歴史と素適なおつきあい

大棚村の栗原氏

歴史と素適なおつきあい番外編

現在の都筑区は明治22年(1889)年 町村制の施行により、山田村、勝田村、牛久保村、大棚村、茅ヶ崎村が合併し、中川村となった。

そして地元の人に栗原姓の人がいる。
栗原姓が全国で一番多い地域は埼玉県である。
栗原氏は、中臣栗原氏といって古代の百済から渡ってきた渡来人である。
美濃国不破郡に居住していたが、甲斐に分派した。
そして、甲斐に居住した栗原氏は、室町、戦国時代の甲斐国の一国領主で、のちに武田氏の支族になる。
ここでは、甲斐の栗原氏について調べてみた。

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「系図纂要」に修正を加えたもので、武田守護家に敵対、処断されたと思われる人物がグレーになった人物である。
10人に及び、国人領主として激しく抵抗したことがわかる。
それを支えたのは経済力、本拠となった館である。

栗原氏とは
栗原氏は父は甲斐守護武田信成の子武続(十郎、重郎)を祖とし、東郡栗原郷(現在の山梨市下栗原)に居住し、栗原氏を称したという。
武田氏の甲斐国統一に向けて今井(浦)兵庫助信元・大井上野介信達らとともに今川・諏訪氏をも巻き込んで、最後まで武田氏に抵抗した有力一国領主である。

栗原郷の一帯には栗原氏の菩提寺が分布し、上栗原には海島寺、中栗原には養安寺、下栗原には大翁寺が所在している。特に養安寺と大翁寺は栗原氏の館跡に創建された寺院であるという。

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)が起こった。これは室町時代の応永23年(1416)に関東地方で起こった戦乱で、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱で、禅秀は敗北した。
禅秀に味方した甲斐武田氏の信満は自害し、甲斐国は守護不在となり、混乱に陥った。
甲斐の一国領主跡部氏が勢力をもつようになり、
幕府ー諏訪氏ー武田氏
鎌倉府ー佐久大井氏ー跡部氏
が対立した。
このとき栗原氏は跡部氏に味方していたと思われる。
室町時代の嘉吉元年(1441)には、嘉吉の乱に際して栗原信通が西郡の一国領主大井氏とともに甲斐守護武田信重に随行して上京している。

戦国時代、甲斐国の有力一国領主として武田氏の甲斐統一に抵抗した。
守護信縄と油川信恵の対立においては栗原信遠と思われる「栗原大輔」が信恵方に加担している。
信縄・信恵の対立は明応7年(1498)に信縄方優位のもと和睦が成立する。
が、明応10年には栗原氏の一族が粛清されたと考えられている。
そして、武田家臣栗原伊豆守の子栗原信盛は『甲陽軍鑑』に、長篠の戦いに参加するが、戦わず逃走した。
とある。
一族として何系統か存在し、信昌派・信縄派さらには信虎派・反信虎派などとそれぞれに組し戦い粛清されながらも、「栗原」の名が残されたようだ。

ということで、栗原氏は14世紀末に武田支族として発祥し、三つの館を拠点に交通の要衝である、栗原郷、中牧郷(山梨市)塩後郷、勝沼郷(甲州市)も手に入れ東部一帯に勢力を及ぼした。
その強大さが守護武田家との抗争に及んだと思われ、1530年代には武田氏に服属、被官となった。

本拠となった館
栗原氏館は大翁寺一帯に築かれていた。隣接する海島寺・妙善寺・大法寺などの辺りも館跡に含まれていた可能性もある。

大翁寺 山梨県山梨市下栗原1438   電話 0553-22-1438
甲斐国志によると、大翁寺(だいおうじ)は寛永八年(1631)栗原信盛死去後、創建された。かつてこの周辺が栗原氏の屋敷であったと伝わる。大翁寺と近くの妙善寺の間に土塁跡とされる竹やぶがある。

妙善寺 山梨県山梨市上栗原
曹洞宗大公寺末香陽山
栗原出羽守信明の供養塔がある。開基は栗原出羽守信明、法名は「妙善寺殿光山存智大禅定門」と記される。
慶應3年7月、芦沢良兵衛履武という人物が先祖栗原出羽守信明供養の為に建てた。
栗原出羽守信明は栗原氏の祖、栗原十郎武続の三代目。享徳4年(1455)5月21日死去したと記される。
芦澤氏は栗原氏の末裔らしい。

海島寺 山梨県山梨市上栗原
曹洞宗大泉寺末龍厳山
栗原氏の祖、栗原十郎武続墓印の石があると「甲斐国寺記社記」には記されているが、墓が確認されていない。
栗原伊豆守信友、その父信遠、信友の孫である左衛門尉昌清の墓があるという。

信玄の娘の松姫の話が伝わる。
松姫は信長の嫡子信忠と7歳で婚約する。三方原の戦い以後信長との関係が悪化、婚約解消となった。
しかし松姫は頑にその後の縁談を断った。

天正10年(1582)織田、徳川の侵攻により、松姫は勝頼の娘貞姫、小山田信茂の娘香貴姫、を伴って北条氏を頼って新府城を出た。この寺に一週間ほど滞在し、塩山の向嶽寺で一ヶ月、そして3月に八王子に到着している。武田氏滅亡後、八王子で尼になり、旧武田氏家臣を支える象徴となる。

養安寺 山梨県山梨市中村
大翁寺北東250mにある。
この寺を中心に東小路、西小路の地名が残ることから街路を設定した小規模な城下集落が形成されていたと可能性があり栗原氏の一族か家臣の屋敷があったと思われる。
寺を開基したと伝えられる伊豆守信友の位牌がある。
  
by gannyan1953 | 2012-12-13 10:06 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)
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