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歴史と素適なおつきあい

将門と鉄

歴史と素適なおつきあい      2009・7・10(金)  座学
将門と鉄_b0228416_17230861.jpg
平安時代中期、東国では都から派遣された国司たちの暴政が続いていた。民衆たちは大飢饉や重税で飢餓や貧困にあえぎ、そこで立ち上がったのが平将門。
将門は民衆を救うため武装し、各地の国司を次々と追放、東国独立政権を樹立、八幡大菩薩を象徴とし、菅原道真の怨霊を召還して朝廷に挑んだ。
朝廷も前代未聞の全国寺社祈祷命令、征伐した者は貴族にするという秘策で将門政権打倒に躍起になる。たった数ヶ月の東国政権であったが、各地に残る将門史跡、伝説が、多くの人々に畏敬、信仰されていることを物語る。

将門年表     (その時歴史が動いたより)

901(延喜元)1月①菅原道真、太宰府に左遷
903(延喜3)2月道真死去 このころ将門生まれる
917(延喜17)②将門の父(良持)死去
918(延喜18)将門、都の藤忠平に仕える
930(延長8)将門帰郷、醍醐天皇から朱雀天皇即位
935(承平5)2月将門、源護を襲撃・叔父国香を敗死させる
       8月蚕飼川の戦いで妙見菩薩が将門を助ける
      12月源護、将門を告訴
936(承平6)7月将門、下野で勝ち戦
       10月源護の告訴により上京する
937(承平7)8月源護の告訴
         藤原忠平、太政大臣となる
       11月③富士斜面よち噴火、溶岩流が
        山中湖をせき止める 
938(承平8)2月将門、国香の嫡男貞盛を 信濃に追撃 
938(天慶元)5月4月地震あり。占いで不吉とあり、改元した
939(天慶2)6月叔父の平良兼が将門の反撃に敗走、病死
       夏④藤原玄明、将門の元へ逃げ込む
       11月⑤将門挙兵
       12月11日将門、下野国府を襲う
       15日 将門、上野国府を襲う
       12月26日藤原純友の乱起こる
941(天慶3)1月朝廷、「太政官府」発令、将門追討の命
       下旬将門、兵を田起こしのため帰す
       2月14日貞盛、藤原秀郷連合して岩井に進撃
       ⑦午後3時 激突  夕刻 将門死去
       4か月後に将門記を作成―作者不明
941(天慶4)6月藤原純友死去

①菅原道真との関係
下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう)だった道真の三男景行は常陸介になった。
父の遺骨とともに常陸に赴任、羽鳥天神塚を築いた。平良兼が保護し、将門たちとは身近な関係であった。後に新皇宣言の折、道真が登場する。


②亡父の遺産騒動の理由
890年ころ桓武天皇の孫高望王が上総介として赴任してきた。その子が良持で、将門の父である。将門は桓武天皇から五代目にあたる。母は犬飼春枝の娘。
他の兄弟は、源護の娘と結婚しているが、良持だけが源氏とつながらないことになる。
将門が京にのぼり藤原忠平に仕えて理由はわからないが、故郷に帰る。
*父の所領をめぐり、伯父良兼ともめる(今昔物語)。
*良兼の娘を妻にしたことで、結婚に反対する舅の良兼ともめる。
*源護が平真樹という人物の所領を奪おうとして困った真樹が将門に助けを乞うた。
真樹の領地は桑、麻の栽培がさかんで良質の絹がとれた。
以上のような理由で親戚との小競り合いが戦いのはじまりといわれる。



③民衆の苦悩
背景として国司の重税、富士山噴火により作物がとれなくなっても同じような課税で農民が逃亡し疲弊していくのをみて、民衆のための政治をめざした。


④内輪争いから他人の仲裁
武蔵権守興世王(おきよ)・介源経基(清和源氏の祖)と足立郡司武蔵武芝の争いの仲介をして失敗する。 興世王&経基×武芝 → 興世王&武芝×経基という関係になり、興世王と武芝が仲間に加わることになる。次に頼ってきたのが国司に訴えられている藤原玄明(はるあき)で、将門は罪人を匿うことになる。


⑤乱
将門の本来の目的である国香の子、平貞盛(のちに伊勢平氏になり平清盛の先祖)との決着がつかず、なぜか結果的に国の機関を襲い将門本人が反逆者となってしまった。



⑥将門を助ける者、離れていく者
ここでは妙見菩薩ではなく、菅原道真の霊魂が八幡大菩薩を招き「新皇」の号を授ける。


妙見:泰山府君と同一で、北極星を神格化したものである。泰山府君は寿命を司る神である。妙見信仰はもともと渡来系の宗教で金属神である。将門末裔を名乗る相馬藩の家紋は九曜紋だが、中心は北極星、周りは北斗七星+輔星(ほせい)で妙見神を信奉する。
輔星も寿命を司る星である。


八幡:北極星+北斗七星で金属神である。原信仰は対馬でヤハタはシャーマンのひれ(旗)が神の依り代となったからともいわれる。宇佐氏が信奉し現在では祭神は応神天皇である。
星は鉱山を育成する。(鉄と神より)


新皇を名乗った将門にあいそをつかした妙見神が去り八幡神に移行したことになる。妙見神はどこに行ったかというと伯父の平良文のもとに行く。村岡五郎といわれ、将門とは同盟関係にあったといわれる。子孫は千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、鎌倉氏の祖となる。


将門の除目による国司

下野守: 平将頼 (将門の弟)

上野守: 多治経明(常羽御厩の別当)

常陸介: 藤原玄茂(常陸掾)

上総介: 興世王 (武蔵守)

安房守: 文屋好立(上兵)

相模守: 平将文 (将門の弟)

伊豆守: 平将武 (将門の弟)

下総守: 平将為 (将門の弟)


*国司とは地方に中央から派遣された官吏、四等官で、守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)をいう。武蔵守はなぜか選任されていない。

⑦ 死

岩井にて平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)により討ち死。こめかみに矢を射られた。
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太の 謀りごとにて」
将門の笑い:言葉のシャレなのか、謀られたことで将門の正当性を喜んだのか?!
平安京東の市に晒される。その場所に神田神宮がある。
現在、神田明神と言う名称になっている。




将門と鉄


1 官牧と尾崎前山製鉄遺跡

昭和53年に発掘された、9世紀の製鉄遺跡で、将門が戦った地域のほぼ真ん中に位置する。将門の武具、馬に使用する鉄製品(あぶみ・くつわ)など供給した、たたら場跡とみられる。この地域は、官牧「大結牧」の比定地で、軍馬の飼育をした「栗栖院常羽御厩」(くるすいんいくはのみまや)があり、将門の領地であった。砂鉄はおそらく鬼怒川あたりから採取し、近くのくぬぎで炭をつくり自然風でたたらを行ったといわれる。
出雲のたたらと違う点は、出雲の砂鉄はチタンを多く含まない。ここの砂鉄は多く含む。鉄の還元でチタンをどう除去するかでよしあしが決まるので、チタンを効率よく除去するにはあまり高温でない、低温の野だたらの方がうまくいくらしい。小さい箱型製鉄炉をたくさん作り土地にあったたたらが行われたようである。隣接して馬場があり、今でも野犬から守ったり、馬が逃げないようにした土塁跡が残っている。(古代日本の鉄と社会・東工大)
親戚との小競り合いから始まった戦いの理由のひとつに領地の侵害がある。このたたら場が、国香は欲しかったのではないか。将門が相続した土地は水田には適さない湿地帯で、軍馬の放牧場として御牧が二つあったといわれる。製鉄場があったのは大結牧の近くである。


2 武蔵守が選任されていない理由

なぜか、武蔵守が任命されていない。武蔵の北秩父が同盟者、叔父良文の領地だからか?!
秩父は銅、金、銀、鉄などの産地である。良文の息子忠頼に将門の娘が嫁いだといわれる。


3 将門と武器と俘囚の乱

将門の武器は毛抜形太刀といわれ柄の部分が毛抜のような透かし彫りになり、物を切る衝撃から手を守るために透かしてある。蕨手刀という蝦夷の刀は彎曲し、騎馬で戦うには使いやすいものであった。柄が蕨のような形をしているのでそうよばれている。日本刀の原型といわれ、北上川流域の餅鉄を原料に、舞草、月山、宝寿という鍛冶集団があった。この蕨手刀からより日本刀に近づいたものが毛抜形太刀である。
将門が強かったといわれる理由には良い武器を製造できたことがあげられる。強すぎるので鉄身とまで言われた。


俘囚とは、7世紀から9世紀にかけ断続的にあった大和と蝦夷との戦いの末、大和に服属した者をいう。この俘囚たちは全国に移住させられその生活は狩猟や武芸訓練であった。9世紀の国内治安維持には主要な軍事力であった。俘囚の中から長を選び俘囚社会を治めさせた。9世紀ころから俘囚らによる改善要求の乱が多く起こり、将門の父良持は鎮守府将軍として出羽や陸奥に赴いたときこの蕨手刀の威力を認識したことと思う。

羽黒山五重塔は将門創建といわれる。鎮守府将軍である父といっしょに出羽に赴いたのだろうか?!出羽三山の出羽神社にあり、古くは湯殿山瀧水寺(りゅうすいじ)の五重塔といわれ周囲には多くの寺院があった。
出羽三山も金属神である。のちに藤原秀郷の末、武藤氏が出羽三山の社家となる。



4 星信仰と将門の母

将門の母は犬飼春枝の娘で、犬飼氏は茨城県北相馬郡に広く分布する氏族である。それで将門は相馬小次郎と名乗っていた。犬飼氏は戸隠神社の宮司、犬を連れている高野明神、狩場明に繋がる山師で、蝦夷ともいわれる。金属と関係する氏族である。





   ☯  ♘  ☯   ☯  ♘ 


将門魔方陣 北斗七星の形になる将門史跡(加門七海)



       水稲荷神社
        6☆    筑土八幡神社            鳥越神社
鎧神社             5 ☆         神田明神   1☆
   7☆                         4☆
        鬼王神社
          8☆                  将門首塚
                     江戸城   3☆      兜神社
                                 2☆     



1 鳥越神社(台東区鳥越2-4-1) 
                   
  将門の首が神社を飛び越えた。社紋が「九曜紋」(千葉氏)で、宮司も鏑木氏で千葉氏の系統である。徳川家光の時代に朝敵将門の罪が許されている。江戸の鬼門除けか!?


2 兜神社(中央区日本橋兜町)

  秀郷が首と兜をいっしょに運んできて兜はここで埋めて塚にした。義家の戦勝祈願ともいわれる。


3 将門首塚(千代田区大手町1-1)


京都で晒された首がこの地に落ちて埋められた。
のち蓋をされた石が鳴動したりして人々を怖れさせた。時宗の僧が法名「蓮阿弥陀仏」を与え卒塔婆をたてて供養した。
江戸時代、酒井雅楽頭、一橋家に守られていた。明治になって塚は残されたが、関東大震災で樹木は焼け塚も壊れた。古墳の調査をしたところすでに盗掘されており、塚をなくして大蔵省の仮庁舎を建てた。それから足を悪くするものが続出、慰霊祭を行い今度は戦災にあう。そしてGHQが駐車場にしようとブルドーザーで工事を始めたら、日本人の運転手が横転して死亡、近くの保存会が陳情して工事を中止した。
  今でも怖れられ、塚にお尻をむけてはいけないなど、近くのオフィスビルからの献花が絶えない。


4 神田明神(千代田区外神田2-16-2)

  正式名称は神田神社。創建は天平2年730年。首塚のあった場所柴崎(大手町)に大巳貴命(オオナムチノミコト)が鎮座した。もともと安房忌部氏の海民が祀った神ともいわれる。
その後 将門の首塚のあたりで天変地異が起こり将門を供養した。戦国時代に北条氏、大田道灌らに崇敬された。江戸幕府開府に伴い江戸城鬼門の地として柴崎から現在の地に遷座した。明治になって朝敵将門といわれ、祭神からはずされたが、昭和59年に3番目の祭神としてもどった。
ここの名物柴崎納豆はもともとは金含豆(こんがんず)といった。柴崎に「柴崎道場」とよばれる時宗の僧の修行場があり、そこの修行僧の大切な食物であった。その納豆を天海が家康に不老長寿の秘薬として献上した。家康の時代に柴崎納豆として有名になる過程で、将門伝説も民衆に広まり、歌舞伎にも登場するようになったといわれる。

  
5 筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町2-1)

嵯峨天皇(809~823)のころ信仰心の篤い老人が八幡神のお告げをうけ祀ったといわれる。850年ころ慈覚大師が祠をたて、江戸期にもともと大手町首塚にあった観音堂をはじめとする田安明神が隣にやってきた。それが筑土明神といわれ戦災後明神は九段下に移り、筑土神社になった。筑土神社は将門を祭神としている。

6 水稲荷神社(新宿区西早稲田3-5-43)

  藤原秀郷が富塚稲荷として勧請した。江戸期に水が湧き出し水稲荷となった。将門と敵対した藤原秀郷勧請の神社であるが、北斗七星の形になるには鬼王神社の位置より水稲荷の位置の方がきれいな形になる。北斗七星を分断して将門の霊を鎮めたか?!


7 鎧神社(新宿区北新宿3-16-18)

  醍醐天皇(898~928)日本武命(ヤマトタケル)東征の折、鎧を埋めたといわれる。一説に藤原秀忠が病になり、将門の鎧をここに埋め祠を建てたら病が治ったといわれる。


8 鬼王神社(新宿区歌舞伎町2-17-5)


  神社に将門のことが忘れられているのか隠されているのか、史料はない。将門の幼名は「外都鬼王・鬼王丸」である。全国にひとつしかないここ鬼王神社が関係しているのではないかと思われている。平将門古蹟考(明治40年織田完之著)には「将門の霊を祀り幼名外都鬼王を以って社号とす」とある。



参考文献 : 平将門の乱(川尻秋生)その時歴史が動いた(NHK)日本の歴史(中央公論)千葉県の歴史・茨城県の歴史・埼玉県の歴史(山川出版)・平将門(北島茂夫)平将門伝説ハンドブック・将門記(村上春樹)・中央構造帯(内田康夫)・大江戸魔方陣・平将門魔方陣・東京魔方陣(加門七海)
参考HP : 江戸東京ものがたり・闇の日本史・平将門の乱と関連伝承・平将門と鉄王伝承・東京都神社庁・ウイキペディア                   

by gannyan1953 | 2012-11-11 18:37 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)
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