歴史と素適なおつきあい 番外編 2011.11.13
秋谷海岸の夕日
逗子大師延命寺逗子3-1-17
天平時代に行基によって作られた延命地蔵尊を安置したことによる創建である。
そして弘法大師が立ち寄り延命地蔵尊の逗子を設立され地名の逗子の由来となる。
道香主従の墓三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の東相模の武将、小大名。通常、出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。その子道香主従の墓である。
道寸は北条早雲と敵対し滅ぼされて平安時代から続いた三浦氏最後の当主である。
早雲は永正9年(1512)古河公方家と山内上杉家の内紛に乗じて扇谷上杉家方の道寸の岡崎城(平塚)を落城させた。三浦道寸、道香父子は住吉城(逗子小坪)に籠るがここも落城、新井城(油壷)三崎城に立てこもった。早雲は玉縄城を築き糧を断つ攻めを行った。そして永正13年(1516)新井城も落城した。
道香主従はこの寺で自害した。
六代御前最後之故址 六代の墓
六代は「平高清」といい、平維盛の子である。父維盛は義仲の攻勢で都落ちしたときに、都を離れるのは可哀想だと思い、妻子を都に残した。
六代は、母とともに大覚寺の北に潜伏していたが、平家が滅亡してから、北条時政の捜索で捕えられてしまった。
文覚上人の計らいで頼朝に助命された。頼朝は自分の境遇と似た立場であると同情したかもしれない。
六代は文覚庇護のもと、僧になり、母は頼朝の信頼する公家に再嫁した。
ところが、頼朝が亡くなり、文覚が土御門通親襲撃計画を企てたとして隠岐国に流罪に処される。(三左衛門事件)この事件の連座で、六代は捕えられ、田越川のほとりで処刑された。 享年26歳という。
六代が僧になったとき、六代は「僧になって翻意はない」と頼朝に挨拶にでかけている。
頼朝は、整った顔立ちとその聡明さに気づき、危険視したともいわれている。
その後、碑には「付近の住民が、夜毎に平家公達の処刑の夢を見て、きっとこれは、六代及平家の供養を絶った祟りではないかと、おののき、逗子佛教会の協力を得て、当刑場の露と消えた平家一門の大法要を行なった」とある。
六代の死で、清盛の嫡流は途絶えた。