歴史と素適なおつきあい 2019・6・14
喜多見城址
東京23区に藩と城(陣屋)がおかれたことは
珍しい事で、そこには静かで重厚なお寺があった・・城跡である
二子玉川駅西口改札口・・バス「「玉07 成城学園駅西口」乗車
・・「次大夫堀公園」下車・・次大夫堀公園民家園・・喜多見稲荷塚古墳
・・大六天塚古墳・・慶元寺(陣屋跡)・・喜多見氷川神社
「道とん堀」ランチ・・二子玉川駅
喜多見藩とは
藩主の喜多見氏は、江戸氏の流れで、平安時代は
江戸を領地としていた。
江戸重継を祖とし、広範囲に勢力を広げた。
戦国時代、太田道灌に領地を明け渡し現在の喜多見に移った。
古河公方、北条氏の家臣となり、北条が敗北すると
徳川の家臣となった。
そのとき姓を改め江戸初期に喜多見勝忠となった。
関ヶ原、大阪の陣の功績で近江の郡代となった。
綱吉のときに喜多見重政が家督を継いでいたが
綱吉に寵愛を受け1万石を領した。
貞享3年(1686)には2万石の大名になり
武蔵喜多見に喜多見藩が立藩し、幕府のお膝元という
立地にもかかわらず築城も許され費用は将軍綱吉から賜った。
ところが
元禄2年(1689)喜多見氏の分家が刃傷事件を起こし
連座して改易となったという。
側用人となり犬の支配役だった。
重政は桑名藩お預かりとなり、元禄6年(1689)に
桑名で亡くなった。
改易理由は不明だが重政が亡くなったあと
「生類憐れみの令」が急速に悪法に進んだという。
柳沢吉保陰謀説、綱吉の怒りをかったともいわれる。
次大夫堀公園民家園
次大夫堀
小泉次大夫に因んだ用水で
狛江から世田谷、大田区にあった六郷用水のことである。
次大夫は徳川家康の命で二ヶ領用水や六郷用水を造った人である。
この場所は用水のあったところに再現されたものである。
喜多見稲荷塚古墳
砧古墳群のひとつで6〜7世紀の円墳である。
泥岩切石積石室があった。埋葬者の太刀、耳環、埴輪など
発掘された。
須賀神社
第六天塚古墳
喜多見古墳群のひとつで5〜6世紀の円墳である。
埋葬施設が礫郭で埴輪が立てられていた。
喜多見城址・慶元寺
寺は平安時代に江戸氏によって現在の皇居紅葉山に造られた寺で
東福寺といった。
江戸氏が江戸を道灌に譲り、喜多見に移転したとき
ここに移転され、寺名も変えた。
江戸時代将軍家光から朱印状を賜り格式ある寺院となった。
江戸太郎さん
本堂
三重塔
本堂は享保元年(1716)のもので世田谷区最古の寺院建築である。
貞享3年(1686)〜元禄2年(1689)
わずか3年の喜多見藩2万8000石があった陣屋跡、
喜多見城址は参道の右側にあったと思われる。
寺と神社の間の道
喜多見氷川神社
天平12年(740)創建と伝えられるが室町時代の洪水で
古文書が流失しているため定かではない。
古くは多摩川沿いにあったともいわれている。
祭神はスサノオノミコトで男装備の荒彫神像と伝わり、
創建当時のもの、行基作とも伝わる。
龍に見えない・・・
室町時代に江戸氏の修復を受け祈願所としたという。
江戸氏(喜多見氏)からの刀剣の奉納など
あったが、現存していない。
参道が美しい
帰り道 多摩川