異質な人々であり、
修験者、鉱山師、狩人、木地師など大和朝廷に
追われた「まつろわぬ民」の血筋もいたであろう。

すでに水銀の鉱毒がわかっていて回避できる技術や、
煉丹術、鍍金技術など、唐で学び、山の民に情報提
供する約束があったかもしれない。

空海の語学は入唐以前から堪能だったといわれ、
もともと渡来人の
血筋の山の民から語学も学んでいたのではないか。

お経の読みは呉音が多かったが「理趣経」は漢音(長安)である。

空海の死後も高野山を支えた人々は山の修験者(山の民も含む)達で、
僧たちが支える東寺と長い期間いろ
いろな権利をめぐり揉めることとなる。

弘法大師伝説は入定した空海を行基の行いと重ねて、
高野山が語ったもので、東寺資料では空海は亡くなっ
て荼毘にふしたとある。


③水銀

自然水銀の辰砂(しんしゃ)は薬として用いられ
鎮静、催眠の効用があり、毒性は低い。

辰砂HGS・・別名賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱、
日本では丹(に)と呼ばれた。
古墳の内壁や石棺の赤色顔料として用いられた。防腐作用がある。

水銀HG―汞(こう)、みずかね。各種の金属と混和し、アマルガムを作る。

古代の水銀中毒

辰砂から作られた薬を服用して不死を求める背景には、辰砂の赤色が血液
につながる思想があったと思われる。

辰砂を加熱すると硫化水銀が還元されて水銀が生じ、水銀が酸化すると
又硫化水銀になるという循環的過程に永久性を見出し、
不死不老をと結びつけたと葛洪(3世紀・道教研究家)の著書にある。

秦の始皇帝や前漢の武帝は道教の煉丹術をとりいれ仙丹を作らせた。
皮膚がかさつき高熱をだし、精神異常になったという。

唐の皇帝21人のうち6人は水銀中毒であったという。

日本の天皇のうち淳和、仁明天皇(空海の時代の天皇)は
「医心方」による金液丹を服用し効果があったとされる。

金液丹 ー水銀を仙薬にまぜ火にかけると、金ができると信じられていた。

丹薬ー 服用すれば7日で仙人となる。向精神作用があり、頭が冴えて軽くなる。

ダラニスケー陀羅尼助 古代、水銀がふくまれていたという。

五石散ー 五個の鉱物で作られ砒素を含んでいた。
     効用は覚せい剤に似ており、精神を快活、昂揚させる。

水銀、砒素を含む薬は空海がいた長安では流行していた。

丹生鉱山

三重県多気郡多気町にある鉱山。中央構造線上に位置し、
水銀を産するが多くは鶏冠石、石黄が多い。
この鶏冠石と石黄は混同されることが多いが、
石黄は雄黄のことで、いずれも薬として重用され、
ヒ素の化合物である。

ここの水銀は縄文時代から採掘されており、
奈良大仏の鍍金(水銀50トン・金9トン)にも使われ、
後の伊勢白粉が作られている。

大仏の鍍金での公害は有名な話だが、
現在蛍光灯に使われる水銀は年間5トンで、
いかに多くの水銀が使われたかわかる。
若草山に木が生えていないのも水銀によるという説がある。

伊勢白粉はそのものに毒性は低いが製造過程での
水銀中毒が起こっている。
水銀と塩を混ぜて蒸し焼きにすると白い粉になる。

鎌倉時代に中国から製法が伝えられ、
化粧品、腹痛薬、皮膚治療薬、梅毒薬、堕胎薬、
シラミ駆除薬などに使用された。

梅毒薬ではモーツアルトが梅毒になり
その薬で水銀中毒になり死亡した説がある。

空海が水銀を服用した場合の目的

即身成仏の完成を目指し、
防腐作用を体に行き渡らせるために服用した。

水銀は服用すると腎臓を冒し、
毒が体にまわりだすと肝臓が冒される。
空海には肝臓障害もあった。
日光二荒山
日光を開山した勝道上人が神橋でであったのが
深沙大王(辰砂)大王で
ふたら を にっこう と読み替えたのは
空海とおわれる。

日光には産鉄民の伝説がある。
空海と伏見稲荷
空海が東寺の五重塔を建立するのに伏見稲荷の山にある木を使った伝説がある。
今でも稲荷祭として東寺近くの御旅所、東寺、伏見稲荷と巡業する行事がある。



参考図書: 真言密教の本(学研)空海の足跡
山の宗教(五来重)
空海(三田誠広)
空海の風景・街道をゆく「高野山の道」(司馬遼太郎)
沙門空海(渡辺照宏)
真言密教と古代金属文化・空海と錬金術・空海のミステリー(佐藤任)
鬼の日本史上・下(沢史生)  
参考HP: ウイキペディア・エンサイクロメデイア空海・・坂東千年王国・伏見稲荷

# by gannyan1953 | 2011-07-23 14:32 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

平将門最後の地

歴史と素敵なおつきあい 番外編 2011・7・16


坂東市・八千代町を訪ねて


西念寺辺田355-1

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もとは聖徳寺であった。
親鸞の弟子、西念が現在さいたま市の野田村に道場をたて108歳まで生きた。それで野田の道場は長命寺と名づけられた。建武の兵乱で焼けてしまい西念の出身地、信州に移ることになった際、血縁だった辺田の聖徳寺に宝物が納められた。江戸時代初期開基西念として寺号も西念寺と改められた。

この寺の伝説「泣き鐘」
将門の兵たちがこの寺の鐘を持ち出し陣鐘にして鐘をつくと「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響き渡る。
士気も上がらず、将門は腹をたてて寺へ返した。





延命院神田山715
胴塚
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首塚より贈られた碑
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天慶3(940)年、将門は岩井にて討ち死した。その胴体がここに埋められたと伝えられる。からだ山からかど山に訛り神田山となった。東京で神田明神の神田と同じである。
近くに八坂神社があり、お祭りの一週間前であった。お囃子は「将門囃子」といって、将門の本陣で奏された軍楽である。神田明神の将門囃子のルーツだそうだ。

ここは相馬御厨の神領だったことから荒らされず守られてきたと思われる。
不動堂の裏にある円墳は、言い伝えで将門山、神田山といわれている。
ここに将門の遺体をひそっりと葬ったところで胴塚といわれる。
胴塚の上に根で塚を巻き込むように大きなかやの木がある。そのわきに大手町の首塚から
移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられている。

平将門公之像ベルフォーレ


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綜合文化ホールベルフォーレに騎馬像がある。土浦出身の彫刻家一色邦彦氏作である。
折立烏帽子をかぶり狩衣に太刀を差し黒鹿毛の駒に乗った堂々とした姿である。

図書館があり、将門コーナーには将門関連本がいろいろあった。お気に入りがすぐ見つかり、帰宅してその「新編将門地誌」赤城宗徳著:筑波書林を注文した。
とてもわかりやすく詳しく書かれている。


富士見の馬場岩井2245-5




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自然の状態の馬を使役につかえるように調教するため馬場と厩が必要だった。ここはそのために開設された。将門の領地には大結牧、長洲牧があったことから官牧の牧司をしていたと思われる。
この馬場で、合戦に役立つように百騎以上の馬を走らせ訓練した。
のちの相馬の野馬追いの始まりとなった。

高声寺岩井3478

伝説では、開山した性真がこの地を通りかかり眠くなってうたた寝をしたところ、将門が「自分に罪はない」という夢をみた。性真は将門を哀れに思い霊を慰めるため開山した。夜毎「ええ、おお」という気合が聞こえ寺号を「高声寺」とした。

島広山・石井営所岩井1603

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将門が関東を制覇した拠点である。
平良兼がここを急襲して大敗させたこともあった。
ここには将門の重臣、郎党たちの住居や、軍勢が集まった時の宿舎、馬繋場など必要だった。
今の上岩井から中根一帯に施設があったと思われる。
天慶3(940)年、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍により敗退、営所の建造物は焼き払われた。


石井の井戸 岩井1627


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石井営所あたりは古代から湧水が近くにあるので人が住み、奈良時代には石井郷といわれていた。
将門は王城の地を求めて見回っていつと喉がかわき水を探した。
どこからか翁があらわれ、大きな石の傍らに立ってその石を軽々と持ち上げ大地に投げつけた。
そこから清らかな水が湧き上がり、将門と従兵は喉を潤すことができた。
「どなたか」と尋ねると

「久方の光の末の景うつる 岩井を守る翁なりけり」

といって立ち去ってしまった。
将門はこの翁を祀り、この地を城にすることにした。水田に囲まれたのどかな場所である。


延命寺  岩井1111

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相馬氏の創建で東寺に属す。将門死後に祀られたものだが、ここの薬師如来像は将門の守り本尊といわれている。
縁起書によると行基作で高野山の霊木で刻まれた像と記されている。
将門の子孫の相馬氏が大切に守ってきた寺である。九曜紋がある.



国王神社 岩井948


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祭神は平将門である。将門最後の合戦の時三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼となった。将門死後33年目に郷里にもどりこの地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門像を刻んだ。
小祠をたてて安置し、将門大明神として祀った。社殿の彫刻も美しくつなぎ馬も見られる。
江戸期の将門の芝居につなぎ馬の紋所がでてくるがこの彫刻に由来している。
将門の武器は馬と鉄といわれる。乱が終わり、平和な時世に騎馬は不用と、馬をつなぎ置き再び合戦はありませんようにという願いがあるという。







弓田の不動尊 (慈光寺)
弓田388-2

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昔弓田は湯田といい、豊穣な土地という意味で早くから開けた場所だったと思われる。
寺伝によると行基の弟子が道場として開き不動明王が祀られていた。将門が岩井に営所を移したとき、岩井営所の鬼門除けとして信仰したと伝えられる。
門前から200メートルほど行ったところに弓田香取神社があり将門が参拝したといわれている。
奈良時代この二つの間に兵器倉庫、軍談所があり、将門をそこを利用したと思われる。


深井地蔵尊 沓掛2205
西仁連川のに沿ってあり、将門妻子の受難の地と伝えられる。
子飼いの渡しの合戦に敗れた将門は10日ほどして堀越の渡しに布陣するも脚気を患い、退却した。
妻子を舟にのせ、葦の間に隠し自分も山を背にした入江に隠れて見守った。
良兼も将門と将門の妻子を探したがみつからず帰途についた。
妻子はその様子をみて出てきたところ、残兵に見つかって芦津江のほとりで殺された。
場所は諸説あるが、このあたりではないかと坂東市は言っている。
地蔵尊の創建は古く将門妻子の供養の地蔵尊といわれている。



尾崎前山遺跡 八千代町尾崎字前山404-4.5


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9世紀の製鉄遺跡で谷津を望む台地にある。
斜面から下の水田にかけて鉄滓が散布していた。昭和53ねんから2年間発掘された。
斜面から製鉄炉3基、木炭や炉を築く粘土の材料置き場など確認された。
出土した土器から9世紀と判断され地形を利用した風を利用した堅型炉と考えられる。
遺物は八千代町歴史民俗資料館に展示、保管されている。
 詳しくは当ブログ「将門と鉄」をご覧ください。







仏性寺 (栗山観音) 八千代市栗山


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栗楢院常羽御厩(くるすいんいくはのみまや)は官牧であり、結城郡八千代町栗山地区仏性寺付近だと考えられている。「栗山観音」の名称の方がわかりやすい。
ほかにも大結牧(おおゆいまき)があり、大間木から尾崎あたりがではないかと考えられている。
現在も牧跡が残っているという。
「良兼は下総豊田郡にある栗楢院常羽御厩と付近の百姓の舎宅を焼き払った。真っ黒に焼け焦げた柱が立ち並ぶ廃墟となった。廃墟から立ち上る煙が空を覆う雲のように覆った。そして夜になると野営する良兼軍の火が点々と星のように見えるのみであった。
ここで見学終了。


今回、時間がなくまわりきれなかったコースの紹介


八千代町民俗資料館

薬師仏がある。将門を守る仏だという。


鎌輪館 下妻市鬼怒230


香取神社と碑がある二か所  将門は相馬御厨の下司を辞した後、父親から譲り受けた鎌輪で開拓を始めたとされる。現在の鬼怒川は鎌輪と別府の間を流れている。しかし、大正時代は鎌輪は別府と同じく鬼怒川の右岸にあったとされる。そうすると宗道と鎌輪の間を流れていたらしい。将門最初の本願の地。

羽鳥天神塚桃山中学南300メートル

茨城県桜川市真壁町羽鳥に、菅原道真の遺骨の一部が散骨された。

筑波山の西北に位置する羽鳥は服織(きぬおり)の宿といわれ養蚕がさかんなところだった。
ここには「羽鳥道」が今でも残り筑波山の登山道だった。
良兼はこの地に居を構えていた。近くに真壁の源護(舅)など縁者が住んでいたからか、領地の横芝(千葉)から離れていた。
大宰府に流された菅原道真は「我死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」という遺言により、三男景行が散骨した場所といわれる。
景行は常陸介になってこの地に赴任してきた。いったんは塚を築いたものの、永遠に祭祀を行うには土地が狭く、良兼の荘園内だったため、その3年後家臣と共に飯沼湖畔に居を移したとき、羽鳥塚も移し、大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう・茨城県常総市大生郷町1234)として祀った。大生郷の東2キロに満蔵(みてぐら)があるが、神に奉ずるという意味で天満宮に奉ずる食べ物が生産されたと思われる。
明治44年羽鳥の歌女神社の境内から石碑が見つかった。移転について書かれている。

常陸羽鳥菅原神社之移
  菅原三郎景行景兼茂景茂等相共移
  従(筑波・霊地)下総豊田郡大生郷
  常陸下総菅原神社
   為菅原道真郷之菩薩供養也
  常陸介菅原景行所建也
     菅原三郎景行五十四才也
     菅原兼茂四十七才也
     菅原景茂三十才也
  菅公墓地 移従羽鳥
  定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
  延長七年二月二十五日
景行は大生郷に学問所を作り高度な教育をしたと伝わる。その学問所に将門の弟将平が通ったという。
谷和原にいた将平は水海道にある「将門並木」を通って4キロの道のりを大生郷に通った。
後に将門が常陸国府を占領し新皇を名乗ったとき、将門に諫言した。
「それ帝王の業は、智をもって競ふべきにあらず。また力をもって争ふべきにあらず。昔より今にいたるまで、天を経とし、地を緯とするの君、業を纂ぎ(集め)、基を承しるの王は、これもっとも蒼天の与ふるところなり。何ぞたしかに推し議らざる。恐らくは物の譏(そしり)、後代にあらん」将門記より
唐の「帝範」の中の言葉であるという。帝王として模範とすべきことが書かれている。
道真の皇室中心主義の学問をしていた将平ならではの言葉である。
景行がここにとどまること24年、多くの業績を残した。今大生郷の柏木に三郎天神として祀られている。
(新編将門地誌:赤城宗徳著)

巫女の宣託 大宝八幡神社  大宝駅東


大宝八幡神社の創建は大宝元年(701)、藤原時忠が宇佐八幡宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。時の支配者、歴代領主に崇敬され、天慶2年(939)には平将門が当社の巫女より新皇の位を授けられ、前九年合戦の折には源頼義が戦勝祈願し、念願成就すると社領を寄進し、文治5年(1189)には源頼朝が奥州合戦の折、戦勝祈願し鶴岡八幡宮の分霊を勧請した。  

永泉寺守谷町大字守谷甲1800


寺の縁起では永泉寺は将門の古跡であり、将門が天慶の乱に負けた折り自分に似せて作った土武者を安置し堂宇を建てて代々守ってきたことが記されている。
町の中心である守谷の駅から筑波方面に1KM程車で走り細い路地を通り林をぬけるとある。上記は「沼崎山畧縁起」に記されてあるもので、現在その全文は境内横に碑となって残っている。


西林寺 守谷町大字守谷
  石神神社と愛宕中のまん中あたりにある。将門を守り本尊としている。

19世紀住職であった義鳳が小林一茶と親睦があり、鶴老(かくろう)という俳名をもち、ここ守谷を訪れた時の俳句が境内脇に残っている。


参考:新編将門地誌・八千代町HP・坂東市HP・闇の日本史HP
# by gannyan1953 | 2011-07-18 09:55 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)



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