歴史と素適なおつきあい

港北ニュータウン 山田村 

歴史と素適なおつきあい番外編              

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山田神社

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都筑郡山田村は明治になって統合で中川村になった。
文禄3年(1594)の文書に「山田の郷」とあるが、寛文5(1665)には「矢股村」になっている。
古くは矢股であったかもしれない。
矢は湿地帯の意で、字に○○谷、ヤやヤトが多く付く。
股は本流に支流が合流するところで山田は牛久保境を流れる小川と
村内富士谷から流れ出す小川が合流している。

旧家
亜雁、芥生、安藤、飯田、飯塚、石原、市川、伊東、今西、岩崎、植田、内田、漆原、遠藤、大島、
小沢、男全、織茂、金子、川島、川田、栗原、小泉、斉藤、酒井、鈴木、高野、田辺、田丸、出川、
徳江、西内、長谷川、原木、宮本、八木、吉田、渡辺

山田神社は山田城址で城主は鎌田正清である。

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鎌田堂

鎌田堂都筑区東山田1393

正清の住まいの跡である。

 「堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故 土人 鎌田堂と云う。
 二間に三間なり。
  印子の観音を安置しありしが奪われ、 霊元天皇、 寛文十三年、 現在の石地蔵建立さる。
 寛永の頃 佛誉常心止住とどまりてすむ 。
 以来 安政の頃迄 念佛道場として繁栄 道場坂の名を残す。
 尚、子育地蔵 、諸願成就の地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり。」



鎌田正清(1123〜1160)
通称鎌田次郎佐兵衛という。
藤原鎌足から8代、藤原秀郷の後裔で源家累代の重臣だった。
正清の祖父 須藤助道は源頼義、父の通清は源為義の側近だった。
正清は源義朝と同い年で乳兄弟である。
義朝は京都六条堀河の源氏の館で育ち13歳で鎌倉に下向し、
亀ヶ谷の源氏館に入った。
そのとき行動を共にしたと思われる。
祖父は三河の国、父は駿河の国に所領があった。
正清が都筑に所領を得たのは鎌倉下向後と思われる。
義朝は嫡男悪源太義平に関東をまかせた。
義平は長男だが遊女の子とされ正当な跡継ぎではなかったようである。
勇猛な武士で強いという意味で悪という名がついた。
のちのち石山寺に逃げ込み発見され20歳にして六条河原で打ち首になった。
義朝が京都に戻るとやがて源平合戦がはじまった。
平治の乱で大敗を喫し東国に落ちた。
途中正清の舅、長田忠致のいる尾張の国知多郡内海荘に立ち寄った。
忠致は恩賞に目がくらみ義朝主従を襲い、義朝、正清ともに38歳で
殺害された。

正清の所領は山田村他10カ所に及ぶという。
この都筑で落ち着くことはなかっただろう。
山田城南に熱田社がある。
義朝の妻は熱田神宮大宮司藤原秀範の娘であることと関係しているのだろうか。
今では山田神社に合祀され石宮が残る。

鎌田正清黄金伝説

正清の黄金伝説が愛知県南知多町豊丘字本郷の地に残る。
義朝の命でこの地に館を築き一族郎党が暮らしたという。
現在も山田の地名が残る。
その縁で内海の長田忠致の娘と縁付いたと思われる。

この地で館から800m南の山に軍資金を埋めたという伝説である。
「朝日が最初に当たり夕日が最後までさすところ、金千貫、銀千貫を埋め、大きな松があるという。
未だ発見されていない。」 「おっさんがゆく」より (この方正清の子孫らしい)

どの文献からの話なのかわからないが、地図でみると昔は豊丘という丘だったようだ。
今では役場や畑になっていて少し山林は残っている様子。
正清の黄金伝説のこと知っている方、教えて欲しい!!
しつこく調べたら、「正清黄金伝説」は岩手県田老町にあった。(ミヤペディア真崎海岸正清伝説より)
この話と混同されているのだろうか?!

八王子千人同心

江戸時代中川5ヶ村は旗本領だった。
山田、大棚は八王子千人同心の所領であった。
八王子千人同心は武田の家臣がお家滅亡後家康の命により八王子に住んで
甲州口警備に当たった人々である。

千人頭は千人を10にわけ100人を1組とした。
千人頭は旗本、同心は御家人身分となった。

北山田長泉寺に寛政元年(1789)建立の万霊供養塔に、千人頭河野松蔵、志村造酒之助の名が残されている。

志村氏は清和源氏義光流小笠原支流で、伴野六郎時長の庶流という。
出身地は信濃国志村で武田に仕えた。3代貞昌のとき千人頭になった。

河野氏は伊予国越智氏末流で、武田信虎に仕え、4代通次のとき千人頭となった。

千人頭に慕われた松姫

信玄の娘松姫は、武田滅亡の折信盛、勝頼、小山田信茂(町田の大泉寺)の娘を
引き取り八王子に落ち延びていた。
家臣たちは姫を慕っていたので八王子にきた千人同心たちの心の支えになった。

松姫は織田信長の子信忠と婚約しており政略結婚ではあったが、文もかわす仲であったが、三方ヶ原の戦いで
織田家と武田家は敵対し、婚約解消となった。
その後信忠との婚姻が再び整う矢先、本能寺の変で信忠は亡くなり、八王子の心源院で出家し、引き取った姫たちを
育てながら、武田家、信忠の供養をした。
会津初代藩主保科正之もこの松姫が育てたという。











by gannyan1953 | 2014-01-24 11:39 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(2)
Commented at 2014-01-28 08:50 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by gannyan1953 at 2014-01-30 12:44
大変嬉しく思います。ありがとうございます。
わからないことだらけで、教えていただくこともあるかと思います。
よろしくお願いします。
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