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歴史と素適なおつきあい

富岡製糸場 岩宿遺跡

歴史と素適なおつきあい 一泊旅行              2012年5月10・11日

群馬県を訪ねて

集合:10:45 高崎駅改札口

1日目 富岡製糸場 ・ 達磨寺(夕方高崎からタクシー移動)

宿泊 : 高崎市 「ホテル123高崎 」 夕食 : 居酒屋「ひろき」

2日目 岩宿遺跡 ・ 岩宿博物館 ・ 群馬県立歴史博物館で、 解散
     それぞれ博物館からのバスでJRもよりの駅にむかう。
     

富岡製糸場

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富岡製糸場 岩宿遺跡_b0228416_11263243.jpg



製糸場の概要

我が国最初の官営模範製糸場。

最主力輸出品である生糸の品質改良と増産をはかるため明治3年(1870)に器械製糸場設立の方針を固めた。

フランス人技師ブリュナを雇い、初代所長尾高淳忠や、渋沢栄一(尾高の妹が渋沢の妻)らの努力で群馬県富岡に工場が完成した。

明治5年(1872)に操業、蒸気エンジン300台を設置、当時では世界最新の器械だった。

工女は松代藩士の娘をはじめ士族の娘が多かった。

明治26年(1893)優良な生糸を生産したが、採算がとれず、三井家に払い下げられた。

その後明治35年(1902)¥に片倉製糸として営業を続けたが、昭和62年(1987)操業を停止した。


製糸場を建設した背景



安政5年(1858)アメリカの圧力にやむを得ず開国したが、綿糸、毛糸、毛織物が大量に輸入された。

日本から輸出できるものはお茶と生糸で、このころヨーロッパで蚕の病気が蔓延し、日本の生糸が重宝された。

この蚕の病気を解決したのはパスツールである。

しかし、日本の生糸は評価されず、生糸の太さの均一を求められていた。

それが器械製糸導入となった。


生糸の輸送


高崎線、上信鉄道ができる前にどうしていたのか。

舟運を使用した。倉賀野から利根川へ、関宿で江戸川に入って東京湾を横浜へというルートである。

しかし帰りの舟を川上にひっぱることが大変だった。


製糸場の役割


渋沢栄一は当初から富岡製糸場建設にかかわってきた。

多くの企業、を設立、経営を行ったが、のちに

「富岡は国営で、採算無視できたから、成功した。

日本の製糸に貢献したのは富岡に刺激されて近代化を目指した民間の人々である」といった。

富岡を模範した工場は全国で26におよび、富岡で器械製糸を学んだ工女たちが、全国の工場に行って技術を伝えた。

作られた工場が9工場と最も多かったのが長野県諏訪湖近辺の工場である。

第二次大戦後、製糸業から精密機械工業に転身し、現在の工場の基となった。


世界遺産への登録


建物は、平成19年に世界遺産暫定一覧表に選定され、 審査待ちである。



富岡製糸場エピソード


①工女募集に苦労したがあるデマのせいだという。

「工場に行くと外国人に血を吸われる」

「蒸気で顔が青くなる」

「腰掛に針金が引いてあって油を搾られる」


という噂がとんだ。

これは日ごろフランス人がワインを飲むかことからの誤解であった。

富岡製糸場のブリューナの家の地下にはワイン蔵があった。


② 「富岡日記」の著作者・横田英の家は優秀な家系であった。

英の兄弟は10人ほどいたが、大審理長・
現在の最高裁判所長官にあたる役職、

鉄道大臣、貴族院議員、朝鮮の地方院長、そして甥には最高裁判所長官、一ツ橋大学教授などである。

松代藩士が明治にこれだけ出世した例は稀有である。

英は60歳をすぎて「富岡日記」を書いた。

明治初期の町の様子、勤務状況などよくわかり面白い。



岩宿遺跡 群馬県みどり市笠懸町阿佐美1946-1

富岡製糸場 岩宿遺跡_b0228416_1135238.jpg

尖頭器を発見した場所

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岩宿ドーム 内部にはいると保存された地層や説明映像が見られる

富岡製糸場 岩宿遺跡_b0228416_1144936.jpg

遺跡の説明板

岩宿遺跡の発見は縄文時代以前に、人は住んでいなかったと思われていた学説をくつがえすものであった。

戦前までは発掘をしても赤土・関東ローム層が出てくると、

それが自然のままの地盤(地山)と考えられていたため、それ以上掘られることはなかった。

それまでは縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が土器を使い、

日本最初の人間であると思われていた。

(明石原人発見が昭和6年にあったが、信憑性がないと研究されず、

東京大空襲で発見された腰骨は焼けてしまった。

今では縄文時代の人骨といわれているが、わからないままである。)

ところが、岩宿遺跡から土器を含まない地層に石槍を発見したことから、

関東ローム層が堆積する以前に人が住んでいたのではないかと証明する人があらわれた。

1946年切通しの道沿いに露出した赤土から石器を発見したのが

相沢忠洋(あいざわ ただひろ・1926年~1989年)である。


相沢氏はそれから何度もその切通しの崖を調査した。石器は見つかるのだが、土器は出てこない。

やがて赤土・関東ローム層から、黒曜石の石槍がみつかり、縄文以前の時代があったことを確信した。

相沢は、納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていた。

考古学者ではない相沢は、明治大学の学者に槍先形尖頭器を見せ、

人工のものであると確信され、岩宿発掘が行われることになる。

相沢忠洋の生い立ち

幼いころ鎌倉で過ごしていた。

父は笛をたしなむ芸人で、収入が少なく、巡業で不在が多かった。

その父にかわって母が生活を支えていたが、妹が風邪をこじらせて亡くなってしまった。

これを機に両親の仲が悪くなり、離婚話が持ち上がっていた。

このころ寂しかった相沢は、自宅裏の土地から土器片など掘り起し、

古代人が家族で身を寄せ合って暮らす暖かさを感じ、古代に夢を馳せるようになった。

母がいなくなってから、兄弟はバラバラによその家にもらわれていき、

相沢は鎌倉の杉本寺に預けられた。

ところが、長くいられず浅草の履物屋に奉公することになった。

そこでは商売人には学問はいらないと本を読むことも禁止されたため、

ひと月に二度の休みは、帝室博物館(国立博物館)に熱心に通った。

あまりに熱心だったので、守衛の数野さんと親しくなり、いっしょに小豆沢遺跡を発掘したりした。

戦争になると海軍に志願し駆逐艦に乗っていた。

戦後の発見


戦後、考古学を自分で学び遺物がたくさん出土する赤城山麓に

「赤城山麓における縄文文化早期初頭遺跡の基礎資料の集成」を

目的としてたったひとりの東毛考古学研究所を昭和22年に設立した。

そして切通しで石器、のちに大発見となる完形の槍先形尖頭器を見つけた。


芹沢との出会い

槍先形尖頭器を持って、東京の学者江坂輝弥の自宅を訪ねたおり、明治大学院生・芹沢長介と出会った。


意気投合した芹沢が、明治大学助教授杉原庄介に相沢を紹介した。

そして岩宿遺跡発掘の運びとなる。

芹沢長介は静岡の染色工芸家の芹沢銈介(けいすけ)の息子である。

発見の報道後、芹沢長介は、杉原庄介と袂を分かち東北大学に移った。

相沢の発見を相手にしなかった学者が多くいたなか、耳を貸し、手を貸したのが芹沢だった。

相沢は芹沢に会うために交通費節約のためといい、桐生から東京まで、

120キロの道のりを自転車で通った。

岩宿遺跡の意義

発掘で明らかになったことは、関東ローム層の上にある黒土から土器が出て、

下のローム層からは石器だけがでる。

明らかに石器は縄文時代よりも前の時代であるということが証明された。
 
少なくとも約3万年前の石器であることがわかった。

発見の報道


当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。

明治大学編纂の発掘報告書でも、

相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、

代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。

芹沢は発表原稿に相沢の功績がないことを抗議し訂正を求めた。

そこで、「地元のアマチュア考古学者が発見した石器から杉原助教授が発見した」と訂正された。

さらに地元でも相沢忠洋の功績を売名、詐欺師などの、事実ではない誹謗中傷があった。

学者ではない行商人風情がなんだという考えがこのころにはまだ強かったと思われる。


その後の岩宿

その後岩宿遺跡では、発見された時代よりも古い石器を求めて発掘調査が行われた。

その結果、「珪岩製旧石器」が発見されたが、その資料の評価については、

問題視する意見も多く、現在も論争が続いている。

1979年、岩宿遺跡は、重要な遺跡として国指定の史跡となり、保存と整備が進められた。

旧石器時代

一時は100万年前に遡るのではといわれた旧石器時代も、

結局東北の遺跡の藤村新一の旧石器捏造事件で、

旧石器時代が何年前に遡れるかということが、はっきりしないままになっている。

現在のところ確実なことは、3万年前から10万年前までといわれている。

日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。

日本の土壌は酸性が強いので人骨が残りにくい土壌であるという。

しかし、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は

野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、

そうした動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。

つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。

この期の遺跡の調査例は少ない。

石器や生活道具類が発見される程度である。

参考:相沢忠洋記念館・岩宿博物館・ウィキぺディア 

        
杉原庄介と芹沢長介の論争 

1987年6月16日毎日新聞記事から

東京都稲城市の多摩ニュータウン建設予定地の

埋蔵文化財を発掘調査している都教委と都埋蔵文化財センターは十五日、

「南関東ローム層の中から初めて前期旧石器時代の石器群を発見した」と発表した。

少なくとも三万年以上前の前期旧石器とみられる石器は東北や九州でも発掘されているが、

考古学界には「前期」の石器は日本にはないとする説も根強く。大論争となっていた。


地層の年代に定説がある南関東ローム層での発見で、

考古学者間の永年の論争は事実上、終止符が打たれた。
 
この遺跡は、標高百三十メートルの丘陵尾根にある「多摩ニュータウンNO471―B遺跡」。

発見された石器は、

流紋岩製の尖頭器(ポイント)掻(そう)器(スクレイパー)、石核(コア)など九点と、

砂岩製の敲(たたき)石(ハンマー)一点の計十点。

地表から約二・五メートル掘り下げた東京軽石層(厚さ十五センチ)の

直上のローム層中にほぼ一列に並んでいた。

 東京軽石層は、約四万九千年前後の箱根地方の

火山活動で噴出した火山礫(れき)灰がたい積してできた。

東京周辺では、多摩丘陵、狭山丘陵など古い地層だけに残っており、

出土遺物の年代を決める上で、「決定的な基準」となる。

同層の直上から発見されたことで、

今回の石器群は「古くて五万年前、新しくても三万年以上前に使われていたのは

確実」と都教委は説明している。

 人類は、猿人(オーストラロピテクスなど)―原人(ホモ・エレクトゥス)

人(ホモ・ネアンデルターレンシス)―新人(ホモ・サピエンス)の

進化をたどってきたとされるが、

今回発見の石器を使っていたのは旧人たち

多摩丘陵の先住民たちは、流紋岩製のヤリのホ先や皮はぎ器を使い、

落とし穴やワナで、オオツノシカやナウマンゾウなどを狩猟していたと見られる。

都教委は

「黒曜石の交易が広く行われていた旧石器時代後期の新人たちとは、異質の文化があった」

と、想定している。

 考古学界を二分した論争にようやく決着がついた。

「前期旧石器はある」と主張し続けてきた東北大名誉教授の芹沢長介さん(六七)=仙台市在住=

も発掘に立ち会い、前期旧石器を自分の目で確かめた。

 発掘現場の広さは約三百平方メートル。

芹沢さんは教え子からの連絡で今月八日、同ニュータウンに駆けつけた。

長さ約五センチの土まみれの尖頭器を手にした芹沢さんは

「間違いない。旧人の文化のあかしです」と喜んだ。


 都教委は今回の現場を、遺跡とは見なさず、

未調査のまま今月下旬、建築工事に引き渡す予定だった。

しかし、芹沢門下の「石器文化懇話会」のメンバーが調査を都教委に迫り、歴史的発見につながった。

 日本の旧石器研究は昭和二十四年、相沢忠洋氏が

群馬県の「岩宿遺跡」(後期旧石器)を発見したのが始まり。

旧石器文化はどの時代までさかのぼれるか。

杉原荘介・明治大学教授(故人)は、

昭和三十年代に青森県・金木遺跡などの調査をもとに、

「日本の旧石器文化は三万年前が上限。旧人による前期旧石器時代は存在しない」と発表した。

これに対し、芹沢氏は三十九年に、

大分県・早水(そうず)台遺跡出土の石器を「前期旧石器文化の証拠」

と主張し論争を巻き起こした。


 杉原説を支持する一部の学者は

「地層の年代が確立している南関東地方で発見されなければ、信頼できない」

と反論してきた。

、「南関東ローム層の中から初めて前期旧石器時代の石器群を発見した」

というニュースは芹沢説を証明することになった。


 二十三年にわたる論争の終結に、

杉原氏の後継者の戸沢充則・明大教授(五四)=考古学=は

「杉原仮説が敗れたのは確か。しかし、先生は、地層解釈がしっかりしている

関東ロームでの発見に、十分納得され、あの世で喜んでおられるはず」


と語った。(杉原庄介記念室より)

しかし

(現在多摩ニュータウン471B遺跡発見の前期旧石器については捏造であるという疑惑があり、東京都からも灰色であるという報告がなされています。なお、同遺跡の発掘調査報告書は刊行されておりません。)


その後、このようなことが付け加えられており、考古学のむつかしさとねつ造疑惑
の騒ぎで素人にはわからない話になってしまった

2015年 石の虚塔を読んだ。
ねつ造とは何かを考えたがロマンに浸りすぎた結果だったのだろうか。

by gannyan1953 | 2012-04-06 23:23 | 群馬県の歴史散歩 | Comments(0)
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by gannyan1953
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