歴史と素適なおつきあい

象の鼻から横浜港遊覧船と横浜三塔

歴史と素適なおつきあい   2015・1・10

市営地下鉄関内駅1番出口・・横浜公園、岩亀楼の灯籠・・日本大通・・県庁(土曜日は見学不可)・・開港資料館タマクス見学・・横浜税関
・・象の鼻で遊覧船の整理券受け取り・・開港記念館・・象の鼻から遊覧船乗船11時半出港・・昼食・・海上保安庁資料館・・海外移住資料館

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横浜開港
開港以前の横浜は戸数100ほどの半農半漁の寒村であった。
安政元年(1854)日米和親条約締結、その4年後日米修好通商条約締結により、
安政6年(1859)7月1日に横浜は開港した。
開国日本の象徴となり、人が集まり質の高い文化交流が生まれた。

外国人は文化人、貿易商、技術者が多く、
日本が最先端の技術や思想を学ぼうとするなら、
惜しみなく協力したいという考えの人々が多かった。
日本人も全国から集まり、先進的な産業、文化を積極的に吸収し、
「進取の気性」で因習にとらわれない開放性を作り上げた。
これが横浜市民の「横浜気質」となる。

開港50年には森鴎外作詞の「横浜市歌」を発表、
開港記念横浜会館(開港記念館)が建設された。
 
関内の地名の由来
開港場を作ったとき周囲を掘や川で区切った。
その出入り口に利用された橋に関門を設置し、関所の役割を果たした。
その内側が「関内」外側は「関外」(伊勢佐木町)といった。

岩亀楼の灯籠
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安政6年(1859)に現在の横浜公園、関内の太田新田に港崎(みよざき)遊郭が作られた。
横浜開港に反対する外国人を引きつけるためと、オランダ公使からの遊郭設置の要請に応えるためだった。
品川宿の岩槻屋佐七が埋め立て、建設を請け負い1万5千坪の土地に遊女屋15軒遊女300名の規模だった。
佐七は岩亀楼を経営し、幕府から外国人専用の遊女を置くように依頼された。
日本人専用、外国人専用の遊女(羅紗緬・らしゃめん)がおり、外国人は羅紗緬しか選ぶ事はできなかった。

豚屋火事
遊郭の南にあった豚屋からの出火だったのでそう呼ばれた。
港崎遊郭は1866年の豚小屋火事で燃えてしまった。
このとき遊女が400人以上亡くなり、外国人居留地も燃えてしまった。
横浜グランドホテルあたりまで燃えたという。
10年後跡地は横浜公園となり、残された日本庭園に灯籠だけが残る。
ふるアメリカに袖はぬらさじ
1863年、遊女亀遊が外国人の相手を拒み自害した。
有吉佐和子の小説で「ふるアメリカに袖はぬらさじ」は劇も演じられている。
亀遊の句であるが、実際には亀遊は読み書きができなかった。

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日本大通

イギリス人リチャードブラントンの設計で明治3年(1870)日本初の西洋式の通りが作られた。
この年、外国人居留地に地名がつけられここは「日本大通」と名付けらた。
横浜公園と象の鼻をつなぎ、神奈川県庁本庁舎がある。
豚屋火事があったので火除けのため広い道路になった。
地下には下水があり、道路は破砕した陶器で突き固めた。

神奈川県庁本庁舎 (キングの塔)
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関東大震災で焼失し現在の建物は昭和3年(1928)に完成した。
「我が国風」を意識した帝冠様式のはしりだった。
敷地には神奈川運上所の碑がある。運上とは江戸時代の税金のことである。
開港時幕府は関税のみでなく幕府の外務、港の行政、刑事、船の製造、修理まで
取り扱った。
豚屋火事で運上所が焼失し、新庁舎が建てられ横浜役所から新政府になると
大蔵省管轄となり横浜税関となった。
土日は結婚式などに使用され見学不可。平日は公開している。

象の鼻

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明治7年(1874)日本海軍水路寮作成

安政6年(1859)幕府によりイギリス波止場と税関波止場の2本の突堤が築かれた。
慶応3年(1867)イギリス波止場を湾曲させ、見た目で「象の鼻」と呼ばれた。
関東大震災で壊れまっすぐな突堤に復旧された。
平成21年(2009)開港150年を記念して明治の象の鼻を復元した。

象の鼻パークには、鉄軌道と転車台、象の鼻に石積み、煉瓦造二階建倉庫の遺構が残る。

横浜税関 (クイーンの塔)
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安政6年(1859)に開港と同時に神奈川運上所を開設。
昭和9年(1934)現在の横浜税関の建物が竣工。
戦後はアメリカ陸軍第8司令部が置かれた。
平成19年(2007)資料室が開設され展示されている。
日本の表玄関を意識して高さ51mで当時では日本一の高さを誇った。

開港記念会館 (ジャックの塔)
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明治4年(1871)生糸貿易商石川屋があった。息子の岡倉天心誕生の地である。
明治7年(1874)町会所が建てられスイス製の電飾時計がはめ込められた
時計塔のある建物だった。

大正6年(1917)に開港50年を祝って市民の寄付で建てられた。
政財界のサロン、文化施設として利用され商工会議所の役員室、ビリヤード、
食堂など62室あった。震災で時計塔、壁の一部以外は倒壊した。
復元されたがドーム屋根は復元されなかった。
戦後は昭和33年まで進駐軍に接収されたていた。
平成元年(1989)横浜市によりドーム屋根は復元された。

岡倉天心
天心の父は元福井藩士で藩命により生糸貿易を営む石川屋の経営をしていた。
次男として生まれた天心は幼くして英語を学び高島学校に通った。
明治4年藩命で石川屋は閉鎖され日本橋に移り旅館業を営んだ。
その後東京外語大、東京大学で学び、文部省に入省した。
お雇い外国人フェノロサの研究の手伝いをして全国の寺社仏閣の調査をし、
文化財保護、古美術の保護、美術教育に尽力した。
東京美術学校の設立にも尽力し校長に就任したが、美術学校事件により、退職し、
横山大観らと日本美術院(院展)を設立した。

美術学校事件
天心が排斥された事件で多くの教師が抗議のため退職しようとした。
排斥の原因は天心とパトロン九鬼隆一の妻との不倫といわれる。

横浜開港資料館
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昭和6年(1931)に英国領事館として建築された。
資材はすべて英国から取り寄せられた。
大使館が東京に移るときに横浜市が買い上げた。
日米和親条約が締結された場所である。
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タマグス
ペリー提督上陸の図にある玉樟(たまくす)は豚屋火事、震災の火災にあったが、
後に芽をふき現在に至っている。
現在は横浜市の資料を展示している。

海上保安資料館
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平成13年(2001)12月に起きた不審船が展示されている。

海外移住資料館
JICA(ジャイカ)は国際協力機構といって、
開発途上国の抱える課題解決を支援する機関である。
海外移住資料館は、日本人の移住の歴史、日系人の理解を深める目的で
資料が展示されている。






















                            
  





by gannyan1953 | 2014-12-09 23:23 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)
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