上郷深田製鉄遺跡 アラハバキ神
歴史と素敵なおつきあい 2008・5・9(金)
鼬川流域歴史散歩(いたちがわ) 日時: 5月9日(金曜日) 9:50 昼食:外食(ファーストフード系)または、河原でお弁当 集合: 根岸線「港南台」駅改札口集合・改札はひとつです 港南台駅~深田製鉄遺跡~上郷猿田遺跡と上郷深田製鉄遺跡の案内板~思金神社~光明寺(親鸞、松下禅尼ゆかり)~証菩提寺(佐奈田与一ゆかり)~昼食~(公田(くでん)町上﨟塚)~アラハバキ神~本郷台駅 「人面把手(とって)」公田町遺跡から発掘・神奈川県立歴史博物館蔵 栄区の歴史 栄区に人が住むようになったのは、縄文前期からで、 上郷猿田遺跡では5000年前といわれる。 都筑区と違うことは、縄文海進のころ海抜20メートルくらいまでは海だったが、 貝塚がみつからないことである。 きっと、がけ状で砂浜が少なかったためと思われる。 4500年前、縄文中期のもので公田遺跡から「人面把手(とって)」が発掘された。 関東地方最大のもので、顔に入れ墨がみられる。 海の水がひき、弥生時代にはいると湿田、水田、畑がつくられ金属の農機具が使用されるようになる。 古墳時代(400年~800年)になり、栄区内では古墳はみつかっていないが、 上﨟塚あたりがそうかもしれない。 7世紀から9世紀前半にかけての200年間上郷深田地区で操業されたと思われる 製鉄遺跡が発見された。 大陸製法の須恵器もあることから渡来系の鍛冶集団と思われる。 平安時代(800年~1200年)、尺度(さかど)郷から、 山之内庄、本郷と呼ばれるようになった。 源家の山内首藤が荘園主だった。平安後期になると、 大庭、梶原、長尾、飯田氏などが武士団を形成した。 イタチ川流域は鎌倉の出入り口になり、出(いで)立(たち)川といわれイタチに転化したと思われる。 鎌倉開府初期、東北への交通上の重要拠点だった。 この地域に「いざ鎌倉へ」の中の道、下の道が通っている。 鍛冶ヶ谷は刀工集団による武器製造工場があったらしい。 公田のアラハバキ神は「荒伯耆」と記され伯耆国の鍛冶であるが、 伯耆鍛冶の祖は東北の舞(も)草(くさ)ともいわれている。 領主山内首藤は、山内庄を主にしていたが、奥州、伯耆、備後などにも領地があり、 移住させられた伯耆の鍛冶集団がアラハバキ神を祀ったのではないか。 兼好法師は鎌倉には二度訪れており、現在の金沢区にある庵に滞在していた。 「いかにわが たちにしひより ちりのきて かぜにねやを はらわざるらん」と詠んだといわれる。 室町時代、足利尊氏の弟直良がうけつぎ政所職の高師重(師直の父)が治めた。 小田原北条の時代になると、玉縄城、長尾台(大船)に砦を築造した。 江戸時代、大半は天領となったが、一部川越藩の領地となる。比較的安定し豊かな土地であった。 明治、本郷村となって関東大震災では家屋の8割が全半壊した。 昭和、戦前は、このあたりは海軍が買い上げ航空燃料の実験、製造がおこなわれた。 戦後は大船PXの倉庫になったが、昭和42年全面返還され区役所、学校、市営住宅など建設された。 昭和48年に根岸線が開通し、栄区が誕生した。 深田製鉄遺跡 昭和61年の発掘調査により山手学院南側に 大規模な古代製鉄跡があることがわかった。 時間の制約もあり、調査は途中で埋め戻してしまったが、 ほとんどが舞岡上郷線の道路の下になった。 規模は鉄炉が14基、銅炉1基、砂鉄置場、住居などがあった。 発掘された鉄滓(かなくそ)などが、横浜市歴史博物館に展示されている。 このあたりの堆積層には大量の砂鉄が含まれており、ここは砂鉄を精錬したところである。 関東の精錬遺跡唯一の遺跡なので、とても残念なことである。 静かな自然の谷戸が残っているが、瀬上の森周辺は、東急による開発が予定されており、 手入れができず、荒れてきているが、環境保全の運動がおこっている。 上郷猿田遺跡 昭和58年、現在の上郷高校のあるところに縄文から奈良時代の遺跡がみつかった。 高校南に製鉄遺跡とともに案内板がある。 横堰 上郷猿田遺跡近くに土のトンネルがあり、貝の化石がみられる。 思金神社 オモイカネ神とは古事記では八(や)意思(ごころおもい)金(かね)大神(おおかみ)で、 智恵の神である。 天の岩戸、天孫降臨に活躍した。 天の岩戸では八百万の神にアマテラスを誘いだす知恵を授け、 蘆原中国(あしはらなかつくに)平定では神の選定、天孫降臨ではニニギノミコトに随行したという。 昭和3年に白山神社の拝殿として創建された。 光明寺 梅沢山と号し京都西本願寺の末寺。 浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。 光明寺の由緒によると、聖徳太子が寵愛した秦川勝が かつて今の城山橋北側にあった「白山」あたりの梅の林で夜光を見、 それが聖徳太子の16歳の像であった。 そこで光明寺の前身である梅沢山仙福寺を建てたという。 秦氏は渡来人で、京都太秦を本拠に相模にも進出し、秦野の地名を残している。 この渡来系の移住者がこの鼬川流域の横穴古墳群をつくったと思われる。 寺はのちに親鸞上人の学徳にうたれ浄土真宗に改宗した。 執権北条時頼の母、松下禅尼が隠居したと伝えられ、 障子を張り替えず手直しをして時頼に倹約の心を教えた逸話が残る。 その話は兼好法師の「徒然草」にある。 鎌倉幕府滅亡の際火災にあい、現在地に移った。 小田原北条氏からは、浄土真宗は一揆が多かったため、忌避されており、寺は弾圧された。 証菩提寺 治承4年、石橋山で戦死した佐奈田与一を弔うために、源頼朝創建と伝えられる。 かつては広大な敷地だった。 鎌倉の鬼門にあたり山内本郷を守るためといわれる。 平安期の定朝流による阿弥陀三尊像、は国の重文、初期の本尊と 伝えられる阿弥陀如来像は運慶流とされ県の重文、成巻文書11通が市の指定文化財になっている。 佐奈田与一は、石橋山の合戦では、源頼朝方で戦い、 敵の俣野五郎景尚の上に組みつき、俣野の首を斬ろうとしたが、 刀が血糊で抜けず、味方に加勢を求めたが、 痰がのどにつまり声がでず、無念にも後ろから別の敵方に首を斬られてしまった。 今、石橋山には佐奈田霊社があり、気管支炎、ぜんそくに効くといわれる飴が売られている。 上﨟塚・皇女神社 公田町の共同墓地にある小高い地を土地の人は上﨟塚という。 このあたりは縄文、弥生の土師器が発掘され、古墳だったともいわれている。 この近くに桂台遺跡もあり、上臈塚、皇女神社近く遺跡から、写真の人面把手がみつかった。 蛇をかたどったもので、縄文信仰、製鉄との関係もある。 塚の近くに桓武天皇の皇子葛原(かずらはら)親王の妃、照玉姫を葬ったところがあり、 その前に玉之御前神社をたてたという伝説が伝えられる。 皇女神社は照玉姫を祀っている。 葛原親王は、桓武天皇の五子で、幼いころから俊秀で大蔵卿、式部卿など歴任した。 そして王子女に平姓を称することを許された。 照玉姫もいっしょに東国へ下ったが、照玉姫はここで亡くなってしまった。 姫の侍女、相模局、大和局は尼になりここで菩提を弔った。 藤沢には垂木御所、綾瀬には皇子塚など史跡がある。 アラハバキ神 荒覇吐、荒脛巾などいろいろあるが、東北に見られる民俗信仰。 王権にまつろわぬ民、朝廷により東北に追われながらも守られてきた神、 遮光器土偶はアラハバキであるともいう、不明な神である。 蛇神説 吉野裕子:ハバキのハハは蛇の古語である。 直立する樹木は蛇に見たてられ祭の中枢であった。 伊勢神宮の波波木神社は辰巳の方角で祭祀は巳の刻に行われる。 蛇神である。 川崎真治:アラハバキはシュメール語でアラは男の獅子神、ハバキは蛇の地母神である。 塞(さい)の神説 谷川健一:宮城県多賀城跡近くにあるアラハバキ社は、蝦夷制圧のために築いた多賀城を防ぐ神といわれる。 「蝦夷をもって蝦夷を制す」アラハバキを、塞の神として配した。 製鉄神説 近江雅和:氷川神社にあるアラハバキは客人(まろうど)神として祀られている。 摂社は、もともと祀られていたのが、政治、権力の影響で祭神をすりかえた場合が 多いそうなので、氷川神社はもともとアラハバキを祀っていたといえるかもしれない。 今の祭神はスサノオであるが、出雲と氷川の繋がりを考えると、 そこに製鉄地の共通点がある。塞神の多賀城も製鉄地であった。 客人神は片目が多く、アラは鉄の古語、ハバキは、鉱物採集を目的とした修験道の山伏が 使用した脛巾であり、のちに足の神様になっていった。 真弓常忠:塞の神のサイはサヒで鉄の神だから塞神と鉄神は同一である。 参考:ウィキぺディア・栄区HP・瀬上の森パートナーシップ・葛原親王の史跡・ひろたりあん・rekisi.sansaku 神奈備にようこそ・鉄器時代・横浜市歴史博物館HP・文化遺産HP
by gannyan1953
| 2012-11-11 18:46
| 古代製鉄・鉱物
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