歴史と素適なおつきあい

こどもの国の戦争遺跡

歴史と素適なおつきあい       2016・2・12(金)

こどもの国駅:9:50集合 
 
こどもの国
昭和34年皇太子の成婚記念に全国からよせられた祝い金を基に
子供育成の為の施設として昭和40年(1965)に開園した。ここに戦争遺跡が残る。
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弾薬庫の換気塔


園内のあちこちのがけや土手沿いに緑色の鉄扉がある。
これは第2次大戦中に使われていた弾薬庫の名残りである。
こどもの国の場所は戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠として、
旧陸軍田奈部隊の管理のもと、戦地に送る弾薬を保管・発送したり、
製造したりしていた。
弾薬庫は計33基つくられたが、土に埋まったり湖に沈んだりして、
今確認できるのは10基だけである。
弾薬庫は入口が左右2ヵ所あり、コの字型になっている。
部屋の大きさは幅が25~30メートル、奥行き7メートル、
壁の高さ4メートルで、天井の一番高いところで5~6メートルある。
屋根には換気塔が2~6個ついていた。
壁から少し隙間をあけて張った木材の表面を銅板で覆い、
床にはリノリウムが張り巡らされていた。
静電気や火花が起きないためである。結露を防ぐために、
壁沿いに溝が掘られ、その上の壁に1メートルの高さでコールタールが塗られていた。
温度と湿度の管理が厳しく、夏は涼しく、冬は暖かかったそうだ。
入口が1段高くなっているのは、トラックや荷車の高さに合わせたためである。
保管する弾薬に応じて構造が少し異なるようで、換気塔の数がまちまちで、
入口にシャワーが出るようになった弾薬庫もあった。
ガソリンエンジンは火花が出るので、園内の運搬に電気自動車も使っていた。
弾薬庫は一見トンネルのようだが、実は違う。
土手を削って更地にした後、そこに厚さ30センチのコンクリート枠で部屋を造る。
その上に厚さ1メートルの土をかぶせた。
1基の弾薬庫を造るのに必要なコンクリートはミキサー車50台分だった。
ここの土地は粘土質で地盤が固いため、かなりの 重労働だった。
この場所は細い谷が入り組んだ谷戸で、13戸の農家が暮らしていた。
1938年、国家総動員法で住民は強制的に退去させられ、弾薬庫工事が始まった。
41年に旧陸軍田奈部隊が発足してから、弾薬庫の本格的な利用が開始し、
敗戦後、61年に「こどもの国」用地として日本に返還されるまで、
米軍弾薬庫として接収されていたので、
結果的に都会の中にあって豊かな自然がそのまま残された。

弾薬庫

鍵をあけてみせてもらうことができた・・・
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ドアを開けたらいきなり壁の板が外れていた

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薬莢だそうだ

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天井にあった電線のケーブル

弾薬庫を残すつもりはなかったので排気口を壊し上にサイクリングコースを造った。
そのとき排気口から土砂が落ち六個の排気口からの土山が六個できた
でも中のコンクリートだけはとてもしっかりしている

トンネルは千人ほどの朝鮮人労働者を使って手作りで掘られ、
コテでコンクリートを塗り床はコールタールで固めてある。
勤労女学生がここで弾薬作りをしていた。
戦後は米軍に接収され、朝鮮戦争の弾薬が作られた。

椿の森には高射砲跡がある。

無名戦士の碑
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子供のボーイスカウトの銅像が、「三指の礼」を捧げている。
その視線の先には、縦1.7メートル、横2.2メートルの銅板のレリーフが埋め込まれている。
レリーフには倒れた兵士と、そのかたわらで三指の礼をする兵士の姿が刻まれている。
さらにその近くには、
「無名のスカウト戦士」と題するレリーフの由来が書かれた銅板が張りつけられている。

銅板の由来は、第2次大戦中、激戦の南洋諸島のある島でのお話。
重傷を負った1人の米兵が倒れていた。
そこへ剣付きの銃を持った日本兵が通りかかる。
気付いた米兵は「あっ、殺される」と思った瞬間、気を失ってしまった。
しばらくして目覚めた米兵。もう日本兵はいない。
そばに落ちていた白い紙切れに気付き、何気なくポケットに入れた。
そのまま野戦救護所に担ぎ込まれ、一命を取り留めた。
その時拾った紙切れに、こんなことが書かれていた。
「君を刺そうとした時、君はぼくに三指の礼をした。
ぼくもボーイスカウトだった。
ボーイスカウトは兄弟だ。
君もぼくも兄弟だ。
それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。
傷には包帯をしておいたよ。グッドラック」

戦後、この米兵は米国のボーイスカウト連盟本部を訪ね、この話を伝えた。
1952年、米国のスカウト本部の役員が来日した際、この話を日本側に伝えた。
米兵は本名を明かしていなかった。
日本兵は戦死したようだ。
無名のスカウト戦士の間のできごとである。
この無名の日本兵の行動こそ日本の武士道精神、
スカウト精神の結晶だった。
三指の礼とは、人差し指、中指、薬指だけを伸ばした敬礼の仕方である。
世界中のスカウトが共通して使っている独特のあいさつで、
52年にこの話が日本に伝えられた時、
新聞に掲載され、大きな反響を呼んだ。
この日本兵がだれなのか調べられたが、ついに分からずじまいで、
戦死したのだろうと言われている。
無名戦士の記念碑は1966年にボーイスカウト仲間の寄付金をもとに建てられた。

戦争の愚かさと、敵味方を超えた友情の気高さを若いスカウトたちに
語り継ぎたいと、ボーイスカウト日本連盟理事長だった久留島秀三郎が中心になって、
募金を集めた。
久留島氏は財界出身で、こどもの国の創設の際、厚生省(当時)
中央児童厚生施設特別委員会の委員長として活躍した。
こどもの国の土地は戦後、在日米軍に接収されていたが、
当初、米軍からの返事は「返還ノー」と強硬だった。
そこで久留島氏が米軍司令官と直談判した結果、
劇的などんでん返しが起き、「返還イエス」に変わった。
その司令官もボーイスカウト出身で、会談ではスカウトの話題に花が咲き、
「返還の是非は再度検討する」との回答を得た。
会談後、2人は互いに三指の礼をして別れた。
帰りの車中で久留島氏は「これで返ってくるな」とつぶやいたと伝えられている。

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無名戦死の碑のあたりは梅が咲いていた

天皇陛下のポニー
1978年、アルゼンチンのビデラ大統領が来日し、
皇太子殿下(現在の天皇陛下)と接見した際、
皇太子殿下の3人のお子様にファラベラポニーをプレゼントすると約束した。
翌79年11月、大統領から2頭が届き、以来、こども動物園で預かっていた。
2頭のオスのポニーは、黒毛のファルーチョと茶白のガルーチョという。
ファルーチョとガルーチョはとても仲が良くいつも一緒に過ごしていた。
そのファルーチョは2013年8月19日、ガルーチョは2014年7月28日老衰のため息をひきとった。
ポニーは1年で人間の4歳ほど年をとるといわれている。
この2頭は1973年生まれ。
ということは、人間ならば160歳を超えていたことになる。
ガルーチョは食いしん坊でいたずら好きな性格、
自由でストレスのない生活が長寿の秘訣だったのかもしれない。
ファラベラポニーはアルゼンチンのファラベラ家が130年かけて
小さく改良した世界一小さな馬で、肩までの体高が80センチしかなく
アルゼンチン以外ででの繁殖は禁じられていた。

天皇・皇后両陛下と3人のお子さまは、
こどもの国に来るたびに、ポニーと再会した。
2009年12月、天皇ご一家がこどもの国を訪問された際、
動物園でポニーと会った。その際、紀子さまがニンジンを手渡す役をされ、
みなさん順番に楽しそうにニンジンをやったり、頭をなでたりしていた。
紀子さまの長男の悠仁(ひさひと)さまは3歳だったが、
ポニーをまったく怖がらず、鼻をなでたり、何度もニンジンをあげたりしていた。
秋篠宮さまは「(悠仁さまと)同じくらいの時に、ポニーに会った」と話されていた。
説明役の飼育員に対し、天皇陛下は

「いつも世話してくれてありがとう」

と声をかけられ、皇后陛下も
「みなさんがしっかりお世話してくれているので、
こんなに元気なんですね」

とねぎらわれた。ポニーが食べこぼさないように、
よだれが付くのも構わず、両陛下はポニーの口に手を添えてニンジンをあげていたそうだ。

平和の碑
   正面入口から入って右側、道路をはさみ「白百合の丘」と呼ばれている高台がある。 
その高台に「平和を祈る」と書かれた平和の碑がある。
碑の裏側には「戦争のない世界を願って」と題し、建立の由来が書かれている。

「1944年から45年にかけて、神奈川高等女学校の学生だった私たちは、
国の命令で勉強をやめ、ここで砲弾を作る作業につきました。
その砲弾が地球上のだれかを傷つけたのではないかと思うと、
とても恐ろしい気持ちです。
戦争を再び起こしてはならない、この思いを込めて、
女学生休憩所のあった丘に平和の碑を建てました。
平和な世界の中でこどもたちがのびのびと育ちますように」

平和の碑の裏には「戦争のない世界を願って」と題して、
碑を建てた由来が刻まれている。

こどもの国の土地は戦時中、旧陸軍の東京陸軍兵器補給廠
田奈部隊・同填薬所だった。
ここで三千人の日本人軍属が地雷、対戦車砲、手榴弾、高射砲、
野戦重砲などの砲弾を製造していた。
これを33ヵ所の弾薬庫に保管し、現在の中央広場と牧場口駐車場の2ヵ所にまで
延びていた鉄道引き込み線の駅から、全国に輸送していた。

44年から県立横浜第2中学(現・翠嵐高校)の4年生(28期生、15歳、250人、男子)と、
神奈川高等女学校(現・神奈川学園)の 4年生(29期生・30期生、14・15歳、200人、女子)が、
学徒動員で毎日駆り出され、
朝8時から夕方まで、薬きょうに火薬を詰める作業をしていた。

当時、この土地には白百合が咲いていた。
女学生休憩所のあった丘にも白百合がたくさん咲いていたので、
女学生たちは「白百合の丘」と呼んでいた。
働きづめの女学生たちを慰めようと、
田奈部隊の1人の兵士が白百合を摘めるだけ摘んで、帰り際に1本ずつプレゼントした。
優しい心遣いに感激した女学生たちは、この兵士を「白百合の君」と呼んで、
あこがれたそうだ。
女学生の楽しみは仕事の後に支給されるコーヒー色の甘い飲み物だった。

1日火薬を扱う作業をすると、手の先から足の裏まで真っ黄色になり、
数日間消えなかった。
当然、硫黄などの成分が体に良いわけがなく、
甘い飲み物は解毒剤だったようだ。

45年2月7日の正午前、この女学生休憩所で昼食を待っていた時、
ものすごい爆発音がとどろいた。

建物全体が震え、休憩所の窓ガラスも全部粉々に砕け散った。
現在の中央広場にあった駅のプラットホームで
棒地雷を貨車に積み込む作業中、突然大爆発が起きたのだった。

軍属の作業員6人と、近くにいた馬の体がバラバラになった。
昼食当番でたまたま通りがかった女学生の1人も事故に巻き込まれ、
片足を切断する大けがを負った。

ちょうど雪の降りしきる日で、高台の女学生休憩所からは
一面の雪景色の中、赤い血や肉片が点々と飛び散った光景が、
はっきりと見渡せたそうだ。

戦後、女学生の1人が沖縄を訪れた時、ひめゆり部隊をはじめ、
住民の多くが手榴弾で集団自殺に追いこまれたことを知った。

「ひょっとして私たちが作った手榴弾だったのではないでしょうか」

この時のショックを女学生仲間に語り伝えるうちに、
みんなで平和を願う碑を建てようと、募金活動が始まった。
こうして96年3月28日、女学生休憩所があった丘に平和の碑が完成した。

土地収用
神奈川新聞のよこはま瓦版「都筑の丘 今むかし」に、
陸軍が奈良の地を田奈弾薬庫の候補地ときめて、
土地の収用に取り掛かった当時の記事が載っている。
土地提供者の一人三沢仲司さんは 「昭和8(1933)年ごろから、
見かけない人が、こんな山や畑、たんぼを歩いていた。鉄砲撃ちでもないし、
服装もきれいだと、村でうわさになっていました。

昭和13年に入り、奈良小学校に呼ば れました。
近衛師団の人が、大きな地図を黒板に広げ、
住吉神社と盛円寺から奥の土地をお召しあげするとの説明がありました。

立ち退きを命じられた17軒は、期日までに急いで家を解体し移転しました。
まさに、寝ずの作業でした」と語ってくれた。と記されている。

収用された土地の面積は、95万㎡。奈良には、
何代も住み続けていた農家が9戸あり、農地も家も失うことは大変なことで、
なかなか承諾できなかったと、緑区通史に記されている。
                              (町田平和委員会)

田奈弾薬庫への引き込み線 
旧陸軍田奈弾薬庫(現在のこどもの国)の用地は、住民に有無を言わさず、
一方的に、近衛師団経理部が買い上げたものである。

その面積95万㎡(25万坪)。
緑区通史によると「値段は10アール(1反)当たり山林120円~150円、
畑320円~400 円、田400円~600円とされ、
家屋移転費は、坪あたり43円で、それまで住んでいた家の半分も建てられない額であった。

この時の教員の初任給は、月額 50円であった。
1アールは100平方メートルですから、
山林で言えば1㎡あたり0.12円となり、
つまりただ同然に取り上げられた。

当然、この買い取りに難色を示す住民は出てくる。
“お上”に盾つく“不心得もの”については、「前年(1938年・昭和13年)に公布された
国家総動員法や、諸統制令を持ち出し威圧し、話合う余地はまったくなかった。
応諾の遅れた地主は、師団司令部に呼び出され、
『非国民の家には、鉄条網を張って出入りできなくする』などと脅され、
無理やり承諾印を押させられた。余りにも強圧的なやり方に耐えかねて、
精神に異常をきたした者まで出たととりざたされた」(緑区通史)という状態だった。
(続田奈郷土史)(町田平和委員会)


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通路
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自然の地形と一体化した遊具やトイレである。
今では使用されていないものもあるが、61歳のときの作品である。
赤いテトラは今も250万円で売っているそうだ。
(HP イサムノグチ庭園美術館・戦争廃墟)

イサム・ノグチは、英文学者で文筆家、慶應義塾大学教授、
野口米次郎(よねじろう)と米国人の作家レオニー・ギルモアとの間に生まれた。

ロサンゼルスで生まれ、3歳から14歳まで日本で過した後、
単身渡米し、彫刻家を目指した。彫刻だけでなく、
商業デザイン、舞台美術、絵画、公園設計など 幅広い分野で
芸術的才能を開花させた。

ヴェネツィア・ビエンナーレの米国代表の芸術家に任命され、
レーガン米大統領からアメリカ国民芸術勲章を授与されるなど、
日米を中心に活躍した超一流のアーティストである。
こどもの国が開園した3ヵ月後の1965年、
イサム・ノグチは米国から招かれ来日、こどもの国設計集団に参加した。
著名な建築家、大谷幸夫氏とともに児童館エリア施設の設計を担い、
4ヵ月間、連日こどもの国を訪れ、精力的に構想を実現した。
当時、イサム・ノグチは、彫刻と遊具、広場の造形を一体にした
楽園のような遊び場「プレイグラウンド」を構想していました。
その手始めが、こどもの国だった。

その頃建設された児童館、スケート場は
老朽化による建て替えで残っていない。
当時、新聞のインタビューに対し、イサム・ノグチは

「(こどもの国に)30年の設計の体験をすべて生かした。
子供の遊び場には自然を残し、自然を生かさなければならない。
遊んでいて心のたかぶりを覚えるようなものをつくりたい、という私の夢を実現した」

と語っている。

温室
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ハイドゥン・・・とても奇麗なかわいい花だった


墜落した米軍機
松岳院の住職のお話「終戦の年4月の夜、
奈良の山林に米空軍機が墜落、大爆発炎上し、
数人の米兵(緑区通史では一名)が死亡した。
村民が、その遺体を松岳院の境内に埋葬し、供養した。
当時10歳だったのでよくは覚えていないけど、先代の話では、
「米兵の遺体は、その後、テキサスの戦没者の墓地に埋葬された」


緑区通史では、戦後、米軍が、こどもの国の地にあった
「陸軍田奈部隊」を接収した際、捕虜虐待の疑いで、墓地を発掘調査したが、
丁重に葬られていたことから、却って感謝されたと、記載されている。
そのお墓の跡を見せてほしいと要望したが、
宅地開発され、お寺の位置も移動したので、
今はまったくわからない、とのことだった。(町田平和委員会)

転落した生徒の碑 住吉神社
1944年、学徒勤労動員中の旧制横浜二中(現・横浜翠嵐高校)生が乗った
トラックが、将校の乗用車に道を譲り奈良川に転落し6名の生徒が亡くなった。

軍隊は「そこのけそこのけ」という時代だった。

慰霊碑がある。
横浜第二中の学生たちは長津田からトラックの荷台に立ったまま載せられ、通勤していた。
44年11月30日の朝、トラックと、前からきた将校の乗る車が、
狭い道で立ち往生した。
トラックが道を譲ろうと、道路わきギリギリにバックしたところ、
前日からの雨で緩んでいた路肩が急に崩れ、そのまま下の川に転落してしまった。
この事故で、中学生6人が水死した。葬儀で、田奈部隊の上官は

「この非常時に、このくらいの犠牲はやむをえない」と言ったそうだ。(町田平和委員会)


参考:こどもの国 マニア向けガイド・町田平和委員会・ひろたりあん通信
by gannyan1953 | 2016-02-09 21:15 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)
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