歴史と素適なおつきあい

渋谷庄を訪ねて

歴史と素適なおつきあい 2008

日時:2008年4月11日金曜日・9:50 雨天中止・お弁当持参
集合:相鉄線海老名駅改札口 (相鉄線、小田急小田原線、JR相模線があります)
    相鉄線 横浜駅発 : 8:51 ・ 9:02 ・ 9:10

海老名駅~(バス)~国分寺台7~五社神社(渋谷氏ゆかりの神社)~武者寄橋~江川天神社(渋谷氏ゆかりの神社)~早川城址(渋谷氏の居城跡)~お銀様墓(渡辺崋山)~長泉寺(渋谷金王丸の墓・見学は不可)~小園橋(渡辺崋山)~相模国分寺跡~ビナウォーク(相模国分寺の塔のモニュメント)

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振り返っているのが金王丸 ウイキペディア



五社神社
祭神 天(あま)照(てらす)大日霎(おおひるめ)貴(むち)尊(みこと)・天(あま)忍(おし)穂(ほ)耳(みみ)尊(みこと)・天津彦彦火瓊々(あまつひこひこほのにに)杵(ぎ)尊(みこと)・彦火々(ひこほほ)出(で)見(み)尊(みこと)・彦波瀲武鸕(ひこなぎさたけ)草(う)葦不合(がやふきあえず)命(みこと)の五柱。日本武尊創始。ご神木は樹齢370年の大椎の木。早川城の西、国分寺台の突端にあり、物見の砦によい。

この神社には日本武尊のこしかけ石がある。
日本武尊の野火遭難の地について日本書紀では、駿河国、焼津神社・草薙神社・庵原神社。
古事記・古事拾遺では、相模国 とある。    
ここではこの相模国が野火遭難伝説の地であるという。

そのころは深く入江になっていてこの国分寺台地の麓は海老名からずっと草地であったと思われる。
ここに着いた尊はしばらく軍をやすめさせたと思われる。
この辺に居住する相武の国造りは偽り、尊を迎えていうには、
「この原野に大沼があり、ここに、大変乱暴な神がいる。その神を平らげてほしい」
尊は単身、奥深く進入したところ、突然原野の風上より火をつけられ、危機に瀕した。叔母の倭比売から贈られた剣をもって草を薙ぎ無事をえたという。

武者寄橋
兵の集まる場所だったといわれる。

江川天神社
渋谷氏ゆかりの神社。素朴でいかにも地の神様という感がある。湧水がある。

早川城址
渋谷重国が建てた城。古くはこの早川台地には縄文、奈良、平安遺跡もある。
遺構としては周囲の湿地帯が堀の名残。後北条の支城となり、現在に残る遺構となった。
物見台あとには東郷氏祖先発祥の地の碑がある。現在早川公園として整備されている。

お銀様の墓
田原藩主三宅康友の侍女となり、友信を出産したが、実母が急逝し、やむなく実家に帰る。その実家がこの早川村であった。その後、友信が藩主になるところ、事情で「巣鴨の老公」として隠居せざるを得なかった。その事情とは、藩の財政逼迫のため富裕な藩からの養子を迎えるためであった。
友信の子守役が渡辺崋山であった。藩主になれなかった友信の意中を察して実母お銀様をたずねたことが「遊湘日記」にある。
小園橋は無事お銀様に会って、厚木にむかう崋山を村人たちが見送ってくれた橋である。
その近くにお銀様の墓がある。


長泉寺 曹洞宗
本尊は釈迦如来で、寛永11(1634)年格雲守存により、開基される。
かつてここには渋谷氏の菩提寺といわれる寺があった。
ここに、金王丸の墓があるという。渋谷氏関係者のみの案内となっている。
定心(じょうしん)(入来院氏)は曹司五郎と名乗っており小字名に祖師谷があるため曹司が訛ったのではないかと思われる。
館跡はないがこのあたり一帯に重国の墓という伝承の墓、定心の僧名からそのゆかりが伝えられる。

相模国分寺跡
国分寺とは天平13(741)年、聖武天皇の詔で国ごとにつくられた官寺である。
相模国分寺は法隆寺と同じ伽藍をもつ大規模なものである。

七重塔

温故館という資料館に相模の国分寺の七重の塔の模型があったが、今は閉鎖されて、文化会館に展示されている。
ビナウォーク内にある、海老名中央公園に27、97メートルの塔のモニュメントがある。
実際は67メートルあったそうだ。


渋谷氏家系図


平高望―国香                  (秩父権守)
     ―良兼               武綱―重綱―重弘―重能―重忠
     ―良将 (村岡) (秩父)  (川崎冠者)  (渋谷庄司)      
     ―良文―忠頼―将常―武基―基家―重家―重国―――――光重 ――――重直~相模渋谷氏
                                ―金王丸             ―実重(早川)―忠重―重高~東郷氏 
―重保(吉岡)―重尚―重松~祁答院氏
                                                   ―重諸(大谷)~鶴田氏
                                                   ―定心(曹司)~入来院氏
                                                   ―重貞(落合)
                                          ―高重―武重(渋谷)(長男)
                                          ―時国  
―重助
―女(佐々木秀義室)               








参考資料
渋谷氏
桓武平氏秩父氏の流れで、東京都渋谷、神奈川県綾瀬、藤沢、大和あたりに勢力があった。
のちに薩摩島津氏とともに移住した一族は東郷氏(東郷平八郎)、入来院氏、祁答院(きとういん)氏となった。
基家が前九年の役の恩賞に渋谷郷渋谷庄(東京都渋谷)を賜り、川崎冠者といわれた。
基家をさかのぼると、先祖に良文がおり、平将門の父良将と兄弟にあたる。将門の乱のとき、良文はどちら側だったのかと調べてみると、将門とは敵対していなかったようである。伝承ではやさしい器量のよい人で、923年良文36歳のとき醍醐天皇より関東の賊を討伐せよとの勅命に藤沢市あたりを本拠として賊を滅ぼしたという。村岡郷(藤沢市)のことで良文は「村岡五郎」とよばれた。基家の子重家は、渋谷氏を賜り、渋谷にある金王神社あたりに城をもった。この金王神社はのち金(こん)王(のう)丸(まる)の出現により
金王八幡宮といわれるようになった。領地は、横浜小机をへて、重家の子重国が高座郡渋谷に進出する。
頃は頼朝挙兵前で、平氏か源氏かという時代になる。

佐々木氏
平治の乱で源義朝方について敗れた、近江源氏佐々木秀義は、奥州平泉におちのびる途中、重国の所領地渋谷を通過した。秀義の伯母が平泉の藤原秀衡に嫁いでいたためであったが、遠すぎるからと、重国は佐々木一族を匿う。
それから、佐々木一族は重国とも縁戚となり、20年近く滞在することになる。
佐々木秀義の4人の息子は頼朝が挙兵したときには源氏側にたつ。4人の息子は伊豆の韮山に配流されていた頼朝の家に頻繁に出入りしており、憂慮した平氏方の大庭景親が父親の佐々木秀義に注意をうながした。
「そのうちに、以仁王と源頼政が挙兵するときには、伊豆の頼朝のところにも、令旨がある」 
その情報はいちはやく4人の息子から頼朝に伝えられた。
そして息子たちは、頼朝旗揚げの挙兵に加わり、以後活躍して、近江の佐々木庄にもどった。
佐々木秀義の四男の佐々木高綱は名馬池(いけ)月(づき)(生食、生唼)で、梶原景季の名馬「磨(する)墨(すみ)」と先陣争いをしたことで有名である。横浜市港北区鳥山に居館があったとされる。 乃木希助は、佐々木高綱の末裔といわれる。
近江にもどった佐々木氏はのちに京極氏、六角氏につながっていく。

渋谷重国
佐々木氏庇護の背景として、重国の領地渋谷は現在の海老名東部にあたり、昔国府があったといわれる場所である。
当時、国府は大住から淘綾に移っていたが、国府時代の古道は、太平洋側の道より逃避行にむいていたと思われる。
佐々木氏が源氏方についたとき、渋谷重国は石橋山合戦で頼朝征伐軍として戦うが、のち鎌倉幕府に服属する。頼朝の死後、重国の二男高重は、武蔵七党横山党の横山時重の娘を妻にしていたことから和田合戦では、義盛方についた。
渋谷氏はこの和田合戦の後、勢力が衰退する。が、細々と続いていたようである。
早川城には重国の四男重助の末裔、石川氏がいた。後北条に仕え、「石川衆」と称され、家康江戸入府時には石川重久が城主であった。重国の長男は鎌倉方につき、のちに薩摩に移住、島津氏と並ぶほどにな
るが、戦国時代に島津氏に服属する。
渋谷の道玄坂に、和田一族の大和田道玄が寺をつくったといわれる。地名の由来である。名所図会には和田の残党がこの坂道の窟に住み山賊を業としたとある。渋谷氏と全く関係がないとはいえないかもしれない。

渋谷金王丸
渋谷重国の兄弟といわれるが、定かではない。
平治の乱で敗戦した義朝一行は、近江、青墓(大垣)、舟で愛知県知多の野間の長田忠致(おさだただむね)の屋敷へと平治物語にはある。
ここからは内海のタクシーの運転手の話である。
「青墓から桑名あるいは伊勢から舟で内海へ、それから山中を進み岡部の大岩で腰掛け休憩をした。
農民たちからいろいろ世話をしてもらったため、義朝は、農民たちに大岩の姓を賜った。」
実際その運転手も大岩さんだが、やたら、大岩姓が多い。そして山中を野間に向かったという伝承である。

とにかく野間に到着したが、なぜ野間に行ったかというと、長田氏は源義朝の家来、鎌田正清の妻の実家である。道中4人といわれるが、義朝、正清、金王丸らは、馬、馬具の調達を頼み、急いで東国に落ちのびるつもりだったが、「ゆっくりしていけ」と長田忠致に引き留められる。長田は義朝を裏切るつもりであった。
鎌田正清は山田城主である。都筑区の山田神社の地にあった。
義朝は金王丸に背中を流してもらい湯につかっている。正清は酒の歓待をうけていた。
金王丸は刀をもってはいっていたため、長田の郎党は襲うことができない。金王丸は着代えがないので郎党に声をかけたが返事がない。長田の郎党は、あえて着代えは用意しなかった。しかたなく金王丸は、着代えを取りに外にでた。
そこへ、長田の郎党たちが義朝を襲い殺してしまう。正清は異変に気付き、かけ出すが郎党に囲まれ殺される。
正清の妻は自らの父の裏切りを嘆き、夫の後を追う。
金王丸は急いで戻って戦うが劣勢になるや、馬で飛び出し京都まで戻る。義朝の愛妾常盤御前に知らせ、僧となって
義朝の菩提を弔う。

知多半島の野間には役小角が創建、中興が行基といわれる野間大坊がある。のちに頼朝はここに父義朝、自分の助命をしてくれた池の禅尼、鎌田正清夫妻の供養塔を建てた。

金王丸は興福寺の衆徒となり土佐坊昌俊と名乗る。大和国で乱暴を働き土肥実平に捕えられた。
が、頼朝は昌俊の義朝への忠誠心にうたれ、家臣として迎えた。鎌倉の小町に屋敷跡がある。
頼朝と義経との仲が悪くなり、土佐坊は京都堀河の義経屋敷を襲うよう暗殺を命じられる。いきさつは、誰も義経暗殺を引き受ける者がいないので、自ら申し出て、下野にくらす母親の面倒を頼朝に依頼したという。が、暗殺に失敗し鞍馬山に潜むが、義経郎党に捕まり、六条河原で斬首される。
この土佐坊昌坊は常盤御前に知らせに行ったとき、常盤御前と三人の子の都落ちを涙で送ったというが、果たしてその子義経の暗殺に向かうだろうかと疑問視されている。他説に、義経は父の郎党だったことから、逃がしたともいわれている。
金王丸の話は、謡曲「正尊」 浄瑠璃「御所桜堀川夜討」、狂言になっている。

金王八幡宮
渋谷駅東側、宮益坂をはさんだ小高い場所に渋谷城跡がある。そこに金王八幡宮がある。

当社は第73代堀川天皇の寛治6年(1092)渋谷氏の祖川崎土佐の守基家の創始という。高望王の後裔秩父別当武基は源頼信の平忠常追討に大功を立て軍用の八旒を賜り、内日月二旒を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す。武基の子武綱は嫡子重家と共に義家の軍に従い奥州の金沢の柵を攻略せる功により、名を河崎土佐の守基家と賜り武蔵谷盛の庄を与えられた。これ即ち月旗の加護なりと、義家、基家と共に親しくこの地に来たり月旗を奉じて八幡宮を勘請すと。重家の時始めて渋谷の姓を賜る。渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし代々氏族の鎮守とあがめた。当社は元渋谷八幡宮と称したが、金王丸の名声にちなみ金王八幡宮と称せらるるに至った。これが渋谷の地名の起こりとも言われ渋谷城の当時の砦の石も現存しております。
                            金王丸八幡宮「参拝の栞」より

このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、居館を囲んでいるうえ、かっては数箇所に湧泉があるという好条件を備えていました。
しかしその居館(城)は大永4年(1424)、北条氏と上杉氏の合戦の時、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
                              渋谷区教育委員会
境内には金王桜がある。一重と八重の花が一本の木に咲く珍しい桜で頼朝が植えたといわれている。

長田忠致
現在野間では長田家跡地はいまだに荒涼としている。田んぼの中の荒れ地である。土地の人に今でもよく思われてないからかと思ったが、その地は縄文時代の遺跡であった。
そのすぐそばに磔の松がある。のちに頼朝のもとで功績をあげた長田親子が恩賞に「美濃尾張をくれ」といったことに応え、「身の終わりを授ける」と処刑された場所といわれる。
長田忠致の祖は将門の父と兄弟で領地争いをして、将門の乱では敵対していた。その後一族は流浪したこともあり、ようやく知多に領地をもち開拓していた。そこに、追われた義朝主従が現れたので困惑したはずである。息子と相談の末、このまま義朝が東国に戻っても再起不能だろうと考え、清盛に服すことにした。
清盛からの恩賞は壱岐の守であった。そして頼朝の時代がきてしばらくは壱岐に隠れていたらしい。
壱岐には玄海灘で活躍した長田氏がいたことから子孫は残っていたらしい。

参考:「相模のもののふたち」永井路子ウイキペデイア・尾張歴史と伝説・城郭図鑑・平治物語絵巻・綾瀬市HP・大和市HP・海老名市HP・渋谷氏・金王丸関連のHP・渡辺崋山と大山道・野田かずこ創作切りえ・神奈川県 神社検索
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:36 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)
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