歴史と素適なおつきあい

招き猫の発祥の地を訪ねて

中川歴史ウォーキング         2018・3・17(土)

大河ドラマ「直虎」の井伊家の殿様が由来する
かわいい招福招き猫のふるさとです
ひこにゃんのモデルにもなっています
戦国時代の楽市が今でも続くボロ市
そして泣き泣き高杉晋作らが
松蔭先生の亡きがらを葬った松蔭神社があります


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豪徳寺の招き猫







集合:9:45 東急「三軒茶屋」中央改札口出たところ


三軒茶屋・・電車「宮の坂駅」下車・・世田谷八幡宮・・勝光院・・世田谷城址公園・・
豪徳寺・・勝國寺・・松陰神社・・世田谷代官屋敷・・世田谷区立郷土資料館・・
大吉寺・・常磐塚・・駒留八幡神社・・三軒茶屋



三軒茶屋
国道246号線(玉川通り)と世田谷通り(津久井往来)の分岐点で、
江戸時代この地に茶屋が3軒あったことから地名の由来になった
現在は田中屋が陶器店として残っているがもう店を閉めているようだ
世田谷線は荒川線とともに残る路面電車である。
全長5キロで今回は2、7キロ先の宮の坂駅まで楽しむ

世田谷八幡宮 祭神:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
源義家が後三年の役の戦勝を記念してたてたといわれる
天文15年(1546)吉良頼康(よりやす)が再建し
吉良家の氏神となった

勝光院 曹洞宗
建武2年(1335)世田谷城主吉良治家(はるいえ)開基で
吉良家の墓地がある

天正元年(1573)吉良氏朝が父頼康の菩提を弔うため
横浜小机の雲松院から僧を招き中興した
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河吉良荘より起った
世田谷吉良氏は庶流で、14世紀後半から世田谷を支配した
16世紀氏朝のころは小田原北条氏と婚姻して
北条とともに没落した
徳川の時代になると上総寺崎村に所領を移すが
旗本として存続しこの寺はずっと菩提寺とされてきた

二つのシラサギ伝説

めでたい伝説
「愛縁仏縁起」によると北条氏康の娘・崎姫が永禄元年(1558)
蒔田から三千石を持参し吉良家に嫁入りした。
天文6年(1537)春薬師如来のお告げがあり、
シラサギの足に和歌を書いた短冊を
つけて放したら、頼康の鷹がこれをとらえた
その縁で嫁入りをしたという
愛縁薬師如来は2尺の木像で運慶作と伝えられる

悲しい伝説
奥沢城(九品仏)に伝わる話で
奥沢城主の娘常磐が頼康の側室となり
懐妊するが12人の側室に妬まれ
無実の罪に問われる
常磐は奥沢城にいる父にあてた手紙を
シラサギの足に結んで放つが
父には届かずシラサギも常磐も追われて死んでしまう
シラサギの死んだ場所からサギソウが生えたという

のちに冤罪とわかり陥れた側室たちも殺される
そして常磐をふくめ十三の墓をつくり
十三塚と呼ばれた

目出たい話と悲しく陰惨な話が
伝わったことが興味深い

常磐の亡くなった場所には常磐塚がある

世田谷城址公園
吉良氏8代二百数十年の館跡で空堀をめぐらし、
烏(からす)山用水、北沢用水に囲まれた
平山城(ひらやまじろ)である
南北朝のころ足利氏の祖と同じくした吉良氏は
三河吉良氏の後裔で上野国飽間(あきま)郷を領し
貞治5年(1366)鎌倉公方りる世田谷を拝領した
長尾景春の乱では道灌とともに戦っている
小田原北条氏とも縁組みをして、吉良氏は蒔田城に移り、
世田谷城は北条氏が領した
秀吉の小田原攻めでは戦わず逃亡したが徳川の時代になると
高家として蒔田氏を名乗った

豪徳寺 曹洞宗
高輪泉岳寺の末である。文明12年(1480)
世田谷城主吉良政忠が母の菩提を弔うため建立したことが
はじまりである。天正12年(1584)に臨済宗から
曹洞宗に改宗、寛永10年(1633)彦根藩主井伊家の菩提寺になった
徳川四天王の1人井伊家の菩提寺としての威厳をもつ
仏殿は黄檗様式で裳階屋根に「元禄三年」銘の三世仏の扁額があり
阿弥陀・釈迦・如来の木像坐像が安置されている

墓地には桜田門外の変で暗殺された、井伊直弼の墓がある
井伊というと井伊直弼が有名だが戦国歴女は
井伊直政をよく知っている
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戦国無双 井伊直政


井伊家の墓だが直盛、直親、直虎、直政までは
井伊谷(浜松)の龍潭寺(りょうたんじ)にある

大河ドラマ「直虎」の父が直盛、次の代が直親だったが、
今川の謀略で殺されてしまい、直盛の娘直虎が女城主になる

直政は直親の子で徳川四天王となる

その子直孝から墓は豪徳寺になった
その直孝が鷹狩りの帰り小さな寺の前を通ると
猫が手招きをする仕草をした
中に入ると突然雷雨になり
雨宿りをさせてもらったことが縁で
井伊家の菩提寺となり直孝の法名にちなみ
豪徳寺となった

猫の手招きから寺の隆盛のきっかけになったことから
招猫堂が建てられた
願いが叶うと奉納するので
招き猫がいっぱいになる
ひこにゃんは豪徳寺の猫が
モデルになりひこちゃんも墓参りに訪れている

定かではないが直孝の奥様は蜂須賀小六の孫阿喜姫である
その姫の飼い猫がモデルになったという話もある

三重塔には干支の動物がいるのだがここはネズミと一緒に
招福猫がいるので必見である

勝國寺 真言宗
世田谷城の裏鬼門を護るという

国士舘大学  できればランチ

松陰神社
安政6年安政の大獄に連座し処刑された吉田松陰が祭神である
文久3年にようやく遺体を引き取りここに改葬された
この地は長州藩の別邸だった
明治15年墓の横に松陰神社が建立された
11歳で殿様の先生になるほど勉強がよくできたので
学問の神様として崇敬がある

吉田松陰は(1830)萩で生まれ
学業をたしなみ国をよくする手段として
勉学のため下田からアメリカに渡ろうと図るが失敗、
井伊直弼が大老の時行った安政の大獄で
萩の牢に入るが、そこで塾を開き
伊藤博文、高杉晋作、山県有朋たち
多くの将来の志士たちに教えた。


千住の小塚原については


世田谷代官屋敷
井伊家の代官大場家の私邸、役宅である
大場家は鎌倉時代の大庭景親の流れという
戦国時代吉良四天王のひとりとして武勇があったが、
秀吉に小田原北条が滅亡したことでこの地に帰農した
寛永10年(1633)井伊家が世田谷を領有することになり
代官となり世襲された

隣接して世田谷郷土資料館がある
世田谷の歴史をわかりやすく展示している

大吉寺
吉良家の祈願寺である
寺内大吉の生家である
「はぐれ念仏」で直木賞をとった作家であり
スポーツライターであり
僧侶で増上寺の法主も勤めた人である
2008年に亡くなった

常磐塚
常磐がこの地で亡くなりお腹にいた
嬰児8ヶ月もここで亡くなるが
胞衣に吉良の紋章があらわれたという
この塚は13塚のひとつとも言われるが
あとの塚は現在そんざいしない
ここの13塚は常磐を妬み後にに殺害された
側室たちの塚だと伝わる

駒留八幡宮
徳治3年(1308)北条左近太郎成願が馬が立ち止まった
ところに八幡大神を勧請したことが始まりで
室町時代常磐がこの近くで亡くなり死産したその子供を
祀り若宮八幡と称した
常磐は弁財天として祀られた


参考:猫のあしあと・ウイキペディア・各寺社HP・東京都の歴史(山川出版)












by gannyan1953 | 2018-01-15 12:14 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)
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