歴史と素適なおつきあい

タグ:赤穂浪士切腹の地 ( 2 ) タグの人気記事

お江戸の赤坂と六本木


歴史と素適なおつきあい                        2010・10.8
中川歴史ウォーキング 32                      2017・6・17

お江戸の赤坂と六本木

日 時  : 2010年10月8日(金)9:50  2017年6月17日(土)9:45
集合場所 : 永田町 8番出口方面改札口(進行方向後方)


永田町~豊川稲荷~大山道~牛鳴坂~丹後坂~円通寺坂~円通寺~
TBS敷地・2・26事件近衛兵第三連隊~三分坂~報土寺~種徳寺~
本氷川坂~氷川神社~氷川坂~勝海舟邸跡地~南部坂~松平三河守忠直邸跡~市三坂~
檜町公園・長州藩下屋敷~六本木ヒルズ・赤穂浪士切腹の地




豊川稲荷東京別院 曹洞宗 (港区元赤坂1-4-7)
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愛知県にある豊川稲荷の直轄別院。本尊は荼枳尼天。稲荷といっても寺院である。
大岡越前守忠相が、赤坂一ツ木にあった自邸に勧請していたものを、1887年現在地に移転し、創建された。忠相は南町奉行から寺社奉行に異動し、三河国西大平藩1万石の大名になった。その時に勧請したと思われる。

荼枳(だき)尼天(にてん)とは、ヒンズーでは人肉、心臓を食べる夜叉である。インド密教では性を瞑想するヨーガとして伝えられている。日本の真言密教では、大日如来の霊力で善神となり、胎蔵界の外金剛界にあり、白狐にまたがる辰狐(しんき)王菩薩、貴狐天王(きこうてんのう)といわれる。
本来、稲荷信仰とダキニ信仰とは別のものであったが、「狐」を介して習合が進み、鎌倉時代には神仏両系の稲荷が並存することになった。

豊川稲荷では開運出世の福徳神といわれ、人を選ばず願望をかなえてくれるといい、江戸時代では遊女、博徒、被差別民など広く信仰を集めた。

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大岡越前が勧請した

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銭洗弁天


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叶稲荷

ここにあるお金の封筒を持ち帰り財布に入れ
一年後にお賽銭をそえてお帰しするシステム

お金に困らないという

牛鳴坂


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大山道で路面が悪く、車をひく牛が苦しんだといわれる。江戸時代、定火消しの組屋敷があり、火の見櫓があった。

丹後坂

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近くに米倉丹後守邸があった。金沢藩米倉家は横浜市に唯一本拠を置く大名で金沢区六浦に陣屋を構えていた。武州金沢藩といったが、明治になって六浦藩になった。横浜市金沢区、平塚、秦野あたりが領地で、初代藩主は米倉家四代目で柳沢吉保の息子である。

円通寺坂 

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近くに円通寺があったので名前の由来となる。  
             (港区標識)
円通寺(港区赤坂5-2-39)

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時の鐘


寛永2年(1625)赤坂三分坂上の松平安芸守中屋敷内の拝領地に開創し、時の鐘を撞いていた。
元禄8年(1695)2月の大火で焼失し、替地を他の場所に賜ることが内定していたが、時の鐘を撞くため、近くに賜ることを願い出て、現在地に寺地180坪あまりを拝領し移転した。
円通寺の梵鐘は、「十二支の鐘」とよばれ、銘文中に「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が刻まれている。宝暦(1751-64)ころまでは、時の鐘を撞き、地域に親しまれていた。太平洋戦争のため供出されたが、昭和50年に板橋区の寺院にあることがわかり譲り受けた。                                                              (港区文化財のしおり)

時の鐘 
城鐘、寺鐘、市中の鐘の三種類あり、江戸末期には江戸城内で本丸西丸に土圭の間があり、大きな時計があった。城中の諸行事や城門の開閉は太鼓の時報により行われた。幕府の武士の登城は朝四つ時だったが時を司る坊主はその時ごとに只今は何時と各部屋に触れまわったという。
江戸市中の鐘は江戸本石町3丁目に時の太鼓が作られ、後に鐘に取り替えられた。家康の時代には明け暮れの六つ時だけだったが、秀忠の時代に明け暮れだけでは役に立たないということで、12時を知らせるようになり、太鼓から鐘にかわった。初期の江戸中心地はこの鐘が聞こえる範囲で、その範囲の町人から一カ月一文徴収したという。     
川柳「石町でだしても同じ時の割」

寺院の鐘は仏事を修する時の合図の鐘で晨朝、日中、日没、初夜、昼夜、後夜の六つの時刻で
江戸時代中ごろには江戸庶民は寺院の鐘で時刻を知ることが多かった。現在のような定時ではなく日没を基準とする。不定時刻であった。時刻を知るには定香盤や水時計を用いた。
                                  (富山市科学博物館)

近衛兵第三連隊跡地・安芸広島浅野家屋敷跡
(赤坂サカス)


TBS、赤坂サカスの敷地は、浅野家(秀吉の正室の弟の血筋が藩祖・赤穂藩は分家)の中屋敷の跡、明治になり陸軍裁判所、監獄になっていた。その後、近衛兵第三連隊が置かれた。この第三連隊は2・26事件に加わった連隊である。昭和11年2月26日未明、前夜からの雪の中、この近衛歩兵第三連隊(TBS)第一師団歩兵第一連隊(ミッドタウン)、歩兵第三連隊(国立新美術館)の将兵を使いクーデターを起こした。
永田町と青山の中間あたりに、2・26事件で殺害された大蔵大臣高橋是清邸があった。

2・26事件は、大日本帝国陸軍内の派閥である皇道派の影響をうけた一部青年将校らによるクーデターで、元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村困窮が収まると考えていた。「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下されこの時点で「昭和維新」は終わった。首謀者17名は死刑、69名が有罪となった。
クーデターそのものは失敗に終わり、これ以降軍部の要望を聞き入れないと再びクーデターが起こるという危惧があった。やがてその影響で太平洋戦争にむかうことになる大きな事件であった。

三分坂
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急坂のため、通る車賃が銀三分(百円余り)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある 
読み方はさんぷん坂である。                              (港区 標識)


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山田君自販機


報土寺 浄土真宗大谷派 (港区赤坂7-6-20)

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雷電の墓


慶長19(1614)に赤坂一ツ木に創建され幕府の用地取り上げにより安永9(1780)に移転した。このころ造られた築地塀が立ち港区の文化財である。      (東京都教育委員会)
江戸時代の大関雷電為右衛門の墓がある。

「雷電為右衛門の墓」の標識の説明
 
明和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政8年(1825)江戸で没した。                       (東京都教育委員会)

種徳寺 単立(港区赤坂7-6-29)
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小田原北条の菩提寺早雲寺の流れの寺、で湯本の近くにあったが秀吉の小田原攻めで焼失し、文禄2(1593)年ここに移転。北条氏康の弟・為昌(玉縄城、川越城、小机城、三崎城主)の菩提寺といわれるが、北条との縁は薄いと住職が言われた。元の寺名は本光寺、のち種徳寺に改めた。
墓は高台にあり、立派なものが多い。

分部光實―分部家9代、近江大溝羽藩8代藩主

狩野定信―江戸初期の画家で、秋田狩野派の祖
堀直虎――廣顕院殿前少府令祐道靖忠大居士神儀―
信州須坂藩の13代藩主で、漢学、蘭学、兵学、砲術に長け、藩の建て直しと早くから洋式軍隊を取り入れた名君であったといわれる。外様であるが、優れた能力を認められ慶応3年26歳で、若年寄兼外国総奉行に任じられた。大政奉還後の末期の幕府で、誰もが辞退したい役といわれた。直後鳥羽伏見の戦いで大坂から逃れ、朝敵となった慶喜を迎えいれた。
幕府の今後の方針会議で慶喜に意見し、その後江戸城内で喉をついて自刃した。意見の内容は、恭順を勧めたとも、絶対抗戦を勧めたとも真相はわからない。ただ藩では恭順を勧めた諌死であるとし、官軍に同行し、東北征伐に出兵、藩の存続は認められた(HP 珈琲ブレイク・名墓録)

勝海舟邸跡 (港区6-10-39 ソフトタウン赤坂)
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海舟37歳のとき安政6(1859)年から10年ここに住んだ。龍馬が千葉重太郎と訪ねた屋敷である。土方歳三も流山で捕縛された近藤勇の助命嘆願を求めにここを訪れている。
明治元年、海舟の留守中に官軍が襲ったとき、海舟邸にいた妹の佐久間象山未亡人が毅然と応対し、危急を救ったといわれる。       (HP 土佐の歴史散歩・ソフトタウン赤坂管理組合)

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氷川神社 (赤坂6)

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立派なご神木


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勝海舟が近くの神社をここに合祀し、名付けた四合(しあわせ)稲荷



祭神―スサノオノミコト・クシイナダヒメノミコト・オオナムチノミコト
由緒は951年、一ツ木に大宮氷川神社を勧請した。境内に勝海舟ゆかりの四合(しあわせ)稲荷がある。近隣四社の稲荷を明治三一年合祀したもので、海舟が「四合稲荷」と称した。

一ツ木にあった氷川明神を徳川吉宗が現在地に遷し、社殿はそのとき造営されたものである。江戸の宮大工は東照宮の影響か装飾が多いが、この氷川神社はすっきりした佇まいになっている。
神社が遷される前は、浅野内(あさの)匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)夫人の阿久里(瑶(よう)泉院(ぜいいん))の実家である三次三万石浅野土佐守の中屋敷があった。28歳で未亡人となり、江戸本邸ひきはらいなど沈着に行い、43歳までここ中屋敷で夫の菩提を弔いつつ静かに余生を送った場所である。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

勝海舟邸跡 
(赤坂6-6-14)

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竜馬と海舟

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勝海舟の邸跡からでてきた茶碗など

さきほどの邸跡から持ってきた物もあれば
竜馬や土方歳三が使った茶碗があるかも



海舟が明治5(1872)年49歳から76歳まで住んでいた。この間参議、海軍卿、枢密顧問官、伯爵として生活を送った。晩年は海軍、陸軍の歴史記事を編纂し談話を速記した「氷川清話」などを遺した。                           (HP kan karu 日記)
現在「プラザ赤坂なんでーも」になっている。


南部坂

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江戸時代初期、氷川神社あたりに南部家屋敷があったため、この名がつけられた。
明暦2(1656)年に赤穂藩浅野家との間で屋敷の取り替えがあり、南部家は現在の有栖川宮祈念公園のある場所に移った。
忠臣蔵では大石内蔵助が瑶泉院に暇乞いに訪れた「南部坂 雪の別れ」の場面に設定されている。

大石は後日瑶泉院の身に災禍がおよぶことをおそれてそういう軽率なことをしなかった。ただ討ち入りの前日大石は書類を送っている。あてさきは瑶泉院付きの落合与左衛門である。赤穂藩の財務整理で残された690両を長矩の弟大学を立て、お家再興の資金としていたが、再興の望みが消え討ち入りの資金とした。その金の使途いっさいを記入した明細帳と領収書であった。
瑶泉院はこの内容で大石の復仇の意思をさとったにちがいない。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

南西に駐日アメリカ合衆国大使館官舎がある。

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南部坂の石碑とともにある山田君自販機



松平三河守忠直下屋敷跡(六本木4-2-27)




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忠直は家康の次男、越前宰相秀康の子であり家康の孫にあたる。父秀康はなぜか家康に嫌われ(双子説もある)三歳まで家康と対面していなかったという。兄信康の計らいで対面を果たすが、のちに信康が殺され、次男であるのに、秀吉の養子(人質)になる。秀吉に子供が生まれると結城氏の養子になる。関ヶ原の戦いの前哨戦である上杉景勝征伐に参戦する。のち越前北の庄に入封した。

その嫡男忠直は二代将軍秀忠の三女勝姫の婿である。12歳から29歳まで越前67万石を領していた。大坂夏の陣では真田勢と正面から死闘を繰り返し、真田幸村を討ち取り、大坂城に一番乗りした。しかし家康からも秀忠からも恩賞の沙汰がないのを不服とし、次第に酒食におぼれご乱行の噂がたった。血塗られた殺人者として有名になり、勝姫は江戸に帰った。元和9(1623)年忠直29歳は北の庄より豊後萩原に配流された。その時幸村の愛馬も伴っていった。いまなお萩原では一伯さんと呼ばれ親しまれている。菓子や民謡の題材になり領民と交わり「乱行」とは程遠い姿であった。

萩原に海路で護送された忠直は府内城主竹中重義によって築造された萩原館で侍女たちと暮らした。男子の従者は許されず警護は厳しかった。
侍女のお蘭とお糸を大切にして静かな日々を送ったといわれる。
「豊後よさら節」は愛するお蘭、お糸との逢瀬に託して生きる忠直の姿を豊かに歌い上げたものである。
1 お蘭様 いかにかねつけ   しゃんしゃらめけど   夜さら寒いもんじゃ雨じゃもの 

 2 おとのさま ふりくる雨に   しょんしょぼぬれて  夜さらしのびのやみじゃもの 

3 お糸様よごとこがれて  ねむらず待てば  夜さら長いもんじゃ秋だもの
      
しばらくして、お蘭さまと娘が亡くなり、津守館に移り、56歳で亡くなった。(HP 府内観光)

市三坂
明治20年に開かれた坂で、名主の市兵衛、三河守からついた名前。

檜町公園(長州藩下屋敷)(港区赤坂9-7-9)

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突如現れた富士山 
フェアが終わると撤収

この公園は草薙君が騒動を起こした公園


長州藩の麻布下屋敷があった場所で庭園は清水園といわれ江戸の大名屋敷の中で名園といわれた。
その後第一師団歩兵第一連隊の駐屯地となり、2・26事件に加わっている。大戦後、米軍に接収、その後防衛庁の敷地になり、防衛庁が市ヶ谷に転出したあと2007年ミッドタウンとして開発され、今では池に面影を偲ぶ。

江戸時代初期に手狭になったため、幕府に願い出て、麻布龍土町に新しい屋敷を拝領した。
付近の山や谷も取り込み見事な檜林があった。
元治元年(1864)禁門の変の処分として長州藩江戸屋敷没収となった。そのとき、屋敷にいた藩士は諸藩に預けられ、うち50名ほどは病気などで命を落とした。

今の日比谷公園の北部が上屋敷、麻布下屋敷、江東区にあった中屋敷、世田谷には抱え屋敷もあった。ことごとく破壊され金、米は籾蔵へ、町火消しによる解体、書物は越中島で焚書された。




長州府中藩上屋敷跡(六本木ヒルズ)


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毛利庭園


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長府藩は萩藩の支藩である。
龍馬と寺田屋遭難のときいっしょにいた三吉慎蔵が長府藩士である。龍馬の警護を長州藩から命じられ、龍馬の死後もその妻お龍を長府で預かっていたこともある。
そして乃木希典の生誕地である。
低い湿地で、外様の小藩の屋敷は江戸中心から離れていた。

赤穂浪士は討ち入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そして長府毛利家である。細川家などは忠義義胆の士としてかれらを篤く礼遇し、その礼遇ぶりは江戸中がほめそやすほどの美談になり、そのことは講釈ダネのなかでももっともよろこばれるくだりの一つになっているが、長府毛利家が最も冷遇した。
 長府毛利家は武林唯七ら十人を藩邸の長屋に押しこめ、そのうえ、長屋の往来に面した窓に板をうちつけ、窓をつぶし、文字どおり罪人のあつかいをした。この冷遇が江戸中の評判になり、町人たちの批難をあび、のちその待遇をあらためた。それもこれもべつに底意があってのことではなく、この藩が幕府の威権をおそれ、幕命を忠実に解釈してのことにすぎず、あとになってその監禁の度あいをゆるめたのも、幕府が存外この浪士たちに好意をもっているということを知ったからにすぎない。
武林唯七は帰化人の孫である。その祖父は中国杭州武林の人で、秀吉の朝鮮ノ役で捕虜になり、日本に移住した。その子は浅野家の医官になり、唯七を生む。唯七は元禄のころの下級武士としてはめずらしく詩に長じた。その韻律が日本人離れしたほどに自然だったのは家伝として中国音を知っていたからにちがいない。

三十年来一夢ノ中
生ヲ捨テ義ヲ取ル幾人カ同ジキ
家郷病ニ臥シテ双親アリ
膝下歓ヲ奉ジテ恨ムラクハ終ラザルコトヲ
と、これは武林唯七の辞世の詩である。病床にいる両親に先立たねばならぬ哀しみを、「恨むらくは」とのべている。唯七は他の九人の同志とともにこの藩邸の広庭で切腹した。
切腹にあたって、話がある。元禄のころの長府毛利家は士風がよほどおとろえていたのか、江戸詰めで剣を使える者がすくなく、浪士の切腹にあたってそれを介錯―――首を落す―――ことができる者はわずか五人しかいなかった。唯七は切腹の座につき、長府毛利家の家士榊正右衛門の介錯をうけた。榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落せなかった。唯七は前へ倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。二度目の太刀で唯七の首が落ちた。                   (殉死 司馬遼太郎)

参考:HP・ウィキペディア
        HP・江戸の散歩
by gannyan1953 | 2017-05-13 15:54 | 東京都 歴史散歩 | Comments(2)

ちょっとディープな三田散歩

歴史と素適なおつきあい       


白金から三田まで・・・キリシタン殉教、赤穂浪士切腹の場所など
非業の死を遂げた・・・
ちょっとディープな歴史散歩
慶応の学食か慶応仲通商店街でランチします



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江戸名所図会


集合:9:50 白金高輪出口1番方面改札 出た所

        
 白金高輪・・細川藩下屋敷跡・・キリシタン殉教碑・・御田八幡宮・・聖坂・・済海寺・・幽霊坂・・西郷南州勝海舟会見の碑・・水野監物屋敷跡・・三田図書館・・大松寺・・慶応大学キャンパス・・イタリア大使館

三田には江戸時代、大名屋敷、御家人の屋敷が多かった。八幡宮あたりは台地が広がり、歌川広重は「月の岬」という地名で画いている。目黒の三田とは古来三田郷を起源に荏原郡三田村の飛び地であり、同じ村であった。三田の語源は①御田(おでん)で天皇の田を持っていた②伊勢神宮か御田神社の神田(みた)があったからといわれる。田町の語源は①御がなくなったから②田んぼがなくなって町ができたからといわれる。(田町不動産)



大石良雄外十六人忠烈の碑


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肥後熊本藩細川家下屋敷・高松宮邸跡で、忠臣蔵の大石内蔵助ら17人が切腹した場所である。預かりとなった細川家は彼らを優遇し、元禄十六年(1703)大書院の前庭で背後に池を背負った場所で切腹したという。

幽霊坂

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寺院が建ち並び木々で暗くなり幽霊でも出そうな雰囲気からついたという。森有礼邸が近くにあったという説もある。

済海寺 

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浄土宗 本尊は阿弥陀如来 竹芝伝説の竹芝寺の跡地である。
元和7年(1621)牧野忠成と念無上人により創設。長岡藩主牧野氏、伊予藩主松平氏などの菩提寺である。安政6年(1859)から明治7年(1874)までフランス領事館
だった。

亀塚公園に伝わる話

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大名が建てた碑
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向かい合わせにある碑

名前の由来は①円墳と思われたが発掘調査では何も出てこなかった。②竹芝寺の伝説に故郷をなつかしんで掃除をしながらブツブツ言っている男を皇女が見かけ、おもしろいので私を連れて男の故郷に帰れと命令・・着いた所が竹芝寺今の済海寺だったという。ブツブツの内容は・・・酒壷に、瓢箪を縦に割った柄杓をさし渡して、その瓢箪が南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき・・・そんなのんびりした様子を見たい・・・だった。(「更級日記」より)そしてこの亀塚は、その皇女と男が結婚しその皇女の墓ともいわれ、酒壷の下に住んだ亀が埋められたなど伝わる。二人の子供は源氏を名乗り「武芝」となった。将門とかかわりのある人物である。将門と鉄

御田八幡神社  祭神 ホンダワケノミコト

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お稲荷さん




和銅2年(709)牟佐志国(武蔵国)牧岡に東国鎮護の神様として祀られ延喜式では「稗田神社」と伝えられる。その後寛弘8年(1011)御田郷久保三田に「綱八幡」として遷座、渡辺綱の氏神として崇敬された。イタリア大使館横の「綱坂」は渡辺綱の生誕地からつけられた。渡辺綱は源頼光の四天王の1人で大江の酒呑童子や一条戻橋の鬼を退治した人である。生誕地は鴻巣となっているが、伝承でこの三田も生誕地となっている。
元和5年(1619)「八幡山宝蔵寺」天台宗の寺になり、明治2年(1869)神仏分離で「稗田神社」明治30年「御田八幡神社」となった。戦災で社殿は焼失し、昭和29年再建された。(御田八幡神社HP)

元和のキリシタン殉教碑

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元和9年(1623)50人のキリスト教徒の火刑が行われ、寛永15年(1638)に幼児を含むキリスト教徒43人が磔、斬首、溺刑になった。
近くに札の辻があり高札場があったので通行する人の見せしめにこの場所で行われたという。智福寺(東京オリンピックのころ石神井に移転)の伝えに刑場跡がありその場所に寺を建てれば供養になると一空上人が寺を建てたという。江戸初期に刑場だったが江戸が大きくなるにつれ手狭になり刑場は鈴が森に移転した。その跡地ということになる。(ラウダーテ)

江戸の大殉教とは
徳川家光はキリシタン迫害政策を強化し元和8年に長崎で55名を処刑している。江戸では小伝馬町の牢から市中引き回しをして処刑された。キリシタンのうち、下総6万石の臼井城主の子である原主水が中心的な存在だったといわれる。原主水は家康に仕えていたが、キリシタンと判り手足の腱を切られて追放され、江戸に潜みなお外国人宣教師と活動をしていた。
密告により捕らえられた。数年にわたり女性や子供、キリシタンをかくまった人々などこの地で100名ほど、江戸全体で2000名近く殉教した。

この地にはかつてホテルがあったが、その跡地に三田ツインビルが建った。
キリシタン殉教碑の丘の上には東急のアパートがあったが現在は廃墟・・・

うーーーーん  怖!

聖坂(ひじりざか)

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東海道ができる以前の道で、中世に高野聖によって作られた。古奥州街道で中世では重要な街道だった。
竹芝坂ともいった。江戸名所図会に残るが昔は階段の坂だった。


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クウェート大使館


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聖坂にあるおもしろい建物

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亀塚稲荷

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かわいい板碑
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三田区立港郷土資料館 


三田図書館4階に歴史の展示室がある
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なぜか寄贈されたミンククジラ さわれる

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なつかしいお幼い頃の品々 さわれる





西郷南州勝海舟会見の碑


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江戸城総攻撃を目前に慶応4年(1868)勝海舟はこの地に会った薩摩藩蔵屋敷において、東征軍参謀西郷隆盛と会見した。江戸城無血開城と徳川慶喜の水戸謹慎を条件に総攻撃を回避した。

水野監物の屋敷跡

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慶応仲通商店街にありわかりにくい場所にあるがまんまやがわかれば手前にある

三河藩中屋敷跡で水野監物(けんもつ)が岡崎藩主だったころ赤穂浪士間(はざま)十郎ら9人のお預かりとなった。元禄16年(1703)に切腹した場所である。水野は彼らを細川家に倣って厚遇した。
狂歌「細川の 水の流れは 清けれど ただ大海の 沖ぞ濁れる」
細川(肥後熊本藩)水の(三河藩水野監物)大海(毛利藩甲斐守)沖(伊予松前藩松平隠岐守)のことで細川と水野は丁重に扱いずさんな扱いをしたのが毛利藩と伊予松前藩(優遇したともいわれる)と風刺している。伊予松前藩はイタリア大使館、毛利藩は六本木ヒルズである。

大松寺
黄鵠山満宗院と号す。慶長16年(1611)八丁堀に曽根長次により開基し、寛永12年(1635)この地に移転した。曽根吉正の墓がある。
曽根吉正は佐渡奉行として寛文11年(1671)から延宝8年(1680)の在任中洪水による佐渡金山の復興、生産増加に貢献したという。

慶応大学

中津藩士の福沢諭吉は、幕末に大阪の緒方洪庵の適塾で学び、江戸で蘭学塾をはじめた。
欧米諸国を見聞し慣習にとらわれない教育を実践し慶応大学の伝統的な教育の礎を築いた。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉を残した。
歴史的な建物見学をするが外見のみで内部見学は不能。

三田演説館

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木造瓦葺きナマコ壁の洋風会堂建築で福沢諭吉が「スピーチ」を導入しようと演説の訳語をつくり、日本ではじめて例月演説会を行った場所である。当初塾監局北側にあったが関東大震災後、現在地に移された。内部中央は吹き抜けで三方に傍聴席を設け正面に福沢諭吉立像がある。

慶応義塾図書館

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義塾創立50年を記念し、明治45年(1912)に完成した。赤レンガと花崗岩の白い窓枠、柱が調和し華麗で重厚な外観は慶応のシンボルである。内部ホールのステンドグラス
は「ペンは剣よりも強し」で、これも有名な言葉である。構内東の福沢公園は、諭吉終焉の場所である。

綱坂

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渡辺綱の生誕地(オーストラリア大使館)といわれる場所の坂。

イタリア大使館

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伊代松山藩中屋敷があった場所で大石主税・堀部安兵衛ら10名がお預かりとなった。大石主税は大石内蔵助の子で16才だったが、この地で切腹となった。伊代松山藩は赤穂浪士に同情的で丁重に扱ったという。さきほどの川柳と話が違うが、後に浅野家から優遇されたお礼にとハゼノキを贈られ、今も道後公園にあるという。
昭和14年当時のイタリア大使によって碑がたてられ、揮毫は徳富蘇峰で、毎年命日には駐日イタリア大使が供養をおこなっている。藩邸は松方正義の土地になり昭和9年にイタリアが取得した土地である。
ブラタモリでタモリが特別に訪問していたが、大名屋敷の庭がよく残されている例であるというが、残念ながら見学は不能である。大使の犬が自由奔放に走り回る姿が印象的だった。


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三井倶楽部


このあたりで終了 あとはおまけ


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渡辺綱にまつわる坂
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綱の手引き坂

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赤羽小学校をすぎて左に行くと三田国際ビル

ここは猫の怖い話が伝わる場所

猫塚探すのにくたびれてしまって

赤羽小学校の校庭の片隅にあったらしい
本物は台座だけ

どこにいったかというと
恵比須の防衛資料館だそうな・・・

麻布十番に用賀あったので
15分ほど赤羽から歩いて麻布十番に向かう


永井荷風は「日和下駄」で
猫塚を探したらしい・・・

参考:東京との歴史散歩(山川出版)ウイキペディア 更級日記現代語訳 
大統領の穴場案内 忠臣蔵ぶろぐ 



by gannyan1953 | 2016-05-14 18:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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