歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:東京都 歴史散歩( 76 )

高幡不動まで歩いて行ってみた

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・1・31


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16年前、父とガンジー(ゴールデンレトリバー)と高幡不動に
車ででかけた
ここはワンちゃんも境内を歩くことができる
そのときにおみくじでいただいた
大黒天がなくなってしまったので
またおみくじいただきに出かけた

駐車場と歳さんの銅像近くのおみくじ
ひいたらなんと

今回も大黒天でした102.png

ありがとうございました169.png

歩くと約24キロ・・・街道歩きの気分


歩行時間は6時間30分







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川崎と横浜市の境界の送電線沿い
尾根伝いに歩く


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新百合ケ丘を過ぎて平尾

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稲城は山の中を走って行く記憶だったが
ものすごく開発されていて昔が思い出せない

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日大グランド脇の道は昔のままだった
昔通った時 狸が横断したことがある

急ブレーキかけたので、後ろに車がいなくてよかったと思った

さすが平成狸合戦ポンポコの多摩だ


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諏訪下橋手前、獣医さんを右折すると諏訪坂館跡
鎌倉時代の居館跡といわれるが
詳しくはわからない
鎌倉街道近くにある

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直ぐ近くの諏訪下橋・・鎌倉街道になっている

歩く道は直進する

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多摩市役所の脇は昔市場だった

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多摩市役所の辺りは台地の上にあり裏手は谷になっている

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大きな農家が残り風情ある道が続く

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山田君自販機

この手は山田君だろうか?
ただ今 ジョージアに問い合わせ中
返事いただけるといいな・・・

数日して・・・

こ・・コ・・コカコーラからきれいな声のお姉様から
こちら「コカコーラでございます」と
電話あり

少しビビった

お尋ねの自販機のジョージアを持つ手の主は
「山田孝之さんではありません」

と申し訳なさそうにおっしゃってくださいました

大変恐縮して電話を切りました

コカコーラ様お電話ありがとうございました127.png

今後とも山田君をお引き立て下さいますよう
お願い申し上げます

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宝泉院

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大栗川 この上流で大学生だった息子がギターを夜弾いていて
職務質問された息子の話を思いだした


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高幡不動 土方サンこんにちは!

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早速お位牌にお参り

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五稜郭に伝わる歳さん埋葬の伝承地

14年前だったか訪れた場所だ

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松平容保篆額の殉節両雄の碑

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歳さん
こんにちは!
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参道には山田君自販機いっぱい


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お土産

土方歳三まんじゅうは人形焼きになっていて
頭から食べるか
足から食べるか迷う

歳三恋歌は
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ミルク味で美味しい!


今日は山田君自販機と
トシさんにお参りでき
幸せな一日でした
































by gannyan1953 | 2018-02-03 10:21 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

旧羽田町を訪ねて

歴史と素適なおつきあい    2018・3・9(金)



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穴守稲荷が現在の空港にあったことがわかる


集合:9:50 京急空港線「穴守稲荷」駅

穴守稲荷駅・・コンちゃん・・鴎稲荷・・赤レンガ堤防・・羽田の渡し・・
玉川弁財天・・福守稲荷・・五十間鼻無縁仏堂・・大鳥居・・白魚稲荷・・
駅前地蔵尊・・天空橋・・穴守稲荷駅前ランチ・・穴守稲荷



羽田の歴史

羽田の漁師は平治年間(1159)に7人の落人からはじまりと伝わる

中世から猟師が定着し小田原北条の水軍だったとも伝えられる
天正18年(1590)までは小田原北条の家臣
行方与次郎という武士の支配地だった

江戸時代参勤交代の船橋、大坂夏の陣には軍船となった
漁場は多摩川河口で大量の栄養が流れてくるので
絶好の漁場だった

干潟が大きく貝が豊富だった
江戸時代元禄の頃田んぼが増えて猟師町にも
農家が増えてきた


羽田の地名の由来は
海に接する場所をハネというから
陶土が出るところを植田(はねだ)というから
などいわれる

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玉川弁天社 広重

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羽田の渡し 広重
広重の羽田の渡しの絵にある常夜灯は弁天社のもので、
龍王院が岸部に竜灯を灯した

海の龍神の火である

玉川弁財天の玉は宝珠のことで
奥多摩日原山に弘法大師の建てた大日堂があり
そこから湧き出る泉の中から宝珠が湧き出て
多摩川を流れ羽田の水中で光っていたという

高野山系の聖が多摩川上流からやってきて
そして定着して龍王院を建てたという話になる

穴守稲荷はそのずっとあとの話で
現在空港のあるところは昔要島といった

浅瀬で新田開発のため干拓された
天明年間に名主鈴木弥五右衛門という人が
海岸に出張っていた洲を開墾したのである
文化12年(1815)完成しその守護のため
稲荷を勧請したという

明治になって穴守稲荷は神社に昇格し
海により近い場所に位置し人々の
信仰が流行していくことになった



穴守稲荷の裏にはきつねの穴があるが
田山花袋は
穴の向うの土手に立って

「大都会の呼吸を聴くような響きがかすかに海を伝って響いてくる」

「東京近郊に縁起が古い訳でもない稲荷が屈指の
流行神になったということは
不思議な現象である」


戦後すぐの強制退去
戦後羽田空港を接収したGHQが
昭和20年9月21日1200世帯の住民に対し
48時間以内の立ち退きを命令した
住民は有無を言わせぬ命令に無念だったことと思う
補償があったのかはわからないが、

当時の羽田は小学校、神社、海水浴場、鴨猟場
競馬場があり賑わっていた

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明治18年(1885)穴守稲荷が勧請され今の空港の位置にあった
明治35年(1902)年蒲田からの電車が通り行楽地となった
大正6年(1917)日本飛行学校ができた
昭和4年(1929)国策会社の日本航空輸送が運行を開始(2年間は立川発着)
昭和6年(1938)東京飛行場開設 羽田空港の歩みが始まる



海苔の養殖も盛んで戦後のGHQの強制移転で
海苔業者は転職を強いられた
このとき都内に17組合4190人の関係者に
330億円の補償金が支払われた


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コンちゃん
おはようございます





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ここ羽田は山田君いっぱいいます


鴎稲荷  祭神:宇迦之御魂命


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創建は鳥居に弘化2年乙巳年3月吉祥日と刻まれていることから

弘化2年(1845)と思われる

鴎が多く大漁の兆しとして祀られたことから

鴎稲荷神社といわれた



赤レンガ堤防

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大正から昭和にかけて多摩川の治水工事で

つくられた堤防である


羽田の渡し

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太子橋
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羽田の渡しの碑


羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎)を渡る「羽田の渡し」があった
約80mの距離で「おーい」という声が届いたという
徳川家康が狩りにきて1人で渡し場にきた
船頭は家康とは知らず馬の鐙を取ったという
2、30人乗れる船で魚介や農産物、衣料品など運んだ
賑わいをみせていたが昭和14年大師橋ができ、廃止された
昭和30年頃までは佃煮業者が多く存在した

正蔵院

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羽田神社
小田原北条の頃牛頭天王を祀ったことから創建された
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登れないが富士塚あり
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凍っています
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山田君





玉川弁財天

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玉川弁財天



弘法大師が護摩の灰を固めて自ら製作したご神体があるという
龍王院が別当寺で上の宮と称した
要島(現在の空港の地)の新田開発で下の宮としてこの地に弁天社が
勧請された
厳島、江ノ島と玉川は日本三大弁天といわれたという
ちなみに普通にいわれる日本三大弁天様は
厳島、江ノ島、竹生島の弁天様である
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水神社



戦後の退去命令により、下の宮に遷し現在に至る
登録は水神社になっている

福守稲荷
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もしかしたら私有地にあるお稲荷さんかも
現在修理中



五十間鼻
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90mの実感ができない
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なんだか怖い
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


洪水防止のため長さ五十間(約90m)石を敷き詰め
急流から岸辺を守るために作られた
関東大震災、空襲など死体が多く流れ着き
五十間鼻無縁仏堂が建てられた
今では初日の出を見る人で賑わう場所である

大鳥居
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弁天橋を渡ると移された大鳥居がある


戦後すぐの9月のGHQによる強制移転で
穴守稲荷は現在地に遷された
この土地も土地の人の寄付によるものである
ところが、元の社殿など壊していくが
鳥居だけは事故など起こり、壊すことができない
そのまま平成まで空港内にとどまっていた
祟りの鳥居とか呪われた鳥居などと言われていた
航空関係社は、事故が起こらないようお参りするようになったという

取り残された穴守稲荷の鳥居は
平成11年(1999)ようやく現在地に移転された
移転費用は有志からの2000万円で行われている
強制立ち退きで現在の所有者が、判明していないからである
平和の扁額は羽田ボランティアの会が掲げたものである

今ではパワースポットとして多くの人が訪れている



白魚稲荷神社 祭神:宇迦之御魂命

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漁師が白魚を奉納する習わしがあったことから
称された
創建年代は不明だが旧羽田猟師町の成立した頃
1600年代(正保から元禄)と考えられている
貝の業者のあと砂利の業者からも慕われている

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飛行機から見える場所にあった看板の廃墟
いまは沖合に滑走路が延びたのでこの看板を飛行機から
見ることはできない
さびついてさびしい


天空橋
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色が茶色
ラピュタのイメージなし


駅名は日本一かっこいい駅名といわれたこともあるが、周囲に
民家もなくもとは羽田空港駅だった

現在は京浜急行とモノレールが接続されている

以前私も天空のラピュタを想像して訪れたことがあるが、
京急線は地下の駅で外に出たら殺風景で
そのまま空港まで誰1人歩いていない道を歩いた
行き着いた場所は研修センターとかで電車に乗って
羽田空港ターミナルに行くしかなく
ある意味面白い場所である

川にかかる天空橋は昔地下に潜る前の
京急線で行楽地に向かう路線だったところを
人道橋にしたという

飛行機好きにはたまらない橋だという
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鉄橋らしさは感じる
飛行機とんだけど遠い!
飛行機見学には向いていない
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京急が地下を潜る前の羽田空港駅前のお地蔵さん


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山田君

天空橋こえると人家はなく
消防署があっただけ


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天空橋から穴守橋渡って穴守稲荷にむかう
飛行機の操縦の練習台だったそうだ
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食事処はなく穴守稲荷駅周辺しかなく駅まで戻った
商店街の
居酒屋さんランチ
680円
コーヒー飲み放題サービス

美味しかったです


穴守稲荷  祭神:豊受姫命

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名主鈴木家が自宅に勧請した稲荷があった

天保の初めか文政の末か、
堤防決壊の危機にみんなで堤防にあいた穴を塞いだ

被害を食い止めたのは稲荷を祀ったからに違いないと
鈴木家だけでなく地域の信仰の対象になった

穴とは堤防に開いた穴のことで
遊女たちは性病から守る神として信仰があった
稲荷を勧請したのは土手に穴を開けるネズミ退治に
お稲荷さんのきつね様をお連れしたかったからだという

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迫力の面構え



社殿は明治になって暴風雨で壊れたため再建したが
温泉もわき、潮干狩りができ、旅館や芸者の置屋もでき
大変な賑わいを見せた

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いい雰囲気です
鳥居をくぐると
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奥宮です
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役目を終えた鳥居ですかね
ここに御神砂があり自分で袋に詰めます
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いただきました
雪が溶けたら・・庭にまきます







神社がパワースポットと言われるのはお砂のことで
いただいたら、床下や新建築の土地の中央におくという

いわれは

昔々漁から戻って釣った魚を入れるかごを
見ると釣った魚がいません
わずかな砂があるだけです

こんなことが続き、きっと穴守稲荷のきつねの仕業と思い
捕まえてみたもののきつねを放しました

それからその漁師は大漁が続きかごにあった砂を
家にまいたところ大変な富を得ることができました

それから招福の徳にあやかろうと穴守の砂を求めるようになった
といわれます

奥宮の後ろにまたお稲荷さん
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伏見稲荷のミニチュアみたい












羽田空港半世紀の歴史

蒲田・羽田の歴史

大田区HP

猫のあしあと

東京都の歴史散歩 中:山川出版



by gannyan1953 | 2018-01-24 16:51 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

招き猫の発祥の地を訪ねて

中川歴史ウォーキング         2018・3・17(土)

大河ドラマ「直虎」の井伊家の殿様が由来する
かわいい招福招き猫のふるさとです
戦国時代の楽市が今でも続くボロ市
そして泣き泣き高杉晋作らが
松蔭先生の亡きがらを葬った松蔭神社があります


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豪徳寺の招き猫





集合:9:45 東急「三軒茶屋」中央改札口出たところ


三軒茶屋・・電車「宮の坂駅」下車・・世田谷八幡宮・・勝光院・・世田谷城址公園・・
豪徳寺・・勝國寺・・松陰神社・・世田谷代官屋敷・・世田谷区立郷土資料館・・
大吉寺・・常磐塚・・駒留八幡神社・・三軒茶屋



三軒茶屋
国道246号線(玉川通り)と世田谷通り(津久井往来)の分岐点で、
江戸時代この地に茶屋が3軒あったことから地名の由来になった
現在は田中屋が陶器店として残っているがもう店を閉めているようだ
世田谷線は荒川線とともに残る路面電車である。
全長5キロで今回は2、7キロ先の宮の坂駅まで楽しむ

世田谷八幡宮 祭神:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
源義家が後三年の役の戦勝を記念してたてたといわれる
天文15年(1546)吉良頼康(よりやす)が再建し
吉良家の氏神となった

勝光院 曹洞宗
建武2年(1335)世田谷城主吉良治家(はるいえ)開基で
吉良家の墓地がある

天正元年(1573)吉良氏朝が父頼康の菩提を弔うため
横浜小机の雲松院から僧を招き中興した
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河吉良荘より起った
世田谷吉良氏は庶流で、14世紀後半から世田谷を支配した
16世紀氏朝のころは小田原北条氏と婚姻して
北条とともに没落した
徳川の時代になると上総寺崎村に所領を移すが
旗本として存続しこの寺はずっと菩提寺とされてきた

二つのシラサギ伝説

めでたい伝説
「愛縁仏縁起」によると北条氏康の娘・崎姫が永禄元年(1558)
蒔田から三千石を持参し吉良家に嫁入りした。
天文6年(1537)春薬師如来のお告げがあり、
シラサギの足に和歌を書いた短冊を
つけて放したら、頼康の鷹がこれをとらえた
その縁で嫁入りをしたという
愛縁薬師如来は2尺の木像で運慶作と伝えられる

悲しい伝説
奥沢城(九品仏)に伝わる話で
奥沢城主の娘常磐が頼康の側室となり
懐妊するが12人の側室に妬まれ
無実の罪に問われる
常磐は奥沢城にいる父にあてた手紙を
シラサギの足に結んで放つが
父には届かずシラサギも常磐も追われて死んでしまう
シラサギの死んだ場所からサギソウが生えたという

のちに冤罪とわかり陥れた側室たちも殺される
そして常磐をふくめ十三の墓をつくり
十三塚と呼ばれた

目出たい話と悲しく陰惨な話が
伝わったことが興味深い

常磐の亡くなった場所には常磐塚がある

世田谷城址公園
吉良氏8代二百数十年の館跡で空堀をめぐらし、
烏(からす)山用水、北沢用水に囲まれた
平山城(ひらやまじろ)である
南北朝のころ足利氏の祖と同じくした吉良氏は
三河吉良氏の後裔で上野国飽間(あきま)郷を領し
貞治5年(1366)鎌倉公方りる世田谷を拝領した
長尾景春の乱では道灌とともに戦っている
小田原北条氏とも縁組みをして、吉良氏は蒔田城に移り、
世田谷城は北条氏が領した
秀吉の小田原攻めでは戦わず逃亡したが徳川の時代になると
高家として蒔田氏を名乗った

豪徳寺 曹洞宗
高輪泉岳寺の末である。文明12年(1480)
世田谷城主吉良政忠が母の菩提を弔うため建立したことが
はじまりである。天正12年(1584)に臨済宗から
曹洞宗に改宗、寛永10年(1633)彦根藩主井伊家の菩提寺になった
徳川四天王の1人井伊家の菩提寺としての威厳をもつ
仏殿は黄檗様式で裳階屋根に「元禄三年」銘の三世仏の扁額があり
阿弥陀・釈迦・如来の木像坐像が安置されている

墓地には桜田門外の変で暗殺された、井伊直弼の墓がある
井伊というと井伊直弼が有名だが戦国歴女は
井伊直政をよく知っている
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戦国無双 井伊直政


井伊家の墓だが直盛、直親、直虎、直政までは
井伊谷(浜松)の龍潭寺(りょうたんじ)にある

大河ドラマ「直虎」の父が直盛、次の代が直親だったが、
今川の謀略で殺されてしまい、直盛の娘直虎が女城主になる

直政は直親の子で徳川四天王となる

その子直孝から墓は豪徳寺になった
その直孝が鷹狩りの帰り小さな寺の前を通ると
猫が手招きをする仕草をした
中に入ると突然雷雨になり
雨宿りをさせてもらったことが縁で
井伊家の菩提寺となり直孝の法名にちなみ
豪徳寺となった

猫の手招きから寺の隆盛のきっかけになったことから
招猫堂が建てられた
願いが叶うと奉納するので
招き猫がいっぱいになる
ひこにゃんは豪徳寺で飼われている猫が
モデルになりひこちゃんも墓参りに訪れている

三重塔には干支の動物がいるのだがここはネズミと一緒に
招福猫がいるので必見である

勝國寺 真言宗
世田谷城の裏鬼門を護るという

国士舘大学  できればランチ

松陰神社
安政6年安政の大獄に連座し処刑された吉田松陰が祭神である
文久3年にようやく遺体を引き取りここに改葬された
この地は長州藩の別邸だった
明治15年墓の横に松陰神社が建立された
11歳で殿様の先生になるほど勉強がよくできたので
学問の神様として崇敬がある

吉田松陰は(1830)萩で生まれ
学業をたしなみ国をよくする手段として
勉学のため下田からアメリカに渡ろうと図るが失敗、
井伊直弼が大老の時行った安政の大獄で
萩の牢に入るが、そこで塾を開き
伊藤博文、高杉晋作、山県有朋たち
多くの将来の志士たちに教えた。


千住の小塚原については


世田谷代官屋敷
井伊家の代官大場家の私邸、役宅である
大場家は鎌倉時代の大庭景親の流れという
戦国時代吉良四天王のひとりとして武勇があったが、
秀吉に小田原北条が滅亡したことでこの地に帰農した
寛永10年(1633)井伊家が世田谷を領有することになり
代官となり世襲された

隣接して世田谷郷土資料館がある
世田谷の歴史をわかりやすく展示している

大吉寺
吉良家の祈願寺である
寺内大吉の生家である
「はぐれ念仏」で直木賞をとった作家であり
スポーツライターであり
僧侶で増上寺の法主も勤めた人である
2008年に亡くなった

常磐塚
常磐がこの地で亡くなりお腹にいた
嬰児8ヶ月もここで亡くなるが
胞衣に吉良の紋章があらわれたという
この塚は13塚のひとつとも言われるが
あとの塚は現在そんざいしない
ここの13塚は常磐を妬み後にに殺害された
側室たちの塚だと伝わる

駒留八幡宮
徳治3年(1308)北条左近太郎成願が馬が立ち止まった
ところに八幡大神を勧請したことが始まりで
室町時代常磐がこの近くで亡くなり死産したその子供を
祀り若宮八幡と称した
常磐は弁財天として祀られた


参考:猫のあしあと・ウイキペディア・各寺社HP・東京都の歴史(山川出版)












by gannyan1953 | 2018-01-15 12:14 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

2018年七福神 向島七福神



歴史と素適なおつきあい番外編   2−18・1・6(土)


押上から鐘淵まで歩いた

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スカイツリー
あけましておめでとうございます


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ウシジマ神社
山田君お参りに来たのかなあ

鳥居が三重になっている
三ッ鳥居


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撫で牛

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堀辰雄旧居近くの墨田公園


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古東海道だった

三囲(みめぐり)神社


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ライオンさんにはびっくり


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多くの稲荷社

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ドスの利いたこんこんさん

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今度は三つ巴のようになった鳥居::三柱鳥居
太秦にもある・・渡来だからか謎めいておもしろい


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恵比寿様と大黒様

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弘福寺の前の天婦羅屋さん

弘福寺
布袋尊
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かめさんがいる

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咳の神様


長命寺

弁財天

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家光が飲んだ水は手水になっていた
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桜の葉も一緒に食べると塩味が美味しい


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左の少年って王さんだよね


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王さんが少年時代プレーした野球場

奇しくもこの日

星野仙一さんが亡くなった

長命餅食べてしばらくして知った

ショックだった

10代からファンだった


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星野仙一記念館

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長命餅食べたので食べなかったがもう少し安いといいな


鳩の街商店街

レトロな街だった
赤線地帯もあったらしい

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一歩はいるとこの景色

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すぐに山田君


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これが商店街

一歩裏に回ると

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タイルで飾られた赤線特有の建物みつけた

向島百花園
福禄寿
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来る道ずっときびだんこの宣伝が電柱にあった

屋台の店だったと思ったら出張販売


白鬚神社

寿老人
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黒人塚って何か?

色黒のお医者さんの歌碑だそうだ



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お犬様

木母寺方面へ
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隅田川神社
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かめさんコマ亀


木母寺

高貴な男の子がさらわれ途中で亡くなりおかあさんが探しにきた話


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木母寺


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蛇さん


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都営住宅のそばに榎本武揚像があった
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木母寺の梅若塚


多聞寺
毘沙門天
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多門寺の山門はカッコいい


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なぜ狸が?

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狸塚があった


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いたずらする狸に和尚様が怒って
出てけと言ったら
狸が死んでしまったという

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帰り道の山田君


鐘淵駅にむかう

なんとも狭いメインストリートだった

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駅前の碑


終了



























































by gannyan1953 | 2018-01-06 18:18 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

自由が丘から駒沢オリンピック公園

歴史と素適なおつきあい    2018・2・9(金)
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栗山久次郎の顕彰碑



田舎者には、セレブな町自由が丘はまぶしかった
娘がピアノを習いに自由が丘に通い始めたら
庶民的であったかい一面もみえてきた
なつかしい東京オリンピックの開催地にも近い

集合:9:50 東急自由が丘駅正面口

トモエ学園記念碑・・熊野神社・・内村鑑三旧居跡・・東光寺・・
常園寺・・東京オリンピックメモリアルギャラリー・・駒沢大学駅

自由が丘
駅のあたりは衾沼(ふすまぬま)という沼だったので丘というより低地だった。
荏原郡碑衾町から自由が丘になった。
自由ヶ丘とは、舞踊家石井漠が最初に研究所の名称に使ったらしい。

昭和2年(1927)栗山久次郎氏が鉄道を誘致を勧め
東京横浜電鉄(現東横線)が開通し「九品仏前駅」ができ、
この年自由ヶ丘学園もできた。
昭和4年に九品仏浄真寺門前に駅ができることになり、
地名の「衾駅」となるところ、
「自由ヶ丘駅」に改名した。
目黒区自由ヶ丘から現在では住所も駅名も
自由が丘になっている。

トモエ学園
自由ヶ丘学園の創始者が亡くなり経営難になり、
幼稚園・小学校を小林宗作が引き継ぎ
トモエ学園となった。

リトミックを通し、自由な創造を大切にした教育だった。
卒業生に黒柳徹子(トットちゃん)津島恵子、池内淳子
物理学者の山内泰二(たいじ)らがいる。
山内泰二はトットちゃんの同級生で
エピソードが話に出てくる。
小林宗作校長は国立音大で美輪明宏にリトミックを
教えている。

戦災で焼失し学校はなくなった。

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自由ヶ丘の山田君

熊野神社
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熊野信仰は平安時代中期に盛んになったが、
ここは鎌倉時代より東国武士、庶民のあいだに
西方熊野を極楽浄土になぞらえて
参詣が盛んになった。当神社もそのころ
勧請されたものではないかと思われる(御由緒より)

みこしはかつて三島由紀夫がかついだことがある
三島は上流階級の育ちで厳しい祖母のもとで
みこしを担ぐことを禁じられていた

31歳になった三島はボデイビルに通い体もたくましくなっていた
神輿を担ぎ方に食い込むみこしの重みと熱狂に陶酔している

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内村鑑三旧居跡 開館 月・水・金曜
明治40(1907)年に大阪の香料商から内村鑑三に寄贈された建物で
北新宿にあった。取り壊されるところ、弟子たちの奔走により
この地に移築された。

内村鑑三とは・・・幕末に高崎藩士の子として江戸で生まれた。
明治10年札幌農学校でクラークの影響で農学校の学生たちはキリスト教が多く、
先輩たちに無理矢理キリスト教に改宗させられたが、
内村は神社でいちいち敬礼しなくてよくなったことを喜んだという。
しかし同期だった新渡戸稲造や宮部金吾(植物学者)とともに
真摯にキリスト教を学んだ。
明治、大正時代の代表的キリスト教の指導者、伝道者である


小杉山常圓寺
天正18年(1590)創立で、開基は小杉甚七(常圓)という。
拠点の法華寺が不受不施派に対する幕府の弾圧で
天台宗に改宗されたため、ここは身延山久遠寺末の寺となった。
中興した日長は小杉甚七の実子で優秀な子供だった。
36歳のとき
将軍家光やお万の方の勧めで谷中感応寺9世となった。
そして疲弊していた実家の寺を再興した。


東光寺 曹洞宗

泰陽院霊徳院という。世田谷城主吉良治部大輔治家が
10歳で早生した嫡子の菩提を弔うため創建された
東岡寺といっったが後東光寺と改めた
青梅の海禅寺末(将門の梅がある寺)で
天文19年(1550)には寺領30石を拝領している

元の寺名は東岡と書いて「とうこう」と読ませた。
東の谷に円融寺という大きな寺がある。
東光寺の真東にあたる谷である
そこから太陽が昇るので東岡というのではないか。
そこで碑文谷の地名の由来は日の門の谷から
碑文谷になったと思われる。(碑文谷地名考)

円融寺もまたさきの常圓寺と同じ不受不施派の弾圧で
苦しんだ寺である。

その円融寺の梵鐘と感応寺の梵鐘は同じ日に作られた
同じ作者の梵鐘だと言う。
ここで常圓寺を再興した日長との関係がわかる。
梵鐘の注文者は日長で、寄贈者だった
(圓融寺こぼれ話より)

この梵鐘は除夜の鐘に使われ、最近の圓融寺は
光のマジックが大晦日に奉納され賑わっている

東光寺境内には
白山堂、心字池がある

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吉良家について
吉良と言えば一番の有名人が赤穂浪士に討たれた
吉良上野介である

吉良氏は愛知県三河吉良が出身地で
清和源氏足利氏一門である

三河、奥州、土佐と別れ
この地の世田谷城主治家は奥州吉良家の流れである

ちなみに吉良上野介は三河吉良氏の流れである



駒沢オリンピック公園

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第18回オリンピック競技大会の第2会場として整備された
駒沢競技場にある

サッカー(陸上競技場)入口正面にサッカー会場だったと銅板にある
ホッケー(第一、第二球技場、補助競技場)
レスリング(体育館)正面左にレスリング優勝者銘板がある
バレーボール(屋内球技場)二階正面に東洋の魔女と刻まれている

で熱戦が繰り広げられた。

中止となった第12回の幻の東京オリンピック(1940)の主会場になる地だった
オリンピック記念塔の池の中に聖火台があった
陸上競技場内にも聖火台があり全国4コースの
聖火リレーの点火式が行われた

東京オリンピックメモリアルギャラリー
東京オリンピックの関係展示物が見られる

元は東京ゴルフクラブというゴルフコースだった
昭和天皇がイギリスの王太子エドワードとプレーしたこともあった
1953年プロ野球東急フライヤーズの本拠地となったが
東京オリンピックのため東京都に用地返還した
高山英華を中心に設計は芦原義信ら5人だった























by gannyan1953 | 2018-01-04 14:07 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな新宿散歩

中川歴史ウォーキング

多様な人が行き交う新宿は文人や芸術家など好んで集まり
学生運動でも有名になるなど若者の叫びが聞こえた時代もありました
今でも眠らない街といわれるディープな新宿を歩きます



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これが見たかった
ゴジラ



集合:伊勢丹正面改札口 9:45



新宿の歴史

旧石器時代の遺跡があり、古くから人が住んでいた。
平安時代から平将門が関わる鎧神社や鬼王神社があり
文献に残るものに、1340年の足利義詮から預かった「牛込文書」がある
江戸時代になると、甲州街道が整備され、日本橋から次の宿の高井戸まで距離があるので
名主高松喜六らの願いにより「内藤新宿」ちうy宿場があいだにできた
甲州街道を護る武士集団も四谷、新宿と配置され、笹寺には抜け穴伝説もある
宿は岡場所も多く飯盛り女、遊女など多く置かれ
江戸時代からすでに歓楽街の気質があった

関東大震災のとき、銀座や浅草に比べ岩盤が強かったので
被害が軽微だったことから震災後に発展する

戦後いち早く闇市ができ、人が多く集まった

5年後には闇市は撤去され跡地に雑多な店ができ、ゴールデン街など
新宿独特の繁華街が形成された

百貨店も多くありさまざまな人々が集客し「眠らない街」といわれる

天龍寺は江戸の街の裏鬼門の護りで、二代将軍秀忠の母方の菩提寺であり、渋谷川の水源である
角筈(つのはず)は北条氏家臣の渡辺与兵の髪型が変だったので
角筈といわれた

大久保は大きな窪地で湿地帯だったことがわかる

天龍寺あたりは明治になって芸人など身分の低い人たちが住み
貧民窟といわれるようになった








太宗寺

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大宗寺 浄土宗 本尊:阿弥陀如来

慶長元年(1596)
大宗がむすんだ草庵からはじまった
内藤氏の菩提寺として大宗寺となり
内藤氏が高遠藩に移されても関係は続いた

湧き水があり埋められてしまったが
まだ残る

閻魔様の話
赤ちゃんをおんぶしていた
乳母が泣き続ける子供を連れて
閻魔様のそばにいった

「そんな風に泣くと閻魔様に食べられてしまうよ」

というと
泣き声がとまった
乳母はホッとしたが赤ちゃんが背中にいないことに気づいた
あわてて境内を探すと

閻魔様の口におんぶ紐がぶら下がっていた・・・・

なんて恐ろしい・・・

閻魔像は
文化11年(1814)に安置され
内藤新宿のお閻魔様と親しまれた

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キリシタン灯籠

成覚寺


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文禄3年(1594)創建で
内藤新宿の飯盛り女の死後埋葬したことから
投げ込み寺といわれる

飯盛り女の共同墓、その供養碑である子供合埋碑(ごうまいひ)
遊女白糸塚がある
橋本屋白糸は青山百人町の鈴木主水と情死し
主水は家名断絶となった
この話をごぜ歌のヤンレイクドキや盆踊唄に歌われ流行した

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新宿ゴールデン街

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新宿ゴールデン街

闇市の跡地が青線地帯となり飲み屋街になった
多くの有名人が飲みにきていた

昭和初期に

永井荷風
直木三十五
泉鏡花
菊池寛
川端康成
大佛次郎
林芙美子

戦後は

佐木隆三
中上健次
タモリを九州から呼んだ会に赤塚不二夫
            山下洋輔
           坂田明
           三上寛
             長谷川法世
             南伸坊など
「森田を呼ぶ会」によってタモリは1975年に上京した
ブラタモリは大変参考になる番組で「森田を呼ぶ会」には感謝している

ゴールデン街に出入りした有名人はあまりに多いので
ウイキペディアを参考にしてください

私的には好きなドラマ「深夜食堂」は
ここにある設定で
実際のロケはスタジオだったらしい


歌舞伎町

歌舞伎町
東京産業文化博覧会のアトラクションのひとつとして
新宿コマの前身となった
阪急の小林一三が新しい国民歌劇をめざし梅田コマの姉妹劇場として建設された
新歌舞伎といわれたのが歌舞伎町の地名になった
昔は新宿コマの南東に鴨池があり弁天様があった
歌舞伎町弁天といわれ今もある

蟹川が大久保病院あたりからを水源として流れ戸山から神田上水に流れていた
鴨池は淀橋浄水場建設ででた土で明治末には埋め立てられた
その西には大久保町といわれ地名をみてもわかるとおり窪地があった

そこに十二社熊野神社があり森の奥の池には美しい娘が大蛇となって
住むという伝説があった

いかにも新宿の街を象徴するかのように水、森、蛇、弁天と
エロチシズムを感じる土地である

新宿コマはなくなり
現在ホテルグレイスリー新宿になり
東宝シネマが」ある

そこでゴジラが登場することとなった


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もっと離れればゴジラの顔まで写ったかも

都庁

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職員食堂スペシャル定食

「名古屋めし」


冷きしめん
味噌かつ丼
食べたら下までおりて


北展望室へ

下までおりて
南展望室へ

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真ん中の緑は
明治神宮



成子天神社


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成子天神社  祭神;菅原道真
昔柏木成子の地といわれたところに大神宮があり
天照大神を祀っていた

延喜3年(903)
太宰府で道真が亡くなり
その徳を慕い菅公神社から像を持ち帰り
勧請した

春日局よりこの地を賜り
平成26年に現在の社殿の造営が行われた

富士塚がある



春日局より




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鎧神社にいく途中の
山田君の自販機


鎧神社
醍醐天皇のころ(898〜929)行基作の薬師如来が祀られた円照寺が創建され
その鬼門鎮護のため社が創建された

ヤマトタケルが東国平定の折に立ち寄り甲冑を隠したと伝わる
それに加え天慶3年(940)に平将門が藤原秀郷に討たれ
この地の人々はその死を悼み天歴元年(947)に将門の鎧を埋めたと伝わる


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天仰ぐ狛犬



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わきの出入り口


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境内の天神社

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むかって右の狛犬正面
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右の狛犬 横から


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むかって左の狛犬




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左の狛犬 横から


皆中稲荷


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皆中稲荷は大久保と新大久保の間にあり

混雑している

 この大久保通りをまっすぐ進むと戸山公園がある


以前から気になっていた場所なので訪問

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途中の道に山田君自販機





































by gannyan1953 | 2017-12-14 14:25 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

渋谷の御嶽神社

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・12・25


韓国のセブンのライブに行った

渋谷に御嶽神社があった

階段をあがると
静かなたたずまい

喧噪が聞こえなくなっているのが不思議
神社の力に感心した


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不動尊


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ご利益ありそうなお不動様


ライブが終わって外に出ると
ものすごい人出

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青の洞窟 すごいことになって

整理のおまわりさんのマイクの声がうるさい


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右がライブのあったアイアシアタートーキョー

久しぶりのクリスマスの東京

ものすごい人ごみをさけて帰宅

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右上 セブンからのメッセージ

一人一人手渡しだったので
その丁寧さにビックリ

近くでみたらさわやかな顔立ちの人だった

あとは化粧品のおみやげ

サボテンオイルなかなかいいですよ

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セブンさん







by gannyan1953 | 2017-11-25 10:36 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

新宿旭町の貧民窟


歴史と素適なおつきあい番外編2017・11・18(土)






大正12年頃林芙美子は旭町(南町)にいた。




『新宿の旭町あさひまちの木賃宿へ泊った。
石崖いしがけの下の雪どけで、
道があんこのようにこねこねしている通りの旅人宿に、

一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。

三畳の部屋に豆ランプのついた、
まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、

明日の日の約束されていない私は、

私を捨てた島の男へ、

たよりにもならない長い手紙を書いてみた。



みんな嘘っぱちばかりの世界だった

甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく

百貨店マーケットの屋上のように寥々りょうりょうとした全生活を振り捨てて

私は木賃宿の蒲団に静脈を延ばしている

列車にフンサイされた死骸を

私は他人のように抱きしめてみた

真夜中に煤けた障子を明けると

こんなところにも空があって月がおどけていた。

みなさまさよなら!

私はゆがんだサイコロになってまた逆もどり

ここは木賃宿の屋根裏です

私は堆積たいせきされた旅愁をつかんで

飄々ひょうひょうと風に吹かれていた。』

林芙美子の「放浪記」の
一節である


林芙美子はこのあと
売春婦に間違えられそうになる

そんな場所であった・・・


ここで新宿裏町三代記を読み始めた・・
詳しい・・・

新宿旭町の貧民窟










内藤新宿南町にかつてあった
青梅街道と甲州街道の追分があり、
南に玉川上水が流れ
その上水の南が天龍寺で
南町となった

大正9年四谷区になり

旭町になった 



旭町の真ん中に天龍寺がある

東京3大スラムには はいっていないが
木賃宿が多くあった

成立は新しい

天龍寺の門前町だった新宿南町に明治20年(1887)
木賃宿営業許可がおりた

芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、四谷鮫ヶ橋などの中心部に近い

貧民窟を少しでも遠ざけようとしたからである。

ここから南町は貧民窟になっていった。




今でも
安いビジネスホテルがある

都会の死角のように
存在する

かつては売春婦 芸人 労働者などの人々が
泊まり、その家族まで住んでいたという


江戸時代この地は普通の門前町だった

ここで暮らしていた人々は
明治になって

急速にスラム化していく町にとまどった

「新宿裏町三代記」の作者

野村敏雄さんは三代前からここに住んでいたという

昭和7年「東京市広報」によると

「旭町は誰でも知っている細民街だ
木賃宿30軒
三畳一部屋40銭
どの部屋にもナンキン虫つきで
布団にはシラミがいる

一軒平均30室以上の部屋がある
子供の泣き声
夫婦喧嘩の声
日がなけたたましい

常泊者の多くは
自由労働者
流し
テキ屋
行商人
コモソ
貰い屋など」



天龍寺は格式高い寺で開山は大雄山最乗寺で
開基は家康の側室於愛とその父戸塚忠春である

於愛の方は二代将軍秀忠を生んだ

美しい音色の時の鐘もある

幻の東京オリンピック(1940)開催のとき

マラソン選手が走るだろうと
明治通に面して立派な山門を造った


戦争で開催は中止になった


寺は明治維新の廃仏毀釈で衰退し

寺地を町民に売り
細分化された

天龍寺の前の天龍寺橋のそばに
地蔵があった

旭地蔵という

寛政12年(1800)に建てられた地蔵様だが

新宿遊郭の遊女と心中した人々の供養塔だった

それが明治12年
北にある成覚寺(じょうかくじ)に移された

成覚寺は遊女を葬った寺、投げ込み寺といわれる寺で

旭地蔵はその寺の方が居心地はいいのかもしれない



雷電稲荷神社

むかし源義家が奥州征伐にむかう途中
雷雨にあい
ここで雨宿りした

どこからか白狐があらわれ
義家に3度おじぎをした

たちまち雷雨がやみ晴天になった

それで雷電という

嘉永のころ天龍寺門前に芝居小屋があった

「熊谷」が評判だったという

雷電様の前にある玉川上水のまわりに桜を植え
花見客も増え
遊郭も客引きをした

そんなに繁盛していた雷電様だったが

街のスラム化で収入も減り
維持が難しくなり
花園神社に合祀された

それでも跡地には神社が存在する


ここに突如「花王石鹸」の話がでてくる

新宿に鉄道ができた
明治18年

品川線といわれのちの山手線になる

駅は角筈村にあった
この旭町のすぐそばである

そのころ駅の周りに家はなかった
明治になって
失業士族の授産産業のひとつ
桑畑の開墾があり
その桑畑があった

そのころ越前から
飾り職人の「村田亀太郎」が上京した

飾り職人では不況の時代生きていくことが
できず

石鹸の製造工場「鳴春舎」に入社した

そして独立

旭町に工場兼住いを決めた

ひとりで手作り石鹸を作り始めた

牛込の長瀬商店に買収され
そこで石鹸の専属技術者となる

工場長となった亀太郎はここで

「花王石鹸」第一号を作り上げた

高級洗顔石鹸である

桐箱に3個を納めて35銭で販売した

米国のコルゲート石鹸は1ダース28銭だったから、
飛び抜けて高価な商品だった

販売に成功し
工場を大きくするため
旭町から向島に移って行った

読み始めて38ページ

なかなか興味深い本である


参照:新宿裏町三代記ー野村敏雄
東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く 藤木TDC

           







































by gannyan1953 | 2017-11-18 18:36 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

新宿の闇市

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・11・10


新宿の闇市は終戦の5日後に開かれている
スゴイ!







テキ屋飯島一家の小倉二代目関東尾津組親分・・尾津喜之助が
「光は新宿より」という言葉で募集した
テキ屋なのでやくざ業ではないが
その筋には顔が利いたらしい
衆議院議員に立候補し
次選で落ちたそうだ







戦中に建物疎開地といって空き地になっていた

新宿通り南側で、高野フルーツからビックカメラのビルまであった
地図①から②
ビックカメラの場所には竜宮マーケットがあった

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ヤミ市跡を歩くより



やがて新宿通りの南北にびっしり露店が広がった

和田組は現在のルミネエストあたりにマーケットを作った

昭和24年(1949)に撤去命令がでて
甲州街道沿い
錦糸町
歌舞伎町
百人町などに移転

和田組マーケットの半数は花園神社裏あたりに
移転し

歌舞伎町、新宿ゴールデン街など
青線営業をする店もあった

青線とは赤線廃止以降の
非合法売春のことである

ラッキーマーケットは安田組が仕切り
300店ほどあった
地図④〜⑤

これらの闇市のの中心部分には
営団の土地で昭和32年営団は立ち退き訴訟を起こす

現在の新宿パレットビル(地図⑥)の地にあった
新宿西口会館の地下部分に
小型飲食店を入れることで決着する

この北の部分が現在も存在する
思い出横町である
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もともとここは個人所有の土地で
店舗に分譲されたため土地が細分化され
開発が難しく

ゴールデン街とともに今では
外国人が訪れる街になった

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by gannyan1953 | 2017-11-12 18:35 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

東海七福神めぐり 江戸を守護する二大他界ゾーン 品川編

中川歴史ウォーキング36  2018・1・20(土)

東海七福神めぐり

江戸を守護する二大他界ゾーン 品川編


もうひとつの千住編はこちらを↓






マイ東海七福神スタンプラリー


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東海七福神は品川が東京市に編入された時、

その繁栄を願って創設された



七福神めぐりをしながら品川宿に残る幕末日本を感じましょう

土方歳三や竜馬の足跡も辿って、最後に鈴が森刑場跡を訪れます

以前訪問した「小塚原」と、対をなす「鈴が森」を

「江戸を守護する二大他界ゾーン」と名付けました



                  集合:9:45 京急「北品川駅」改札口



北品川駅・・『寿老人』一心寺・・『布袋尊』養願寺・・『大黒天』品川神社・・

『恵比寿』荏原神社・・『毘沙門天』品川(ほんせん)寺・・

『福禄寿』天祖諏訪神社・・『弁財天』磐井神社・・大森海岸駅


約8キロのコースで くたびれてしまっても大丈夫

京浜急行の駅がすぐあります


土蔵相模跡


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江戸時代から旅籠「相模屋」があり土蔵相模といわれた。

御殿山のイギリス公使館焼討ち事件の首謀者高杉晋作。


久坂玄瑞、伊藤博文など幕末志士が密議をした妓楼である。

桜田門外の変の浪士もここから出発している。


戦後は「さがみホテル」となりフランキー堺主演「幕末太陽傳」のロケに使われた。


このあたりは赤線地帯だったが今、面影はない。



問答河岸の碑

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沢庵和尚は紫衣事件で出羽に流罪になった。


紫衣とは・・朝廷から高僧に紫色の法衣などを賜ることで朝廷の収入源のひとつだった。


慶長20年(1615)江戸幕府は禁中並公家諸法度を定め、

みだりに紫衣を与えてはいけないとされた。


これに反し朝廷は紫衣を与え幕府がそれを阻止したという事件で、

幕府が朝廷よりも上に立ったということを示した事件である。


その後家光は大赦で許された沢庵と接見し沢庵は家光の信頼を得た。


この河岸に家光を迎えた沢庵とのエピソードがある。


家光「海近うして 東海寺(遠海寺)はいかに」 


沢庵「大君にして将軍(小軍)と称し奉るがごとし」


その後家光は沢庵が開基した東海寺を何度も訪れた。


近くの「居残り連」は落語「居残り佐平次」に登場する店である。
人をだますことを「おお恐」といい、「おこわ」になったという。

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古今亭志ん朝の落語をYouTubeで聞いてみたが面白かった。


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人気の天ぷら屋さん  10時過ぎなのにもう開店していた


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利田神社(加賀田神社)


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寛永3年(1626)東海寺の沢庵が弁財天を勧請した。


安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけ

南品川の利田吉左衛門により開発され利田新地といわれた。


寛永10年(1798)に暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑がある。

品川の港は鎌倉時代には出入りする船から帆別銭をとって、

円覚寺の造営費に当てられた。江戸時代には貝や多くの魚、海苔養殖と栄えた漁師町だった。


鯨はさすがに穫れる場所ではなかったので、

見たことも仕留めたことのない漁師たちが大勢で囲んで、

迷い込んだ鯨を仕留めた。


沖合につないだので船で見に行く人も増え、

とうとう将軍様にお目見えすることとなり、芝の浜御殿までひっぱって将軍に見せた。


その後品川にもどってきたが、腐り始めたので入札で払い下げられ解体した。

その頭部の骨がここに埋められた。


鯨はまれびと(漂着するもの)とされ死後儀礼をする文化があった。(鯨と捕鯨文化史:森田勝昭


御殿山下台場砲台跡


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台場小学校に幕末の防衛のために築かれた品川台場のひとつである。

資金不足のため海岸沿いに五稜形の砲台が築かれ、

154門の大砲が備えられた。


膨大な費用を使って築かれたが、大砲が火を噴いたのは試射の時のみとなった。


灯台は明治3年(1870)に第二台場に造られた品川灯台(現在明治村)のレプリカである。

 

埋め立てられたが周囲は道となって五角形がわかる(好奇心いっぱい心旅)


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辿ってみたが本当に五角形に道が残されている

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(好奇心いっぱい心旅)より



 一心寺  寿老人

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真言宗智山派で安政2年(1855)後に大老となる井伊直弼の開山と伝わる。

本尊は不動明王。


養願寺 布袋尊


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正安元年(1299)創建、汁慶が寛文年中に中興した。

本尊は虚空蔵菩薩で空海作と伝わる。


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お寺の煉瓦塀
ロケに使われる



小泉

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公園の碑
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井戸


寛文4年(1664)に旗本板倉主税の抱地になった地で

その後祐心の所持となり百姓地になった。

寛延(1748〜50)のころ小泉屋金左衛門の所持となり長屋を建てた。


今もレトロ感があり、あちこちに井戸がある。



品川神社  大黒天


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文治3年(1187)源頼朝が阿波から勧請し品川大明神といった。

北条高時が稲荷神、太田道灌が素戔嗚尊を祀った。

徳川家康が関ヶ原の戦勝祈願をしたことから社紋は丸に三つ葉葵とし、

家光の頃東海寺の鎮守となった。


明治になって東京鎮護の神社となった。



立派な双龍鳥居や備前焼の狛犬、富士塚は景色がいい。


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富士山に向かって合掌。

パワースポットと言われるところは一粒萬倍の泉で稲荷の奥にある。



天と地の恵みを祀りお金を洗ったり、

霊水を持ち帰って家を清めたりする。



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洗ってみました♫
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洗ったお金は隣のお稲荷さんのお賽銭に使いました


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陶製の狛犬




板垣退助の墓がある。


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今でも神社の裏は板垣家の所有の墓がある

低くなった一帯は板垣家の屋敷があった



正徳寺

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「サチのお寺ごはん」のロケ地。

雷豆腐がお気に入りで簡単でおいしい。


水を切った豆富を油でバリバリ炒め、ネギや天かすを加え、

醤油、好みで砂糖を加える。だしつゆが簡単。



品川本陣の跡


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東海道1番目の宿で大名や公家などが宿泊した本陣跡である。

跡地は公園となって明治元年(1868)に明治天皇が行幸の際の

行在所(あんざいしょ・天皇の休憩,宿泊)となったことから聖蹟公園とよばれる。


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荏原神社 恵比寿

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和銅2年(709)丹生川上神社より高龗神(たかおかみ・水神)を勧請し、

長元2年(1029)に伊勢より天照大神・豊受大神を、

宝治元年(1274)に京都八坂より牛頭天王を、

康平5年(1062)に源頼義、義家が奥州征伐の際に当社と大国魂神社に参籠した。


今でも大国魂神社の神職はくらやみ祭の際、

当社に参詣し品川の海で禊をする。


以後源氏、上杉、徳川と信仰が続いた。


明治になり品川貴船社から荏原神社になった。


狛犬は江戸ぼたんと言われとても美しいと評判である。拝殿の屋根の龍も美しい。


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屋根の両脇から龍が覗く








品川宿問屋場 (金子ビル)正面左


継立業務を行う宿場の役所で建物内には人馬の荷物の重さを

検査する貫目改所も設けられた。

幕末の「江戸うちこわし」はここからはじまった。

慶応2年(1866)米価高騰のため近くの本覚寺境内に農民が集まり、

墓地裏の火防稲荷から太鼓を持ち出し打ち鳴らし、

むしろ旗を掲げて気勢を挙げたという。(しながわ観光協会)


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2017年に終了したジョージ秋山のマンガ

「浮浪雲(はぐれぐも)」は品川の問屋場の話である。



江戸時代の護岸遺跡

海岸線の跡



畳 松岡

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安永8年(1779)創業の畳屋で仙台藩下屋敷のお抱え職人から現在は7代目である。

神社、料亭、旅館がお得意様で江戸千家御用達である。

建物は大正6年に建てられ浜風を防ぐ形をしている。




品川寺(ほんせんじ)毘沙門天


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大同年間(806〜810)弘法大師しより創建され

本尊は観世音菩薩(水月観音・聖観音)である。

弘法大師が東国にきてこの地の領主品河氏に

水月観音を授け代々600年伝わった。


足利と上杉の戦いで品川氏は滅び町の人々に守られてきた。


太田道灌が持仏の聖観音といっしょに観音堂に安置した。


永禄9年(1566)武田信玄の北条攻めで焼失、

水月観音は甲州に持ち出されたが持ち出した武士が発狂したため戻された。




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帰国した梵鐘

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江戸六地蔵


江戸時代になると徳川家の庇護を受け大梵鐘、

江戸六地蔵といわれる地蔵菩薩も寄進された。


明治になり廃仏毀釈で梵鐘は海外に搬出したが、

大正8年(1919)スイスジュネーブのアリアナ美術館にあることが確認された。


昭和5年(1930)ジュネーブより返された。



幕府御用宿 釜屋跡 新撰組土方歳三宿泊



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建場茶屋は旅籠より安価であったためよく繁盛したといわれ、

とくに釜屋は本陣同様の門構えで幕府関係者が多く利用した。


釜屋と歳さん


歳さんは元治2年(1865)3月21日午後、

隊士募集で江戸に下りここに到着している。


4月27日新人52名を引き連れ京都にもどった。


慶応4年(1868)1月10日鳥羽伏見の戦いで破れ、

負傷者とともに富士山丸で天保沖を出航、

1月14日横浜に入港。負傷者を横浜の病院に入院させ、

15日品川に到着した。


すぐに歳さんは近藤、沖田につきそい和泉橋医学所に行く。


江戸城に登城、報告し横浜の入院費用に100両を準備、

会津藩より2000両を受け取り、

先に順動丸で釜屋に宿泊していた隊士たちに手当が支給された。


隊士たちは1月23日元日向高鍋藩主秋月右京亮邸(三菱UFJ銀行本店)に移動。


2月12日から上の寛永寺大慈院で謹慎中の徳川慶喜の護衛についている。


3月1日に甲陽鎮撫隊として甲府に向かった。


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なかなか粋な家のそばにあった山田君

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続けてあった山田君


浜川砲台跡

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商店街にある龍馬さん


土佐藩の抱え屋敷(個人で購入)があったため土佐藩も砲台の築造をした。

そのとき坂本龍馬が警備をしていたことから

20歳の龍馬像や砲台がつくられた。



浜川橋(涙橋・泪橋)

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鈴ヶ森刑場で処刑される罪人を護送する時親族たちが見送った橋といわれる。

村松友視の小説「泪橋」の舞台である。



天祖諏訪神社 福禄寿


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神明宮と諏訪社は海に面し立会川をはさんであった。神明宮は天祖神社で平安時代、

諏訪社は江戸時代といわれる。昭和40年にいっしょになった。


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カッコいい家があった
家の方が写真とっていいよと言って下さった

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浜川神社なるもの発見
入ることはできない
何か・・怪しい

調べたら


修験道寺院として天明頃(1781-1789)に
厄神大権現を祀り創祀、
明治維新で神社となり浜川神社と称した

現在先ほどの天祖諏訪神社が管理

怪しくなかった・・・ところが

了善という人が羽黒修験となり、
自宅に厄神大権現を祀ったのが当社の始まり

江戸城大奥の女中や、諸大名から篤い尊信を受けていた

天保13年(1842)に了善は町奉行鳥居甲斐神のために穽られて
流罪となった
嘉永3年(1850)放免、
嘉永5年(1852)に了善の孫大野良顕が再興
明治維新の神仏分離の際に当社は神社となって浜川神社と称し、
良顕が還俗して神職となって奉仕した。

元来地元の鎮守でないため氏子がなく、
信徒が各地に散在し講を結成している

信徒が特に多いのは、東京湾を隔てた対岸の房総沿岸地域で、
木更津から佐貫、鴨川にかけての漁村の人々の信仰を得ている

江戸期には祭日にこれらの人達が舟で東京湾を横断して
当社の前に上陸し、
その日当社に参籠して翌日
高尾山に参拝登山したといわれている
「品川区の文化財」より)

やっぱり変わった神社だった





鈴ヶ森刑場跡

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日光街道の小塚原と対をなす刑場で東海道沿いにあった。

海近くに老松があったので一本松と言われたが、

磐井神社の社に鈴石(振ると音がする)があったため

鈴ヶ森といわれるようになった。

鈴石とは鳴石、高師小僧の類いである・・・

褐鉄鉱で中の感想した粘土が遊離し音がする。


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慶安4年(1651)に開設、

10〜20万人の罪人が処刑されたといわれている。


近くの海で水磔も行われたという。

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丸橋忠也と八百屋お七が処刑された台石
 


最初の処刑者は丸橋忠弥とされる。


丸橋忠弥・・由井正雪の乱の首謀者の1人である。


関ヶ原の戦いが終わり浪人が多くなり召し抱えられないことへの不満が

ご政道への否定につながり乱が起きた。


平井権八・・同僚を殺害し逃亡するが吉原の遊女と懇意になる。

金品目的で130人の人を辻斬りしたという。

遊女小紫は目黒で自害し目黒不動の前に比翼塚がある。


天一坊・・徳川吉宗の御落胤と名乗り吉宗が否定したため処刑された。 


八百屋お七・・火事に会い疎開先で知り合った僧に恋し、

また会うために火付けをしたと処刑された。


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磐井神社 弁財天


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敏達天皇(572〜585在位)のころ創建、

貞観元年(859)に武州八幡社となった。

応神天皇を祀る。境内社に笠島弁天が祀られる。


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「三代実録」に徳川家将軍の参詣が記されている。

万葉集の


「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路超ゆらむ」


の笠島は、

磐井神社の笠島弁天のことだと大田区教育委員会は言っている。


宮城の名取愛島という意見もある。


笠島はどこも弁財天と関係するという。


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磐井の井戸


磐井の地名となった井戸があり、東海道を行く人々の喉をうるおした。

清水であれば心正しい人、塩味がすれば悪しき人といわれる。


鈴石について

磐井神社で聞いてみた・・・


鈴石と鳥石はいまでもあり、大切に祀られている。

鈴石の大きさは手で形を教えて下さった

想像より大きくサッカーボールより大きい


高師小僧ではないと思う。そんなに大きな高師小僧はないと思う。

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高師小僧  小さい・・・「ええじゃないか豊橋」より


あったあった
写真拝借

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大田区史 資料編

(大森町界隈あれこれ kan-haruの日記より)






by gannyan1953 | 2017-11-05 12:02 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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