歴史と素適なおつきあい

東海道 川崎宿

                        歴史と素適なおつきあい  2006年10月13日(金)

集合:京急「六郷土手」駅 改札口 2006年10月13日(金)9:50 
    (特急、快速は止まりません)

天候がよければ熊野神社境内で昼食をとります。熊野神社の近くのスーパーにお弁当があります。付近で外食も可能です。

「京急六郷土手駅」北野天神~六郷の渡し~明冶天皇渡御碑~川崎稲荷社~「京急川崎駅」万年屋跡~旧田中本陣跡~助郷会所跡~宋三寺~砂子の里資料館~高札場跡~問屋場跡~佐藤本陣跡~小土呂橋擬宝珠~上手土居~芭蕉句碑~「京急八丁畷駅」廃線跡~無縁塚~熊野神社(昼食休憩予定)~「京急鶴見市場駅」市場一里塚~鶴見橋関門橋跡~寺尾稲荷道標~鶴見神社~「京急鶴見駅」


川崎宿
設置:元和9(1623)年  東海道宿駅伝馬制度がしかれたのは1601年
管轄:天領  小土呂、砂子、新宿、久根崎で構成
家数:641軒
本陣2・飯売旅籠33・平旅籠39・名主、問屋、年寄、馬役、歩行役149・屋敷借地26・家398・火の番屋6
人数:2433人 (男1080人 女1353人)
名物:奈良茶飯(万年屋)、ハゼ料理(新田屋)、米饅頭(鶴屋)     (文久3(1863)年調べ)


 東海道で最もおそく開設された宿である。品川、神奈川の伝馬継立が往復十里になるため伝馬百姓の負担を軽くするために設置された。
小土呂方面の生産向上のため新川掘用水が慶安3(1650)年に開削された。
宿起立時には幕府からの援助で常備伝馬の保持を図ったが、伝馬継ぎ立ての重い負担に、早くから疲弊を訴え、たびたび幕府の援助も続いた。が、問屋もつぶれ逃亡する馬百姓も続いた。財政が立ち直ったのは六郷渡しの渡船権を得てからである。宝永6(1709)年に田中休隅の意見が幕府に採用されて、渡船を宿が請負うこととなった。
 又旅籠に飯盛女を置くことが許可され、川崎大師やその南の石観音の参拝者も増え江戸後期には宿の繁栄を見ることになった。
 幕末期の将軍家茂の上洛や長州征伐で助郷体制が賄いきれず、多くの村が助郷に加えられた。助郷だけでなく将軍上洛に伴う御用金の調達も重なり川崎宿では打ちこわしが起きた。米穀商や名主が襲われたため、幕府はその対応に本百姓に非常用の竹槍を与え、富豪の子弟を中心に農兵隊が組織された。
 明冶5年の品川~横浜の鉄道開通にともない宿駅制が廃止になり、宿機能は停止した。
以降商業地域として発展した。

北野天神     祭神―菅原道真

将軍吉宗が乗った馬が暴走した時、落馬を止めた天神としての評判が、旅人たちにより遠くまで広がり、東海道を行き来する大名、武士たちの間で「落馬止め天神」と呼ばれた。ほど近い東海道の一角に「柳生様」とよばれる地があり将軍家剣術指南役柳生家の屋敷があった。北野天神の加護にあやかってこの地に住んだという。

六郷の渡し

多摩川の下流の渡船場あたりでは六郷川という。慶長5(1600)年に家康が橋を架けた。しかしたびたびの洪水で流され貞享5(1688)年に流出してからは架橋しなかった。
渡船になり、その権利をもった宿場は繁栄した。
東海道の四大橋  瀬田・矢作・吉田・六郷
江戸の三大橋   両国・千住・六郷

明冶天皇渡御碑

明冶元(1868)年10月12日、明冶天皇は東下りの道中、川崎田中本陣で昼食を召されその後23艘でつくられた舟橋を渡御された。

大師河原道印石と川崎大師の燈篭

道標の左手に川崎大師への参道の入口があり、ここに川崎大師の燈篭と寛文3(1663)年に造立された「從是弘法大師江之道」と書かれた道標があったが現在は川崎大師にある。

川崎稲荷

昭和26年ころ再建され土留めに二ヶ領用水に架かっていた石橋の部材を使用、又社殿の下に将軍吉宗が江戸にむかう時休んだといわれるけやきの根株が残っている。

万年屋跡

もともと一膳飯屋であったが、そこで出される奈良茶飯が有名になると明和年間(1764~72)から旅館も兼業するようになった。

イギリスの園芸学者ロバート・フォーチュンが万延元(1860)年に在日した時の見聞録「幕末日本探訪記」にかわいらしい女の子が案内してくれ、お膳にお菓子や果物が並べられ女の子はゆで卵をむいて塩をつけて口に運んでくれたと書いている。

万年屋の奈良茶飯は大豆、小豆、粟、栗などをお茶で炊き込んだもので、しじみ汁といっしょに出された。
もともとは東大寺でだされていたもので、起源は寺に納められたお茶を煎じて二煎目のお茶に塩を加えてお米を炊く。蒸らしたあとに一煎目のお茶に漬けて食べる。この中に炒った大豆、黒豆、栗などをまぜたようである。
東大寺二月堂のお水とりで練行衆の食事に茶粥とともに出されていて古くから僧達の厳しい修行に耐えるための大切な栄養源とした必要~生まれた食事だったようだ。
現在の茶飯はほうじ茶をいれ塩、醤油、酒で味付けし焙った大豆をくわえて炊いたものである。「奈良茶飯三石食ふて後はじめて俳諧の意味を知るべし」と詠んだ芭蕉も好み、句会には奈良茶飯がだされたようである。

旧田中本陣

大名、公家、旗本などが泊まる施設で231坪の堂々たる構えであった。
主人の田中休愚(丘愚)は本陣経営、名主、問屋の三役を兼務し六郷の渡船権を江戸側より川崎宿側に譲りうけ川崎宿の財政を立て直した。「民間省要」を著し二ヶ領用水や酒匂川の治水(宝永山の噴火で水害に悩まされていた)に尽力し幕府の役人に登用された。大名なみであったという。

田中休隅(丘隅)

寛文2(1662)年多摩郡平沢村の農家に生まれ絹物の行商をして見聞を広めた。
川崎宿の田中源左衛門の養子になり50才で土木、測量、経済、数学を学んだ。
「民間省要」で、金と商品の流通、その影響と農民との関係を詳しく論じ八代将軍吉宗の目にとまり、活躍した。後には代官(支配勘定格)となり三万石を支配した。百姓から代官になるのは異例の抜擢である。が、5ヵ月後江戸の役宅で享年68才で亡くなった。
「民間省要」の執筆のねらいは民間生活の実態を為政者に再認識させようとしたもので成島筑道により大岡忠助を通じ献上された。この中に穢多のことが書かれているが、「穢多はいかに金持ちになっても四民の上には絶対立てない」とある。身分に対する抑圧政策が強化された時期でもあった。

稲毛神社

平安時代に河崎庄の鎮守として祀られた。祭神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)である。古くは山王社と呼ばれていた。山王銀杏、子の神社、田中休愚一族に奉納された手水石、安政の大地震で倒れた石の鳥居の台座、小土呂橋の遺稿、平成に奉納された天地睨みの狛犬は撫でてお願いすると体の悩みを治してくれるご利益がある。
宋三寺
寺伝によると頼朝の時代に僧玄統が開き建長寺末に連なる臨済宗の寺であった。玄統が若いころこの付近を通りかかると亀があらわれ池に導いてくれたので喉をうるおすことができた。再びこの地を訪れたとき大亀があらわれ亀の恩に報いるため小さな堂を建てたのがはじまりとされる。その後佐々木高綱の菩提寺となったが、のちに衰え後北条に使えた高綱の子孫が鶴見の宝泉寺の僧自山を中興として招き曹洞宗となった。墓地には飯盛女の系譜をひく貸座敷組合が建てた遊女らの供養塔がある。
(2006年お盆前に訪れた時吉原と書かれた風鈴が供えられていた。寺の関係者から風鈴は毎年贈られてくると聞いた。山本)

砂子の里資料館

海鼠壁の江戸町屋の雰囲気があり、東海道川崎宿をテーマにした資料館。
浮世絵を中心に企画展を行い、約200年前の川崎宿の模型が展示されている。

中の本陣

問屋場にむかいあう形で建っていた「中の本陣」は正式には「惣兵衛本陣」といわれ
佐藤、田中本陣の中ほどにあったので中の本陣と呼ばれた。江戸後期に廃業した。

高札場跡

幕府や領主がきめた法度などを木の板札に書いて人目に着くように掲示する所。
江戸から京都にむかう右側にある。

問屋場跡

江戸時代公用で旅をする人たちの便宜を図るため人足や伝馬を常備した。

佐藤本陣跡

惣左衛門本陣といわれ181坪あった。将軍家茂が上洛する時宿泊した。佐藤惣之助の実家である。

佐藤惣之助  詩人

明冶23(1890)年に雑貨商を営んでいた父慶次郎、母うめの次男として生まれた。
小学校高等科を卒業後麻布に丁稚奉公にでた。その後暁星中学で仏語を勉強し、
12才頃から詩をつくっていた。
人生劇場、人生の並木道、青い背広で、緑の地平線、六甲おろしなどのヒット曲も生み出した。

小土呂橋擬宝珠

東海道の新川掘に架かっていた橋の欄干の親柱が残っている。昭和7(1932)年に川は埋め立てられたため交差点脇に置かれている。新川掘は慶安3(1650)年関東郡代伊奈半十郎忠治によって開削され橋の最も古い記録は正徳元年(1711)で板橋であった。田中休隅が享保11(1726)年に石橋に改め、寛保2(1742)年洪水で流されたため、翌年普請奉行水谷郷右衛門によって再建されたものがこの橋である。以来200年間人々が行き交った橋だった。六郷八幡塚村の名工永井左兵衛、仕手吉六(飯島吉六)の名が銘文にみえる。

小土呂橋を渡った象

1729年に吉宗の注文で中国人が連れてきたベトナムの象も歩いたといわれる。雌雄だったのが長崎上陸の3ヵ月後にメス象は亡くなりオス象だけが東海道の箱根も越えてやってきた。長旅の疲れで飼育係の苦労は大変なものだったらしい。室町にも象は渡来したが、今回は陸路をいくことで多くの庶民の目に触れることになった。途中京都においては「従四位広南白象」を与えられ、御所に参内し前足をおり最敬礼の芸をしている。江戸にはいった象は熱狂的な江戸庶民に迎えられ市中を練り歩いている。浜御殿に収容され。二日後には江戸城に参上し、吉宗を喜ばしている。何度か吉宗は江戸城に召し出しているという。
その後1741年「見晴らし」という掛け小屋をもつ中野村の源助という百姓に払い下げられ見世物の他、糞を乾燥して薬として売ったらしい。管理の悪さから一年後に象は病死した。

上手土居

宿場の京都側入口のことで京口土居という。切石がつまれた土居が築かれていた。

芭蕉句碑

元禄7(1694)年5月郷里の伊賀へ帰るため、深川の庵を発った芭蕉は、同行してきた弟子たちとここにあった茶屋で休息した。弟子たちと別れを惜しみつつ詠んだ俳句である。

芭蕉 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

弟子 「麦畑や出ぬけてもなお麦の中」
「刈りこみし麦の匂いや宿の内」   と返した。

この5ヶ月後、芭蕉は大坂で病にたおれ51才でこの世を去った。
文政13(1830)年俳人一種は、天保の三大俳人と呼ばれた桜井梅室の筆による文字を石碑に刻み、俳聖芭蕉を、ここに偲んだ。

廃線跡

大正7(1918)年から昭和48(1973)年まで川崎から浜川崎まで走っていた南武鉄道の廃線跡の煉瓦壁である。イギリス積みである。
東海道線を貨物列車が多く往来していたころ東京の方からやってきた列車を浜川崎や鶴見線方面に向かわせる路線として使われた。首都圏を走る貨物が武蔵野線に迂回するようになって廃線になったようである。往時を偲ぶ少しの間の姿である。
八丁畷の名前の由来は川崎宿から鶴見市場までの間が八丁(870m)あり縄手というのは道が田畑の中をまっすぐのびていることで畷に当てた。道は松や杉、榎の並木が続き八丁畷並木と呼ばれた。
JR八丁畷駅は京急と南武支線があり、尻手から鶴見線の浜川崎までをつないでいる途中駅である。2010年までに新八丁畷駅が開設され今の駅は廃される予定である。踏切には監視員が常駐している。

無縁塚


明冶以降人骨が並木から多数掘り出された。人類学社の調査の結果、江戸時代に災害や飢餓などで亡くなった人を埋葬したのではないかといわれる。これら無縁仏の供養のため供養塔がたてられた。

熊野神社


弘仁年間(810~824)に紀州熊野の別当尊敬の勧請といわれる。
家康が関東入国前に武運を祈ったと伝えられる。鎮守の森はなぜかない。
宮司家に伝承された市場神代神楽が知られる。
近世の実態を詳しく記述している
「萩原文書」があるが、奉納舞に荏田村
からおとよ、数馬らが参加したことが記
されている。現在この熊野神社では神楽が
なく鶴見の矢向の日枝神社に受け継がれ
ている。

専念寺

紫式部の持念仏と伝えられる「市場観音」
が安置されている。富士山から飛んできた
「夜光石」「お乳岩」でも有名である。

市場一里塚

日本橋から5番目の一里塚で、昭和初期
まで大きな榎があった。この向えには
地主が施す「畑の灸」があり、子供の疳
の虫に効くといわれた。有名な円海山の
峰の灸があるが、ここは一里塚の前で、
便利だった。

鶴見橋関門橋跡

安政6(1859)年横浜開港とともに、
神奈川奉行は外国人に危害を加えることを
防ぐため、横浜への主要道の要所に番所、
関所を設けた。
鶴見橋関門は万延元(1860)年に設けら
れ橋の左右に杉の角柱をたて大貫を通し
黒渋で塗った。文久2(1862)年8月生麦事件発生により川崎宿~保土谷宿に20ヶ所の見張番所が設けられた。ここは5番目であった。6番目は鶴見駅前にあった。

寺尾稲荷道標

寺尾稲荷とは今の馬場稲荷で馬上安全、馬術上達のご利益があるとのことで祈願をする人が絶えなかったといわれる。伝えでは寺尾城主5代目の諏訪馬の助は、乗馬が下手で何とか上達するように祈願したところ、馬術は上達し、北条氏康の十勇士の中に名を連ねるようになったといわれる。

鶴見神社

推古天皇のころ創建といわれ、杉山大名神といわれたが、大正9(1920)年に鶴見神社に改称した。昔は5000坪もある大きい古社だった。杉山明神、素盞鳴尊など祀られる。
境内から多数の祭祀遺物が出土し弥生後期から鎌倉時代の土器も出土したことから、横浜では最古の社といわれる。「かげ参り」といわれるが、350年ほどまえ、幸区小倉にあった鎮守天王社(現在八幡社に合祀)の祭礼で誤って御輿を川に流してしまった。これが鶴見川の潮見橋付近に流れ着いたといわれる。以来祭礼の日には「かげ参り」といわれるようになった。
かつて鶴見川は水田の広がる農耕地帯であった。「鶴見の田祭り」は鎌倉時代がはじまりといわれ稲の豊穣を願った祭だったが、水田が消えていくとともに途絶えていた。近年宮司や研究者によって復活した。
仁治2(1242)年 鎌倉幕府4代将軍藤原頼経らが立ち寄る。
仁治3(1242)年 大江広元らが一帯の開拓事業を行う。
元弘3(1337)年 新田義貞が鎌倉攻めをしたさい末吉付近で戦う(鶴見合戦)

信楽茶屋

東海道の立場として栄えた。立場とは宿の間の休憩場で宿泊は許されなかった。「江戸名所図絵」にも描かれ竹の皮に包んだ梅干が好評だった。

鶴見騒擾事件

大正14(1925)年鶴見で起きた乱闘事件。現在の騒乱罪にあたる騒擾罪で500人が起訴された大きな喧嘩騒動であった。主な闘争地は潮田だったため事件の名が適切かどうか問われている。事件は、震災後の東京から神奈川への工場移転が建設ラッシュになり、火力発電所の建設からはじまる。首都圏への電力供給を有利に運びたい東邦電力(首都圏の電力会社と地方からの電力会社の電力戦争が起きていた)が発注した工事をめぐり、受注した元請会社2社の下請け(地元を縄張りとする業者と中央から派遣された業者)の争いである。そこに関西博徒、業界団体、大物右翼が解決にのりこみ死傷者をだす騒ぎとなった。当時は縄張り意識が強い慣習もあり、それなりの挨拶(念達、金銭)も必要だったと思われる。事件を題材にした「闘いの構図」青山光二著は平林たい子賞を受賞している。
犠牲者慰霊地蔵が、池袋荏子田の曹洞宗能万寺にある。

この事件に関わった人物は後に港湾、土木、運送、工場労務事業などで成功したものが多く、現在も関わった人物の流れを汲む企業が多く存在している。

青山芳蔵(池袋のとび職)は事件の裁判、差し入れ等をひきうけ破産している。
「今幡随院」と呼ばれ窮屈したようだが、頭山満(アジア主義の立場の国家主義者)と知己を得て晩年張作霖事件について何か語ろうとしたらしい。

松尾嘉右衛門はこの後、貴族院議員、花月園、花月園競輪場の経営にかかわった。旭硝子の工員から土木建設業界に君臨するまでの成功物語は京浜工業地帯の隆盛を物語るといえる。

総持寺

明冶44(1911)年石川県鳳至郡櫛比荘にあった曹洞宗の本山総持寺が1898年の大火で焼失したため移され、大伽藍が連なる。曹洞宗の本山は二つあり、この総持寺と福井の永平寺である。ここに俳優石原祐次郎の墓がある。




      
参考:HP ウイキペデイア・横浜市・川崎市教育委員会・東海道川崎宿2023
     悠悠人の写真紀行 ・大人の塗絵・横浜市歴史博物館ニュース

   東海道ルネッサンス・・歴史と素適なおつきあい2001年度資料
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:21 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)
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