歴史と素適なおつきあい

浅草神社~白髭神社

東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい番外編      2012・3・18

舟渡御

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平成24年(2012)3月18日14時すぎ
毎年5月に斎行される三社祭は元和元年(1312)に三社の神話をに基づき行われた「舟祭」が起源である。
平成24年は三社斎行700年にあたり、再現された。

江戸時代まで続いていたが、明治時代に途切れ、昭和33年11月に浅草寺本堂再建落慶に記念して復活された。それから54年後に5月22日のスカイツリー完成記念行事と相まって行われた。

53年前の経験者はもういなくなり、昭和33年の写真、江戸時代の屏風絵などの資料を参考に企画が進められた。

一つの舟に三社様の神輿が乗り、七福神や、金龍などがのせられた舟がいっしょに隅田川を行進した。






歴史と素敵なおつきあい 平成15年2月14日(金)

渡来人の足跡を訪ねてー浅草寺・白髭神社
集合日時  :  平成15年2月14日(金)  9:50
集合場所  :  浅草 雷門

浅草寺(浅草観音)

本尊は 聖観世音菩薩で、金竜山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)の歴史は古い。
寺伝では、飛鳥時代の推古天皇36年(628)檜前(ひのくま)浜成、竹成兄弟が隅田川で網にかかった1寸8分(約5センチ)の黄金の観音像を、土地の文化人であった土師真中知(はじのまつち)に鑑定してもらった。ありがたい観音であることがわかり、その頃すでに仏教の信者だった真中知は、お堂をたてて安置した。
大化元(645)年僧勝海が現在地に堂をたて夢のお告げにより本尊を秘仏にした。
天慶(てんぎょう)5(942)年安房国守平公雅(きんまさ)が再建、治承4(1180)年には、下総から鎌倉にむかう頼朝が参詣、寺領を寄進した。鶴岡八幡宮を造営する際、浅草の宮大工を招集している。(「吾妻鏡」)これが史料に浅草の地名がみえる最初である。
戦国時代には北条氏綱によって再建され、家康の時には、幕府の祈祷所となった。
寛永19(1642)年に焼失。関東大震災(1923年)、太平洋戦争(1945年)など数次の被災にもかかわらず、堂宇はそのつど再建され今にいたる。かつては天台宗に属し,東叡山寛永寺に所属していたが、現在では聖(しょう)観音宗をおこして子院24の総本山となった。

ご利益

観世音菩薩は祈る人のすべての願いを分け隔てなく聞き、苦しみを除きその願いを叶えられる菩薩といわれる。松下幸之助も病気快癒の願いが叶ったお礼にと雷門を寄進した。

檜前の馬牧

大宝元年(701)大宝律令で厩牧令がだされ、全国に国営の官牧が39箇所と、皇室に馬を供給するため32箇所の勅旨牧がつくられた。武蔵野国には、「檜前の馬牧」、「浮島の馬牧」、「神崎の馬牧」がおかれた。順に浅草、本所、牛込ではないかといわれる。

檜前氏

明日香村大字檜前は飛鳥時代、渡来人の居住地であった。
ヒノクマのクマは入り込んだ谷間、浦の意味で檜前の地形は低丘陵に囲まれた盆地状の小平地である。
明日香村の檜前には、於美阿志(おみあし)神社があり、百済系の阿智使主(あちのおみ)の居住地といわれる。
異伝では、於美阿志神社は磐橋(いわはし)神社ともいわれ、高市郡久米郷にあって、高市連、安知造らの祖、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祀るとされる。
阿智使主とその子都加使主の都加とは、馬韓北部から安羅(古朝鮮の伽耶地方)に移ったと推定されるが安羅の首長をツカという。そのツカが渡来したものであると思われる。 
天目一箇神は鍛冶神である。 川から引き上げた観音像は金属(砂金)のことでこの地では古くから、金属がとれていたという説もある。
檜前も鍛冶、鉱山関係の家系であるらしい。檜前氏は応神朝に渡来した阿智使主の末で、大和の飛鳥のヒノクマをはじめ、その遺跡が山城、遠江、武蔵、上総、上野、摂津、尾張、石見等に残っている。
武蔵造の族には笠原直、物部直、大伴直、刑部直、土師直、檜前舎人(ひのくまのとねり)らがあり、そのうち檜前舎人は宣化天皇の名代である。
武蔵国にあって、加美、那珂郡(埼玉県本庄市)に分布し、丹党と重なるので、秩父丹党はその末裔ではないかともいわれる。
宣化天皇は尾張氏出身で宣化天皇に仕えた可能性は高いと思われる。 
丹党は妙見信仰があり、妙見は、製鉄、鉱山にかかわる神である。                 
 (日本の神々―谷川健一、神奈備にようこそ)                                                                  

土師氏

南埼玉郡鷲宮町の鷲の宮(はにしのみや)神社は「土師(はにし)の宮」ともいわれ、崇神天皇の時代の創建という。河内国から東国へ移住してきた土師氏が先祖を祀ったもので、浅草寺を祀った土師氏の一族が、利根川や荒川を遡って埼玉郡に移住したと思われる。(坂東千年王国)

浅草寺の秘仏

何年に一回のご開帳すらない完全な秘密を維持している秘仏である。
勝海上人は、視力が衰え困っているところ、夢に本尊の観音像が現れ、本尊を直接みることを
戒めた。
以来、平成の今日まで秘仏にされつづけている。しかし、みた人たちがいたと伝えられる。
明治2年新政府の役人があらわれ秘仏をみたいという。僧達の抵抗、忠告も耳にはいらず、
扉の前に進んだ。
まもなくすさまじい音がし、僧達は床に額ずいていたため何が起こったのかは
わからなかった。
役人たちは、丁重な物腰に変わっており「大切にお守りなさい」といって立ち去った。
それから64年後1933(昭和8)年のこと、役人達のひとりの娘が浅草寺に現れ、扉を開けた途端すごい力で吹き飛ばされて、後悔したが役人たちはその後つぎつぎに亡くなったとのことを伝えた。
徳川吉宗も開いたらしいが、すぐ閉めたという。龍の姿をしていたといわれるが真偽は定かではない。                                (日本史の中のこわい話―三浦 竜)

雷門

浅草寺の総門。942(天慶5)年平公雅により創建。
何度も火災にあい1865(慶応元)年に焼失以来失われていたが、昭和35(1960)年松下幸之助の寄贈で大成建設が請負、鉄筋コンクリートの切妻造で再建。通称雷門で親しまれているが正式には風雷神門である。風神、雷神の二神像が左右に安置されている。門の右が風神、左が雷神。

浅草広小路

雷門前に東西に走る道で江戸時代に火除地としてつくられた


仲見世通

浅草寺の掃除役の代償として営業権が認められ、元禄・享保(17末~18初世紀)から、みられたらしい。

宝蔵門
慶安2(1649)年家光の建立した仁王門が太平洋戦争で焼失。昭和39(1964)年に再建され、寺宝を収納したところから名を改めた。

五重塔

慶安元(1648)年に建立。戦災で焼失後、昭和48(1973)年本堂東側から、西側の塔院に再建。

本堂(観音堂)

昭和33(1958)年再建され、内陣上段の間に秘仏の本尊「聖(しょう)観音菩薩」、下段の間に「御前立(おまえだち)本尊」が安置。外陣には江戸から明治にかけて奉納された谷文晁、高公谷、歌川国芳らの著名な絵師の描く10面の絵馬が掲げられている。

浅草迷子しらせ標

左に「たづぬる方」、右に「しらす方」とあり、張り紙によってしらせあった。迷い子、訪ね人探しに利用されたという。

浅草(あさくさ)神社

浅草寺本堂の東の神社。三社様の呼び名で親しまれている。観音像発見の功労者土師真中知、檜前浜成、竹成を祀ったことから三社という。のち東照権現を合祀したので三社権現ともいう。
社殿は3代将軍家光の建てた権現造りでその後の火災、震災、戦災を免れ江戸初期の華麗な姿をとどめている。本殿、拝殿、幣殿ともに国の重要文化財である。
この神社の祭礼は三社祭といわれ、日枝神社山王祭、神田明神神田祭とともに江戸三大祭のひとつ。現在では5月中旬の土曜・日曜に行なわれるがこのとき拝殿で行なわれる「びんざさら舞」は鎌倉時代からの芸能である。

びんざさら舞

五穀豊穣を願う舞で、笛や太鼓とともに木片を綴ったびんざさらを打ち鳴らし悪霊退散を願って
田楽を演ずる。田楽とは田植え行事を芸能化したもの。

二天門(国重要文化財)

もともと1618年に建てられた東照宮の随身門であったが、東照宮焼失後、そのまま残された。
2体の神像は寛永寺の厳有院(4代将軍家綱)霊廟の二天門の木造持国天・増長天を移した。

待乳山聖天
浅草寺の子院で正しくは待乳山本龍院(聖観音宗)という。本尊は歓喜天でヒンズー教の神であるが、仏教にとりいれられると病難、盗難の災いを除き、夫婦和合のご利益があると信仰されてきた。
境内の築地塀は江戸末期に作られたものである。
真土山ともいい、古くから隅田川の景勝地であった。

亦打山暮越えゆきて盧前の 角太河原に独りかも寝む(万葉集)
まつちやま くれこえゆきて いほさきの すみだかわらに ひとりかもねむ

あはれとは夕越えて行く人も見よ まつちの山に残すことの葉(元禄10年戸田茂睡)

聖天横町

聖天の西側がかつての聖天横町で遍照院裏店で葛飾北斎が90歳の生涯を終えている。
現在の浅草6~7丁目は浅草聖天町といわれ池波正太郎の誕生の地である。

言問橋
昭和3(1928)年の完成で「伊勢物語」にでてくる在原業平の和歌 「名にしおばいざ言問わん都鳥・・・」に由来する。

三囲神社(恵比寿・大黒天)

宇迦能魂命(うかのたまのみこと)を祀る。文和(ぶんな)年間(1352~56)三井寺の僧源慶が荒廃した社を改築しようとした時、土中から白狐にまたがった翁(稲の神)の像がでてきた。
そこに白い狐が現れ、その神像を3周して姿を消したことから、三囲神社と呼ばれるようになった。
俳人宝井其角の雨乞いの句、「ゆふだちや 田をみめぐりのの神ならば」とゆ た かの文字をいれたところ、雨がふり、田の中稲荷として江戸町人の信仰を集めた。

弘福寺(布袋尊)

牛頭山弘福禅寺という。黄檗宗の名刹。鉄牛和尚によって延宝2(1674)年に創建。
鉄牛は明の僧で、インゲン豆を伝えたといわれる宇治万福寺の隠元禅師の弟子である。諸国巡業中、小田原城主の稲葉美濃守正則の知遇を得、正則が老中になった時江戸に同行し、寺を興した。幕末勝海舟が参禅、明治の文豪森鴎外も好んだ。境内には咳の爺婆(じじばば)という咳止めのご利益があるといわれる石像がある。

長命寺(弁財天)

創建は不明。寛永年間(1624~44)の3代将軍家光が鷹狩の途中腹痛を起こし、この寺の井戸の水で薬を飲んだところ、たちまち痛みがおさまった。
喜んだ家光が宝寿山長命寺と名づけた。境内には50をこえる句碑、歌碑、塚などがある。
雪景色の名所。桜餅が名物。虚子の句に「桜餅くふてぬけけり長命寺」がある。
近くに名物の言問団子もある。

白髭神社(寿老人)

天暦5(951)年慈恵大師が関東に下った時、近江国志賀郡打下(うちおろし)の白髭大明神を勧請したものといわれ、近江の本社は比良明神と」称する。
祭神は猿田彦命である。白髭大明神は朝鮮からの渡来人の祀った神で、その分布から古代の渡来人のひろがりを知ることができる。
現在の社殿は元冶元(1864)年の造営。七福神の寿老人がぬけていたのでご神体の白髭明神を寿老人にみたて、七福神をそろえた。

向島百花園(福禄寿)

仙台出身の日本橋、骨董屋佐原鞠塢(さわらきくう)が、寺島のこの地に3000坪(9900㎡)の土地を購入、別荘とした。
交流のあった文人、墨客(蜀山人、亀田鵬斎、加藤千蔭、村田晴海、谷文晁、酒井抱一ら)とともに、三百数十本の梅ノ木を植えて造園にあたった。
その後も文人たちが思い思いの木を持ち込んだことから、大名屋敷や社寺の庭園にみられない野趣に富んだ庭園となった。
昭和13(1938)年東京都に寄贈され、東京大空襲で大きな被害をうけたが、昔の姿をとりもどしている。

多聞寺(毘沙門天)

南から参拝すると、最後は多聞寺で終わりとなる。天徳年間(957~61)年創建。
大鏡山明王院墨田寺という。本尊は不動明王、場所は隅田川神社のあたりにあった。
天正年間(1573~92)年現在地に移り、本尊は毘沙門天にかわり墨田山吉祥院多聞寺になった。
昔、同寺に住み着いて夜な夜な住職を悩ませた古狸を毘沙門天が退治した。
その狸を葬った塚があるので狸寺ともよぶ。山門は茅葺で、四脚門は江戸時代中期の建築といわれ、墨田区最古の木造建造物である。

江戸東京物語―新潮社
 東京都の歴史散歩―東京都歴史教育委員会)
by gannyan1953 | 2011-05-06 12:08 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)
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