歴史と素適なおつきあい

長津田の歴史探訪

RSO 歴史と素適なおつきあい2009・4・10
                           
日時:2009年 4月 10日 金曜日 9:50集合
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長津田歴史探訪マップ・長津田宿の歴史を活かしたまちづくり研究会
よくできている・郷土愛を感じた
マップ紹介の3コースを参考に8.2キロのコースを作って歩いてみた

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御野立所より遠望 昭和天皇の皇太子の時代、ここで演習が行われた

集合場所:東急田園都市線「長津田駅」南口改札口

案内地図
長津田の歴史探訪



コース
JR長津田駅南口―乾繭(かんけん)倉庫跡―御野立所(おのだてしょ)「御野立落雁」ー鎌倉古道―大石神社「大石観桜」―上宿常夜燈―大山道―下宿常夜燈「下宿晴嵐」―片町地蔵―JR横浜線開通時の鉄橋―大林寺「大林晩鐘」―福寿(お七)稲荷―殿様屋敷跡―王子神社「王子秋月」―福泉寺(昼食・弁当)-天王社「天王鶯林(おうりん)」―二十三夜塔―林地蔵―伯楽の山桜―旧大山道―東急田園都市線「すずかけ台」駅

長津田の歴史
縄文時代の貝の化石が崖から発見される。
大昔現在の谷戸は海で、台地の南側斜面などから、縄文土器の破片がみつかっている。
弥生時代の遺物は発見されていない。

古墳時代、縄文の遺物で「砥岩の岩はまぐり」と呼ばれる貝の化石が発見された場所を砥岩といい、そこに「ガンガン穴」と呼ばれる二つの穴があった。横穴古墳だったと思われるが、
大山道、246号線で消えてしまった。

馬の背あたりのことである。

律令時代、古代東海道が通っていた。

江戸時代になると、矢倉沢往還(大山道・厚木街道・青山街道)の宿となり大山参りに行く人、表街道の煩わしさから裏街道の大山道を行く武士たちでにぎわった。

戦国末期から明治まで一貫して旗本岡野の殿様が知行した。

明治になり、鉄道ができ、大山道の旅人相手の宿は衰微したが、鉄道の駅ができたことにより養蚕業で発展した。養蚕は大切な副業だった。

大正以降東京、横浜への野菜供給のため野菜栽培が盛んになった。

戦時中東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所現在「こどもの国」への引き込み線が長津田駅から作られた。駅周辺には関連工場もあった。




昭和40年ころ、東急電鉄、県住宅供給公社の宅地、住宅団地の造成により田園都市線沿いではいち早く急成長し街つくりが行われた。

そのために早く老朽化し今では田園都市線沿いでは近代化に遅れた感がある。

長津田の地名

通説:谷津が多く長い田んぼがあったので、谷津田―やちだ―ながつだという説

長蔦説:古くは長津田は都筑ヶ丘とよばれていた。

1333年鎌倉幕府滅亡の前年に書かれた下長津田(現いぶき野)河原玄三郎の古文書、大林寺の古文書にもある。14世紀は都筑ヶ丘であった。

駅そばにある随流院という寺がある。長津田が文献にでてくる(1559年小田原役帳)前から存在した寺で後醍醐天皇在位の正中元年1324年の創建である。

はじめは長蔦寺であった。慶長6年1601年に現在の向陽山随流院となった。

この寺の名前から「ながつた」―「ながつだ」になっていったのではないか。(林 房幸)

今回は長津田宿の歴史を活かしたまちづくり研究室発行の「長津田歴史探訪マップ」
「長津田の歴史を訪ねて」-長津田風土記―1985年発行―林房幸著
を参考にした。

林 房幸氏明治35年生まれ。長津田に住む。
農業、元国鉄管理職=運輸事務官、農協理事、民生委員、長津田史話会同人

長津田駅

明治41年よこはま鉄道開通からの駅でこの土地は大林寺末寺随流院所有の土地であった。
荷車で絹を運んだ道「絹の道」に私鉄横浜線が1908年八王子―東神奈川に開通、絹の輸送にあたった。

戦時中に長津田駅から旧陸軍田奈弾薬庫への引き込み線(現在のこどもの国線)が敷設(ふせつ)され駅の北西域には弾薬庫にかかわる工場群(マルエツ、厚生病院あたり)があった。戦後、引揚者の住宅、県営、市営住宅などが建てられた。

(余談)田奈弾薬庫跡は今でも「こどもの国」でみることができる。






1000人ほどの朝鮮人労働者を使って手作りでトンネルをほり、コテでコンクリートを塗り床はコールタールで固めてある。
内部はみられない。勤労女学生がここで弾薬作りをしていた。
その平和記念碑もある。
戦後米軍に接収され、朝鮮戦争の弾薬が作られた。
1961年に返還され1965年に「こどもの国」開園となる。あまり知られていないが、ここにはイサム ノグチ氏設計の庭園がある。
自然の地形と一体化した遊具やトイレである。今では使用されていないものもあるが、61歳のときの作品である。赤いテトラは今も250万円で売っているそうだ。(HP イサムノグチ庭園美術館・戦争廃墟)

乾繭倉庫跡(かんけんそうこあと

駅前JA田奈の裏にあった。
繭は10日ほどで、蛹から蛾になるので、10日以内に工場に運ばなければいけない。
繭は生物で、呼吸による代謝熱で蒸れたり、風通しが悪いと中のサナギが死んだり、カビが生えたりする。
そこで繭を乾燥し保存するための倉庫である。この倉庫のおかげで繭は安定供給できるようになる。
近隣から繭を集め倉庫に保管し八王子、岡谷などににまとめて運び、絹織物となってまた横浜港に運ばれた。

この倉庫ができるまで農家はそれぞれ急いで工場に運ばなければならなかったが、皮肉にもそのあと繭の急落で他の運輸に利用されていた。   (はじめてシルクを作る人の本)




御野立所(おのだてしょ)(御野立落雁)
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大正10年昭和天皇が皇太子のとき、長津田駅西の神明ケ丘で陸軍隊演習の総監をしたところである。
このとき皇太子は松を植えた。

鎌倉古道
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ここからつくし野にに抜ける細い道が残っている。

大石神社 (大石観桜)
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2014年工事中だった



王子神社とともに鎮守である。祭神は石で、石神という。
普段はみられないが、元旦と例祭日には開扉する
楕円形の自然石で関東大震災で倒れてしまったので、台石にコンクリートで固めてある。
高さ135センチ、幅110センチ、安山岩で水中に長くあった形跡はあるが、焼けた跡はない。
境内から縄文時代の石器、土器などが出土している。

大石神社の伝説―在原業平の東下の伝説がある。

業平は平城天皇の皇子阿保親王の5番目の子で兄行平とともに在原の姓で臣下に下った。
六歌仙のひとりで、歌人として有名だが、美男の代表で放縦な性格のため伝説ができたのかもしれない。
業平が愛人を連れて武相国境にさしかかった時、追手のため周囲から火をかけられ付近は焼け野原となった。
しかし二人の死体はなく、あったのはこの大石だけであった。
二人は抱き合ったまま焼死し、石になったという悲話である。
武蔵風土記には祭神が業平であるというが、地元には伝わっておらず祭神は昔から大石であるという。

まだ続きがあり、この石があった武相境がどこであったか定かでなく、
長津田辻(R246市境)と亀甲山(旭区上川井IC近く)の間に元石(元大石)という地名があったのでそこではないかという。
ところが石の所有でもめ、長津田のものと決まり、そこから運ばれたという説もある。
下長津田まで運ぶ途中大石山のふもとで動かなくなりその山頂に祭ったという。
村境の峠にはよく境界石がおかれ神をまつり紛争を避け、通行の安全を祈るというがその境界石ではなかったか。

上宿常夜燈 
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大石神社から坂をおりる途中にある。 

旧大山道  
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右側は長津田小学校              


下宿常夜燈 (下宿晴嵐) 
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道路整備で位置が変わっている。このそばに兎来の家があった。
兎来の読みはトライと思っているが、
中平龍二郎氏の「ホントに歩く 大山街道」にはウキとある。
(川口木材倉庫)幕末の文化人で、大林寺に兎来の描いた杉絵が残っているが描いた2年後72歳で亡くなった。
墓は大林寺にある。子供がなくのち再興し、後裔は新倉氏。
琴松の家は兎来の斜め上で後裔は河原氏である。崋山に描いてもらった絵は家宝として子孫に伝えている。

崋山の游湘日記に長津田が掲載されている。

渡辺華山は、天保2年1831年、9月20日に江戸を出て21日に長津田を通って鶴間宿の「まんじゅうや」に宿泊、22日にお銀様を訪ねている。

長津田では俳人「兎来」という号をもつ萬屋藤七の家で休憩している。

「上下蛇行暫く長津田といへるに至る たばこ売屋にやすらう あるじは菊の花を生けて賓ありと知らで言も交えず」無愛想だったようである。

崋山「吾輩は都から来たもので俳諧にはすこぶる関心のあるものだ」といっても返事もしない。

あとで兎来は、崋山の弟子にそれとなく華山の人物について聞いてみた。

華山が有名な人物であると聞いた兎来は驚いて、酒、そばをもてなした。
崋山「このそばは、きよからずして味わろし 麦飯を乞ふいとよし」

そこに俳号「琴松」がやってくる。

琴松は華山を引きとめ、「泊っていってくれ」と頼むが断られる。
「では何か書いてくれ」とせがむので、数枚崋山は書いた。

やっとのことで、二人を振り切って出たが、あとを追いかけてきた琴松が、
竹をふたつに切ったようなものを「餞別に」と渡される。

竹はよくみると銭であった。

誠に興がつきて辞退しようとしたが、いかにも素朴で敬をつくしているので返し難く、
この銭で酒とたばこを買って出ていくとある。

片町地蔵
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三体の地蔵が祀られている。台石に
「向テ右かな川 みぞノ口」
「南つる間 東江戸道」とある。

ここに加藤外記という人の碑があった。

米軍輸送部隊のトラックが「加藤外記の碑」を壊してしまった。

加藤外記は長津田の人で、無許可で長津田より恩田に通じる道を拓いた。

これが領主より反逆の企ての証であるとして捕らえられた。

そしてこの地蔵堂の所に集められた村人の前で処刑されたという。

JR横浜線開通時の鉄橋

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明治41年開通から今なお健在である。複線化したときのものは右側のコンクリート。

大林寺 (大林晩鐘)
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岡野家墓地

慈雲山大林寺 開山:元亀元年1570年英顔麟哲和尚 開基:板部岡江雪 宗派:曹洞宗 

本尊:釈迦如来 岡野家菩提寺 武蔵風土記には、初代岡野房恒(江雪の子)創建とある。

岡野家三代のとき住撰よりここに移った。

領主岡野家代々の墓がある。

他に兎来、琴松、関根範十郎(幕末に岡部谷戸の虚空蔵に塾を開いた人)。

引田天功の墓がある。本堂脇の建物に五百羅漢がある。

道路沿いの板碑―上宿竜昌寺廃寺境内にあったものを明治34年大林寺に移した。

嘉元元年1303年の板碑で緑泥岩で質がよい。
阿弥陀如来を念ずる人々を極楽に収容し地獄には落とさないという慈悲の大きさを表現し、念仏した後に唱える回向文であるという。
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延命地蔵
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奇麗な板碑

長津田領主岡野家について

小田原北条氏の家臣でのち徳川家に仕え、
千五百石の知行を受けていた旗本。領主といっても、住まいは江戸裏二番町に屋敷を拝領し、江戸城に勤務
していた。
最初は陣屋をおき家来が知行し、のちに名主がこれに替わった。

初代の父、越中守融成(みちなり)は歌道、茶道で「江雪」という道号で本名より通りがいい。
北条高時の二男相模次郎時行の子孫という。
父の代から小田原北条に仕え江雪は、4代氏政の命で板部岡を名乗った。
江雪は文筆にすぐれ、知慮深く、清廉潔白なので政務に登用、評定頭人の列に加わり、伊豆七島の代官も兼ねた。
和睦交渉、降伏の説得を得意とした。

沼田、名胡桃(なぐるみ)両城の紛糾が北条の命とりとなったが、この件で使者として秀吉に謁見している。

秀吉の裁決は沼田3万石の三分の二と沼田城を北条に、名胡桃城は真田に残すということであった。
ところが、北条から城代としてつかわした猪俣範直は約束を破り名胡桃城を奪取した。
秀吉は激怒し、天正18年1590年北条の支城を次々陥れ小田原城包囲に至った。

このとき江雪は小田原城に籠城していたが、降伏後秀吉の前につきだされた。

「そちは偽ったか」と責問されると、「我君もとより謀反の心なし。辺鄙の仕が愚で名胡桃をとり、結果北条が滅びること江雪の思慮にては如何とも出来ず。誠に家の滅びる運命とも申すべきもの。

されど日本国の兵を引受しこと北条家の面目なり。」

秀吉は忠義に感じいり、家臣とし、岡野を名乗らせた。
秀吉死後、家康に仕え関ヶ原、上杉攻めにも加わる。
養子の岡野房恒が長津田初代領主となる。
21歳の時、小田原攻めのときは岩槻城を守った。
このときの怪我の療養で妻の実家のある恩田村に身を潜めていた。
秀吉朝鮮出兵のとき家康に従い名護屋に行き、上杉景勝攻め、関ヶ原にも父とともに加わる。
今の大林寺を創建した。

八百屋お七のたたり伝説
房恒から三代平兵衛房勝は盗賊追捕役をつとめた。
岡野家に伝わる「八百屋お七」のたたりの話はこのときのことである。

天和2年1663年天和に火事で避難した先の寺の小姓に恋をし、恋慕のあまり放火して再会を願う幼いお七の事件である。
事件を担当したのは中山勘解由で当時岡野氏とは同職であった。
房勝の孫の嫁が勘解由の娘だったこと、処刑時の馬の手綱を持った、吟味に関係した、とかで、後に起こる
大林寺などの重なる火災、世継に恵まれない、領主が短命だったなど、お七の祟りと思っていたようである。
2013年NHKドラマ「あさきゆめみし」でお七の役を前田敦子が演じている。

岡野家が、どうこの事件に関係したかの記録はない。
岡野家は天正19年1591年から慶応4年1868年まで長津田領主として続いた。

お七稲荷(福寿稲荷)
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お七が祀られている。
殿様の屋敷の中にあったといわれている。

246号線コメダの裏の道沿いで、マンション入り口にあるが、道路におしりをむけた形でみつかりにくい。
ちょっとディープな目黒歴史散歩(お七地蔵と相手の西運について)


殿様屋敷跡

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現在長津田幼稚園が建っている。
最後の領主、岡野由成は徳川について静岡藩に勤め駿河富士郡原村に住んでいたが、廃藩置県後帰農を
申し立て長津田に引き上げた。
その時ここに屋敷を建てた。東は年貢を納めた倉があった。
のち長津田小学校の最初の地となった。
陣屋、御前田の地名は殿様からつけられた地名である。


王子稲荷(王子秋月)
長津田7-5

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江戸初期長津田初代の領主、岡野房恒の創建と言われ大石神社とともに長津田の鎮守となった。
社号は王子権現、明治になって若一王子神社、昭和に王子神社となった。

祭神:伊弉諾命(いざなぎのみこと)・速玉男命(はやたまをのみこと)



福泉寺

古儀真言宗で、恩田村徳恩寺の末寺である。
山号薬王山、本尊は薬師如来
岡野房恒の開基で王子神社の別当寺とした。

岡野家の加持祈祷寺である。
武蔵風土記には不動とあるが、現在は薬師である。
檀家のない寺だったため、明治になり、衰微してしまった。
その後火事にあい、本尊、日光、月光は無事だったが、十二神将は焼けてしまった。
しばらく御堂のない状態が続き、やっと真言宗から山崎改心という僧が派遣された。
師は昔気質の上人生活を身につけた人で、妻帯せず養子を迎え再興にあたった。

武相寅年薬師で12年に一度寅年に開帳される。

休憩場所をお借りしてお弁当をたべさせてもらった。
福泉寺のペット墓の方向に進んで行くと天王社の上に至る。


天王社
 (天王鶯林)
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牛頭天王宮といい、京都八坂神社からの勧請である。
享保年間、疫病がはやり、一生懸命祈願したと古文書にある。
岡野家が長津田を支配する前に引田家が存在し名家であったという。
その引田氏の祖先を祀ったものだという。
岡野家がやってきても、引田氏は従属することができず埼玉の方に追放されたらしい。
この引田家は引田天功の一族である。

元々は少し離れた場所(深田・王子神社寄り)にあったが、寛政8年1796年、福泉寺が願入となり岡野氏に、氏子が多くなり祭事にも狭くなったので領主岡野に替地を願い出たという文書もあった。そのころ現在地に移ったという伝承である。

天王社から鉄塔に向かって進み、舗装道路にでたら左の方におりていく。
右側に二十三夜塔がある



二十三夜塔

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18世紀の後半から昭和の初期にかけて、日本の各地で「講」を組織した人々が集まって月を信仰の対象として精進、勤行し、飲食をしながら月の出を待つ、「月待ち」の行事をした。
供養のしるしのひとつである。
十三夜は虚空菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜を観音様、二十三夜は勢至菩薩を本尊とした。
勢至菩薩は智慧の光であらゆるものを照らし、苦しみを離れ衆生に力を得させるといわれ、月は勢至菩薩の化身と信じた。

(道祖の神と石神たち・穂高神社・西川久寿男著)

林地蔵
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長津田には地蔵が多く37体ある。
願意は念仏供養が5体、念仏と庚申供養を兼ねたもの3体、愛児や親族の冥福を祈る15体、厄除け長寿4体、交通安全3体、その他7体である。
ここの塔は伯楽谷戸と後谷戸(こうやと)の念仏講の女性たちで建てたものである。
信仰だけでなく女性の社交の場としての講であったと思われる。

伯楽の山桜
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樹齢350年の古木である。伯楽とは馬の医者のことで、近くに住んでいたと思われる。
このあたり、岡部谷戸から大山街道にぬける道に馬捨て場が三か所あった。
馬頭観音が三つあったが今は一つになった。アスレチックの境界に道祖神がある。

(余談)246号線のマクドナルドの裏から岡部谷戸に抜けて山道を歩いた。途中、林、畑とのどかな風景が広がる。

馬捨て場ではなく違法ゴミ捨て場がたくさんあった。
その方が不気味である。ここに流通センターをつくる工事がはじまる。

岡部谷戸で古くから住む岡部さんいわく「東急が坪300円で売れって言ってきたときみんなで断ったんだよ。だからこんなにのどかな景色が残ったんだ!!」

旧大山道 馬の背
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馬の背・旧大山街道
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馬ノ背の頂上・標高100mちょっと

林地蔵から北に登り246号線を渡るとすずかけ台駅手前の大山道にでる。眺望がよい

参考: 長津田歴史探訪マップ・長津田の歴史を訪ねて―長津田風土記  :林 房幸 (著)
    ホントに歩く 大山街道:中平龍二郎

# by gannyan1953 | 2011-05-22 10:35 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(2)

曽我丘陵を歩く

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歴史と素適なおつきあい 番外編             2011・5・21


曽我丘陵を歩く

国府津駅:10:20出発

標高246.1メートルの低山で、地元では曽我山とよばれる。富士山、箱根、大山そしてこゆるぎの浜、相模湾が眺められる。

菅原神社

祭神は菅原道真、撫で牛もある。曽我兄弟の隠れ石、とおりゃんせの発祥の碑があった。この童謡とおりゃんせの発祥地候補はあちことあって、大宰府天満宮近くの山道に天神様の路、大坂の福島天満宮、姫路の三石天満宮などがある。


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五国峠
伊豆、相模、甲斐、武蔵、安房の五つの国が展望できることから名がついた。

風外窟

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このあたり多くの横穴古墳がある。この遺跡は7世紀のものでこの地方の豪族の墓といわれる。岩窟数は11基発掘された。江戸時代初期、この岩窟に風外禅師が穴居した。多くの達磨画、布袋画を残した高僧である。平塚博物館、群馬県歴史博物館に多く所蔵されている。

岩房覚友幽禽語   深洞落風交水声
夢覚仙家人世外   閑居寂寞愿心情

おそらくこの岩窟で作られたと思われる、自画像に描きこまれた詩である。(参考:田島歴史同志会・野地芳男)


六本松跡

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千代台地(曽我丘陵西方の断層、崖地)は古代師長の国の府中であったので西からの旅人はここを通り、坂東、奥羽へとむかった。鎌倉街道でもあり、
長谷寺にいく巡礼道でもあった。(碑より)


曽我十郎の忍石

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曽我十郎は仇打ちにたつ時恋人の虎御前とひととき過ごした後、虎御前を馬で大磯に送った。そのときこのあたりで、涙で別れを惜しんだといわれる。
曽我物語は二人の嘆きを万葉のころの新羅に行く夫を見送りそのまま石になってしまった松浦佐用姫になぞらえている。
また石の中央に手形のようなくぼみがあり、曽我十郎が力を試したという伝説もある。スーパーアイドルだった曽我兄弟の伝承はつきない。(忍ぶ石の碑より)





伝曽我祐信宝篋印搭

曽我庄の武将で曽我兄弟の養父である。(碑より)

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まむし草
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宗我神社

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祭神:宗我都比古命・宗我都比女命

平安時代長元元年(1028)創建、宗我保慶我祖先の足跡の墳墓を訪れ創設したと伝えられる。宗我都比古命は武内宿弥の孫で東夷鎮静の功がある。神社は古東海道の道筋にある。(神社のしおり)
# by gannyan1953 | 2011-05-22 09:57 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

将門と鉄

歴史と素適なおつきあい      2009・7・10(金)  座学
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平将門像
平将門と鉄

平安時代中期、東国では都から派遣された国司たちの暴政が続いていた。民衆たちは大飢饉や重税で飢餓や貧困にあえぎ、そこで立ち上がったのが平将門。
将門は民衆を救うため武装し、各地の国司を次々と追放、東国独立政権を樹立、八幡大菩薩を象徴とし、菅原道真の怨霊を召還して朝廷に挑んだ。
朝廷も前代未聞の全国寺社祈祷命令、征伐した者は貴族にするという秘策で将門政権打倒に躍起になる。たった数ヶ月の東国政権であったが、各地に残る将門史跡、伝説が、多くの人々に畏敬、信仰されていることを物語る。




将門年表 (その時歴史が動いたより)



901延喜元年ー1月①菅原道真、太宰府へ左遷

903延喜 3ー2月道真、死去 このころ将門生まれる

917延喜17ー ②将門の父、良持、死去

918延喜18ー将門、都の藤原忠平に仕える

930延長 8ー将門、帰郷。醍醐天皇のあと朱雀天皇即位

935承平 5ー2月将門、源護の館を襲撃、伯父、国香を敗死させる

         8月蚕飼川の戦いで妙見菩薩が将門を助ける

       12月  源護、将門を朝廷に告訴

936承平6年ー7月 将門、下野で勝ち戦

      10月 将門  源護の告訴により上京

937承平 7ー5月 将門、天皇元服のための大赦で、帰郷

      8月 藤原忠平、太政大臣となる

      11月 ③富士山北斜面より噴火 溶岩流が山中湖をせき止めた

938承平8ー2月将門、国香の嫡男貞盛を信濃国に追撃

天慶元年ー5月 天慶に改元(4月地震あり。占いで不吉とでたため改元)

939天慶2ー6月平良兼(伯父であり、舅)将門の反撃に敗走、その後病死

        夏④ 藤原玄明、将門のもとへ逃げ込む

        11月⑤ 21日 将門挙兵

       12月11日  将門、下野国府を襲う

        15日  将門、上野国府を襲う

        ⑥19日 将門、新皇即位

        26日、瀬戸内海で藤原純友の乱

940天慶3ー 1月11日 朝廷、「太政官符」発令、将門追討の命を下す
            
下旬 将門、田起こしのため兵を帰す
            
2月14日 平貞盛、藤原秀郷連合軍、下総、岩井に進撃

       ⑦午後3時 激突  夕刻 将門死去
4か月後に将門記を作成―作者不明

941天慶4ー6月藤原純友死去


①菅原道真との関係


下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう)だった道真の三男景行は常陸介になった。
父の遺骨とともに常陸に赴任、羽鳥天神塚を築いた。平良兼が保護し、将門たちとは身近な関係であった。後に新皇宣言の折、道真が登場する。


②亡父の遺産騒動の理由


890年ころ桓武天皇の孫高望王が上総介として赴任してきた。その子が良持で、将門の父である。将門は桓武天皇から五代目にあたる。母は犬飼春枝の娘。
他の兄弟は、源護の娘と結婚しているが、良持だけが源氏とつながらないことになる。
将門が京にのぼり藤原忠平に仕えて理由はわからないが、故郷に帰る。
*父の所領をめぐり、伯父良兼ともめる(今昔物語)。
*良兼の娘を妻にしたことで、結婚に反対する舅の良兼ともめる。
*源護が平真樹という人物の所領を奪おうとして困った真樹が将門に助けを乞うた。
真樹の領地は桑、麻の栽培がさかんで良質の絹がとれた。
以上のような理由で親戚との小競り合いが戦いのはじまりといわれる。



③民衆の苦悩

背景として国司の重税、富士山噴火により作物がとれなくなっても同じような課税で農民が逃亡し疲弊していくのをみて、民衆のための政治をめざした。


④内輪争いから他人の仲裁

武蔵権守興世王(おきよ)・介源経基(清和源氏の祖)と足立郡司武蔵武芝の争いの仲介をして失敗する。 興世王&経基×武芝 → 興世王&武芝×経基という関係になり、興世王と武芝が仲間に加わることになる。次に頼ってきたのが国司に訴えられている藤原玄明(はるあき)で、将門は罪人を匿うことになる。


⑤乱

将門の本来の目的である国香の子、平貞盛(のちに伊勢平氏になり平清盛の先祖)との決着がつかず、なぜか結果的に国の機関を襲い将門本人が反逆者となってしまった。



⑥将門を助ける者、離れていく者

ここでは妙見菩薩ではなく、菅原道真の霊魂が八幡大菩薩を招き「新皇」の号を授ける。


妙見:泰山府君と同一で、北極星を神格化したものである。泰山府君は寿命を司る神である。妙見信仰はもともと渡来系の宗教で金属神である。将門末裔を名乗る相馬藩の家紋は九曜紋だが、中心は北極星、周りは北斗七星+輔星(ほせい)で妙見神を信奉する。
輔星も寿命を司る星である。


八幡:北極星+北斗七星で金属神である。原信仰は対馬でヤハタはシャーマンのひれ(旗)が神の依り代となったからともいわれる。宇佐氏が信奉し現在では祭神は応神天皇である。
星は鉱山を育成する。(鉄と神より)


新皇を名乗った将門にあいそをつかした妙見神が去り八幡神に移行したことになる。妙見神はどこに行ったかというと伯父の平良文のもとに行く。村岡五郎といわれ、将門とは同盟関係にあったといわれる。子孫は千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、鎌倉氏の祖となる。


将門の除目による国司

下野守: 平将頼 (将門の弟)

上野守: 多治経明(常羽御厩の別当)

常陸介: 藤原玄茂(常陸掾)

上総介: 興世王 (武蔵守)

安房守: 文屋好立(上兵)

相模守: 平将文 (将門の弟)

伊豆守: 平将武 (将門の弟)

下総守: 平将為 (将門の弟)


*国司とは地方に中央から派遣された官吏、四等官で、守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)をいう。武蔵守はなぜか選任されていない。

⑦ 死

岩井にて平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)により討ち死。こめかみに矢を射られた。
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太の 謀りごとにて」
将門の笑い:言葉のシャレなのか、謀られたことで将門の正当性を喜んだのか?!
平安京東の市に晒される。その場所に神田神宮がある。

[将門と鉄]


1 官牧と尾崎前山製鉄遺跡
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昭和53年に発掘された、9世紀の製鉄遺跡で、将門が戦った地域のほぼ真ん中に位置する。将門の武具、馬に使用する鉄製品(あぶみ・くつわ)など供給した、たたら場跡とみられる。この地域は、官牧「大結牧」の比定地で、軍馬の飼育をした「栗栖院常羽御厩」(くるすいんいくはのみまや)があり、将門の領地であった。砂鉄はおそらく鬼怒川あたりから採取し、近くのくぬぎで炭をつくり自然風でたたらを行ったといわれる。
出雲のたたらと違う点は、出雲の砂鉄はチタンを多く含まない。ここの砂鉄は多く含む。鉄の還元でチタンをどう除去するかでよしあしが決まるので、チタンを効率よく除去するにはあまり高温でない、低温の野だたらの方がうまくいくらしい。小さい箱型製鉄炉をたくさん作り土地にあったたたらが行われたようである。隣接して馬場があり、今でも野犬から守ったり、馬が逃げないようにした土塁跡が残っている。(古代日本の鉄と社会・東工大)
親戚との小競り合いから始まった戦いの理由のひとつに領地の侵害がある。このたたら場が、国香は欲しかったのではないか。将門が相続した土地は水田には適さない湿地帯で、軍馬の放牧場として御牧が二つあったといわれる。製鉄場があったのは大結牧の近くである。


2 武蔵守が選任されていない理由

なぜか、武蔵守が任命されていない。武蔵の北秩父が同盟者、叔父良文の領地だからか?!
秩父は銅、金、銀、鉄などの産地である。良文の息子忠頼に将門の娘が嫁いだといわれる。


3 将門と武器と俘囚の乱

将門の武器は毛抜形太刀といわれ柄の部分が毛抜のような透かし彫りになり、物を切る衝撃から手を守るために透かしてある。蕨手刀という蝦夷の刀は彎曲し、騎馬で戦うには使いやすいものであった。柄が蕨のような形をしているのでそうよばれている。日本刀の原型といわれ、北上川流域の餅鉄を原料に、舞草、月山、宝寿という鍛冶集団があった。この蕨手刀からより日本刀に近づいたものが毛抜形太刀である。
将門が強かったといわれる理由には良い武器を製造できたことがあげられる。強すぎるので鉄身とまで言われた。


俘囚とは、7世紀から9世紀にかけ断続的にあった大和と蝦夷との戦いの末、大和に服属した者をいう。この俘囚たちは全国に移住させられその生活は狩猟や武芸訓練であった。9世紀の国内治安維持には主要な軍事力であった。俘囚の中から長を選び俘囚社会を治めさせた。9世紀ころから俘囚らによる改善要求の乱が多く起こり、将門の父良持は鎮守府将軍として出羽や陸奥に赴いたときこの蕨手刀の威力を認識したことと思う。

羽黒山五重塔は将門創建といわれる。鎮守府将軍である父といっしょに出羽に赴いたのだろうか?!出羽三山の出羽神社にあり、古くは湯殿山瀧水寺(りゅうすいじ)の五重塔といわれ周囲には多くの寺院があった。
出羽三山も金属神である。のちに藤原秀郷の末、武藤氏が出羽三山の社家となる。



4 星信仰と将門の母

将門の母は犬飼春枝の娘で、犬飼氏は茨城県北相馬郡に広く分布する氏族である。それで将門は相馬小次郎と名乗っていた。犬飼氏は戸隠神社の宮司、犬を連れている高野明神、狩場明に繋がる山師で、蝦夷ともいわれる。金属と関係する氏族である。





   ☯  ♘  ☯   ☯  ♘ 


将門魔方陣 北斗七星の形になる将門史跡(加門七海)



       水稲荷神社
        6☆    筑土八幡神社            鳥越神社
鎧神社             5 ☆         神田明神   1☆
   7☆                         4☆
        鬼王神社
          8☆                  将門首塚
                     江戸城   3☆      兜神社
                                 2☆     



鳥越神社(台東区鳥越2-4-1)
                   
  将門の首が神社を飛び越えた。社紋が「九曜紋」(千葉氏)で、宮司も鏑木氏で千葉氏の系統である。徳川家光の時代に朝敵将門の罪が許されている。江戸の鬼門除けか!?


兜神社(中央区日本橋兜町)

  秀郷が首と兜をいっしょに運んできて兜はここで埋めて塚にした。義家の戦勝祈願ともいわれる。


将門首塚(千代田区大手町1-1)
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京都で晒された首がこの地に落ちて埋められた。
のち蓋をされた石が鳴動したりして人々を怖れさせた。時宗の僧が法名「蓮阿弥陀仏」を与え卒塔婆をたてて供養した。
江戸時代、酒井雅楽頭、一橋家に守られていた。明治になって塚は残されたが、関東大震災で樹木は焼け塚も壊れた。古墳の調査をしたところすでに盗掘されており、塚をなくして大蔵省の仮庁舎を建てた。それから足を悪くするものが続出、慰霊祭を行い今度は戦災にあう。そしてGHQが駐車場にしようとブルドーザーで工事を始めたら、日本人の運転手が横転して死亡、近くの保存会が陳情して工事を中止した。
  今でも怖れられ、塚にお尻をむけてはいけないなど、近くのオフィスビルからの献花が絶えない。


神田明神(千代田区外神田2-16-2)
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  正式名称は神田神社。創建は天平2年730年。首塚のあった場所柴崎(大手町)に大巳貴命(オオナムチノミコト)が鎮座した。もともと安房忌部氏の海民が祀った神ともいわれる。
その後 将門の首塚のあたりで天変地異が起こり将門を供養した。戦国時代に北条氏、大田道灌らに崇敬された。江戸幕府開府に伴い江戸城鬼門の地として柴崎から現在の地に遷座した。明治になって朝敵将門といわれ、祭神からはずされたが、昭和59年に3番目の祭神としてもどった。
ここの名物柴崎納豆はもともとは金含豆(こんがんず)といった。柴崎に「柴崎道場」とよばれる時宗の僧の修行場があり、そこの修行僧の大切な食物であった。その納豆を天海が家康に不老長寿の秘薬として献上した。家康の時代に柴崎納豆として有名になる過程で、将門伝説も民衆に広まり、歌舞伎にも登場するようになったといわれる。

筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町2-1)

嵯峨天皇(809~823)のころ信仰心の篤い老人が八幡神のお告げをうけ祀ったといわれる。850年ころ慈覚大師が祠をたて、江戸期にもともと大手町首塚にあった観音堂をはじめとする田安明神が隣にやってきた。それが筑土明神といわれ戦災後明神は九段下に移り、筑土神社になった。筑土神社は将門を祭神としている。


水稲荷神社(新宿区西早稲田3-5-43)

  藤原秀郷が富塚稲荷として勧請した。江戸期に水が湧き出し水稲荷となった。将門と敵対した藤原秀郷勧請の神社であるが、北斗七星の形になるには鬼王神社の位置より水稲荷の位置の方がきれいな形になる。北斗七星を分断して将門の霊を鎮めたか?!


 鎧神社(新宿区北新宿3-16-18)

  醍醐天皇(898~928)日本武命(ヤマトタケル)東征の折、鎧を埋めたといわれる。一説に藤原秀忠が病になり、将門の鎧をここに埋め祠を建てたら病が治ったといわれる。


鬼王神社(新宿区歌舞伎町2-17-5)


  神社に将門のことが忘れられているのか隠されているのか、史料はない。将門の幼名は「外都鬼王・鬼王丸」である。全国にひとつしかないここ鬼王神社が関係しているのではないかと思われている。平将門古蹟考(明治40年織田完之著)には「将門の霊を祀り幼名外都鬼王を以って社号とす」とある。


余談 赤城神社と将門

筑土神社近く神楽坂に赤城神社がある。古くは赤城大明神といった。
ここに将門の伝説があり、首が飛んできたとき木に血がついた。だから、赤城という。

赤城神社は水稲荷と同じ藤原秀郷も関係している。秀郷の故郷の赤城山から勧請しているのだが。
秀郷はここに、杉を寄進している。

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赤城神社鳥居
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本殿では結婚式が行われ、モダンな神社になっている。
コンサートも開かれる。

元赤城神社が早稲田鶴巻にあり、太田道灌が牛込に祀り、その後神楽坂に遷座した。
このあたり、将門、秀郷がらみの神社が多い。

参考文献 : 平将門の乱(川尻秋生)その時歴史が動いた(NHK)日本の歴史(中央公論)千葉県の歴史・茨城県の歴史・埼玉県の歴史(山川出版)・平将門(北島茂夫)平将門伝説ハンドブック・将門記(村上春樹)・中央構造帯(内田康夫)・大江戸魔方陣・平将門魔方陣・東京魔方陣(加門七海)
参考HP : 江戸東京ものがたり・闇の日本史・平将門の乱と関連伝承・平将門と鉄王伝承・東京都神社庁・ウイキペディア                   
# by gannyan1953 | 2011-05-20 22:20 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

杉山神社 大棚社 港北ニュータウン

歴史と素適なおつきあい 2009座学

当ブログの「鉄と神」を参考にしてください。鉄と神


杉山神社 大棚社                           
 遷座した場所
1 旧跡  大棚 477   
杉の森 龍福寺近く 大正3年まであった 
 
2 元蹟  中川町 1083 
大塚近く 明治45年に移動

3 吾妻山 中川 757   
吾妻山山頂  ニュータウン建設のため移動し仮社が建てられていた

4 現在  中川 6-1-1 
センター北駅近く  平成7年新築遷座

「延喜式」神名帳に記載された唯一の式内社であるが、本社はどこであるかわからない。延喜式とは平安時代に作成された神社の格付けで、杉山神社は格式のある神社であるという証明である。新吉田、茅ヶ崎、八朔、勝田などの杉山神社とともに本社の候補にあがっている神社である。明治13年郷社に列格。

祭神      日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 五十猛命(イタケル・イソタケルノミコト)
配神      伊弉諾命(イザナギノミコト)、伊弉册命(イザナミノミコト)、橘姫、応神天皇
合祀された社  八幡社・吾妻社・神明社       境内 第六天    (杉山神社大棚社)
  
一般に杉山神社の祭神はヤマトタケル、イタケルが多いがオオナムチ、スサノオノミコトを合祀するところも多い。横浜市内だけでも名を変えた神社もふくめ50社はあり、川崎、町田などに分布しているが関東のみの神社であり、本社も定かでないミステリアスな神社である。今でも本社論争が絶えない。     (あかねネット)

大棚社は平成7年の遷座の折、和歌山の伊太祁曽(イタキソ)神社から五十猛命の霊壐を飛行機でお連れした。そして御主祁神の日本武尊とともに祭神となった。宮司は江田「剣神社」の斎藤氏である。(杉山神社大棚社)

五十猛(イタケル・イソタケル)は父スサノオと共に木の種をもって韓の国へ天降りたがそのまま大八州の国にきて国中に種を蒔いて最後に紀伊の国に戻ったといわれる神である。大屋毘古神ともいう。金属神でもある。
                                                                                                                 (神奈備にようこそ)

杉山神社異聞
杉山神社は産鉄系神社だった!!

鶴見川水系に多くある地域性の強い神社で、本社、祭神が定かでなく明治初頭72社である
838年 承和5年 続日本紀:武蔵国都筑郡枌山神社が官幣にあずかった
848年 嘉祥元年 従五位下にあずかる
927年 延長5年 延喜式神名帳:式内小社(官社)に加わるー南武蔵の有力神社となる

別当寺: 真言宗40 天台宗11 日蓮宗3 修験1村持9 不明8
本地仏: (明記27社)不動明王23 薬師如来2 釈迦如来、十一面観音1
祭神 : 五十猛命17 日本武尊15 大巳貴命4 大日孁貴命4 天照皇大神3
     天照大神3 素盞鳴尊3 市杵島姫命2
忌部氏の神:金属神で茅ヶ崎社は忌部氏の祖を祀るといわれる
*茅ヶ崎社 高皇産霊神:天地創造の神 天日鷲命:忌部氏の祖の天太玉命に属し木綿作りに従う
      由布津主命:天日鷲の孫 阿波より安房にきた忌部氏の族長。
*成瀬社  高坐雲尊:位の高い高麗人
神宝 : 銅製の懸け仏 懸け造りの堂は産鉄地に多く、懸け仏は虚空蔵信仰である

六所宮(大国魂神社)


一之宮 小野神社  多摩  天下春命 素盞鳴尊 伊弉諾尊 彦火火出見命(アラハバキ)
二之宮 小河神社 あきるの 国常立尊(アラハバキ)
三之宮 氷川神社  大宮  須左之男命 稲田姫 大巳貴命 (アラハバキ)
四之宮 秩父神社  秩父  思金命 知知夫彦命 大山祇命 妙見神
五之宮 金鑚神社  児玉  素盞鳴尊 天照大神 金山彦
六之宮 杉山神社  横浜  五十猛命 日本武尊 大国主命 素盞鳴尊

近所の神社 :驚(おどろき)神社 剣(つるぎ)神社 鐡(くろがね)神社

鉄分のおおい水がでる。
製鉄地名が多い
西谷遺跡から中世の鉄製品(武具、鎧など)出土。以上杉山神社の元の神は産鉄系であると思う。


参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一 隠された古代:近江雅和 黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男 日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠 風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武 鉄の民俗史:窪田蔵郎 神々と天皇の間:鳥越憲三郎 杉山神社考:戸倉英太郎 古代山人の興亡:井口一幸  弥生時代のはじまり:春成秀爾  ながされびと考:杉本苑子 伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁 古代の製鉄:山本博 古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子  靖国刀:トム岸田 鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫 日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音  まぼろしの鉄の旅:倉田一良 古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二 鬼の日本史:沢史生 鶴見川流域の考古学:坂本彰  空海と錬金術:佐藤仁 空海の風景:司馬遼太郎 古代史を解く九つの謎:黒岩十吾 日本神話の謎がわかる:松前健 
HP:中央構造線と古代史を考える 伊太祁曾さんの風土記 博物館ニュース 坂東千年王国 日立金属 和鋼博物館 ウイキペデイア

  

# by gannyan1953 | 2011-05-07 19:06 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

横浜市都筑区八幡山・港北ニュータウン

都筑区八幡山の変遷           2009年12月5日   

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八幡山に集う犬たち

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字中村、現在の中川7-13にあり、面積約3万㎡ 標高36mの山である。
ここに遺跡があり、1977年7月から12月にかけて港北ニュータウン建設のため急ぎ発掘された。当時は山のまわりは森林と畑であった。早渕川の左岸に位置し多摩丘陵下末吉台地の主脈から早渕川にむかって南にのびる舌状台地を東漸寺裏台地という。八幡山遺跡はこの台地東側の低位台地上に位置する。台地の北に支谷がはいりこみ東中央にも浅い谷がある。東西70m南北85m
遺跡の西半分が緑地として残された。
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縄文早期~中期竪穴住居5・炉穴1・焼土5・土壙(どこう・落とし穴)15・土器石器(尖頭器)

弥生竪穴住居10・掘立倉庫1・土器1・炭化米

弥生~古墳竪穴住居28・倉庫1・土器

平安*住居1・炉穴2・土器・焼土・金くそ

*平安時代の住居は内部に焼土があり火災にあっているものと思われる。8~9世紀のもので、中央に炉が2か所あり鍛冶に関係しているとおもわれる。住居がほかにみあたらないので鍛冶の作業場だったか?!(港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告31)

八幡山の地名の由来は八幡社があったことからつけられた。最後の項の「八幡と源氏」を参照

八幡信仰が、関東に広まったのは鎌倉時代である。八幡神とは天平9年(737)に続日本紀にヤハタの神として登場する。その後、神仏習合で八幡大菩薩の神号が与えられた。祭神の応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。八幡神は武神で鍛冶の神である。(ウイキペディア)

八幡社は明治44年(1911)一村一社制の命で大棚の杉山神社に合祀された。このとき吾妻山にあったお吾妻様こと吾妻社、センター北駅東にあった神明社もともに合祀された。八幡社は25坪の敷地であったが隣接した同じ25坪の敷地の御霊社は廃された。                 (中川の地名・吉野孝三郎)


遺跡図によると八幡社は南面にあったと思われる。矢崎橋から公園に向かうと階段がある。その上に祠があったという話を聞いた。

八幡社

近年まで八幡社があったとされる中川町内会館で毎年3月26日に祭礼が行われていた。祭礼を行わないと村が荒れるという言い伝えがあった。氏子を一軒一軒まわってもち米を集め、餅をついてなげ餅をした。早渕川の水神様、八幡様とお参りをして、そのあと町内会館で神主が神楽を舞った。このときに使用した神楽のお面が今でも剣神社に保管されている。(都筑の民俗) 宮司さんは剣神社の方だが、近くの杉山神社も多数兼任しておられ、新しく宮司さんになられているので、詳細はわからないといわれる。

第六天

杉山社にいつからかあるといわれるが、杉の森にあったころにはすでに存在していたらしい。天魔といわれ仏道修行を妨げる神である。平安時代から密教の自在天ともよばれた。相模、伊豆、武蔵には多い理由は武田が織田に敗れたとき民衆は占領軍(織田)への迎合として「第六天魔王」を自らの護符にした。一方武田の家臣から隣国北条氏に広まったといわれる。秀吉の小田原征伐のあと、北条、武田の家臣は権力から隠れるように百姓として定着を図りこれらの人々が第六天を担ぎこみ周囲の農民に民衆信仰として広め一部は常陸、東北まで逃げた。江戸幕府以降、民衆は魔王より身近な神に変えていった。第六天神として面足尊(オモダル)と惶根命(かしこね)の両神となり五穀豊穣、夫婦和合の神に変貌していった。ただこの地の伝承は近くの松が曲がる、祠を蹴ったら翌日起き上がれなくなったなどあまりいいものではない。昔から怖れられ明治期には人が近寄らなかったという。明治に修験道が禁止され民間宗教はそれに通じるので廃止、消滅が続いた。(祐泉寺HP)

八幡社の隣にあった御霊社

御霊信仰は、世の中に災厄をもたらした神を鎮め慰めることにより災厄から守ることから発し、有名な祭りが祇園祭である。祇園祭は厄病払いが祭りのはじまりである。御霊信仰は、奈良時代末からはじまりさまざまな形で祖霊信仰とともに日本人の信仰の基本となった。民間の御霊信仰は神事祭儀の場として御霊社を中心に民俗行事、民族芸能を生み、現代に伝えている。害虫駆除祈念の藁人形を仕立て、太鼓を打ちながら畦を行く虫送りや、雨乞いの呪術、念仏踊り、そして今も残る盆踊りはその代表的なものである。(横井清HP)武蔵国には権五郎景政が御霊社として多く存在する。八幡山では毎年盆踊りが行われている。

水神

早渕川に水神がある。農耕する人たちの田の神である。象徴として河童、蛇、龍などがある。八幡社の祭礼の日は、この水神のお参りから始まった。

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2013・3・29


宗教法人 杉山神社移築記念碑

横浜市は昭和40年2月、六大事業の一つとして「横浜国際港都建設事業・横浜北部新都市土地区画整理事業」を発表、同49年建設大臣の事業認可。横浜市高速3号線の免許取得、着工に至る。
杉山神社は中川町1084番地から同町757番の元吾妻社の跡地へ58年11月30日仮社殿を設けここに遷座し、元旦祭・大祭は此処で執行された。換地も間近く建設委員会の結成に着手、資金計画に入る。
移設補償金と寄付金を念頭においたが、神社地の一部80坪を売却し基金とすることに決し、その承認を神社本庁に申請し、同時に社殿・社務所・鳥居等の新築・改築・移築をも承認された。
平成4年4月、中川町1194番地に仮換地指定された社殿は木造とし長野県諏訪市大字四賀、株式会社石田組と、同5年3月工事契約を結び6年9月竣工し、同10月13日祭神勧請と配神遷座式を行い社務所・鳥居・付属建物・植栽等の完成を待ち平成7年10月15日遷宮式典と落慶祝賀に及ぶ。
御霊璽については杉山神社と最も由緒深いとされている和歌山県の伊太邪曽神社へ赴き親しく御分霊を受け五十猛命の霊璽を拝受し御主神日本武尊と並び崇め祭る。
社頭掲示板
杉山神社碑銘

武蔵国都筑郡大棚郷杉山祠祭日本部尊延喜式所謂四十四座之一而是為杉山明神本祠蓋大棚之為郷和名称載都筑七郷内綴喜店屋郷後為大店又称大棚郷実為式兵部省所謂武蔵国四駅之一郷中有古道蹠今尚寂然可尋有地称宿根入者武蔵演路以為駅址又荒原往往出有文古瓦郷人以為古駅之徴続日本後記曰承和三年二月授武蔵国無位杉山名神従五位下蓋謂此祠也又聞昔者祠在後山一旦罹災因従之於山下天正十九年所製□籍載祭田四□五拾六歩至文禄三年為 官所収遂□祭田而方今因循伝訛以郷為村祠亦殆廃天保五年別当龍福寺住僧長伝深慨其祠之衰替之□其所伝之神璽以請白川神祇官総司乃賜以杉山神社四字題額実係神祇伯雅寿王所書掲之於祠前焉間者村民恵吉□相謀将立碑書其顛末以伝無窮而請文於余乃記其所説又係以銘曰
白鳥之神英武之質西伐東討偉功無匹杉山古祠久就埋没貞□載文神威斯述
嘉永五年歳次壬子嘉平月 林司成家塾都講河田興撰并書
社頭石碑

八幡と源氏


現在、神社の数をランキングすると1位は稲荷社、2位八幡社、3位神明社である。2位の八幡社の総大社は豊前国宇佐神宮(大分県宇佐市)である。宇佐神宮は応神天皇の御神霊を祀っている。人間、天皇を祀ったはじめての神社である。

司馬遼太郎の「この国のかたち」によると
八幡神は5世紀初頭朝鮮半島から渡来し、宇佐にすみついた人々によって生まれた神であるという。
東大寺の鬼門にある手向山神社は東大寺の守護神として宇佐神が鎮座している。
仏教との習合に積極的で、仏教側から「八幡大菩薩」の尊称を賜った。
平安時代になると平安京の裏鬼門に岩清水八幡宮が勧請される。
清和源氏は 清和天皇の第6皇子貞純親王を祖とする。
貞純親王の孫多田(源)満仲から諸家に分かれ地方の実力者として成長していく。
源氏と八幡とのかかわりが深くなる のは、後々に武家の棟梁となる満仲の三男源頼信一家で、
その孫義家は岩清水八幡宮で元服する。

ここから「八幡太郎義家」とよばれるようになり、源氏の氏神 として祀られるようになる。


# by gannyan1953 | 2011-05-07 19:00 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)



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