歴史と素適なおつきあい

都筑区 中川の地名 港北ニュータウン

歴史と素適なおつきあい               2006・7・14
         
中川村の地名                               

地名にはそれぞれの歴史がある。特に明冶以降法令により人為的に定められるようになって地名の変化は激しくなった。

古代からの都筑の地形


工事現場のむきだしの高い崖をみると上から1メートルが黒土、次いで10メートルが赤土、
下部が砂礫層・泥岩となっている。

現在の地形は砂礫層、泥岩の骨格の上に黒土や赤土が肉付けされて形づくられている。

関東地方の基盤をなす泥岩は数十万年前に海底で形成された「三浦層群」である。

その上の貝を含む砂礫層が「下末吉層」で古東京湾が関東平野一帯に広がった下末吉海進期(12~13万年前)に堆積した。
ところが5、6万年前の武蔵野期に海は現在の海岸線付近まで退く。

最後の氷河期が始まり現在の台地の原形があらわれてくる。
その上に富士山火山灰、箱根火山灰が降り積もり(武蔵野ローム層)のちに多摩川、鶴見川によって切り刻まれた。

その後
氷期は頂点に達し、海の深さは100メートル以上しりぞいた。
古東京湾は陸化し、その中央を利根川、多摩川の水を集めた「古東京川」が流れていた。

したがって都筑のあたりは150~200メートルの山の上となった。
この間ずっと火山灰の堆積が続く。

1万数千年前には氷河時代が終わり火山活動もしだいにしずまり、現在の地形に近いものにできあがった。
気候が温暖になり海面が上昇、鶴見川の谷にも海水が入り込んできた。

縄文海進である。

およそ6千年前海は第三京浜道路付近まで広がり「古鶴見湾」が形成された。
それ以後数千年の間に土が谷を埋めつづけ、およそ千年前には川沿いの低地ができあがった。

今日では大規模な土木工事で丘も一部を残すのみとなった。    (坂本彰:鶴見川流域の考古学)

都筑郡の歴史と命名

大化改新で律令制下におかれた東国において、相模八郡と武蔵国南部の三郡が現在の神奈川県にあたる。

武蔵野国三郡は橘樹(たちばな)郡、久良(くらき)郡、都筑(つづき)郡であった。
万葉集には755年に筑紫に派遣される防人の一人として服部於田(はとりべのおた・うえだ・おゆ)の歌がある。
930年頃編纂された「和名(わみょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)」(平安時代に作られた辞書)を見ると都筑には「豆々岐」の読み方がついており「つつき」と呼ばれていたことがわかる。

和銅6(713)年に都から「諸国の郡郷名は好字(よきじ)で著せ」と命じられる。

これにより漢字2字での表記が定まり「つつき」の音から「都筑」「綴喜」が当てられたと考えられる。
都と筑の字は「都賀(つが)、都家(つげ)」「筑紫、筑後(ちくご)、筑摩(ちくま)、筑陽(つきよ)」など古代地名によく使われており、
都:天子が居住する場所、行政、聚(あつ)まる、大きい、盛ん、みやびやか、美しい
筑:琴に似た楽器、湖北省竹山県の筑水川

の意味がある。どの意味が適用されたかはわからないが、

*鶴見川支流にある地形から筑水川(多分長江のこと)に見立てた。湖北省(長江中流域にある)の竹山県の地図をみると鶴見川、早淵川流域の地図と似ている。

*産物である竹からの景観をなす竹林。
(この説については、古代に竹林があったのかわからない。孟宗竹ならば江戸時代に薩摩から分布したといわれているからである)

などが考えられる。                              

なぜ「つつき」と呼ばれたかは不明であるが、
「つき」は貢物・調、土器:杯、けやき・槻の意味がある。これに接頭語の「つ」と組み合わせたとも考えられる。                                            (横浜市歴史博物館「都筑の村々」)

「和名類聚抄」によると、郡内には交通の要所に駅(うまや)が置かれ、朝廷に良馬を提供する御牧(みまき)といった重要な施設が置かれた。
鎌倉時代1254年につくられた「古今著文集」に「武蔵国の住人つつきの平太経家は、高名な馬乗馬飼なりけり」とあるのは古代からの伝統が引き継がれていることがわかる。

江戸時代の都筑郡には41の村があった。
北の端が今の都筑区にあたり正保年間には13の村があった。
山田、牛久保、茅ヶ崎、大棚、勝田、荏田(一部)、東方、川向、大熊、池辺、佐江戸、川和村である。

今回は明冶に命名された中川村の地名について探ってみた。


中川村の誕生

県令第9号
各町村ノ内、内務大臣ノ認可ヲ得、明冶二十二年三月三十一日ヲ以テ別冊ノ通リ分合改称ス        
明冶二十二年三月十一日 神奈川県知事 沖 守固

都筑郡(抜粋)

中川村  (山田村・ 勝田村・ 牛久保村・大棚村・茅ヶ崎村 )     

ここに従来の五ヶ村が合併して中川村となり、中川の地名が生まれたのである。
そして旧五ヶ村名は中川村の大字として残った。

中川の由来

「大日本地名辞書」(明冶32)によると「山田、牛久保、勝田、大棚、茅ヶ崎など合わせ中川村と改む。
新羽、高田の西北に隣り、石川村より来る早淵川を貫き、吉田に至り、鶴見川に入る。
中川はこの渓名ならん。長三里」

とある。

この説は吉田博士の推測らしい。なぜかというと早淵川を中川と呼んだ記録はどこにもない。

明冶22年に村の中央を川が流れているので中川と命名されたものである。

昭和14年(1939)4月1日横浜市は港北区を新設して中川村を横浜市に編入、ここで字は町と変わる。

大字山田は東山田、北山田、南山田(すでに中区に山田が存在していたため一字を冠した。ヤマタと読む)に分かれ、大字大棚は上大棚が中川町に、下大棚は大棚町になった。

昭和37年(1962)「住居表示に関する法律」の施行に伴い何町何丁目何番何号と表示されるようになり大字、小字が消えていった。

古くからの自然地名は法令地名にかわっても会話に残り、バス停、橋名に残ったりしているものもある。

公称地名(土地台帳、戸籍簿)に残る地名もある。

地名はいつ誰が命名したかということはわからないが、東山田の「鎌田屋敷」や南山田の「掘ノ内」は平安末期あたりから、勝田の「鍛冶田」、中川の「鍛冶屋」は鎌倉・室町時代から、中川の「宿の入谷」は江戸時代の命名と思われる。


方言と当て字


地名は言葉、会話によって作られ文字は必要になってから使われた。

その結果言葉が先で文字が後となるため当て字が使われる。先に書いた「好字を当てよ」の命から、
地名の命名に大きな影響を与えた。

二字化のために、大、小、上、中、下などの接頭語、田、川、沼、島、野、井、原などの接尾語をつけたりした。

好字のために徳、久、吉、末、福、富、利、得、梅、柳など多く使われた。
発音から当て字を判断するが発音も時代によって変わる。

*ウトウ坂:オトウ坂ともいう。この地方ではウをオとよく発音するので打越はウッコシがオッコシ、古梅はコウメがコオメとなる。ウトは狭い峠道。

ウト、ウトー、ウド、ウドー:有道、有戸、宇登、宇頭、宇道、宇堂、宇土、宇戸,宇藤、宇簡舞、宇都、有東、凹道、鵜頭、鵜峠、鵜殿、鵜藤、洞、唄 などである。

ウトウ坂は有馬から江田に向い下る坂道だが最近建設された坂途中のマンション名がOTOSAKAになっていた。やはりオトウ坂といわれてきたのか。

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有馬にむかうウトウ坂
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江田宿にむかうウトウ坂


*古梅:梅の古木伝説があるが「埋め」で埋立地である。

大棚村の鵜目は早淵川の流れを南に移動させその跡を埋めた場所が鵜目であり、その裏側の小梅川でなく丘を崩してわずかな谷を埋めたので小埋、埋もれる意味はよくないので梅という好字をあてた。

*権太:人名でも田でもなく低い湿地帯のことをいう。

*牢場:籠はコム・ロウと読み崖地を伴う険しい地形、入り組んだ場所をいう。
牢場は老馬となる。
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老馬不動湧水







神無もコムであるがシンナシと当て字から読みを変えた。

丘陵地の地名

小高い場所を丘、台、小山などという。風土記にある「多摩郡にツツキタル地ナレハ小山カサナリテ連綿タル岡ナリ」は古き都筑郡の地形をよく表現している。

すみれが丘,あゆみが丘など新しく命名された場所は地形を表現したというより、美化した地名で希望がみえる。

傾斜した道を坂、切り立った岩肌、地肌を崖、周囲が高く中央が窪んだ場所を窪、久保という。麓は山、丘、台の裾で根、根岸などという。

麓に近く小高い場所をコシといい、人体の腰にあたる部分で腰の字を当てる。

腰から平地にかけて家を建てると生活がしやすい場所になる

。しかし生活のため住宅、寺社、墓地などは不毛の地を当て、日当たりのいい場所は農耕地とした。

集落と集落を往来するには崖や坂があり登りつめた場所は峠になる。

腰越、打越などで打越は武蔵国に多い。

ハザマ、ヤトは谷の湿地帯である。関東ではヤ、ヤト、ヤツ、サクという。中川ではヤトがほとんどである。

荏田の矢羽、大棚の矢崎は弓矢伝説があるが、川沿いの湿地帯にあるので谷の意味ではないかと思われる。


開墾地の地名


アラク  :荒久、阿良久    オコス:沖ノ谷、奥ノ谷

アラキ:新墾。荒木、荒城    シンボリ、ニイボリ:新墾、南堀(ミナンボリ)

コーヤ:荒野、紺屋、興谷、興野、高野、神野、高谷、幸谷、耕谷

サンヤ:山野、山谷、三家、三谷、三野、散野、散家

デミセ:出店(大棚村鈴木家の屋号)    ウケヂ :請地

開墾地からみて親村のことを本村、中村、本郷、中郷、内郷、中里、内野、本田

開墾地の子村は分村、枝村、脇村、出村、新郷、新堀、新田、出戸、出店といった。

人名からの地名

漆原:南山田の漆原氏で上野国群馬郡漆原村出身。漆原氏と漆原十二騎の名が伝わる。
漆の多い原野だったのだろう。

織茂:南山田の織茂氏で、上野国多胡郡長根村折茂出身と見られる。

朝見:浅見、浅海、阿左美、阿佐美、阿佐見、阿作見、朝見、朝美、芥生、阿射弥、
   田并美、莇

唐戸:武蔵国入間郡河越庄唐人(元川越市江戸町)とみられ秩父平氏の河越氏で畠山重忠とは同族である。

漆原氏、朝見氏、唐戸氏いずれも家紋が三柏である。

参考文献:中川の地名(吉野孝三郎著)
by gannyan1953 | 2011-05-06 12:18 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(2)
Commented by 福富洋一郎 at 2013-07-08 09:03 x
「港北ニュータウン・老馬」のカテゴリーを拝見しました。25年目に世田谷から港北ニュータウンに引っ越してきてから、都筑郡の歴史・地理・地図・地名にはまっています。レポートはいつも大変参考になりました。ありがとうございました。都筑区が来年20周年になります。「都筑」という行政地名が復活したのは良かったと思います。「都筑をガイドする会」や「早渕川ファンクラブ」の歴史散歩など、地域活動が活発です。
Commented by gannyan1953 at 2013-07-08 23:35
コメントありがとうございました。なかなか資料がわからず、調べたいことが進まないことがよくあります。また何かわかったことがあれば、教えてください。調べた本はほとんど図書館資料です。
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