歴史と素適なおつきあい

小野路~薬師池


東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい

小野路~薬師池

鶴川9:55発(バス)~中宿(徒歩)~小島資料館(当日休館)~小野神社~万松寺~(小野路城址)・(小町井戸)~一里塚~(野津田公園:村野常右衛門家移築)~華厳院~野津田社~町田ぼたん園:北村透谷碑・石阪昌孝家跡(昼食)~自由民権資料館~薬師池公園:はす田・薬師堂(バス)~町田
小野路とは、相模国の国府がおかれた場所が小野の里、武蔵国の府中には小野の宮があり、この二つの小野を結ぶ途中の道を小野路とよぶ。


小島資料館 

毎月第1,3日曜開館。

新選組関係資料、自由民権資料、近世、近代文書など所蔵。
小島家は、和歌、狂歌、漢詩など親しみ文化人を輩出した。これら二十余代にわたる古文書,古書画、古器物を公開している。

小島家は、小野路寄場名主で、応永2(1395)年 室町時代に備後より来住、土着した。庭内には近藤勇の銅像と上野寛永寺にあった石灯籠があり上野戦争の弾痕跡がみえる。

*幕末の小島家と新選組

関東取締役の見張番屋をもち司法の末端を担い、捕り方道具や鉄砲まで所持していた。
幕末には20代目鹿之助が代官所の要請により小野路農兵隊を組織し、小島家所有の山林の一部を整備、屯所を建築し小野路の若者を集めて訓練した。
天然理心流の試衛館から出稽古にきていた関係で新選組とも親しく、資金面での援助など新選組に大きな役割を果たしている。
道場には近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬介らが訪れている。
日野宿の土方歳三の義兄佐藤彦五郎とも親しく、甲陽鎮撫隊に加わった佐藤彦五郎率いる日野農兵隊が甲州街道を進み、小野路農兵隊も参加しようとしたが八王子鑓水(やりみず)で甲陽鎮撫隊敗走の報を聞き、撤退した。

*明冶の小島家と民権

鹿之助は野津田の石阪昌孝と義兄弟となり民権運動を支援した。

その民権運動は薩長土中心の明治政府に対し、理論という武器で挑んだ民衆闘争であり、多摩の人々にとっては戊辰戦争の延長戦に位置する。


小野神社 祭神 小野篁  天禄年間(972年ころ)建立


小野篁(おののたかむら)は平安時代(802~52)の漢学者で、孫が小野道風。天禄年間、武蔵の国司として赴任した小野孝泰による建立という。
小野篁は承和元年(834)遣唐副使に任ぜられたが大使藤原常継と対立、乗船しなかったため嵯峨上皇の怒りにふれ隠岐に配流された。
隠岐では長者の娘阿古那との悲恋も伝えられる。閻魔庁に仕え冥界往還の伝説もある。

時をしらせる鐘が応永10(1403)年に造られたが文明年間(1469~1487)山内上杉と扇谷上杉が戦い、その時山内上杉が陣鐘として持ち去られた。
伝承では再度永承13年北条早雲の三崎新井城攻撃の時にも陣鐘として使われたという。
江戸になって代官長谷川長綱の手にわたり逗子海宝院を創建した際、寄進された。



万松寺  臨済宗建長寺派


小野郷学舎が造られ、大蔵の中溝昌弘、小野路の小島韶斉(しょうさい):鹿之助などが師匠に迎えられた。昭和20年5月29日の空襲で消失、弾痕が土蔵に残る。



*中溝昌弘
布田の医家に生まれ昌平坂学問所で学んだ。



小野路城址 

大泉寺に居城を構えた小山田有重の築城。その子二郎重義が守護にあたった。
築城は承安年間(1171~1174)である。
小山田氏は秩父平氏の一族で頼朝上洛の際三男三郎重成らを京に派遣、鎌倉幕府開府にあたり尽力した。

頼朝死後北条時政のそしりをうけ実朝に長男稲毛重義、その子重政、弟四郎重朝が誅される。
勢力を落としたが、元弘3(1333)年、末裔小山田太郎高家は新田義貞挙兵に加わり北条泰家を追って鎌倉に攻め入った。
建武の中興である。
小山田高家は勢力拡大をもくろむが新田と足利の争いになり、湊川の戦いで新田義貞を救い討ち死してしまう。

その後小山田氏は文明9(1477)年長尾景春勢に攻められ滅亡する。
その後甲斐国に逃れ武田氏に仕える。小山田信茂は滝山城攻略に参加しているが、
織田信長が武田勝頼を攻めたとき,
反旗を翻し勝頼自害に追い込む。主家を裏切ったことを信長に嫌がられ、捕縛されたのち斬首された。


小野路城は武蔵の国境の要衝として扇谷・山内両上杉の拠点として改修された。
本丸を含む二つの郭と土塁、空堀が残る。



小町井戸

小山田氏の飲料水として使われた。小野小町(小野篁の孫ともいわれている)が病を患い千日この水を飲み、目を洗ったら治ったというで伝説がある。



日限り地蔵

日を限って願い事をすると叶えてくれるお地蔵様といわれる


小島家墓


一里塚

旧大山街道で、次の一里塚は木曾町にある。元和2(1616)年75才で亡くなった徳川家康の遺体を久能山から日光に移すため駿河から箱根、小田原、厚木、座間、木曾村、向坂に至り、荷駄の車輪の軸が折れた。

小島家資料によると乞田村から鍛冶屋をよび修理したという。この件で村々は助郷を免除されたという。(木曾村石川家文書)



野津田公園

村野常右衛門生家が移築されている。大正13年に屋根を茅葺きだったのを当時としては珍しい鉄板葺きに改修している。当時の政治家としての村野の活躍ぶりがみられる。



河合家

戦国時代に小代官河合越中守で、古文書を多く残す。名主「野津田年代記」「堰普請」など多数ある。「権兵衛の生涯」は昭和55年町田在住の薄井清氏が本にした。

*権兵衛の生涯

野津田村、百姓代の次男で、生類憐れみの令廃止後八代将軍吉宗が鷹場復活。
権兵衛を駒場に移し「綱差」という役を与えた。
村人は鷹の餌を探す仕事が増え不満であった。兄甚兵衛は村人の苦しみを気にやみ、首をくくって死んでしまった。
村人たちは「百姓が役人になった権兵衛を殺すには祟りが怖い。
自分で死んでくれ」と権兵衛に縄を投げ出した。

♪ 権兵衛が種まきゃ カラスがほじくる ♪ ズンベラ ズンベラ 
♪ 三度に一度は 追わずば なるまい  ♪ ズンベラ ズンベラ 



この歌は熊野古道の権兵衛さんで有名である。
熊野の権兵衛さんと江戸の目黒の権兵衛さんとは20年の開きがあり、
江戸の権兵衛さんが先の話で流行歌として熊野に伝わり、熊野の権兵衛さんがいた三重県海山町で歌いつがれてきたらしい。
江戸の権兵衛さんは、駒場の権兵衛と目黒の川井家の権兵衛と違いがある?!


江戸の権兵衛さんの話

1716年ころ吉宗の命で鷹狩りが再開。目黒の川井家は代々烏見役:鷹の世話係であったが、生類憐れみの令で36年廃業し烏見役の後継ぎがいなかった。
そこで鷹の世話ができる権兵衛を養子にむかえ狩場をはじめた。
鳥をよせつけるため畑に種をまきカラスにつつかれないよう見張り番をした。
その様子を歌ったものといわれる。権兵衛のおかげで鳥も集まりよい鷹場になった。


熊野の権兵衛さんの話

1736年ごろ武士だった父がなくなり父の願いで百姓になった権兵衛さん。

へっぴりごしで慣れない鍬をもつ姿、種を播いてもカラスにほじくられる滑稽さを村人たちが笑った。
が、一生懸命畑仕事に精をこめた権兵衛は村一番の百姓になる。
猟の腕前も上達し、殿様からもお褒めの言葉をもらう。
褒美は、1年間の村人たちの年貢を免除してもらうことを願いでる。
馬越峠に大蛇がでるので退治にむかうが、お守りのズンべラ石を蛇の眉間に投げ退治したものの、毒を被り死んでしまう。
村人達は悲しんだ。
熊野でズンベラはつるつるしたという意味がある。「ズンベラ」は梵語では「ジンバラ」といい光明の意味がある。
お守りにしたことから丸くつるつるで霊力があったのかもしれない。
尾鷲の近く海山(みやま)町には権兵衛の里資料館がありズンベラ石が展示されている。


華厳院

村野常右衛門の墓がある。最初に小野郷学舎がおかれた場所である。


自由民権資料館・凌霜館跡

板垣退助が起こした自由民権運動は、石阪昌孝、村野常右衛門らによってこの多摩の地でさかんに運動が広められた。
この地は野津田の民権家、村野常右衛門の所有地で明冶16年「凌霜館」を建てた。
その後村野家が寄贈し資料館が建てられた。
資料館の展示をみると八王子千人同心~幕末の農兵隊~新選組~民権運動~多摩壮士の繋がりを感じる。

*村野常右衛門 安政6(1859)~昭和2(1927)年

石阪昌孝の片腕として活動した民権家である。28歳の時大阪事件の関与で自首している。
中堅的な活動家として県会議員、衆議院議員、大正3(1914)には立憲政友会の幹事長となる。

 
野津田社

享保2(1717)年、五明神社といわれ明冶22(1890)年、御霊神社になり
明冶42(1909)年、野津田社となる。祭神はイザナギ、イザナミ、アマテラス、ヤマトタケル、クニトコタチ、アマツコヤネ。春日社(上の原)、幸山社(本村)、伊勢社(並木)、御嶽社(川嶋)を合祀。


北村透谷碑(町田ボタン園)開花期以外は入場無料


透谷は明冶元年(1868)小田原の没落士族に生まれ転居により、数寄屋橋近くの泰明小学校に通う。
透谷の名はスキヤからとったものである。

ロマン主義詩人としての透谷は多摩の地で生まれたともいえる。

15才の透谷は八王子(上川口村)にある近在の政治青年が出入りしていた秋山国三郎の家を訪れていた。

国三郎は若い頃天然理心流に入門免許皆伝し、俳句、義太夫そして放浪の旅にも出ていた。
透谷が訪れたころの多摩は自由民権運動に翳りがさし、困民党騒動が起こっていた。
後に国三郎は困民党壊滅後の後始末に奔走する。

国三郎の家に起居したのは友人である大矢正夫がいたからである。
透谷は15才、国三郎は50代であるが透谷は国三郎に惹かれていく。
石阪昌孝の子公歴や大矢らと親交を深め民権運動にも参加していった。
大矢は八王子の教員で熱烈な自由民権論者であった。
後に大阪事件に関与、強盗までした男である。強盗に誘われ透谷は過激な民権運動に失望し、頭を剃り大矢と決別することになる。

政治活動から脱落した透谷は、公歴と諸国回遊をしたころから石阪家に出入りし公歴の姉美那と出会い、紆余曲折の末キリスト教式で結婚、洗礼もうけていた。
石阪の民権運動の懇親会では、徳富蘇峰や足尾銅山事件の田中正造とも同席している。
政治活動からの脱落、現実行動の喪失は文学活動において自己の内面を発見させた。
農民、貧民、強国の名のために切り捨てられていく民衆をみつめ反戦運動もした。

政治家に配った弾劾文には

「賎を苦しむる封建的圧政の力行われ悲しいかな。愚昧なる小権力者相争うて(略)無力なる助けなく友なき多数の貧民の難やめんとしつつある(略)彼等相奪ふ者は何ぞや、是等貧民を圧抑せんと欲する欲権ならぬか(略)請ふ、汝が政治家の仮面を取り去れ、請ふ、汝が愛国者の衣を脱げ、彼等上下を衣ざれども依然として門閥の毒勢を逞しうして良民を残害す。」 明冶24,5年のものである。

農村では小作と地主が対立、各地で騒動が起き、期待された自由党は貧民の期待にはこたえていない。
透谷は明冶27(1894)年妻子を残し、別居中の芝の自宅で縊死した。
透谷の文学者、思想者として支えたのは民権伸張の思想であった。
痛ましい結末は国権に圧殺された民権の死ともいえた。


石阪昌孝家跡

町田市を代表する民権家。透谷の義父。

*石阪昌孝


幕末は小島家で天然理心流に入門、小野路農兵隊に加わり甲陽鎮撫隊にも参加しようとした。
小島家に出入りしていた真下(元神奈川奉行)の開いた「融貫塾」で新しい時代の動きを学ぶ。
明冶6(1873)年早くも地方議会の開催を上申している。 
6年後県議会の議長就任。自由民権を啓蒙する演説会、懇親会に出席し、多摩地方に急速に団結の気運が高まった。明冶14(1881)年自由党に入党。

石阪は実生活に根をおろした運動を目指した。東京生糸商会を設立、外国資本に対する商権回復を計ろうとしている。
困民党騒動の時は嘆願運動に乗り出している。
しかし嘆願という温和な行動は、士族や石阪ら豪農たちの民権とは連携されず、農民が組織した困民党は自力で対決、壊滅するしかなかった。

大阪事件でも関与の取り調べをうけている。
明冶23(1890)年第一回衆議院議員選挙以来数回当選、群馬県知事となるが半年で罷免、その後1年待つことなく亡くなる。

「井戸塀政治家」といわれるが、言葉どおり財産も使い果たし小島家には石阪の借金証文が残っている。
石阪昌孝の子、公歴(まさつぐ)は大阪事件のあと米国に渡った。
実家の建て直しのため実業の勉強が目的であった。
が、在米日本人愛国同盟会の主要メンバーとなり機関紙を発行、日本政府批判をした。日米戦争がはじまると日系収容所に入れられ敗戦の1年前に亡くなった。

公歴の姉、美那は透谷の死後米国に渡った。



七国山

鎌倉街道の難所であった標高120メートルの峠である。
峠には井戸があり、鎌倉井戸といわれた。
今は枯れている。かつて周囲は沼地でその名残が薬師池である。
近くに井出ノ沢古戦場があり、「中先代の乱」建武2(1335)年、北条高時の子時行が鎌倉を占拠した。
井出ノ沢で足利直義を敗走させ鎌倉では護良親王が殺された戦いである。ここは鎌倉の最前線であった。



はす田

大賀ハスは、1951年千葉県検見川遺跡で発見された、2000年以上前のハスの実から発芽させたものである。発掘した大賀一郎博士の名をとった。
7月下旬から8月が見ごろである。
 

薬師堂


もとは華厳院の建物だったといわれる。本尊は平安時代の行基菩薩の伝承をもつ。この場所の前は暖沢(ぬくさわ)にあったが新田義貞の鎌倉攻めのさい焼失、薬師如来は焼失を免れここに納められたという。



多摩の民権

天子様の世になれば暮らしが楽になると思った農民達に、明治政府は徴兵制、地租改正を行なった。

納税額で免除される徴兵は貧しい農民からは逃れられないものであった。
地租改正とは徳川の時代に米で年貢を納めてきたものを、土地の所有者から現金で納めるようになることをいう。
米のかわりに現金で、土地の広さ、価値から地価を税額にした。
土地の私有化は農民にとって驚異的な「開化」だったはずである。
が、実は政府の真のねらいは豊作凶作に作用されず安定した地租を確保できることであった。

商人、職人、役人からは地租をとらないので余計に農民は重税にあえぐ。
不作で払えなければ高利の金も借金して払わなければいけない。
徳川の時代に比べ維新後は生活が苦しくなってしまった。
そこで地租改正反対一揆が各地で起こった。

多摩では秣場(まぐさば)事件があった。
里山など誰の所有かはっきりしないもの、みんなが山に入り薪を拾ったりできる公共と思われた土地の所有権を巡る争いだった。

 関東平野をとりまく丹沢山地、関東山地、秩父山地、八溝山地の連なりがある。
平野とこの山にはさまれた丘陵、すそ野が開港以来花形輸出品となった生糸産地である。
絹の産地はほとんどが山間のやせ地で、畑作収入も乏しかったが桑は良く育った。
横浜開港はこうした農家に現金収入をもたらした。


後に「絹の道」といわれる神奈川往還もできた。
明冶9年には多摩の農業生産のうち40%が生糸、マユであった。養蚕事業は農耕作業と違いまとまった運転資金を必要とする。
好況の波にのって事業拡大する農家も多かった。

そこへ松方正義のデフレ政策により農産物の価格は下落、借金は雪ダルマ式にふくれあがった。
土地の私有化により農民のものとなった土地は担保として取り上げられていく。
小作に転落し地主の農奴になる者、流民もあふれた。
儲かったのは林立した銀行、金融業者であった。

この負債支払い延期願いを要望したのが困民党事件である。

明冶17年 加波山事件(自由党員による専制政治打倒の挙兵事件) 
そして秩父事件(秩父困民党による負債延期、減税を請願した武装蜂起)は、
はじめての軍隊出動で鎮圧された。

明冶18年 武相困民党が横浜に向け請願行動を決行、瀬谷付近で警官隊に阻止される。
壊滅後困民党のことは村々では恥ずべきこととされ、家族達も口をつぐみ、
孫の代になっても知ることがなかったが、関連文書などが発見され今では随分研究されてきた。

幹部の一人須長蓮造は行商人となり諸国を流浪、故郷近くの野原で倒れて死んだ
須長の倒れた原を見おろす丘の上に透谷の碑「三日幻境の碑」が建てられた。

大阪事件とは明冶17年12月に朝鮮での政変をきっかけに
朝鮮の旧守派に対し開化派を支援し民権化しようとした。

国民は政変時の清国介入から清国開戦を主張した。
旧自由党員の多摩壮士たちはこの主張に便乗し、国内改革をして政府打倒をねらった。

透谷の友人大矢が強盗に誘ったのもこの事件の資金作りのためであった。

ところが幹部の裏切りにより未遂に終わり、多摩の民権家たちの逮捕に及ぶ。

大阪事件のあと政府は対外強硬論をあおり、日清戦争へと突っ走っていく。

自由党は伊藤博文内閣に近づき「民党は海軍の敵にあらず」
「政府といえども助くるべきは助く」と富国強兵を推進するようになった。



参考文献: 鶴見川沿い歴史散歩(金子勤)・多摩の百年(朝日新聞)
参考HP: 町田市・海山町・自由民権資料館・板東千年王国・秩父事件・みえ東紀州の民話・鶴巻孝雄研究室
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:49 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)
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