歴史と素適なおつきあい

早稲田周辺散歩

東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい 2011
日時   : 2011年 3月11日 (金)9:50
集合場所 : 東京メトロ東西線「早稲田」2番出口方面改札口
中野方面進行方向の出口
早稲田2番出口~夏目漱石誕生の地~穴八幡宮~高田馬場跡~水稲荷~甘泉園~胸突き坂(永青文庫・蕉雨園・芭蕉庵)~リーガロイヤルホテル東京(ランチ)~寶(ほう)泉寺(せんじ)~早稲田大学構内(坪内博士記念演劇博物館・會津八一記念博物館~地震のためホテルに避難



       
夏目漱石誕生の地


漱石は慶応3(1867)年1月5日、この地に生まれた。誕生の地(喜久井町1)から若松町の方へと上がる坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克である。このことは漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷士として土着していた夏目氏は、元禄時代以降、馬場下の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は家紋「井桁に菊」に因み、町名を当家にゆかりのあるものとした。
漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、店先の古道具の横にいつも寝かされている漱石を見た姉が、不憫に思い、すぐに生家に戻された。2歳11カ月になると再び、内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になる。養母は夏目家の使用人である。その後実父と養父の関係がこじれ(養父の浮気が原因で養母が夏目家に帰る)、22歳のときにやっと復籍することができた。
隣家の酒屋「小倉屋」は堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つときに、ここに立ち寄り升酒を飲んで行ったという。(漱石山房HP)

夏目漱石(1867~1916)

小説家・英文学者。本名 夏目金之助。
代表作「吾輩は猫である」「こころ」。正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝大を卒業して松山、熊本で教鞭をとる。その後、英留学して鬱、胃潰瘍に悩まされる。帰国後、帝大で教鞭をとるが、精神的に不安定な日々を送る。教師か小説家か悩んだ末、帝大を辞職し朝日新聞に入社する。精神衰弱を和らげるため高浜虚子の勧めで小説を書き始め文豪への道をたどる。ちなみに漱石は「浪漫、新陳代謝、流石、経済、電力」など多くの造語を作っている。死後、解剖され、脳はエタノールに浸されたまま東大医学部に保存されている。

弁天町に漱石終焉の場所があり、漱石公園となり漱石の胸像、猫塚がある。(漱石山房HP・ウイキペデイア)

穴八幡宮(高田八幡宮)

祭神: 応神天皇・仲哀天皇、神功皇后
康平 5(1062)源義家が凱旋祝いにこの地に兜、太刀を納め八幡宮を勧請したとある。
寛永13(1636)幕府の御持弓組頭松平直次が、的場を築き八幡宮を守護した。
寛永18(1641)別当放生寺を造営する際横穴が現れ、金銅の阿弥陀如来像が現れた。これにより
穴八幡とよばれるようになった。
このころ、神木の松が瑞光を放っていたので光松山放生寺となった。徳川家光は当社を北の総鎮護とし、幕府の祈願所とした。吉宗が世継ぎの疱瘡平癒祈願のため流鏑馬が奉納された。
又、加賀藩も深く崇敬し金沢城内に勧請している。
明治以降衰微したが、大正天皇が皇太子のとき虫封祈祷を行ったことから崇敬者が増え、現在では「一陽来復」の御札(冬至から節分まで)を求める人で賑わっている。

一陽来復―易経で陽と陰が繰り返し、どん底の状態にあっても又いいことが巡ってくるという意味であるが、ここの参拝客は、お金がまわりまわって自分の懐に帰ってくる商売繁盛の意味ととっているらしい。
このあたり、早稲田大学建設に伴い移転している神社仏閣が多いが穴八幡は江戸時代から同じ場所である。
(ウイキペデイア)
江戸時代、牛込のほとんどの町は穴八幡と赤城明神両社の氏子であるが、牛込には幕臣が多く住み、日光参拝に供奉しなければならなかった。ところが、赤城山の神と日光の神はたびたび戦をして仲が悪い。赤城明神の氏子が日光参拝すると山が荒れるという話があり、牛込の総鎮守は穴八幡とした。
神楽坂の地名の由来は諸説あるが、穴八幡の神楽の御旅所があったことからだという。(赤城台の歴史HP)

因みに早稲田の東、鶴巻町に元赤城社があり、現在の赤城神社はもう少し東の神楽坂(元赤城町)にある。ここは2010年新しい社殿になり、モダンな造りに圧倒される。

<将門伝説>

赤城明神―将門の首が飛んできてここに落下、木に血がついたのでアカギと名付けられた。
(赤城台の歴史HP)


高田馬場跡
西早稲田3丁目1,2,12,14番地を含む長方形の土地が江戸時代の高田馬場である。滑走路のような形だったという。寛永13(1636)年に造られ、旗本の馬術練習場であった。穴八幡の流鏑馬も行われた。享保年間馬場の北に数件の茶屋ができ堀部安兵衛が叔父の菅野六朗左衛門の決闘の助太刀をしたことで有名である。(東京紅團HP)

水稲荷



祭神: 倉稲魂大神 ウケノミタマノオオカミ 伊勢と同体 豊穣
    佐田彦大神 サダヒコノオオカミ   交通安全
    大宮姫大神 オオミヤヒメノオオカミ 夫婦、人々の円満
元の社地は早稲田9号館の敷地である。
天慶4(941)藤原秀郷が富塚(渡塚~戸塚)―富塚古墳(横穴式)の地に稲荷大神を勧請し冨塚稲荷
  と命名する。
天文19(1550) 牛込主全膳正時国が社殿造営。
天和 2(1682 )佐藤駿河守信次が社殿造営。
元禄15(1702) 神木の椋の根元より霊水が湧き眼病に効くと評判になり水稲荷と改名。
安永 8(1779) 高田村の植木職人・高田藤四郎(日行)が模造富士をここに造った。 
高田富士である。
天明 8(1788)「江戸の水稲荷」と名乗る翁が現れ京都御所の大火に功績を認められ関東稲荷総領
           職を賜る
昭和38(1963) 早稲田大学との土地交換で甘泉園である現社地に遷座する。

堀部武(たけ)庸(つね)加功遺跡の碑中山武庸後堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされる碑。
高田馬場茶屋通りにあった碑が移転された。


太田道灌駒繋の松

この地は山吹の里といい、道灌が農家に立ち寄った際、馬を繋いだ松という伝承が残る。
道灌は、突然のにわか雨に農家で蓑を借りようと農家に立ち寄った。娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。この話を家臣にすると、それが御拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」の歌にかけて、貧しく蓑を持ち合わせていないことを奥ゆかしく答えたのだろうと教わった。

高田富士 (堀部安兵衛碑の前)

高田籐四郎は、富士山烏帽子岩で断食行の末亡くなった食行身禄の弟子で、その墓は宝泉寺にある。この富士塚は江戸最古のもので早稲田大学9号館建設の際、破壊され、今ある塚は早稲田9号館から移設されたものである。7月20日前後の山開きに公開される。講は丸藤(まるとう)宮(みや)元講(もとこう)といい、現在も活動し、無形文化財に指定されている。                            (富士講アーカイブHP)

甘泉園

江戸中期に清水家の下屋敷があった。明治30年相馬家に、昭和13年早稲田大学に、戦後都に移管された。名称の由来は湧きだす水がお茶に適すと評判になったことからついた。(ウイキペデイア)

胸突坂

神田川から目白台に上がる坂で、勾配がきついので休憩所が設けられている。(ウイキペデイア)

芭蕉庵

松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後、神田上水の改修工事を請け負った。この際、延宝5(1677)から延宝8(1680)までの4年間竜隠庵と呼ばれた水番屋に住んだ。といわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。後に芭蕉33回忌に建物が建てられた。現在は講談社、光文社、キングレコードが中心となって設立された関口芭蕉庵保存会によって維持管理されている。(ウイキペデイア)

永青文庫


熊本藩細川家伝来の美術品、16代細川護立の収集品の収蔵、展示をしている。建物は昭和初期の細川家の事務所だったものである。入館料600円。(永青文庫HP)

蕉雨園(非公開)


旧田中光顕邸で明治30(1897)建築。大正になって渡辺銀行総裁(渡辺治右衛門氏)に譲り昭和初期講談社が購入した。
田中光顕―天保14(1843)~昭和14(1939)は土佐出身で武市瑞山に師事しのち中岡慎太郎の陸援隊に加わる。維新後は明治政府の岩倉遺外使節団に加わり外遊し、晩年、宮内大臣職につき宮中に大きな影響力をもった。吉田東洋暗殺に関与したともいわれている。(ウイキペデイア・猫の司書HP)

和敬塾(非公開)


目白の男子学生寮で「ノルウエイの森」の作者村上春樹が在塾、作中のワタナベの寮のモデルといわれている。本館は旧細川邸である。月1~2回の一般公開をしている。入館料1050円。(和敬塾HP)

リーガロイヤルホテル東京


大隈庭園を借景に豊かな緑の中にたたずんでいる。1階ロビー奥に眺めることができる。常時開園はしていない。ホテルは2011年2月21日 TBSテレビ「シリーズ激動の昭和 総理の密使」のロケに使われた。(リーガロイヤルホテル東京HP)

寶泉寺・天台宗(西早稲田1)


水稲荷神社の別当で本堂は早稲田大学大隈重信像あたりにあったという。現在の寶泉寺北側に水稲荷があり、ここに江戸最古の富士塚(高田富士)があった。
和漢三才図会(江戸時代の百科事典)や吾妻鏡によると810年ころの草創と伝えられる。又承平年間(931~938)平将門の乱を平定した藤原秀郷(俗称・俵藤太)の草創とも伝えられどちらにしても千年の歴史をもつ古寺である。南北朝で荒廃したが、文亀元年(1501)上杉朝良が私財を投じ伽藍を復興するも戦乱に巻き込まれ再び荒廃する。その後牛込時国が天文19(1550)に再興した。
江戸時代本堂、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁した。江戸で最初に富くじが行われた。高田富士の富士講が盛んで早稲田大学キャンパスの大部分が寺領であった。(寶泉寺HP)

<将門伝説>


将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の開基といわれる。付近には俵藤太駒繋ぎの松があるという伝承がある。毘沙門堂には藤原秀郷の念持仏が安置されていた。(高田富士HP)


早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
昭和3(1928)


坪内逍遥博士、古希の祝いに、その半生を傾倒したシェイクスピア全集全40巻の翻訳が完成したのを記念して設立された。演劇、映像の貴重な資料を揃えている。建物はエリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計された。(早稲田大学HP)

會津八一記念博物館


會津八一(1881~1956)は東洋美術の研究者であり、書家、歌人としても有名な人である。坪内逍遥の弟子で、早稲田大学卒業後、英語教師として新潟の有恒学舎、早稲田の中高で美術史の教授として早稲田大学に勤務した。八一は「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法をみてゆくことは大切である。どれ程理論が立派に出来上がっても実物を根底にする真実性が含まれていなければ、即ちそれは空論だ、取るに足るものではない。」と述べた。この趣旨で、昭和9(1934)早稲田恩賜館にコレクションを展示する。昭和29(1954)會津博士記念東洋美術陳列室が移転、再開される。1998年現在の會津八一記念博物館として生まれ変わった。(會津八一記念館HP)



東日本の地震とリーガロイヤルホテル


この日、会津八一記念館の一階に下りた時、受付の方が地震だと叫んだ。東日本大震災である。
記念館の受付の女性は耐震工事を済ませているので、外より安全だといわれるが、
古い記念館のガラスが音をたてて揺れるので怖くて建物をでて、みんなでしゃがみ込んだ。
学生たちといっしょにうずくまっていた。
早稲田の先生のスマートフォンの地震情報をみせてもらうと、地図上の宮城に赤の点が集中し、東北全体に広がっていた。
駅までいったが、電車は止まり、マックなどお店は即休業、外に突っ立っているのも疲れるし、
会員全員で、ランチをした早稲田のリーガロイヤルホテルに入り、
夜遅くまでレストランで、様子を見た。
沢山の人がヘルメットをかぶった人、ずっと携帯で話しながら歩く人を眺めていた。
テレビで名取の様子を流していた。
そのまま帰宅難民となり、
結局宴会場を避難所に準備してくれたホテルで、一夜を過ごした。

本当にお世話になりました。ありがとうございました。リーガロイヤルホテル様!!

その日休んだ会員の一人はヨーロッパから帰国する日で、成田に飛ぶ飛行機がなくなってしまい、
ヨーロッパの国々を右往左往して、二日かかって帰国したそうだ。
# by gannyan1953 | 2011-05-06 11:18 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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