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歴史と素適なおつきあい番外編 2025・11・3 
城主はわかっていることは 後北条氏です。 江戸時代には青戸御殿があったので 家康です。
葛西城跡は、中世の城です。
青砥の「と」は戸と思えば、 港・・交通の要衝・・のこと。 近くに中川があるので 船も利用できます。
中川はもともとは荒川水系で このころは旧中川のことです。 城館に適した地になります。
発掘の様子です
鎌倉時代に葛西氏の館があったと いう説もありますが、 はっきりしたことはわからないそうです。
東京都文化財情報データベースによりますと 関東管領上杉氏(扇谷・山内)と古河公方との争いで 上杉方の拠点だったといいます。
その後 天文7年(1538)に北条氏綱が攻略し 北条方の城になったといいます。
長尾景虎(上杉謙信)の関東進出の際に 攻略され一時上杉方の城になりま すが、 北条氏康と里見義弘の 第二次国府台合戦以後は 北条方の城となり、北条氏滅亡まで続きます。
北条氏のころ拡張され、 堀が掘られ水路や土塁ががあり、 公園部分が城館ではなかったかと いいます。
道路を挟んで両側が 城館跡です。
江戸時代初期には徳川将軍家の鷹狩りの際に 青戸御殿として利用されたこと が知られています。 現在それで御殿山公園になっています。 小田原征伐で北条氏が滅亡していくとき、 持ちこたえていましたが、 家康配下の武将戸田忠次に落とされます。
江戸幕府の時代には 将軍家の御殿となり、青砥御殿といいました。
参考:葛飾区郷土と天文の博物館・ 東京都文化財情報データベース
道路を渡ると分断された 葛西城址が葛西城址公園になっています。 ここは子供達が遊ぶ公園になっていて 城址らしさはありません。
先に神社があります。
青砥神社
 「 万葉集に葛飾の稲のことが書いてあります。にほどりの葛飾早稲を贄すとも そのかなしきを外に立てめやも 米が取れるので新嘗の祭事を行ったということだそうです。 このあたりは土器の原料の粘土が多くあったので土器作りがさかんでした。葛飾は葛西御厨になっていました。
葛飾区郷土と天文の博物館  御殿山遺跡古墳時代前期の遺跡は 御殿山遺跡といわれます。  場所が違いますが葛飾といえば寅さん・・ 寅さんがいた柴又駅ちかくに柴又八幡神社があります。古墳もあってそこから出土したのがこの埴輪 寅さん埴輪です。 帽子を被った埴輪はまるで虎さんです。山田洋次監督も驚かれたそうです。
葛西城址の出土品です。 こちらにも美濃焼の天目茶碗がありますが、白い釉薬の天目茶碗です。 天目は基本黒いと思ってました😅

by gannyan1953
| 2025-11-03 23:25
| 東京都 歴史散歩
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