歴史と素適なおつきあい

登戸研究所を訪ねて

歴史と素適なおつきあい   


明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区東三田1−1−1)
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正式名称を第九陸軍技術研究所といい、
太平洋戦争の秘密戦という側面を担った研究所である。

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 当時からあった木

防諜・諜報・謀略・宣伝という活動をしており、
世間からは隠された秘密研究所であった。

 明治大学は、負の遺産であるこの研究所の一部を
平和教育のため2010年に公開した。

ちなみに明治大学の中野キャンパスは陸軍中野学校(スパイ養成学校)の跡地である。
市川雷蔵の映画で存在を知ったが、
卒業生(浜松の二股分校)にルバングから帰国した
小野田寛郎少尉がいる。

登戸研究所は昭和12年(1937)、新宿にあった陸軍研究所の
「実験場」として設置された。
秘密研究所のため名称が「登戸研究所」となった。

終戦間近には100棟の建物に1000人の人が働き、うち750人は一般人であった。

主な兵器開発は、電波兵器、スパイ機材、生物化学兵器、偽札、風船爆弾などである。

研究所を指導していた参謀本部は、天皇に直属する機関で大本営の中核であった。
研究所は秘密の存在なので、研究者としてその役割を知って働く人々は
家族にもその存在を話すことはできなかった。

そして陸軍中野学校、憲兵隊、731部隊と連携して秘密戦を進めていた。


 終戦の年の3月に地上戦を意識し、登戸研究所は長野の上伊那、北安曇への移転を行った。
ここでの本格的な研究が行われる前に終戦となり、長い間記憶は封印された。

陸軍中野学校

昭和12年(1937)に戦争における謀略の重要性を感じ、
陸軍が中心となって「防諜研究所」を新設、
特殊勤務要員養成所〜後方勤務要員養成所〜陸軍中野学校と改名し、参謀本部直轄の軍学校だった。

この存在は極秘とされた。
東京帝国大学出身者が多く高い学識と冷静な視点が求められるため、軍人教育を受けていない一般人から選ばれた。
校風は自由で敵国語を話すこともも推奨された。
卒業後は参謀本部、アジア各地で義勇軍育成、諜報活動などしたが、

戦争末期には遊撃隊員として戦闘に加わった者も多くいた。

憲兵隊

陸軍に属し軍事警察、行政警察、司法警察を掌って(つかさどって)いた。
防諜といって国内の軍事情報を守るため、主に敵国スパイや、
自国民の取り締まり活動をした。登戸研究所の警備も憲兵隊に守られていた。

731部隊
関東軍防疫給水部で秘匿名称が満州731部隊という。
感染症、それを防ぐ衛生的な給水体制の研究をした。
登戸研究所第二科は秘密戦を兵器、資材の開発で支えた。
謀略といって、敵国の人々の国民生活を破壊、かく乱を目的に
爆発物、毒物、生物兵器などの研究開発をした。

現在中国ハルビンに残る731部隊の遺跡を世界遺産に登録する動きがでている。

帝銀事件への関与の疑い

帝国銀行支店で発生した青酸カリによる毒物殺人事件で、
毒物の扱いに慣れていると思われたため、731部隊の関係者が疑われたが、
GHQから捜査中止の命令があったため、多くの謎を残した。

薬害エイズ事件の首謀者

1980年代に血友病患者に、加熱処理していない血液凝固因子製剤を治療に使用したため、
多くのエイズ患者を生み出した事件。

この製剤を作ったミドリ十字社の幹部には731部隊の人々が存在し、当時731部隊が話題になった。

731部隊の医師たちは研究の成果をアメリカに渡したことで、戦犯を免れた。

生き残った人々は、日本の医学界の重鎮となった。
製剤会社の幹部や、また長崎医大で放射能汚染の患者を診察しこの医師たちが
チェルノブイリの患者をみた、
そしてその弟子たちが今回の放射能汚染について語る。

今でも731部隊の影は脈々と続く。

風船爆弾

第一科の研究で偏西風に乗ってアメリカ本土を直接攻撃するために開発研究され、
9300発の風船を放球した。

ふ号兵器」という。

昭和20年(1945)オレゴン州でピクニック中の子供を含む6名が不時着した
風船爆弾に触れて死亡した。

初期の頃は第一科は「ち号兵器」といって、超短波を利用したレーダー兵器や、

く号兵器」という怪力光線兵器を研究した。怪力を昔は「くあいりき」と書いたので「く号」となった。

偽札製造
第三科
中国経済を混乱に陥れること、現地で物資を購入し日中戦争をやりやすく進めることを目的に日本軍は中国の偽札製造をした。国際法的にも、道義的にも問題となる行為のため第三課の秘密は固く守られた。

資料館
実際に登戸研究所第2科が研究施設として使用していた建物で1937年から1941年に建てられた。

戦後、「36号棟」と呼ばれ明治大学の教育施設として使用された。

1944年三笠宮崇仁(たかひと)少佐(昭和天皇の弟)が研究所を視察し、
風船爆弾の開発状況をみていったという。

弥心神社(生田神社)
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弥心神社

キャンパス北西にあり前身である新宿戸山ヶ原にあった
陸軍の研究の神「八意思兼神」(やごころおもいかねのかみ)を分祀した。

研究中の殉死者も合祀されている。


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境内にある研究所の石碑





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動物慰霊碑

研究所で研究に用いられた実験動物の慰霊碑が正門そばにある。

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消火栓
陸軍のマークが入った消火栓がキャンパスに残っている。

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                         参考:明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック・ウイキペデイア
by gannyan1953 | 2013-10-05 12:44 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)
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