人気ブログランキング |

歴史と素適なおつきあい

幻境の碑と浄福寺城址

歴史と素適なおつきあい番外編   2019・5・2

b0228416_14224087.jpg
幻境の碑

北村透谷が慕った秋山国三郎のことを
書いた
三日幻境の記念碑

透谷は民権運動に挫折、女性に対する理想が高すぎるのか
大好きな奥様に対し疑問をいだき

15歳のときにあった秋山国三郎に7年ぶりに
会いに行く

その時のことを書いた話だが
ここから透谷は作家として認められていくが
このあと数年でこの世を去る

眉間に皺よせて生きたんだな・・・・


八王子北口発の「上川霊園」行きのバスに乗って
30分くらいだったか
「GMGゴルフ場」下車

円福寺に秋山国三郎さんの墓がある
寺にお参りだけでもと思ったら
門の脇にあった。


b0228416_14551853.jpg

乗ったバスの方向に進むと左手に
b0228416_14224087.jpg
上川町東部会館のわきにあった

b0228416_15115926.jpg
会館の裏には
木の橋があった

北村透谷


透谷は明冶元年(1868)小田原の没落士族に生まれ転居により、
数寄屋橋近くの泰明小学校に通う。
透谷の名はスキヤからとったものである。

ロマン主義詩人としての透谷は多摩の地で生まれたともいえる。

15才の透谷は八王子(上川口村)にある近在の政治青年が
出入りしていた秋山国三郎の家を訪れていた。

国三郎は若い頃天然理心流に入門免許皆伝し、
俳句、義太夫そして放浪の旅にも出ていた。
透谷が訪れたころの多摩は自由民権運動に翳りがさし
、困民党騒動が起こっていた。
後に国三郎は困民党壊滅後の後始末に奔走する。

国三郎の家に起居したのは友人である
大矢正夫がいたからである。
透谷は15才、国三郎は50代であるが透谷は
国三郎に惹かれていく。
石阪昌孝の子公歴や大矢らと
親交を深め民権運動にも参加していった。
大矢は八王子の教員で熱烈な自由民権論者であった。
後に大阪事件に関与、強盗までした男である。
強盗に誘われ透谷は過激な民権運動に失望し、
頭を剃り大矢と決別することになる。

政治活動から脱落した透谷は、公歴と諸国回遊をしたころから
石阪家に出入りし公歴の姉美那と出会い、
紆余曲折の末キリスト教式で結婚、洗礼もうけていた。
石阪の民権運動の懇親会では、
徳富蘇峰や足尾銅山事件の田中正造とも同席している。
政治活動からの脱落、現実行動の喪失は文学活動において
自己の内面を発見させた。
農民、貧民、強国の名のために切り捨てられていく
民衆をみつめ反戦運動もした。

政治家に配った弾劾文には

「賎を苦しむる封建的圧政の力行われ悲しいかな。
愚昧なる小権力者相争うて(略)無力なる助けなく
友なき多数の貧民の難やめんとしつつある(略)
彼等相奪ふ者は何ぞや、是等貧民を圧抑せんと
欲する欲権ならぬか(略)
請ふ、汝が政治家の仮面を取り去れ、
請ふ、汝が愛国者の衣を脱げ、彼等上下を衣ざれども
依然として門閥の毒勢を逞しうして良民を残害す。」 
明冶24,5年のものである。

農村では小作と地主が対立、各地で騒動が起き、
期待された自由党は貧民の期待にはこたえていない。
透谷は明冶27(1894)年妻子を残し、
別居中の芝の自宅で縊死した。
透谷の文学者、思想者として支えたのは
民権伸張の思想であった。
痛ましい結末は国権に圧殺された
民権の死ともいえた。


多摩の民権運動に興味のある方は
随分前のことですが、
コチラを参考にしてください


そのまま上川橋まで進むと旧鎌倉道が残っている

b0228416_15141231.jpg
b0228416_15141541.jpg
この土地らしいお蚕様

b0228416_15132129.jpg
戸沢観音堂

b0228416_15135808.jpg

ここからもどらず美山通りに斜めに合流する道が鎌倉道


美山通りは道の上を通っているので
旧道が残っているのかよくわからない

消滅している気がするので

普通に美山通りを歩く

b0228416_15195352.jpg
戸沢峠

b0228416_15201579.jpg
左手上がほんとの戸沢峠なのかな・・

美山通りを行き八王子西インターもすぎると
下恩方工業団地入口の交差点を右に

しばらく行くと
変な形の四叉路



b0228416_15172063.jpg
いろいろ交叉路に集められている

ここを左


b0228416_15172469.jpg
ほんの少しだが旧道を楽しむ


また美山通り

川原宿交差点を右折

川原宿は案下道の宿なのか
よくわからない

ここは陣場街道昔は案下道といったらしい

ずっと行くと
小学校に
b0228416_15343111.jpg
ちょっとドッキリ!!

北条氏照と久佐夫人だった

この先久佐さんのご実家浄福寺城址に向かう

b0228416_15400478.jpg
浄福寺

b0228416_15402304.jpg
b0228416_15402732.jpg
至徳元年(1384)大石の信重によって築城と伝えられる
後法条の時代に
八王子城の出城としなり、
八王子落城のときここも落城とある。

b0228416_15433568.jpg

左脇に白山大権現が見え
左からお墓をぐるりとまわると ここにこれる

ここから登城開始!


b0228416_15444146.jpg
観音堂

b0228416_15445923.jpg
b0228416_15453631.jpg
観音堂から階段を見下ろす

まだまだ登る

b0228416_15461499.jpg
b0228416_15461973.jpg
写真はわかり辛いが
かなりの急勾配

途中断念!

頂上には祠があるらしいが確認できず

昔なら登ったのに・・・

ジムで頑張ってもやはり山登りはきつかった

ここは1人で行きたくなかったので

ご主人様に同行をお願いしましたが

筋肉ないなと嘲笑されました・・・

下山すると八王子行きのバスが待っているのが見え
なぜかその時は猛ダッシュで下山

バスに乗れました
爆睡・・・


今回は北村透谷の小田原の墓や碑を見たり
多摩の民権運動を勉強した時から
ちょっとひっかかる方だったので
幻境の碑をみてみたく出かけました

















# by gannyan1953 | 2019-05-03 15:52 | Comments(0)

喜多見藩を訪ねて 東京23区唯一の藩

歴史と素適なおつきあい   2019・6・14

b0228416_16080321.jpg





喜多見城址



東京23区に藩と城(陣屋)がおかれたことは
珍しい事で、そこには静かで重厚なお寺があった・・城跡である





二子玉川駅西口改札口・・バス「「玉07 成城学園駅西口」乗車
・・「次大夫堀公園」下車・・次大夫堀公園民家園・・喜多見稲荷塚古墳
・・大六天塚古墳・・慶元寺(陣屋跡)・・喜多見氷川神社
「道とん堀」ランチ・・二子玉川駅


喜多見藩とは

藩主の喜多見氏は、江戸氏の流れで、平安時代は
江戸を領地としていた。

江戸重継を祖とし、広範囲に勢力を広げた。

戦国時代、太田道灌に領地を明け渡し現在の喜多見に移った。
古河公方、北条氏の家臣となり、北条が敗北すると
徳川の家臣となった。

そのとき姓を改め江戸初期に喜多見勝忠となった。

関ヶ原、大阪の陣の功績で近江の郡代となった。
綱吉のときに喜多見重政が家督を継いでいたが
綱吉に寵愛を受け1万石を領した。

貞享3年(1686)には2万石の大名になり
武蔵喜多見に喜多見藩が立藩し、幕府のお膝元という
立地にもかかわらず築城も許され費用は将軍綱吉から賜った。

ところが


元禄2年(1689)喜多見氏の分家が刃傷事件を起こし
連座して改易となったという。
側用人となり犬の支配役だった。

重政は桑名藩お預かりとなり、元禄6年(1689)に
桑名で亡くなった。

改易理由は不明だが重政が亡くなったあと
「生類憐れみの令」が急速に悪法に進んだという。

柳沢吉保陰謀説、綱吉の怒りをかったともいわれる。



次大夫堀公園民家園

b0228416_16073630.jpg
b0228416_16074406.jpg
次大夫堀


小泉次大夫に因んだ用水で
狛江から世田谷、大田区にあった六郷用水のことである。

次大夫は徳川家康の命で二ヶ領用水や六郷用水を造った人である。
この場所は用水のあったところに再現されたものである。



喜多見稲荷塚古墳
b0228416_16090870.jpg
砧古墳群のひとつで6〜7世紀の円墳である。

泥岩切石積石室があった。埋葬者の太刀、耳環、埴輪など
発掘された。

b0228416_16093646.jpg
須賀神社



第六天塚古墳


b0228416_16100369.jpg



喜多見古墳群のひとつで5〜6世紀の円墳である。
埋葬施設が礫郭で埴輪が立てられていた。



喜多見城址・慶元寺


b0228416_16104742.jpg
寺は平安時代に江戸氏によって現在の皇居紅葉山に造られた寺で
東福寺といった。

江戸氏が江戸を道灌に譲り、喜多見に移転したとき
ここに移転され、寺名も変えた。


江戸時代将軍家光から朱印状を賜り格式ある寺院となった。
b0228416_16105505.jpg
江戸太郎さん


b0228416_16111670.jpg
本堂


b0228416_16122008.jpg
三重塔



本堂は享保元年(1716)のもので世田谷区最古の寺院建築である。


貞享3年(1686)〜元禄2年(1689)
わずか3年の喜多見藩2万8000石があった陣屋跡、
喜多見城址は参道の右側にあったと思われる。


b0228416_16124523.jpg
b0228416_16132143.jpg
寺と神社の間の道



喜多見氷川神社


b0228416_16141095.jpg
b0228416_16142968.jpg

b0228416_16144082.jpg

天平12年(740)創建と伝えられるが室町時代の洪水で
古文書が流失しているため定かではない。

古くは多摩川沿いにあったともいわれている。


祭神はスサノオノミコトで男装備の荒彫神像と伝わり、
創建当時のもの、行基作とも伝わる。


b0228416_16145351.jpg
龍に見えない・・・


室町時代に江戸氏の修復を受け祈願所としたという。

江戸氏(喜多見氏)からの刀剣の奉納など
あったが、現存していない。

b0228416_16163824.jpg
参道が美しい




b0228416_16164069.jpg
帰り道 多摩川

















# by gannyan1953 | 2019-04-30 16:20 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

2020年オリンピックマラソンコース②

歴史ウォーキング49    2019・6・15(土)

第2回マラソンコース  神田から浅草雷門まで歩きます

お申し込みは

b0228416_19041317.jpg
浜町公園

集合:6月15日(土)9:45 JR「神田駅」東口改札口

今川橋・竜閑堀跡・・長崎屋跡・・福徳神社・・三浦按針遺跡
日本橋・・日本橋日枝神社・・蠣殻町・・銀杏八幡宮・・水天宮・・郡代屋敷跡・・江戸城浅草見附跡
浅草天文台跡・・蔵前神社・・駒形橋・・吾妻橋・・雷門





今川橋・竜閑堀
b0228416_17123300.jpg
竜閑川は元禄4年(1691)に開削された堀で人工の川である。
神田堀、神田八丁堀などと呼ばれていた。
五街道の東海道以外の街道は日本橋から
最初の今川橋を渡る。
江戸時代安永年間(1700年代)ここに大判焼きの店があり、今川焼という名が
ついたという。
資材運びなどに使用された。
日本橋川の河口付近に
竜閑という武士の屋敷があったために
竜閑堀といわれた。
明暦の大火後防火のため土手が築かれ
町民が自ら資金を調達し開削したという。
安政4年(1857)に埋められたが
明治16年(1833)又開削され
戦後のガレキを処理するために埋められた。
堀跡を辿ると伝馬町牢屋敷につながる。

b0228416_17144728.jpg
b0228416_17145557.jpg


長崎屋跡
b0228416_14165823.jpg
b0228416_17162075.jpg


幕府が鎖国をし、オランダのみ長崎の出島に商館をおき、
貿易が許された。商館長カピタンはお礼のため江戸に来て
この長崎屋に滞在した。手土産を献上、将軍に拝謁した。
将軍には献上物、家老などには進物といい、
残った場合売却され旅費などに充てたという。
旅費は12000両、莫大な儲けをする
オランダの自己負担である。
江戸は長崎屋、京都は海老屋、大阪は長崎屋
下関は大町年寄、佐甲家、伊東家
小倉は大阪屋などに宿泊した。
江戸では厳重に役人が監視したが京都では監視がゆるく
芸者や遊女を招き、羽目をはずすこともあったという。
大阪では輸出品の銅の精錬を行う住友銅吹所を見学する事が慣例だった。
南蛮人から学んだ製法で粗銅から銀を抽出できた。
ここで饗応を受け、それを見学にくる庶民には銅吹所の泉屋が
炊き出しをしたという。
江戸の長崎屋には、オランダ人の知識を得るため
多くの蘭学者や医師などつめかけたという。

福徳神社  ウカノミタマノミコト
b0228416_17165904.jpg
貞観(じょうがん)年間(清和天皇の頃で800年代)には
鎮座していたという。福徳村の鎮守だった。
源義家が崇敬し太田道灌が武具を奉納、家康も参拝、
徳川秀忠は木々の春の芽吹きが美しいと
芽吹稲荷と別名をつけた。
b0228416_17171291.jpg

b0228416_17193291.jpg
三越
このあたりの大理石に化石が見える

三浦按針遺跡
b0228416_17210834.jpg

三浦按針ことウイリアム・アダムスは
イギリスで生まれ、造船技術や航海術を
身につけ、航海するうちオランダ人と親しくなり
オランダ商船リーフデ号で太平洋にでて遭難、
日本の九州臼杵に漂着した。
当時秀吉の元で五大老だった家康が
江戸に招き帰国を願うアダムスを
米や俸給を与え慰留し
数学や天文学、通訳などさせた。
三浦半島に領地を与えられ
「安針塚」という駅名になっている。
家康の死後、鎖国もあって
平戸で寂しく亡くなったという。
いっしょの船に乗っていたヤン・ヨーステン
は八重洲の地名に残る。
彼は朱印貿易でジャカルタからの帰国途中
インドシナで座礁、溺死した。
日本人と結婚した2人の子孫は今でも
いつのだろうか。
記録が残っていない。

日本橋
b0228416_17181953.jpg
b0228416_17182916.jpg
これは道路の真ん中にあるので
見たい人は車に気をつけてくださいね

慶長8年(1603)木造の太鼓橋が架けられた。
最初は粗末な2本の木で架けられたから日本橋、
日本の中心だったから日本橋の説がある。
現在の石橋は
明治44年(1911)に架けられた。
架橋100周年に舟めぐりが始まった。
魚市場の跡や橋の景観を見直す動きもある。
日本橋は江戸開府とともに城下町として急成長し、
全国から商人や、職人が集まった。
五街道の起点で水運に恵まれ、
多種多様な物質が集結、流通した場所である。

日本橋日枝神社 日枝大神
b0228416_17231479.jpg
b0228416_17231611.jpg
b0228416_17231908.jpg
天正18年(1590)家康が日枝神社を崇敬し
ここは八丁堀北嶋(鎧島)祓所という御旅所だった。
神輿が船で神幸(しんこう)した。
ご神木は触るとパワーもらえるという
空仰ぐ狛犬は遠吠えしているといわれ
癒されるのだそうだ

其角住居跡
b0228416_17262525.jpg
其角は芭蕉の弟子であしゃれな俳句を詠んだらしい
英一蝶が八丈島に流されくさやが送られてくると
英一蝶は達者だと喜んでいたという
吉原でいっしょに遊んだ仲だという
八丈島に差し入れの品を送るんだろうに
八丈島から送られてくるのが面白い


 

蠣殻町
漁師の小網の干場で、
牡蠣の殻が堆積した浜だったという説がある。
江戸時代は大名や武士の屋敷が多かったが、
明治になり鎧橋が架けられると庶民が住み着き
キッコーマンやヤマサなど醤油製造販売や、
砂糖の卸店など商人の町となり発展した。

銀杏八幡宮
b0228416_17261724.jpg
蠣殻町の鎮守で樹齢400年の銀杏がある。
昭和のはじめ銀杏を移転し商店街にする計画があったが、
近隣の住民が
三番地の人「三番地の空き地へ」
四番地の人「いや四番地に」
三番地の人「冗談いうねえ、三番地に立っているんだ」
四番地の人「よさねえか、根っこは四番地にはっているんだ」

移転は中止となった。

水天宮
b0228416_17395524.jpg
b0228416_17400406.jpg

久留米藩の有馬家が、久留米の水天宮を

三田の上屋敷に勧請した。

藩邸にあったので、一般人は参拝できなかったが、

一般参拝の許可を求める伺いを幕府に願い出たところ

毎月5の日に一般公開されるようになった。

有馬家は賽銭、奉納物、販売物など安政のころ

年間2000両にのぼり、貴重な収入になった。

明治4年赤坂に屋敷とともに移転したが

翌明治5年現在地に移転した。

江戸鎮座200年を記念して社殿の建て替えを行った。

現在の宮司は有馬家当主である。



郡代屋敷跡
b0228416_17464767.jpg
郡代とは関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する役目で
行政、裁判、年貢徴収、警察権、鷹場の管理を行った。
といわれるが、実際には伊奈氏のころには関東代官といわれ
伊奈氏が改易された以降を郡代という役職名になったという。
伊奈氏は家康父子に仕え湿地帯で水も不足した
江戸を作り上げた人である。

伊奈氏は12代200年間に渡り世襲し、

7代は宝永大噴火の砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行にもなった。

高山の観光地の高山陣屋は伊奈氏が高山の郡代も兼ねていて、

幕府直轄の天領の陣屋である。

関東郡代は伊奈氏の自称で他の郡代、代官とは別格だった。

のちに老中の直属となり伊奈氏の地位をめぐる御家騒動が起こった。
寛政4年(1792)に罷免、改易された。
諫言によるといわれている。
御家騒動とは、11代は子が生まれず
備中松山藩主の子を養子にした。
その子は12代になった。
そののち11代の実子が生まれ、
12代は子がなかったので、実子を
跡継ぎにした。
ところがそのあと12代に子ができると
跡継ぎをめぐりややこしくなった。
12代は天明の打ちこわしで庶民を救うため
借金をしたが、返す事ができず
とうとう家中のものが幕府に
12代の不行跡を訴え
結果12代も実子も失脚した。
幕府は借金は個人的なことで
知らぬ顔をしたというが、
権力と人望を持った伊奈氏の力を
怖れての事かもしれない。
b0228416_17473175.jpg
b0228416_17473448.jpg

江戸城浅草見附跡
b0228416_17492538.jpg

江戸を守るための見張り番所だがこの場所は隅田川にかかる

重要な場所だった。明暦の大火で小伝馬町の老屋敷にいた罪人が

戻る約束をして放免されたが、脱獄と伝わり

この門を閉めてしまったため、

江戸市民が逃げ場を失い命を落としたといわれる。 

このあと防備より、防災を重視し両国橋が架けられた。

浅草天文台
b0228416_17513781.jpg
幕府の天文方があり、暦を作ったり天体観測も行われた。
伊能忠敬もここに通った。

蔵前神社
b0228416_17534287.jpg
b0228416_17535288.jpg
b0228416_17541702.jpg
元禄6年(1693)五代綱吉が石清水八幡宮より勧請、
江戸鬼門除けとされた。

榧寺
b0228416_17584074.jpg
b0228416_17584445.jpg
秋葉大権現のおかげで数多い江戸の火事で焼けなかったお寺

b0228416_19000322.jpg
駒形どじょう


駒形(こまかた)堂
b0228416_19000946.jpg
b0228416_19001401.jpg

駒形堂に由来する地名で駒形堂は天慶5年(942)
平公雅(たいらのきんまさ)によち建立された。
円仁作の馬頭観音を祀るためと伝わるが
古くは浅草寺の総門があったという
昔は駒形の渡しがあった。
ちなみに土地の人はこまかたという。

平公雅は、将門の親戚で父良兼が将門の所領を
求め戦っていたが、将門との関係は中立だった。
父が人質にした将門の妻子を将門に
返している。乱ののち武蔵守となり、
浅草寺の再建をした。

吾妻橋
橋は安永3年(1774)に架けられ
それまでは「竹町の渡し」があった。
橋名は隅田川が大川と呼ばれていたので
大川橋だったが、向島の吾妻神社に行く道だったので
吾妻橋となった。
吾妻神社は北十間川に沿って押上の東にある。

雷門
b0228416_19001749.jpg
外国人が多く
「江戸てんや」で食事したが、
現金で支払いできなくて
帰る日本人もいたことが面白い
店内各国の言葉で、みんな上手に箸を使っているのに
感心した。


創建は定かでないが、慶安2年(1649)家光が再建したときに
雷門という表記がある。
駒形堂に総門を造り、鎌倉時代に移築された時
風神雷神を配したといわれている。
幾度も焼失し、慶応年間から再建されず
昭和35年(1960)松下電機の松下幸之助により
燃えないようにコンクリートの門が寄進された。


# by gannyan1953 | 2019-04-04 15:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

日本橋七福神巡り

歴史と素適なおつきあい   2019・5.8(金)


最近最強スポットと言われるようになった
小網神社もあります
老舗をのぞきながら歩きましょう

集合:9:50 半蔵門線「水天宮」駅

水天宮・・松島神社・・茶の木神社・・谷崎潤一郎生誕の地・・
西郷隆盛邸跡・・小網神社・・ランチ魚久・・
甘酒横丁・・末廣神社・・笠間稲荷神社・・
椙森神社・・(小津和紙)・・水天宮か三越前



日本橋
慶長8年(1603)木造の太鼓橋だったが、現在の石橋は
明治44年(1911)に架けられた。架橋100周年に舟めぐりが始まった。
魚市場の跡や橋の景観を見直す動きもある。
日本橋は江戸開府とともに城下町として急成長し、全国から商人や、職人が集まった。
五街道の起点で水運に恵まれ、多種多様な物質が集結、流通した場所である。
暖簾、企業という形で今も成長している活気のある町である。
町名は日本橋を冠する町が21あり、日本橋を残したい人々の思いが伝わる。

日本橋七福神
昭和25年頃、有馬頼寧(よりやす)の提唱で始まり、51年に復活した。(江戸東京札所辞典)
頼寧は有馬家の末裔で伯爵、政治家だった人で水天宮は江戸時代有馬家が勧請した。



水天宮 弁財天 安産・子宝・美の向上

b0228416_22535088.jpg
b0228416_22535773.jpg
b0228416_17400406.jpg
弁財天

久留米藩の有馬家が、久留米の水天宮を三田の上屋敷に

勧請した。藩邸にあったので、一般人は参拝できなかったが、

一般参拝の許可を求める伺いを幕府に願い出たところ

毎月5の日に一般公開さ

されるようになった。

有馬家は賽銭、奉納物、販売物など安政のころ年間2000両にのぼり、

貴重な収入になった。

明治4年赤坂に屋敷とともに移転したが翌明治5年現在地に移転した。

江戸鎮座200年を記念して社殿の建て替えを行った。

現在の宮司は有馬家当主である。



松島神社 大黒天 金運

b0228416_22541029.jpg

創建は定かではないが、鎌倉時代以前と伝わる。

ここは昔島で、松の繁茂するなかに島の鎮守となり、

松島稲荷大明神となった。

正徳3年(1711)社号にちなみ

松島村と称した。

周囲を埋め立て大名屋敷を造営するために

集まった大工、左官、家具職人など住み着き

蛭子社に合祀し、水子供養のため布切れ、

土、木片などで乳児の形をつくりお供えした。


茶ノ木神社 布袋 福徳

b0228416_22541602.jpg

江戸時代佐倉藩の大老堀田家の中屋敷の鎮守だった。

社の周囲は丸く刈り込まれた茶の木が植え込まれた。

この屋敷は火災がなく、いつのころからか火伏の神と

崇められ、堀田家は年一回初午の日に一般参拝を行った。

お茶の木さまと親しまれた。


京粕漬け魚久

初代は奈良の生まれで京都で料理修行して

日本橋に隣接する蠣殻町で大正3年「魚久商店」を開業した。

日本橋に魚河岸があり、蠣殻町は米相場を支配する商業の中心地だった。

昭和15年に「江戸風懐石魚久」を開店すると

粕漬けが評判になり、現在に至る。


谷崎潤一郎生誕の地

明治19年(1886)この地で豊かな家庭に生まれた。

その後すぐに身代が傾き、進学も危ぶまれたが

学業に秀でていたため援助をうけ東大に進学している。

東大在学中から小説を書き、最初は北欧的なスタイルだったが

関東大震災を機に関西に移ってから

純日本的な傾向になり、日本の美しい文体を

確立した。私生活は結婚、離婚を繰り返し

細君譲渡事件もあった。


鯨と海と人形町

b0228416_22543754.jpg

あやつり人形のバネは鯨のひげが使われる。

文楽の人形の首の動きは弾力のある

鯨のひげでなければ出せないという。

寛永のころこのあたりには芝居小屋があり、

人形をつくる職人が多く住んだ。


西郷隆盛屋敷跡

b0228416_22545239.jpg

江戸時代は姫路酒井藩に下屋敷があり、

明治4年(1871)新政府に参議として

上京し、ここに明治6年まで住んだ。

26000坪の広い屋敷で

書生15人ほど、下男7人を雇い、

猟犬数頭が飼われたという。


小網神社 福禄寿 強運

b0228416_22550870.jpg

1000年前ころに観世音と弁財天があったという。

文正元年(1466)疫病が流行し、漁師が稲穂を持って

この庵で数日過ごすと夢のお告げで稲荷を勧請すると

疫病が止むといわれた。早速稲荷大明神として称し

祈願をすると疫病がとまったという。

太田道灌はこの神徳に崇敬したという。

太平洋戦争では氏子の出征兵士がお守りを受け

その兵士が全員生還したこと、

社殿が戦災を免れた事、

宮司がご神体を抱え新大橋に避難したが

新大橋も被災しなかったことなど

強運厄除の神と大変人気がある。


甘酒横丁
明治始めに甘酒屋があったことに由来する。
明治座にむかう道である。
つづらやが有名である。

末廣神社 毘沙門天 勝負運
元和3年から明暦3年まで吉原がこの地にあり
地主神として信仰され、明暦の大火で吉原が移転してから
この地の氏神となった。延宝3年の社殿修復の折扇が見つかり
末廣神社となった。

笠間稲荷神社 寿老人 長寿
笠間藩牧野氏の下屋敷にあった。綱吉から拝領した土地で
広い庭園には池、築山を設けた。
綱吉は生母桂昌院とともに30数回は訪れたという。
江戸末期には初午の日には一般参拝に公開された。
廃藩後も笠間稲荷東京別社として被災、戦災で社殿を失うも
再建された。

椙森神社 恵比寿 商売繁盛

平安時代に平将門の乱を鎮定するため藤原秀郷が

戦勝祈願した所と伝わる。

室町時代は太田道灌が雨乞い祈願のために

伏見稲荷のを勧請、江戸時代は椙森稲荷といわれ

富くじの富興行が行われた。

昭和6年にコンクリートの社殿が造られ
戦災を免れた。














# by gannyan1953 | 2019-04-03 15:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

江戸城の火事の跡

歴史と素適なおつきあい番外編

孫と日本橋から江戸城見学をした

b0228416_22172655.jpg
これが江戸城の火事の跡

まずは日本橋三越へ

b0228416_22120750.jpg
b0228416_22121411.jpg
三越の化石を見つけた

大きな化石はこうして印があるが、
探すとたくさん見つかる

アンモナイトしか見つけられなかったが
なかなか面白い

老舗のデパートはイタリア産の大理石を
使っている
アルプス山脈はアフリカ大陸がぶつかり、
隆起したという
このとき海の底もいっしょに隆起し
アンモナイトが埋まったらしい
日本橋でアルプス山脈と地球を
考えるの面白い


b0228416_22135028.jpg
b0228416_22135447.jpg
b0228416_22135724.jpg
b0228416_22140122.jpg
途中工事中の囲いの塀が
ゴジラでいっぱいになっていた

とりあえず私が見たと覚えている映画のみ
写真をとった

ゴジラのテーマは
アイヌの人を迎えるために
踊ったリズムで作曲された

b0228416_22260962.jpg

行進呪術(北の考古学・瀬川氏のブログ)

おもしろいのが行進呪術で「諏訪明神絵詞」にもあるが、

千鳥足で歩く行進呪術は修験道の反閉(へんばい)をまねたものらしい。

仲間が遠くから帰ってきたときに悪いものを持ち込まないように行う呪術である。

この行進呪術は芸能化されタプカーラという踊りになる。

その踊りからヒントを得て作曲されたのが、「シンフォニア タプカーラ」で

ゴジラの作曲者の伊福部氏である。

最近では地震緊急速報の音はタプカーラの音から作られた。

彼は和人だが北海道出身でアイヌの文化を見て、アイヌを身近にして育った人である。

ゴジラの壁を、だだだん だだだん と歌いながら
見てきた




江戸城は新天皇即位と
サクラを見に来る人でいっぱいだった

b0228416_22172655.jpg
天守台石垣の焼跡で、これは本丸御殿を焼失した
文久3年(1863)の大火で石が焼けた

黒い線が、石が燃えて割れた跡

天守閣が燃えたときかと思ったら違っていた
明暦3年(1657)の明暦の大火で
本丸は焼けてしまった

以後、天守閣が再建される事はなかった

b0228416_22185382.jpg
平川橋に江戸時代慶長の時代の
擬宝珠(ぎぼし)があった







# by gannyan1953 | 2019-04-02 22:22 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
> 福富洋一郎さん お..
by gannyan1953 at 11:14
ご指摘ありがとうございま..
by gannyan1953 at 09:01
 誤解しているようですの..
by ブラザー福島 at 18:10
> 痛いさん それまで..
by gannyan1953 at 22:25
私も頚椎症神経根です困っ..
by 痛い at 21:15
はじめまして 両親が東..
by 浦山 at 01:03
> Xさん キセルでは..
by gannyan1953 at 20:54
キセルですね。
by X at 14:57
ご担当者様 ご連絡..
by 坂本 理恵 at 10:52
> 坂本 理恵さん 追..
by gannyan1953 at 08:58
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧