歴史と素適なおつきあい番外編 2021・1・23
象の鼻パークに家舟の写真があった。
横浜の発展に貢献した港湾労働者の舟である。
芦間(あしま)出てみよ
煙が上がる
あれは時雨の舫(もやい)舟
立つる煙はほそぼそなれど
やはり浮世の泊り舟
北原白秋の歌である。
ゆっくりの曲で、哀愁があり、
今では曼珠沙華とともに
大好きな歌である。
ただ、頭から水上生活者の
ことが離れない。
どんな人たちだったのだろう。
このころは全国で家舟があり、
港湾労働者や、漁師さんたちの
住む舟の家があったという。
横浜では
日米和親条約によって開港した横浜に
土地を持たない農民が、
横浜湾岸労働者としての職を求めて
全国から一斉に集まってきた。
ここではだるま舟といわれたが、
だるま舟は決して水上生活する舟の
名称ではなく幅の広い運搬船のことだという。
家族共々暮らし、舟から落ちて
溺死する事故もあったという。
子供たちは舟から登校し、
帰宅しても家である舟がないときは
ずっと待っていたという。
学校に行ける子はいいほうで、
行けない子供たちが多かった。
そんな子供たちを助けるため、
水上学園が設立された。
証言に荷をおろした舟での
遊びがとても面白かったという。
ハシケ運送が繁栄したのは、昭和初期だった。
この頃、中村川沿岸には、亀の橋を中心に
大きな問屋街が形成された。
直接内陸部に物資を運ぶことのできる
ハシケ運送は、問屋街の発展に大いに貢献したのだった。
川岸の商店は、独自に荷揚げ場を持っており、
荷が着くと、商店の店主は深夜まで
荷揚げ作業に追われていたそうだ。
戦後、大型船の着岸が可能になり、
コンテナも普及し、
ハシケ運送業者の出番は急激に減った。
その後仕事がなくなり
1980年代まで
中村川には放置された舟が多くあった。
私は90年代に元町に行って
見たと思う。
そのころ家舟の事を知らなかったので、
なんか汚いなと思った記憶がある。
Deep案内では2011年に
亀野橋にまだ係留されているとあった。
参考:ハマレポ・水上学園
あまり演奏される事のない「泊り舟」
是非聞いて下さいね。