歴史と素適なおつきあい番外編 2015・6・2
長良川と揖斐川の下流に千本松原がある
そこには薩摩藩の治水工事の悲話が伝わる
長島温泉から各務原まで川沿いにドライブすることにした
以前東海道歩きをしたときに熱田の七里の渡しから桑名まで
現在渡しがないために
陸地を歩こうとしたとき、津島から桑名まで木曽三川公園を通った
そこに治水神社がある
宝暦3年(1753)幕府は水と戦うこの地の治水工事を
薩摩藩に命じた
薩摩藩は平田靫負(ひらたゆきえ)を奉行におよそ千人の藩士を派遣、
治水工事にとりかかった
工事の費用の増額、設計変更、そして苦労した
藩士の死・・・大きな犠牲を出しての工事だった
そもそも尾張藩は大藩で美濃と尾張の堰の高さが尾張藩の方が高く
美濃は低く洪水被害は美濃がひどくなるようになっていたらしい。
油島締切堤のあたりは、木曽川と揖斐川が合流し、木曽三川の水害の大きな原因となった。
木曽川と揖斐川の川床の高さが揖斐川の方が1mほど低く美濃側側に水が流れ氾濫を起こしていた。
そのため木曽三川を分離する事にしたのだが、この油島締切の工事が難航した。
実際の工事の奉行に幕府の役人が立ち、使用するわらじなど近辺の農民に高く売るつけるように
したり、食事も粗末な食事になったため薩摩の武士は体が衰弱し赤痢をおこし
30余人が亡くなったり、幕府の理不尽な行動に切腹で抗議したりした。
それでも木曽川から川床の低い揖斐川に絶えず流れ込み、洪水が起こり
やっと一部を残し松を植えた堰が完成した。
薩摩の奉行平田靫負は完成した直後工事の難航に責任を感じ切腹した。
尾張の生まれの私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
のち明和5年(1768)徳島藩が通船のための食い違いを持った洗い堰を工事。
明治20年に完全な締切が完成した。
現在道路として利用されているのが明治改修にあたる部分である。
映画の 『千本松原 川と生きる少年たち』(1992)がある
いいアニメだった
参考:水と生きる 薩摩義士の史跡を訪ねて:海津市観光情報センター
千本松原:岸武雄 あかね書房