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歴史と素適なおつきあい

2020年オリンピックマラソンコース②

歴史ウォーキング49    2019・5・18(土)

第2回マラソンコース  神田から浅草雷門まで歩きます
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浜町公園

集合:5月18日(土)9:45 JR「神田駅」東口改札口

今川橋・竜閑堀跡・・長崎屋跡・・福徳神社・・三浦按針遺跡
日本橋・・日本橋日枝神社・・蠣殻町・・銀杏八幡宮・・水天宮・・郡代屋敷跡・・江戸城浅草見附跡
浅草天文台跡・・蔵前神社・・駒形橋・・吾妻橋・・雷門





今川橋・竜閑堀
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竜閑川は元禄4年(1691)に開削された堀で人工の川である。
神田堀、神田八丁堀などと呼ばれていた。
五街道の東海道以外の街道は日本橋から
最初の今川橋を渡る。
江戸時代安永年間(1700年代)ここに大判焼きの店があり、今川焼という名が
ついたという。
資材運びなどに使用された。
日本橋川の河口付近に
竜閑という武士の屋敷があったために
竜閑堀といわれた。
明暦の大火後防火のため土手が築かれ
町民が自ら資金を調達し開削したという。
安政4年(1857)に埋められたが
明治16年(1833)又開削され
戦後のガレキを処理するために埋められた。
堀跡を辿ると伝馬町牢屋敷につながる。

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長崎屋跡
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幕府が鎖国をし、オランダのみ長崎の出島に商館をおき、
貿易が許された。商館長カピタンはお礼のため江戸に来て
この長崎屋に滞在した。手土産を献上、将軍に拝謁した。
将軍には献上物、家老などには進物といい、
残った場合売却され旅費などに充てたという。
旅費は12000両、莫大な儲けをする
オランダの自己負担である。
江戸は長崎屋、京都は海老屋、大阪は長崎屋
下関は大町年寄、佐甲家、伊東家
小倉は大阪屋などに宿泊した。
江戸では厳重に役人が監視したが京都では監視がゆるく
芸者や遊女を招き、羽目をはずすこともあったという。
大阪では輸出品の銅の精錬を行う住友銅吹所を見学する事が慣例だった。
南蛮人から学んだ製法で粗銅から銀を抽出できた。
ここで饗応を受け、それを見学にくる庶民には銅吹所の泉屋が
炊き出しをしたという。
江戸の長崎屋には、オランダ人の知識を得るため
多くの蘭学者や医師などつめかけたという。

福徳神社  ウカノミタマノミコト
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貞観(じょうがん)年間(清和天皇の頃で800年代)には
鎮座していたという。福徳村の鎮守だった。
源義家が崇敬し太田道灌が武具を奉納、家康も参拝、
徳川秀忠は木々の春の芽吹きが美しいと
芽吹稲荷と別名をつけた。
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三越
このあたりの大理石に化石が見える

三浦按針遺跡
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三浦按針ことウイリアム・アダムスは
イギリスで生まれ、造船技術や航海術を
身につけ、航海するうちオランダ人と親しくなり
オランダ商船リーフデ号で太平洋にでて遭難、
日本の九州臼杵に漂着した。
当時秀吉の元で五大老だった家康が
江戸に招き帰国を願うアダムスを
米や俸給を与え慰留し
数学や天文学、通訳などさせた。
三浦半島に領地を与えられ
「安針塚」という駅名になっている。
家康の死後、鎖国もあって
平戸で寂しく亡くなったという。
いっしょの船に乗っていたヤン・ヨーステン
は八重洲の地名に残る。
彼は朱印貿易でジャカルタからの帰国途中
インドシナで座礁、溺死した。
日本人と結婚した2人の子孫は今でも
いつのだろうか。
記録が残っていない。

日本橋
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これは道路の真ん中にあるので
見たい人は車に気をつけてくださいね

慶長8年(1603)木造の太鼓橋が架けられた。
最初は粗末な2本の木で架けられたから日本橋、
日本の中心だったから日本橋の説がある。
現在の石橋は
明治44年(1911)に架けられた。
架橋100周年に舟めぐりが始まった。
魚市場の跡や橋の景観を見直す動きもある。
日本橋は江戸開府とともに城下町として急成長し、
全国から商人や、職人が集まった。
五街道の起点で水運に恵まれ、
多種多様な物質が集結、流通した場所である。

日本橋日枝神社 日枝大神
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天正18年(1590)家康が日枝神社を崇敬し
ここは八丁堀北嶋(鎧島)祓所という御旅所だった。
神輿が船で神幸(しんこう)した。
ご神木は触るとパワーもらえるという
空仰ぐ狛犬は遠吠えしているといわれ
癒されるのだそうだ

其角住居跡
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其角は芭蕉の弟子であしゃれな俳句を詠んだらしい
英一蝶が八丈島に流されくさやが送られてくると
英一蝶は達者だと喜んでいたという
吉原でいっしょに遊んだ仲だという
八丈島に差し入れの品を送るんだろうに
八丈島から送られてくるのが面白い


 

蠣殻町
漁師の小網の干場で、
牡蠣の殻が堆積した浜だったという説がある。
江戸時代は大名や武士の屋敷が多かったが、
明治になり鎧橋が架けられると庶民が住み着き
キッコーマンやヤマサなど醤油製造販売や、
砂糖の卸店など商人の町となり発展した。

銀杏八幡宮
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蠣殻町の鎮守で樹齢400年の銀杏がある。
昭和のはじめ銀杏を移転し商店街にする計画があったが、
近隣の住民が
三番地の人「三番地の空き地へ」
四番地の人「いや四番地に」
三番地の人「冗談いうねえ、三番地に立っているんだ」
四番地の人「よさねえか、根っこは四番地にはっているんだ」

移転は中止となった。

水天宮
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久留米藩の有馬家が、久留米の水天宮を

三田の上屋敷に勧請した。

藩邸にあったので、一般人は参拝できなかったが、

一般参拝の許可を求める伺いを幕府に願い出たところ

毎月5の日に一般公開されるようになった。

有馬家は賽銭、奉納物、販売物など安政のころ

年間2000両にのぼり、貴重な収入になった。

明治4年赤坂に屋敷とともに移転したが

翌明治5年現在地に移転した。

江戸鎮座200年を記念して社殿の建て替えを行った。

現在の宮司は有馬家当主である。



郡代屋敷跡
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郡代とは関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する役目で
行政、裁判、年貢徴収、警察権、鷹場の管理を行った。
といわれるが、実際には伊奈氏のころには関東代官といわれ
伊奈氏が改易された以降を郡代という役職名になったという。
伊奈氏は家康父子に仕え湿地帯で水も不足した
江戸を作り上げた人である。

伊奈氏は12代200年間に渡り世襲し、

7代は宝永大噴火の砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行にもなった。

高山の観光地の高山陣屋は伊奈氏が高山の郡代も兼ねていて、

幕府直轄の天領の陣屋である。

関東郡代は伊奈氏の自称で他の郡代、代官とは別格だった。

のちに老中の直属となり伊奈氏の地位をめぐる御家騒動が起こった。
寛政4年(1792)に罷免、改易された。
諫言によるといわれている。
御家騒動とは、11代は子が生まれず
備中松山藩主の子を養子にした。
その子は12代になった。
そののち11代の実子が生まれ、
12代は子がなかったので、実子を
跡継ぎにした。
ところがそのあと12代に子ができると
跡継ぎをめぐりややこしくなった。
12代は天明の打ちこわしで庶民を救うため
借金をしたが、返す事ができず
とうとう家中のものが幕府に
12代の不行跡を訴え
結果12代も実子も失脚した。
幕府は借金は個人的なことで
知らぬ顔をしたというが、
権力と人望を持った伊奈氏の力を
怖れての事かもしれない。
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江戸城浅草見附跡
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江戸を守るための見張り番所だがこの場所は隅田川にかかる

重要な場所だった。明暦の大火で小伝馬町の老屋敷にいた罪人が

戻る約束をして放免されたが、脱獄と伝わり

この門を閉めてしまったため、

江戸市民が逃げ場を失い命を落としたといわれる。 

このあと防備より、防災を重視し両国橋が架けられた。

浅草天文台
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幕府の天文方があり、暦を作ったり天体観測も行われた。
伊能忠敬もここに通った。

蔵前神社
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元禄6年(1693)五代綱吉が石清水八幡宮より勧請、
江戸鬼門除けとされた。

榧寺
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秋葉大権現のおかげで数多い江戸の火事で焼けなかったお寺

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駒形どじょう


駒形(こまかた)堂
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駒形堂に由来する地名で駒形堂は天慶5年(942)
平公雅(たいらのきんまさ)によち建立された。
円仁作の馬頭観音を祀るためと伝わるが
古くは浅草寺の総門があったという
昔は駒形の渡しがあった。
ちなみに土地の人はこまかたという。

平公雅は、将門の親戚で父良兼が将門の所領を
求め戦っていたが、将門との関係は中立だった。
父が人質にした将門の妻子を将門に
返している。乱ののち武蔵守となり、
浅草寺の再建をした。

吾妻橋
橋は安永3年(1774)に架けられ
それまでは「竹町の渡し」があった。
橋名は隅田川が大川と呼ばれていたので
大川橋だったが、向島の吾妻神社に行く道だったので
吾妻橋となった。
吾妻神社は北十間川に沿って押上の東にある。

雷門
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外国人が多く
「江戸てんや」で食事したが、
現金で支払いできなくて
帰る日本人もいたことが面白い
店内各国の言葉で、みんな上手に箸を使っているのに
感心した。


創建は定かでないが、慶安2年(1649)家光が再建したときに
雷門という表記がある。
駒形堂に総門を造り、鎌倉時代に移築された時
風神雷神を配したといわれている。
幾度も焼失し、慶応年間から再建されず
昭和35年(1960)松下電機の松下幸之助により
燃えないようにコンクリートの門が寄進された。


# by gannyan1953 | 2019-04-04 15:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

日本橋七福神巡り

歴史と素適なおつきあい   2019・5.8(金)


最近最強スポットと言われるようになった
小網神社もあります
老舗をのぞきながら歩きましょう

集合:9:50 半蔵門線「水天宮」駅

水天宮・・松島神社・・茶の木神社・・谷崎潤一郎生誕の地・・
西郷隆盛邸跡・・小網神社・・ランチ魚久・・
甘酒横丁・・末廣神社・・笠間稲荷神社・・
椙森神社・・(小津和紙)・・水天宮か三越前



日本橋
慶長8年(1603)木造の太鼓橋だったが、現在の石橋は
明治44年(1911)に架けられた。架橋100周年に舟めぐりが始まった。
魚市場の跡や橋の景観を見直す動きもある。
日本橋は江戸開府とともに城下町として急成長し、全国から商人や、職人が集まった。
五街道の起点で水運に恵まれ、多種多様な物質が集結、流通した場所である。
暖簾、企業という形で今も成長している活気のある町である。
町名は日本橋を冠する町が21あり、日本橋を残したい人々の思いが伝わる。

日本橋七福神
昭和25年頃、有馬頼寧(よりやす)の提唱で始まり、51年に復活した。(江戸東京札所辞典)
頼寧は有馬家の末裔で伯爵、政治家だった人で水天宮は江戸時代有馬家が勧請した。



水天宮 弁財天 安産・子宝・美の向上

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弁財天

久留米藩の有馬家が、久留米の水天宮を三田の上屋敷に

勧請した。藩邸にあったので、一般人は参拝できなかったが、

一般参拝の許可を求める伺いを幕府に願い出たところ

毎月5の日に一般公開さ

されるようになった。

有馬家は賽銭、奉納物、販売物など安政のころ年間2000両にのぼり、

貴重な収入になった。

明治4年赤坂に屋敷とともに移転したが翌明治5年現在地に移転した。

江戸鎮座200年を記念して社殿の建て替えを行った。

現在の宮司は有馬家当主である。



松島神社 大黒天 金運

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創建は定かではないが、鎌倉時代以前と伝わる。

ここは昔島で、松の繁茂するなかに島の鎮守となり、

松島稲荷大明神となった。

正徳3年(1711)社号にちなみ

松島村と称した。

周囲を埋め立て大名屋敷を造営するために

集まった大工、左官、家具職人など住み着き

蛭子社に合祀し、水子供養のため布切れ、

土、木片などで乳児の形をつくりお供えした。


茶ノ木神社 布袋 福徳

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江戸時代佐倉藩の大老堀田家の中屋敷の鎮守だった。

社の周囲は丸く刈り込まれた茶の木が植え込まれた。

この屋敷は火災がなく、いつのころからか火伏の神と

崇められ、堀田家は年一回初午の日に一般参拝を行った。

お茶の木さまと親しまれた。


京粕漬け魚久

初代は奈良の生まれで京都で料理修行して

日本橋に隣接する蠣殻町で大正3年「魚久商店」を開業した。

日本橋に魚河岸があり、蠣殻町は米相場を支配する商業の中心地だった。

昭和15年に「江戸風懐石魚久」を開店すると

粕漬けが評判になり、現在に至る。


谷崎潤一郎生誕の地

明治19年(1886)この地で豊かな家庭に生まれた。

その後すぐに身代が傾き、進学も危ぶまれたが

学業に秀でていたため援助をうけ東大に進学している。

東大在学中から小説を書き、最初は北欧的なスタイルだったが

関東大震災を機に関西に移ってから

純日本的な傾向になり、日本の美しい文体を

確立した。私生活は結婚、離婚を繰り返し

細君譲渡事件もあった。


鯨と海と人形町

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あやつり人形のバネは鯨のひげが使われる。

文楽の人形の首の動きは弾力のある

鯨のひげでなければ出せないという。

寛永のころこのあたりには芝居小屋があり、

人形をつくる職人が多く住んだ。


西郷隆盛屋敷跡

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江戸時代は姫路酒井藩に下屋敷があり、

明治4年(1871)新政府に参議として

上京し、ここに明治6年まで住んだ。

26000坪の広い屋敷で

書生15人ほど、下男7人を雇い、

猟犬数頭が飼われたという。


小網神社 福禄寿 強運

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1000年前ころに観世音と弁財天があったという。

文正元年(1466)疫病が流行し、漁師が稲穂を持って

この庵で数日過ごすと夢のお告げで稲荷を勧請すると

疫病が止むといわれた。早速稲荷大明神として称し

祈願をすると疫病がとまったという。

太田道灌はこの神徳に崇敬したという。

太平洋戦争では氏子の出征兵士がお守りを受け

その兵士が全員生還したこと、

社殿が戦災を免れた事、

宮司がご神体を抱え新大橋に避難したが

新大橋も被災しなかったことなど

強運厄除の神と大変人気がある。


甘酒横丁
明治始めに甘酒屋があったことに由来する。
明治座にむかう道である。
つづらやが有名である。

末廣神社 毘沙門天 勝負運
元和3年から明暦3年まで吉原がこの地にあり
地主神として信仰され、明暦の大火で吉原が移転してから
この地の氏神となった。延宝3年の社殿修復の折扇が見つかり
末廣神社となった。

笠間稲荷神社 寿老人 長寿
笠間藩牧野氏の下屋敷にあった。綱吉から拝領した土地で
広い庭園には池、築山を設けた。
綱吉は生母桂昌院とともに30数回は訪れたという。
江戸末期には初午の日には一般参拝に公開された。
廃藩後も笠間稲荷東京別社として被災、戦災で社殿を失うも
再建された。

椙森神社 恵比寿 商売繁盛

平安時代に平将門の乱を鎮定するため藤原秀郷が

戦勝祈願した所と伝わる。

室町時代は太田道灌が雨乞い祈願のために

伏見稲荷のを勧請、江戸時代は椙森稲荷といわれ

富くじの富興行が行われた。

昭和6年にコンクリートの社殿が造られ
戦災を免れた。














# by gannyan1953 | 2019-04-03 15:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

江戸城の火事の跡

歴史と素適なおつきあい番外編

孫と日本橋から江戸城見学をした

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これが江戸城の火事の跡

まずは日本橋三越へ

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三越の化石を見つけた

大きな化石はこうして印があるが、
探すとたくさん見つかる

アンモナイトしか見つけられなかったが
なかなか面白い

老舗のデパートはイタリア産の大理石を
使っている
アルプス山脈はアフリカ大陸がぶつかり、
隆起したという
このとき海の底もいっしょに隆起し
アンモナイトが埋まったらしい
日本橋でアルプス山脈と地球を
考えるの面白い


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途中工事中の囲いの塀が
ゴジラでいっぱいになっていた

とりあえず私が見たと覚えている映画のみ
写真をとった

ゴジラのテーマは
アイヌの人を迎えるために
踊ったリズムで作曲された

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行進呪術(北の考古学・瀬川氏のブログ)

おもしろいのが行進呪術で「諏訪明神絵詞」にもあるが、

千鳥足で歩く行進呪術は修験道の反閉(へんばい)をまねたものらしい。

仲間が遠くから帰ってきたときに悪いものを持ち込まないように行う呪術である。

この行進呪術は芸能化されタプカーラという踊りになる。

その踊りからヒントを得て作曲されたのが、「シンフォニア タプカーラ」で

ゴジラの作曲者の伊福部氏である。

最近では地震緊急速報の音はタプカーラの音から作られた。

彼は和人だが北海道出身でアイヌの文化を見て、アイヌを身近にして育った人である。

ゴジラの壁を、だだだん だだだん と歌いながら
見てきた




江戸城は新天皇即位と
サクラを見に来る人でいっぱいだった

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天守台石垣の焼跡で、これは本丸御殿を焼失した
文久3年(1863)の大火で石が焼けた

黒い線が、石が燃えて割れた跡

天守閣が燃えたときかと思ったら違っていた
明暦3年(1657)の明暦の大火で
本丸は焼けてしまった

以後、天守閣が再建される事はなかった

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平川橋に江戸時代慶長の時代の
擬宝珠(ぎぼし)があった







# by gannyan1953 | 2019-04-02 22:22 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

2020オリンピックマラソンコース①

歴史と素適なおつきあい番外編    2019・1・4
中川歴史ウォーキング47
東京オリンピックのマラソンコースを歩くことにした

第1回 約9キロ

千駄ヶ谷駅・・沖田総司終焉地・・四谷大木戸跡・・小泉八雲旧居跡
・・防衛省前・・市ヶ谷八幡宮・・飯田橋・・水道橋・・神田駅





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千駄ヶ谷
新宿御苑あたりを水源とする渋谷川上流にあり、多くの萱があった。
それを一日に千駄(駄は馬に積む荷物の重さの単位)積んだ事からという。
戦後最初は米軍の遊び場となり連れ込み旅館が多かったが、
1964年の東京オリンピックで一掃され、多くは湯島に移動したという。

千駄ヶ谷駅を出たら道を渡って左に行く
陸橋の手前右に階段があるので下りる

そこが国立競技場から出発した選手たちの
最初の道路

左に行く(北)

大京町
江戸幕府の常備兵力の大番と人名と思われる右京が合併し
大京町となった。
西への警護に多くの旗本が住んだ。

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新選組の沖田さんが亡くなったといわれる場所
植木屋平五郎の家で療養したという。

もうひとつの終焉の地は今戸神社

少し進むと
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多武峯内藤神社

新宿御苑が内藤家屋敷だったころ
屋敷神だったが、明治5年ここに移転した

ここに駿馬塚がある

内藤家の伝説にかかわる馬のことで
家康入府後、家臣だった内藤清成を呼び
新宿御苑あたりを示し
「馬でひといきにまわれるだけの土地を与える」
といわれ
馬でぐるりと走ったが
疲れて馬は死んでしまった
ここに埋められたという

18代内藤家当主によると
その話は伝説で青梅街道の要所を
信頼できる配下に治めさせたかったのではないか。
明治になるまでここを治めたことは
大変珍しいことである
という。

愛馬は死んでしまったが、東京ドーム14個分
20万坪を拝領した

のちに3分の1を内藤新宿という宿場を作った

内藤清成さんも青山忠成さんも
三河岡崎の生まれで
ともに江戸に地名を残した

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お稲荷さんと八幡様

沖田さん終焉の地にも川の跡があったが
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これは四谷大木戸の川の跡

渋谷川である

もともと水の流れが少ない川だったが、
新宿御苑、明治神宮の湧き水
ここ四谷大木戸の水番所から余った水が
流され
水車がまわる風景になった
渋谷川上流の河骨(こうほね)川は
唱歌「春の小川」のモデルといわれる。

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用水と川

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四谷大木戸跡

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内藤新宿の碑


まっすぐ進むと
ちょっとディープな市ヶ谷散歩でまわったコースが
目の前に広がる。重なるところも多い。





富久町
明治になって久しく富むからつけられた。
バブルの地上げで家屋が穴あき状態になっているが、
地上げされた場所には高層マンションができている。
地上げの後には道路建設のための立ち退きがあり、
未だ道路建設は立ち退きが進まず難航している。
2度までも立ち退きを要求される土地柄である。
久しく富む街になって欲しいと思う。


富久(とみひさ)町を右に行く
ここからまっすぐ進む。

小泉八雲旧居跡
明治29年(1896)から六年間ここで過ごした。
東大で英語の教鞭をとっていた。亡くなったあとの教師は夏目漱石だった。
1850年ギリシャで生まれ父の故郷アイルランドで育った。
アメリカでは黒人女性と結婚している。2年で離婚。
日本に特派員として訪れ日本の印象が忘れられず再来日した。
松江で日本人のセツと結婚し、熊本、神戸と転々とした。

再話文学として有名で昔話に興味を持ち小説を書いた。
怪談で有名である。
ダブリンで過ごしたとき、父の言うキリスト教より、
ドルイド教に興味を持っていたという。
アイルランドは妖精の国といわれるが、その風土が
ロマン、幻想的な小説になったと思う。

私が今までで一番怖かった話が
小泉八雲の幽霊滝の伝説である。
小学生のころラジオの朗読劇で聞いた。

合羽坂下
由来は江戸時代「蓮池」という池に
大雨が降るとカワウソが現れた。
これを河童と勘違いしたという。


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レトロでかっこいい
数学に関係したところ

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太田姫神社
道灌の娘である
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陸橋で水道橋方面に行く。

藤田東湖最後の地
後楽橋をすぎると現在の右側道路に
藤田東湖邸があった。水戸学の大家で
幕末に多くの志士たちに影響を与えた。
安政の大地震で一度は屋内から逃げたが
母が火鉢の火を心配し戻ったので
母を追い、崩れる梁を肩で受け止め
母が救出されてから力尽き圧死した。
西郷隆盛が清らかな人だったと惜しんだ。
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万世駅のモニュメント



カトリック神田教会
明治7年(1874)この地に創設
ラテン学校があり、そこにザビエルに捧げる聖堂となった
大火で焼けたり、震災で聖堂は失われたが
昭和3年(1928)現在の建物が建てられた
ここにザビエルの聖遺骨が祭壇にある




以前夕方に聖堂に入ったら夕日で照らされる
ステンドグラスに息をのむほど美しかった
マリア様のパワースポット一押しの場所である。

神保町を左に行く

神保町
地名の由来は戦国大名神保氏からである。
もとは上野国多胡郡の神保邑の発祥で
江戸時代佐渡奉行を勤めた。
明治になって地名に神保の名をとった。
小川町だったころ大火で焼失し、神田高等女学校教員の
岩波茂雄が古書店を開いた。
夏目漱石や哲学叢書の出版で成功し岩波書店が起こった。
大学生が足を運び書店、カフェなどでき、
ない本はないとまでいわれる本屋街になった。
司馬遼太郎が「街道をゆく」で米軍がここの古書が焼失する事は
文化的に大きな損失だと空襲を避けたと書いているが真偽はわからない。

小川町
江戸時代は鷹狩りを行う鷹匠が住んでいたので
元鷹匠町だったが、生類憐れみの令がなくなってから
元禄時代に小川の地名になった。
太田道灌は
「武蔵野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」
と歌った。
小川の流れる風景が由来になったのだろうか。
正岡子規が勤めた新聞社や坊ちゃんの主人公が
学んだ学校があった。
今ではスポーツ品店が多くある。

須田町
江戸時代はすたといわれた。
運河が交差する要所で
明治になると都電のターミナルの要所となる。
万世橋駅が作られ中央線の起点となった。
戦後米軍から流れた真空管を扱う露店が多くなり
秋葉原の原型となった。

神田
神田は伊勢神宮の御田(おみた・みたなど)だったところで、
大手町から駿河台までの丘陵を神田山といった。
江戸時代に丘陵をを切り崩し
日比谷入江、日本橋浜町、京橋あたりの沼地、海を
埋めた。
神田山を削って掘割にして今の神田川をつくり
日比谷の入江に注いだ平川の氾濫が城下に
水害をもたらすのを防いだという。

「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」
と森の石松の浪花節にある言葉は有名である。
昔から神田明神の氏子がいなせな民衆が
多かったからといわれる。

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三越前まで歩いた
その手前 十思公園に行くこの細い道
渋谷川の跡である


 




















# by gannyan1953 | 2019-03-06 21:14 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

朝比奈の切通しを歩こう

中川歴史ウォーキング48    2018・4・20

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朝比奈の切通(朝夷奈)は、七つの切通の中で一番自然を残し、
旧金沢街道の面影を残しています

峠は水が流れて、泥が多いです。
すべりにくい靴を履いて下さい。

集合:9:45 鎌倉駅東口・・バス5番乗場から乗車・・泉水橋・・
梶原景時屋敷跡・・光触寺・・十二所神社・・朝比奈の切通・・熊野神社
・・朝比奈バス停・・上行寺遺跡
昼食はお弁当です

朝比奈バス停に到着する時刻は予定で12:30です
金沢八景まで徒歩35分約2キロあります。
① 帰宅される方は朝比奈からバスで鎌倉・金沢八景に行けます
② 金沢八景まで歩く方はコンビニでトイレ、公園でランチか、
  少し進むと魁力屋、手前にそばやがありますが、土曜日は混んでいます




梶原景時屋敷跡
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祠は梶原屋敷と関係があるのかわからない
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井戸

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途中にある鯨のいる家
芸術家宅らしい


ここに悪役で有名な梶原景時の屋敷があった。
歌舞伎の「熊谷陣屋」「義経千本桜」など悪役となる。
源頼朝を石橋山の合戦で助けた事から
頼朝のブレーンとして幕府に存在した人である。
文武両道でまだそのころ御家人には読み書きできない人もいたという。
その中で和歌にも長けた景時は重宝する人物だと思う。

義経を追い込んだ張本人といわれるが、
彼の行動は頼朝の意向にそったもので、
駿河で殺害されたのは、北条氏に
疎まれたものと思う。
以前北鎌倉から梶原景時の墓を訪れたが
工事中で拝観できなかったことが
残念である。

いずれにせよ人気がなかった。
ちょっとかわいそうである。

屋敷跡は標識もない。


明王院
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嘉禎(かてい)元年(1235)幕府の鬼門除けとして
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経により建立された。
五大明王を祀り元寇のときも護摩法要を行った
記録が残る。鎌倉十三仏霊場のひとつである。

大江広元邸跡
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京都の下級貴族だった大江広元は、
鎌倉幕府成立時、源頼朝のブレーンだった。
なぜ奥まった場所に屋敷があったのか。
北条から離れた地に住みたかったのか、
頼朝と梶原の3人で朝廷、当時の後白河法皇との
駆け引きや後白河が推す義経追討など
武士の政治を行うための準備の
密談に適した場所だったかもしれない。
義経追討の理由で全国に守護、地頭を置く事を
提案し、結局全国に頼朝勢力を配置したことになる。

光触寺 時宗 本尊:頬焼阿弥陀三尊
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岩倉山長春院光触寺で創建は弘安元年(1278)で
開山作阿上人、開基は一遍上人。
「頬焼阿弥陀縁起」によると
町の局が運慶に阿弥陀如来の製作を依頼し
安置した。あるとき失せ物があり、
家人の万蔵法師に疑いをかけ焼きごてで
頬を焼いた。
ところが、焼印は、阿弥陀様についてしまった。
局は阿弥陀様が万蔵の身代わりになったことで、
霊験を感じ、比企ヶ谷に岩蔵寺を建立した。
岩蔵寺は弘安元年に現在地に移り
名は光触寺となった。
塩嘗地蔵があり、六浦の塩売りが
商売繁盛を祈願し建立し塩を備えた。
つぎに行くと塩がなくなっているので
お地蔵様がなめたという話になった。
もとは県道にあった。
朝比奈から六浦への道は鎌倉の「塩の道」だった。

大江稲荷
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広元の墓は頼朝のそばにあるが、実際は明王院の裏山の
頂上にある石塔だといわれている。
天園ハイキングコース胡桃山山頂脇にあるという
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胡桃山の大江広元の伝墓 




十二所(じゅうにそう)神社

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アマツカミ7柱クニツカミ5柱が祀られているので
十二所という。明治前は十二所熊野権現だった。
明治までは光触寺にあった。
政子さんの出産の祈願をしたというので、
鎌倉時代初期にはあったことになる。
気をひくのは熊野権現は八咫烏、
ここはウサギの彫り物で話題になるところで、
理由は定かではないが、鎌倉の東端にあたり、
卯は東の方向だから。
兎の文字は免と似ているから災いから免れるとか・・

朝比奈切通
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鎌倉七口のひとつで六浦(むつら)道である。
ここを越えて六浦の港から三浦、房総に抜ける道である。
一夜にして造ったと言われる朝比奈三郎の伝説がある。
その後幕府成立から100数年後改修された。

大刀洗の水

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梶原景時が同僚広常を殺害し帰りに太刀を洗ったといわれる水である。
広常は古くは関東の豪族で頼朝の父義朝に仕えた。
義朝が亡くなると平家に従い頼朝が平家打倒の旗を挙げると
頼朝に従った。
頼朝が謀反を疑い寿永2年(1184)誅殺された。
行われたのは広常の屋敷で朝比奈三郎に因んだ三郎の滝あたりに
屋敷があった。そこで2人は双六に興じ、景時が襲ったという。

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熊野神社
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頼朝が鬼門に当たる地に熊野三社明神を祀った。
静かなところだが、昔の六浦へ行く道があったのかもしれない。

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参道が美しい

鼻欠地蔵
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名所図会


製作年代はわからないが、武蔵と相模の国境にある。
この境で諍いが多く彫られたといわれるが、右の脇道は白山道で
その先には、白山寺、東光寺があった。釜利谷に向かう道ではといわれている。
現在白山堂があるが、そのそばに磨崖仏がある。
鼻欠け地蔵の磨崖仏との関係はわからない。

照手姫の伝説
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侍従川は照手姫の乳母の名前からついたというが、
ここでは照手姫は小栗判官の侍女となっている。
伝説で、小栗判官は常陸の城主で足利持氏に攻められ、
逃走中に相模で恋人になった照手姫の父親に毒を盛られる。
上野原に捨てられるが、藤沢の遊行寺の上人に助けられる。
小栗判官は地獄にいたが、閻魔様の計りで餓鬼の姿となった。
上人は歩行できない小栗判官を地車にのせ
熊野湯ノ峰温泉にむかう。
湯に入ると姿が戻り、病気も治った。
照手姫は相模国横山の養女で、父の行いに驚き逃走、
小栗判官の後を追うが、川に沈められたり、
人買いに売られたりして青墓で下女をしていた。
帰り道、ようやく青墓で小栗判官と照手姫は
出会う事ができ夫婦になった。


小泉又次郎生家の碑
六浦のとび職の子に生まれた。
小泉純一郎の祖父で横須賀市長、逓信大臣、衆議院議長など
歴任。義侠心のある大衆政治家で入れ墨があった。
入れ墨は家業を継ぐため軍人をやめ、
そのとき彫ったという。その後家業を弟に譲り
政界に入った。娘の婿純也を養子にして
生まれたのが、小泉純一郎である。



上行寺遺跡
上行寺の東の山は引越という地名で
昭和59年(1984)中世のやぐらが多く発見された。
標高30mの上に平場、崖面があり
43のやぐらと6基の建物跡、400の五輪塔、200体の
遺骨が出土した。鎌倉から室町時代の墓地といわれる。
岸壁に刻まれた阿弥陀如来は東を向き
彼岸の日の来迎を拝む意味があったという。
マンション建築のため発見されたいきさつがあり、
残念だが壊され、今は一部の復元遺跡となっている。







# by gannyan1953 | 2019-03-04 13:36 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)



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