歴史と素適なおつきあい番外編 2020・11・25
城主は愛甲三郎季隆と伝わる。
弓の名人で建暦3年(1213)和田合戦で和田方につき、
敗戦、滅亡した。
神明神社も跡地といわれ
はっきりしない。
(攻城団)
写真ウイキペディア
左が神明社・右が甲稲荷
円光寺は石田城址の円光院とは異なる。
線路脇にある寺で、
本堂脇の宝篋印塔は建久年(1192)の銘があるが、
実際には嘉元3年(1305)といわれる。
愛甲季隆の墓といわれる。
この寺は織田無道さんが住職になり、
一時は騒がれたが、今は住職ではない。
雑然としていて落ち着かないお寺だった。
伝愛甲三郎宝筺印塔
写真・ウイキペディア
岡津古久城に行く途中
愛甲三郎が北条氏と縁を切る決意をした場所
交差点の真ん中にあり、
近くに寄るのに難儀した・・・
愛甲三郎は源頼朝に愛されていた丹後の局を
日向薬師に案内していた。
ところが北条政子が千騎の軍を差し向け
さきほどの愛甲館・石田城を焼討ちにした。
この橋のたもとまで来ると館は火の海。
このとき北条方から心が離れ、
和田合戦へと進み、滅亡する。
村人たちはこの場所を
縁切橋と呼んだ。
近くの橋の名は玉川橋
なんとなく愛甲三郎の史跡は
いまいち大切にされていないようで、
愛甲石田という駅名を使っているのだから
大切にして欲しいなと思った。