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歴史と素適なおつきあい

赤穂浪士 討ち入り帰還の道



東京都歴史散歩

歴史と素適なおつきあい     2004・12・10(金) 


赤穂浪士 討ち入り帰還の道


JR両国駅 西口改札出た所 ― 回向院 ― 吉良邸跡 ― 赤穂浪士休息の碑(ちくま味噌)― 永代橋 ― 霊岸島 ― 鉄砲州 ― 赤穂藩浅野家上屋敷跡(聖路加病院)― 間新六の墓所(築地本願寺)― 浅野大学蟄居跡(歌舞伎座)― 東銀座 (都営浅草線)― 泉岳寺

                                
忠臣蔵

元禄14(1701)年3月14日 江戸城「松の廊下」で、高家筆頭・吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか・よしひさ)に勅使御馳走役・赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が斬りかかった。この日は年賀の答礼として、勅使、院使が登城し将軍綱吉と謁見する大切な日であった。
「この間の遺恨、覚えたか!」と叫びながら初太刀で眉間を傷つけ、二の太刀を右肩に浴びせたが、軽症で刃傷(にんじょう)は失敗した。判決文に「折柄と申し、殿中を憚らざる理不尽・・・」とあるように勅使への非礼、殿中の秩序維持の上から最悪の状況下であり浅野内匠頭は即刻切腹、赤穂藩お取り潰しとなった。
刃傷に及ぶ理由はいろいろいわれたが、「吉良上野介はおかまいなし」という喧嘩両成敗でなかった結果に、元禄16年12月14日 (旧暦1・30)本所吉良邸において大石内蔵介義雄(おおいしくらのすけよしお)を筆頭に赤穂藩士四十七士による仇討ちが決行された。
その後浪士たちは 謹慎ののち切腹をした。
 忠義だけでなく、江戸藩邸明渡しからはじまり、赤穂城明渡し、領民への心配り、討ち入り後の藩士たちのすみやかなな対応、態度は痛快なことであった。
 世は犬公方の治下である。足元に吠えつく犬を追えない時代であった。民衆はその抑圧された気分が隊伍堂々と旗本屋敷へ攻め入って、亡君の意趣をはらしてきたこの事件によって、自分達の憂さをはらすことにもなったのである。おびただしい落首が作られ、吉良をあざけり、義士をたたえた。のちに「仮名手本忠臣蔵」として人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本の題材になり、今にいたっても人気のある、日本人の好む話となった。


回向院   墨田区両国2-8

上野介の首を槍の柄にくくりつけ吉良邸をでたあと回向院に向かうが、かかわりあうことを怖れたか開門されず、泉岳寺に向かった。回向院は明歴の大火で亡くなった人々の供養にと築かれた万人塚が起源。江戸後期の劇作家や鼠小僧次郎吉の墓、江戸勧進相撲の開催地として知られる。


吉良邸   墨田区両国3-13 本所松阪公園
赤穂浪士 討ち入り帰還の道_b0228416_14263210.jpg


高家筆頭・吉良上野介義央の屋敷は、刃傷事件当時江戸城和田蔵門外、呉服橋内にあった。
(千代田区丸の内1-8 鉄鋼ビル)赤穂藩士の仇討ちが噂され隣近所からの苦情でこの地本所に元禄14年8月に屋敷替えをした。

2014年12月13日
回向院から吉良屋敷までバザー会場となり大変なにぎわいで、観光協会のツアーが大勢集まっていた。
観光協会から泉岳寺までいくツアーは無かった模様。
* 吉良家

吉良家は、足利氏の一門として、愛知県播豆群三河の吉良庄、4200石の領地であった。室町時代以来つづく名家で幕府の儀式をつかさどり、将軍の名代として伊勢、日光、朝廷にも使いをした。上野助が中小大名に驕慢な態度をとったとしても、上野介自身不遜とは考えていなかったはずである。
上野介は知行地吉良ではよい殿様として領民にも慕われていた。現在吉良では銅像も建てられ、12月14日松阪公園では吉良祭も催されている。

* 刃傷の理由

内匠頭の「遺恨がある」といったのは何かわからないが、上野介の高家としての指導ぶりが怒りを買ったものであろうということは間違いないと思われる。3年前津和野の藩主亀井玆親(これちか)も、上野介の態度を怒って斬ろうとしたが、家老の多胡主人(たこもんど)が賂(まいない)してから上野介の態度が軟化し、無事にすんだということもあった。

津和野の銘菓「源氏巻」のいわれ

頃は元禄11年、赤穂の浅町内匠守の刃傷が起きる前のこと。

当時の津和野藩主、亀井滋親公が勅使接待役を命じられ、

吉良上野介に典儀故例の指導を受けていたが、

浅野同様、数々の辱めをうけて大いに憤り、吉良を斬って自らも自害する決意をした。

それを知り、国家老多胡外記が、御家の一大事と早速吉良家に進物を贈りつけたところ、

吉良の態度は一変、殿様は無事大役を果たす事ができた。

その時の進物、「小判を包んだ形のお菓子」が源氏巻の原型になった。

巻きというが、うすっぺらくした巻物で下に小判上にお菓子を

のせて2段式の菓子箱にしたらしい。(津和野・沙羅の木より)


これをみると、賄賂を送らなかったので適切な指導をせず、内匠頭に恥をかかせることが多かったという説もあたっているかもしれない。内匠頭の性格は短気な所もあったそうだが、学問好きで遊芸はきらいであったという。江戸藩邸にいたものが仇討ち強硬派の中心になっていることからも内匠頭の気持が通じていたのかもしれない。赤穂の塩の生産を上野介が羨み、生産方法を内匠頭が教えなかったことへの吉良の腹立ちともささやかれた。

* 上野介と上杉家

上野介の子・綱憲は上野介の夫人の実家である米沢藩主上杉家の養子となり、綱憲の子・義周(よしちか)を上野介の養子としてもらいうけている。義周は血筋のうえでも上野介の孫にあたる。娘たちも名家に嫁いでいる。養子の縁で米沢上杉家からの援助も多く、上杉氏の記録によると養子縁組してからは万事が奢侈(しゃし)になったことがわかり、上杉氏の財政難は綱憲の時代につくられたものであるといわれる。

* 討ち入り

討ち入り当時、近所には高田の馬場の仇討ちで有名な堀部安兵衛、杉野拾平次、前原伊助の家があり、以前から見張り、探索、そして討ち入りの集合場所ともなった。
午前4時ごろ、東の正門から大石蔵之介ら23人、西の裏門からは大石主税ら24人が入った。家中のもの16人を斬り、20余人を傷つけてもなかなか上野介をみつけられなかった。
2時間ほど戦いがつづき、物置にひそんでいるところを、探し出され首をとられた。
近隣の旗本屋敷でも討ち入りに気付いていたが、だれも吉良を助けるものはいなかった。
朝もしらみかけてきて、一同首をかかげて出発。両国橋を越えると旗本屋敷が多いので、ここを避けて永代橋をわたり町人の町筋を通って泉岳寺にむかった。


*赤穂浪士四十七士
 

討ち入りした藩士は四十七人であるが、討ち入り後、四家(細川越中守綱利・松平隠岐守定直・毛利甲斐守綱元・水野監物忠之)にお預けになった。内蔵介ら17人が預けられた細川家では、江戸にすんでいる縁者と連絡もしてくれ、「平家物語」「大平記」「三国志」など持ってきて、つれづれを慰めてくれた。馳走役であった堀内伝左衛門は「堀内伝左衛門覚書」を残して大事な史料になっている。

以下 歴史と素適なおつきあい「赤坂と六本木」より抜粋

長州府中藩上屋敷跡(六本木ヒルズ)

長府藩は萩藩の支藩である。
龍馬と寺田屋遭難のときいっしょにいた三吉慎蔵が長府藩士である。龍馬の警護を長州藩から命じられ、龍馬の死後もその妻お龍を長府で預かっていたこともある。
そして乃木希典の生誕地である。
低い湿地で、外様の小藩の屋敷は江戸中心から離れていた。

赤穂浪士は討ち入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そして長府毛利家である。細川家などは忠義義胆の士としてかれらを篤く礼遇し、その礼遇ぶりは江戸中がほめそやすほどの美談になり、そのことは講釈ダネのなかでももっともよろこばれるくだりの一つになっているが、長府毛利家が最も冷遇した。
 長府毛利家は武林唯七ら十人を藩邸の長屋に押しこめ、そのうえ、長屋の往来に面した窓に板をうちつけ、窓をつぶし、文字どおり罪人のあつかいをした。この冷遇が江戸中の評判になり、町人たちの批難をあび、のちその待遇をあらためた。それもこれもべつに底意があってのことではなく、この藩が幕府の威権をおそれ、幕命を忠実に解釈してのことにすぎず、あとになってその監禁の度あいをゆるめたのも、幕府が存外この浪士たちに好意をもっているということを知ったからにすぎない。
武林唯七は帰化人の孫である。その祖父は中国杭州武林の人で、秀吉の朝鮮ノ役で捕虜になり、日本に移住した。その子は浅野家の医官になり、唯七を生む。唯七は元禄のころの下級武士としてはめずらしく詩に長じた。その韻律が日本人離れしたほどに自然だったのは家伝として中国音を知っていたからにちがいない。

三十年来一夢ノ中
生ヲ捨テ義ヲ取ル幾人カ同ジキ
家郷病ニ臥シテ双親アリ
膝下歓ヲ奉ジテ恨ムラクハ終ラザルコトヲ
と、これは武林唯七の辞世の詩である。病床にいる両親に先立たねばならぬ哀しみを、「恨むらくは」とのべている。唯七は他の九人の同志とともにこの藩邸の広庭で切腹した。
切腹にあたって、話がある。元禄のころの長府毛利家は士風がよほどおとろえていたのか、江戸詰めで剣を使える者がすくなく、浪士の切腹にあたってそれを介錯―――首を落す―――ことができる者はわずか五人しかいなかった。唯七は切腹の座につき、長府毛利家の家士榊正右衛門の介錯をうけた。榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落せなかった。唯七は前へ倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。二度目の太刀で唯七の首が落ちた。                   (殉死 司馬遼太郎)


* 寺坂吉衛門の行方

四十七士は後世「仮名手本忠臣蔵」でいろは四十七文字になぞらえたもので、一般的になったが、実は切腹したのは46人であった。
足軽の寺坂吉衛門が討ち入り直後にいなくなったのである。討ち入りの顛末を後世に残すために上意によりぬけたことを浪士たちは後で知る事になる。が、吉衛門の身の安全のためか逃がしたことは口にしなかった。100年後討ち入りに参加していないという文書がみつかり逃亡説がささやかれ不名誉なことであった。

ところが昭和になって吉衛門は名誉挽回した。吉田忠左衛門縁戚の伊藤十太夫の末裔である伊藤家から資料(伊藤家文書)が発見され「赤穂義士寺坂冤録」が世にだされた。吉衛門の行方が書いてあったのである。大石らから播州赤穂に赴き事の次第を伝えるために抜けるようにいわれた。その後播州に現れている。その後江戸にもどり自首するが、赦され8歳から仕えていた吉田忠左衛門の縁戚である伊藤家に仕える。
その後麻布曹渓寺(港区南麻布2)の世話になり山内家にも仕え83才まで生きぬいた。
泉岳寺の墓は慶応4年芸州藩御用商3名に寄進された供養墓である。

一番身分の低い吉衛門なら詮議も軽く、その忠孝に対し大石たちは吉衛門を選んだといわれる。

*その後の吉良家
 
上野介の子の義周は、戦わず逃げ回ったとされる。そのため赤穂浪士一同が切腹したあと義周の知行を没収し、信濃高島・諏訪安芸守忠虎にお預けとした。上杉綱憲は42才で隠居。
義周は4年後に亡くなり名門吉良家は絶えた。


 
赤穂浪士休息の碑 乳熊(ちくま)ビル 江東区佐賀1-6

永代橋を渡る手前にあるちくま味噌店で、一行は甘酒粥を振舞ってもらう。四十七士の中の俳人としても名高い大高源吾は、初代店主の竹口作兵衛と其角の門下生として俳人仲間であったと伝えられる。麹が多いので粥といったそうだが、現在通販で粥を購入することができる。近所の佐賀1-16は新選組から御陵衛士になった伊東甲子太郎の江戸の道場があった。

2014年12月13日  碑の横で甘酒が配られ、江戸味噌、甘酒の販売があった。

赤穂藩浅野家上屋敷跡   中央区明石町10 聖路加病院内




ここに八千九百坪の藩邸があった。赤穂の塩の生産で豊かであった赤穂藩の豪壮な生活ぶりが偲ばれる。
浅野家の先祖は浅野長政で、その夫人は秀吉夫人北の政所の弟である。秀吉没後、石田三成が勢力をもったことから家康方につき紀州を経て安芸備後に封ぜられた。広島浅野家の総本家である。

*赤穂藩先祖
赤穂浅野家の先祖は浅野長政の3男長成である。下野真岡から常陸真壁(隠居した長政の知行地)、常陸笠間、そして内匠頭の祖父長直の時代に赤穂5万3千石となった。赤穂藩士の中で吉田忠左衛門、小野寺十内、堀部弥兵衛は笠間で生まれている。祖父長直は城下町の整備に努め左白山頂にある藩庁まで藩士が往復する困苦を配慮して山麓に下屋敷をつくり政務をとった。白壁の壮麗なもので、幕府に新城建築と誤解され赤穂への国替えになったといわれている。
内匠頭長矩には子がなかったため、実弟の浅野大学が相続することになっていた。


間新六(はざましんろく)供養塔   中央区築地3-15-1 築地本願寺


築地本願寺は浅草横山町にあったが、明歴の大火で消失、跡地は区画整理のため八丁堀海上を与えられた。佃島の門徒により埋め立てられ土地を造成、延宝7(1679)年再建。ところが、関東大震災で崩壊し、昭和9(1934)年再建された。建物はインド様式で、本堂内は桃山形式をとっている。聖路加病院が近くにあるため、太平洋戦争では空襲を免れた。

* 間新六
 当時の切腹は形式的で腹を切るまねごとを行っているあいだに介錯される。が、間新六は脇差を手にしたらいきなり左腹につきさした。驚いた介錯人はあわてて首をはねたという。
亡骸は姉婿の中堂又介がもらい受けこの築地本願寺に埋葬された。泉岳寺に合墓された義士の中では唯一遺髪のみの墓であった。後年分骨された。

鉄砲洲稲荷神社
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富士塚
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蒋介石来日


赤穂藩上屋敷 聖路加大学
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上屋敷は築地鉄砲州屋敷といわれ、赤坂南部坂に下屋敷(赤坂6-10-12・氷川神社付近・幕末には勝海舟邸となる)、本所に蔵屋敷があった。


* 南部坂 雪の別れ 大石と揺泉院

この赤坂南部坂は歌舞伎「南部坂 雪の別れ」の場面で有名である。有栖川公園にも南部坂があるが、有栖川公園ではなく赤坂2丁目の南部坂(氷川神社近く)である。
討ち入り前夜大石蔵之助が揺泉院(ようぜいいん)に律儀にもその日までの会計報告を届けるため南部坂を登った。実は吉良方に討ち入りの情報が漏れることを怖れ、明日討ち入り決行のことは告げず、大石は藩主夫人に暇乞いに向かったのである。告げられない大石、それとなく察する揺泉院というくだりである。
揺泉院は内匠頭夫人で内匠頭切腹、赤穂藩断絶直後に髪を切り、義弟浅野大学と義絶して生家である三次浅野家の下屋敷に移っていた。その後義士の子供15才以上4名が遠島(大島)になることで、揺泉院は助けるべく奔走する(3年後返されるが間瀬久太夫の次男・定八は島で亡くなる)が、40才の若さで三次浅野家下屋敷で亡くなる。
赤坂氷川神社境内にあった。神社の境内に「史跡 浅野土佐守邸跡」の碑がある。


*松の廊下事件のあと
伝奏屋敷(千代田区丸の内1-4・日本工業倶楽部ビル)につめていた藩士から「松の廊下刃傷事件」の報がはいり、午後2時ごろ第一回目の使者がこの上屋敷から赤穂にむかった。
一行は6日目の19日に赤穂についた。そのあと内匠頭切腹、浅野家取り潰しの報が届き第2回目の使者は深夜になって赤穂にむかった。翌15日浅野大学は閉門、鉄砲州屋敷は16日には引き払い、17日には幕府の役人に引き渡された。赤坂も17日、蔵屋敷は22日に引渡し一週間で江戸屋敷はことごとくなくなった。
伝奏屋敷にいたっては刃傷のあった当日は馳走役であったため、浅野家が用意した家具調度、食器など多く、道三橋の下につないだ小舟に積み込み午後2時には下総佐倉藩戸田能登守に引き継いだ。



浅野大学蟄居跡   中央区銀座4-12  歌舞伎座


浅野大学は内匠頭が家督を継ぐときに、新田3千石を分けられて旗本になっている。兄の罪で閉門になっているが、もし許されれば旗本の身分にもどれる。いったん分家をしたのであるから内匠頭の名跡は残らない。大石は名跡相続を願ったのか、名跡をたてることを目的とする手紙は残っている。大石の手紙によると「大学様が赦免になって吉良氏が勤役して大学様と並んでおかれたのでは、大学様がいかほどよくなっても人前があがらない。吉良父子の出勤もないようにしなければ大学様も人交わりができない」(江戸の祐海にあてた手紙)
吉良父子を罰すれば目的が達せられるがそれはむつかしい。

*仇討ちまでの藩士
大学の処置が決まるまで仇討ちにはやる藩士を抑えてきた大石であったが、15年7月に大学は閉門をとかれ知行3千石は召し上げられて、広島浅野家お預かりのなった。ここで浅野家再興の望みは消え、藩士を抑える口実はなくなった。その間脱落者もふえ、蓄えもなく扶持もなく生きていくことはむつかしい。心中するもの、他藩にいる家族への災いを考え苦衷の末仇討ちが待ちきれず切腹してしまうものもいた。
後にこのふたつの史実をヒントに「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平の話が創作された。

*討ち入り後の浅野大学
綱吉の死後に、大赦があって、浅野大学長広も赦され、宝永7(1710)年に旗本と
なって安房で5百石の知行を与えられた。

泉岳寺駅
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泉岳寺   港区高輪2

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撮影2014年12月13日

曹洞宗の寺で曹洞宗江戸三大寺のひとつといわれる。徳川家康が慶長17年外桜田に創建したが、寛永の大火で消失。寛永18年現在地に再建された。

浅野家の菩提寺である。山門脇に大石内蔵介の銅像、墓に通じる道には大石主税が切腹した時に屋敷にあった梅、内匠頭が切腹した時に血がとんだ梅と石、吉良上野介の首を洗った首洗いの井戸がある。奥に内匠頭、揺泉院、大石ら四十七士の墓がある。
 12月14日は毎年義士祭が催され縁日や、、法要が営まれる。

茶屋には切腹最中も売られていた。おいしい。


参考 「日本の歴史 元禄時代 」中央公論社 「東京との歴史散歩」東京歴史研究会
   HP 「板東千年王国」「忠臣蔵の散歩道」「泉岳寺」               
by gannyan1953 | 2011-06-08 14:26 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)
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