歴史と素適なおつきあい

奥州街道踏破 白河へ①

歴史と素適なおつきあい番外編           2013・10・1

日光街道を終えて最後の五街道の奥州街道踏破の旅
宇都宮から陸奥白川をめざした。

1日目  宇都宮〜氏家  宇都宮チサンホテル泊ツイン8600円(18キロ)
2日目  氏家〜大田原  パインズ温泉ホテル大田原泊 二食付き7350円(25、8キロ)
3日目  大田原〜芦野  芦野温泉泊 朝食付き8050円(21、4キロ)
4日目  芦野〜白川(白河駅) 新白河から2時間で帰宅!新幹線は早い!(21、4キロ)

1日目宇都宮〜氏家
9:45 宇都宮駅着 (渋谷から宇都宮まで乗り換えなしの電車に乗った)

神社の手前にあった店
b0228416_18154953.jpg


宇都宮二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)
b0228416_18151573.jpg


祭神:豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
第10代崇神天皇の第一皇子で、天皇の命で東国を鎮めたとされる。
毛野国(のちの下野国・上野国)の開祖とされる。

宇都宮氏は、ここの社家だった。社家とは神職を世襲する氏族のことである。

平将門の乱で、藤原秀郷がこの神社で授かった霊剣をもって将門を討った言われる。
そのときにかぶった兜が神社に伝わっている。
「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)というが、実際には南北朝時代に制作されたものらしい。

屋島の戦いでは、那須与一が船上の扇の的を射る時、

「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」

と祈ったという。
この先、奥州街道には温泉神社が多くある。

戊辰戦争で焼失し、明治10年に再建された。


宇都宮城
b0228416_18491235.jpg


宇都宮というと土方歳三が思い浮かぶ。
「」としさんが会津の秋月登之助とともに先鋒を努め宇都宮城を陥落させている。
ところが、壬生で敗走、再び宇都宮で戦ったときに足を負傷してしまう。
そして会津に送られ、3ヶ月の療養生活を送ることになった。

という「としさん」が痛い思いをした場所なのだ。

篠原家住宅
b0228416_18583314.jpg


江戸時代から奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を営んでいた。
現在の建物は明治28年(1895)に建てられたもの。

根来塚
b0228416_18494537.jpg

b0228416_1850818.jpg


街道の「31アイスクリーム」を過ぎたら右折し、しばらく行くと神社がある。
白山神社で、白山比羊(しろやまひめ)神社から奉祀した。
 根来塚は神社の裏の林にある。
裏には民家もあり、ずいぶん前に塚の東半分は削られた。
林はあるが塚はわからなかった。

根来塚は殺された根来衆100人の銅塚だと伝わる。

「徳川秀忠が元和7年(1621)、宇都宮城改築のため派遣した根来組同心百人衆を、本多正純が処刑した。
ここに胴塚、首塚、馬塚が築かれたという。」伝承がある。

ほかの説に
元和5年(1619)に28代宇都宮藩主になった本田正純は、
家康から正純の父「正信」に託されていた「三河高橋衆」と「根来組同心」を
自分の家臣団に組み入れ、15万5000石の譜代大名として
宇都宮城に入城した。
という説もあり根来衆は本多正純の家臣だったことになる。


根来衆とは、江戸城守備のため家康に組み込まれた、鉄砲組根来同心百人衆のことである。
高橋衆(高橋組)とは家康が三河を統一したころからの身辺警備をした集団である。
矢作川の豊田市寺部町の出身で江戸出府の時に本多正信、正純父子の組に属したとある。

処刑理由は
宇都宮城郭拡大と町割り工事に伴い、三の丸太鼓門の前に防備強化のため
三日月堀(堀幅約22m、深さ7、6m、三日月形の長さ150m)を設けた。
この工事の使役を幕府から預かっていた、根来衆に命じたところ、
使役に反抗した。

正純は元和7(1621)12月、彼らを全員処刑し、
首と胴を別々に埋め、
根来塚には胴部を埋めたので「胴塚」ともいわれる。

後に本多正純は秀忠の前で、なぜ根来衆を殺したのかと聞かれ、
答えることができなかったという。

なぜ根来衆が反抗したのかがはっきりわからない。

家康側近で力を持ちすぎた本多正純も、家康亡き後は後ろ盾をなくし、
この件で、秀忠の怒りを買っては、持ちこたえられなかっただろう。
宇都宮釣天井事件につながる話となって、本多正純は失脚する。「うつのみやの歴史再発見」より

宇都宮の処刑場・首塚
栃木銀行の裏すぐのところにある。

b0228416_1933777.jpg

b0228416_18501757.jpg

b0228416_18501354.jpg


竹林町にあった土堂原刑場(とっぱら刑場)で、ここに根来衆の首が埋められているという。

宇都宮藩で起きた一揆として知られる籾摺り騒動の首謀者もここで処刑されたとのことである。

後に首と胴体が離れた白骨が多くでたという。

b0228416_11355237.jpg

鬼怒川を渡る
b0228416_11361535.jpg

氏家宿に入った

b0228416_11182459.jpg

将軍地蔵

源義家が奥州征伐にむかったとき、鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇が道を塞いだ。
宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現し、悪蛇を退散させた。
以後、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てた。

戦国時代に那須勢が攻めてきて、焼き討ちをしたので満願寺は焼けてしまう。
江戸時代、再建されて堂原地蔵堂となり、奥州街道の道中安全のご利益で
遠く秋田・会津の商人たちから奉納された、石灯籠などが残されている。



氏家駅から宇都宮に戻り、チサンホテル宿泊
夕食はみんみんで餃子!
by gannyan1953 | 2013-10-01 14:04 | 栃木県の歴史散歩 | Comments(0)
<< 奥州街道踏破 白河へ② 三渓園 >>



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
返信遅くなり申し訳ありま..
by モワーズ at 04:25
伝説・伝承という形でそこ..
by michikusa520 at 01:01
> michikusa5..
by gannyan1953 at 22:05
> モワーズさん コメ..
by gannyan1953 at 21:56
初めまして、あざみ野4丁..
by モワーズ at 23:18
初めまして。古墳に興味が..
by michikusa520 at 16:20
初めまして。あざみ野4丁..
by モワーズ at 22:55
日韓の史料を見ると新羅は..
by Zombie at 02:22
日韓の史料を見ると新羅は..
by Zombie at 01:27
ご無沙汰しております。コ..
by gannyan1953 at 14:19
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧