歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:東京都 歴史散歩( 83 )

早稲田にある箱根山

歴史と素適なおつきあい番外編  2018・8・15

今日は終戦記念日

ミステリースポットに先日訪れた話

b0228416_11434931.jpg

b0228416_11440817.jpg
尾張藩下屋敷跡

b0228416_12233120.jpg
ここはのちに陸軍の戸山学校があった

b0228416_11445768.jpg
青年将校が使用した将校集会施設
今はその上に幼稚園・教会が建てられている

b0228416_11520879.jpg
体操科では剣術、軍学生徒科では軍歌の演奏を学び
 これが野外演奏場跡

ここで軍歌の演奏を練習したのだと思う

最後の軍学生徒となった118名の成績名簿が発見され
東京音楽学校から陸軍戸山学校に編入した

芥川也寸志 首位 さすが・・
団伊玖磨 4位・・歌曲のピアノ伴奏が難しい・・あとで練習しよ!
父高順(斎藤高順・たかのぶ)10位 小津映画の作曲をした 
奥村一 33位 ソナチネやソナタや映画音楽を作曲 オーボエ担当

このメンバーが演奏場で演奏していたと思うとワクワクする


ところが
私は2度訪れたが
いつも居心地悪く
滞在はそこそこにしている

そこでググってみて驚いた
幽霊出る
都市伝説がある

おまけに2006年に隣の国立病院で
多くの人を埋めたと看護師が証言!

ビビった


あの空気の重さはそこにあったのかと
再度ビビった

あまり詳しくかきたくないので
興味ある人はリンクでみてください


この早稲田新聞は早稲田大学とは関係のない組織だそうです









合掌









by gannyan1953 | 2018-08-15 12:31 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

柴又めぐり

歴史と素適なおつきあい    2018・10

b0228416_14394066.jpg
寅さん 埴輪




集合:11時 京成金町線「柴又駅」
押上から京成線で京成高砂・・金町線で柴又へ

押上駅10:25京成線・スカイツリー方面の
改札口集合もします
10:36押上発の京成線に乗ります



おりつ不動尊

b0228416_12191597.jpg

両親に虐待されたおりつさん。とうとう父親に殴られ
亡くなったおりつさんを床下に埋めた。
1年経ち夢におりつさんが出てくるようになり
父親は自首した。人々はおりつさんを哀れみ、
近所の有志で地蔵が建てられた。

フーテンの寅像
b0228416_12184512.jpg
「旅に出る寅さんが、妹さくらを振り返るシーン・・」
1999年に地元商店街と観光客の募金により
建てられた。
最近サクラ像も建てられた。
b0228416_12205227.jpg


「男がつらいよ」は1968年にドラマで放映され
最終回に奄美大島でハブを捕まえようとし
寅さんはハブに噛まれて死んでしまう。
これに視聴者がクレームをだし、映画化されることになった。
映画は人気を博し
1969年から1995年にかけ48作発表された。
ドラマの時の寅さんの出生地は柴又ではなかった。

「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です
 帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、
 人呼んでフーテンの寅と発します」

は映画からである。情はあついが、やることは
支離滅裂、かなり面倒な性格であるが、
あたたかく包み込む場所柄として
帝釈天を守る商店街と設定されたらしい。

ここにいると実在の寅さんの故郷のように
思えてくるからやはり不思議な人である。

父が酔っぱらった勢いでできてしまった寅さんは
生まれてから父と義理の母に育てられ、
結局父親とけんかをし、「てきや」になって20年ぶりに
故郷に帰るという話からはじまる。

団子屋を父から叔父が受け継ぎ
そこには妹のさくらも住んでいた。

モデルになったのは「高木屋」である
撮影時、休憩に使ったのが「高木屋」
ところがロケに使ったと張り紙しているのは
「とらや」である
もとは柴又屋といって、映画公開後に「とらや」になった

映画会社もこれには困ったが
映画の中で「とらや」はやめて「くるまや」に
名前をかえた。

しかしほとんどの通行人は「とらや」を寅さんが
利用したと思っている

柴又八幡神社
b0228416_12222370.jpg

b0228416_12225924.jpg
創建年代は不明だが、社の下に前方後円墳があり、
横穴式石室があり、社の下に埋められている。
調査したところ、円筒埴輪、鉄刀、馬具、須恵器など
出土した。

平成13年(2001)に寅さんに似た埴輪が
出土し話題になった。
渥美清氏は平成8年に亡くなっている。

柴又帝釈天 (庭園・彫刻拝観400円)
b0228416_12213815.jpg
b0228416_12220943.jpg




日蓮宗 題経(だいきょう)寺といい、創建は江戸初期寛永6年(1629。)
18世紀末帝釈天が信仰を集め、庚申の日に賑わうようになり
「柴又帝釈天」と言われるようになった

本尊は帝釈天ではなく、となりにある祖師堂に安置される
「大曼荼羅」である

彫刻ギャラリーは外国人に人気がある。

山本亭 (100円)

b0228416_12232246.jpg

b0228416_12235819.jpg
大正から昭和にかけ作られた和洋折衷の建物である。
カメラ部品の製造をしていた山本家が震災で被災し。
柴又にあったこの屋敷を改修して4代まで住んだ。
現在は東京都所有である。
庭園がアメリカの雑誌で足立美術館、桂離宮についで
ランキング3位にはいり、あまり知られていない庭園だったので、
話題になった。


寅さん記念館(共通券500円)
b0228416_12243109.jpg
男はつらいよのセットや撮影風景など
展示され「くるまや」も再現されていて、
どっぷり寅さんワールドにひたることができる。
渥美清氏が亡くなった翌年にオープンした。

山田洋次ミュージアム(共通券500円)
2012年に開館され、家族や人情の映画を作り続ける
山田洋次監督の世界にふれることができる。


矢切の渡し (片道200円)
b0228416_12244849.jpg
江戸初期、地元の人々の農地への移動手段、日用品の購入、
寺社参拝などの目的で幕府が設けた渡しである。
松戸の渡しといわれていた。

渡し場の賃金は1人3文、馬が5文であった。

明治になり鉄道の発達で渡しの廃止が続くが現在東京近郊では

ここだけになった。

矢切の渡しという名を有名にしたのは、

明治39年(1906)政夫と民子の悲恋を描いた

「野菊の墓」:伊藤左千夫著 に書かれたことによる。

向こう岸の西蓮寺に野菊の墓文学碑がある。

高台にあり富士山も望める。

b0228416_12141782.jpg


それから昭和57年(1982)に細川たかし氏が歌った

「矢切の渡し」

そして寅さん人気で有名になった。

明治になって杉浦家が渡船を行っている。



















by gannyan1953 | 2018-07-25 15:47 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

早稲田大学学食のレシート

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・6・6

友人が神楽坂のかぐら工房で作られた花瓶が気に入り
また買いにいった

ランチは早稲田がいいということになり
行ってきた


b0228416_15312911.jpg
いつものように
ハンバーグ

野菜の和え物やパンプキンサラダをつけて

b0228416_15313549.jpg

538円

何気に食べてからレシートを見ていたら・・・

なんと

772キロカロリーだと

みんなの見比べたら丼を食べた友人は900キロカロリー以上

確か1日の摂取カロリーは1500カロリーくらいでよかったはず

わああ・・・・・・・・・

リアルなレシート

どおりで運動しても痩せない筈だ

早稲田の駅でソフトクリームも食べて
ご機嫌でご帰還しました






by gannyan1953 | 2018-06-07 15:40 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

岩淵水門を設計した青山士(あきら)

歴史と素適なおつきあい番外編    2018・4・30


赤羽馬鹿祭りを見に行って、さきに岩淵水門を見に行った


荒川知水資料館に立ち寄り、はじめて青山士氏を知った

b0228416_21013241.jpg
パナマ運河工事に従事したときの写真


美形男子である
私は面食いである

気になった

1878年磐田に生まれ東京帝大を卒業、
内村鑑三の影響をうけ
パナマ運河に興味を持った

卒業後パナマ運河工事に携わる

1913年頃ガトゥン閘門の設計をしたという


b0228416_21125439.jpg
パナマのガトゥン閘門


帰国後
内務省に入り

1924年旧岩淵水門の設計をし
荒川放水路工事の指揮をとった


b0228416_21303068.jpg


b0228416_17100056.jpg
左の赤いのが青山氏が設計した
旧岩淵水門


信濃川補修工事は、1927年に完成した放水路が
梅雨の増水で壊れ堰の転倒事故が起こった

事故が起こった時
「大事件の前には必ず小事件がある。
小事件をいち早くキャッチすることが
技術者の最大の責任である」

「技術は人なり」

これ聴いたことがある

「手抜き工事は国民への背信行為である」

これはいい言葉ですね

壊れた信濃川の堰はこの青山氏が担当し治した

とにかくお顔がきれいで品格があるのに
惹かれてググってしまいました・・・


参考:ウイキペディア 荒川知水資料館パネル展パンフレット


by gannyan1953 | 2018-04-30 21:23 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

山田孝之の北区赤羽

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・4・29

山田孝之の「東京都北区赤羽」・・20014年のドラマ

赤羽の岩淵水門を見にでかけた
ちょうど赤羽では「赤羽馬鹿祭り」を開催
全体ににぎやかな道だった


b0228416_17100056.jpg
左が旧水門





岩渕水門は北区志茂の荒川隅田川を仕切る水門で
かつて荒川放水路といった人工河川を現在荒川といい
かつての荒川を隅田川という。
ここは分岐点である。

b0228416_17140491.jpg
向こう岸は川口

川口というとキューポラのある町を思い浮かべるが
いったい何年前の話なのか

1962年の映画だった

江戸時代から鋳物産業が盛んで
日光御成街道の宿場であった


b0228416_17280628.jpg
上の部分がキューポラ


b0228416_17304392.jpg
川口ヒストリーより


b0228416_17322955.jpg
川口ヒストリーより

キューポラからの煙で霞む

全然今の姿から遠望ではわからない

今度は川口市に行ってみよう

きっと町中にどこか残っていそう


b0228416_17342883.jpg
バザーでもやっているのかと思ったら長屋のような
キャンプ場

もう少し広々と、バーベキューやりたいな


王子に近づくと遠くから太鼓やら
吹奏楽が聞こえてくる


b0228416_17364663.jpg
祭りの人ごみを避けたら
あらま
ワニダがあった
オーナーさんは
ドラマに出演していらっしゃいました

ここからはドラマのロケ地になります




これは前回です

今回まわっていなかった場所を探しに・・



b0228416_17393001.jpg

亀の池弁財天


b0228416_17395630.jpg
亀は国産もあれば外来種もごっちゃ
小さな池に亀がいっぱい


b0228416_17402542.jpg
山田君がお菓子買いにいったお店

b0228416_17405572.jpg
左のマンションが山田君が住んでいたマンション
歩けば結構赤羽から遠い
でも住所は赤羽西

ロケ地探しはここで終了
b0228416_17412942.jpg

b0228416_17413445.jpg

にぎやかでした


電車で十条駅から王子に行こうとしたら、
埼京線だった・・王子を通らない・・

仕方ない
王子まで歩こう

道に迷い随分歩きました
と思って地図を作ってみたら

迷っているようでちゃんと
王子に向かっていました














by gannyan1953 | 2018-04-29 17:43 | 東京都 歴史散歩 | Comments(1)

ちょっとディープな王子散歩


中川歴史ウォーキング41    2018・6・16

バラが咲き誇る古川庭園、それから王子稲荷のきつね様に会い
戦争遺跡(陸軍兵器工場や陸軍造幣廠)を訪ねます

b0228416_21180880.jpg



ベビーメタル仕様の狐面


集合:9:45  南北線「西ヶ原」駅 改札口

西ヶ原駅・・平塚亭・・平塚神社・・古河庭園・・無量寺・・一里塚
・・醸造試験場跡地・・王子神社・・王子駅周辺で自由ランチ・・装束稲荷・・
王子稲荷・・北区中央図書館(軍需工場跡)・・中央公園文化センター(兵器工場跡)






歴史
西ヶ原は先土器時代から人が住み、現在でも北区で良好な
住宅地となっている。
豊島郡の郡衙があり、中世には豊島氏の支配となり
源義家が世話になった豊島氏に鎧を贈っている。
江戸寺時代に日光御成街道が通り一里塚が残る。
飛鳥山は将軍吉宗が庶民のための行楽地とした。
明治になると王子や赤羽根に軍需工場が造られ
戦争遺跡を残す。

平塚亭
b0228416_21192625.jpg

大正初期から営業され、だんごは作家内田康夫の
「浅見光彦シリーズ」で有名である。
小説では浅見家が近くにあるという設定になっており
浅見光彦の住民票も作られ
北区役所で一通500円で住民票が売られている。

平塚神社
b0228416_21200636.jpg

平安末期に平塚城があった。
後三年の役の帰りに源義家が豊島氏のいたこの地に訪れ
そのもてなしに感謝し鎧を授けた。
豊島氏が鎧を埋め塚を造ったことに由来する。
豊島氏は太田道灌に滅ぼされる。

古河庭園
b0228416_21232848.jpg

明治に睦奥宗光が土地を購入し別宅とした。
睦奥宗光の次男が古川財閥の古川市兵衛の養子となり、
2代目となり古河家の所有になった。
大正3年(1914)3代目古河虎之助が周囲の土地を購入し
本宅用として整備をした。3年後にジョサイア・コンドルにより設計され
西洋館、洋風庭園ができた。
市兵衛は足尾銅山に投資し「銅山王」といわれ
背後に足尾鉱毒事件や激しい労働争議をかかえていた。
睦奥宗光の次男は若くして亡くなり側室との子の虎之助が当主となり
銀行を設立するなど多角化をすすめ古河財閥の基盤を確立した。
そのころこの邸宅が作られた。
関東大震災のとき避難者を受け入れここを解放し救済した。
労働争議で疲れ、震災の救済で信仰心も生まれ
ここを会社の迎賓館とし、自らは質素な生活を求め牛込に転居した。
西郷従道の孫を養子に迎え満州事変から古河財閥は栄えた。
太平洋戦争末期に陸軍第9師団の将校宿舎となり、戦後は連合軍が接収、
財界解体で所有は大蔵省になった。5代目古河潤之助は2018年3月に82歳で
亡くなった。
その後公園になった。
b0228416_21240922.jpg
山田君自販機


無量寺  真言宗豊山派
b0228416_21231875.jpg

b0228416_18512852.jpg
6月 



平安時代からあったといわれる。
江戸時代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣している。
もとは長福寺だったが、将軍家重の幼名が長福丸
だったため無量寺と改めた。
猫に優しい美しい寺である。
外国人も多く訪れている。

西ヶ原の一里塚
b0228416_21243956.jpg


日光御成街道の2つ目の一里塚であるが
撤去されようとするところ王子に住む
渋沢栄一を中心とする地元住民により
撤去は免れた。旧位置を保つ貴重な一里塚である。

醸造試験場跡地
b0228416_22010268.jpg


レンガの建物があり、国立の機関で日本酒造りの近代化と
酒類産業の発展のために明治37年に造られた。
設計は横浜の赤レンガ倉庫や神奈川県立博物館を造った
妻木頼黄(よりなか)で、東大でジョサイア・コンドルに学んだ。

王子神社
新編武蔵風土記稿に源義家が後三年の役の帰りに
鎧を授けたことが始まりで、王子の地名の由来となっている。
豊島氏が熊野から若一王子を勧請した。
境内に 蝉丸を祀る関神社がある。

b0228416_18512401.jpg
蝉丸は宇多天皇、醍醐天皇の子と定かではないが、
百人一首え有名である。姉の髪が逆立ち人々に笑われるのを
嘆くので、カツラを作ってあげたという。
それでこの神社はかつらの神様であるという。
東海道歩きをしたときに蝉丸神社分社だったかと思うが
寂しく荒れていたという記憶がある。

装束稲荷 祭神 ウカノミタマノ神
b0228416_21274945.jpg
b0228416_21280548.jpg



関東八ヶ国の稲荷の使いが王子稲荷へお参りに行く時
この装束稲荷の榎木の下で装束に着替え練り歩いた
という言い伝えがあり、安藤広重の錦絵にある。
狐火が続き昔はその数で翌年の作物の吉凶を占った。

現在では大晦日の行事として狐面をつけて
練り歩く。
向かえの店は王子ヤマワできつねグッズ、今戸焼き、狐のガチャガチャなど
楽しい店である。最初の写真の狐面を購入した。

b0228416_21312929.jpg
b0228416_21312099.jpg
装束稲荷の狐様はモダン

b0228416_21324419.jpg
b0228416_21533992.jpg

王子稲荷神社 祭神 ウカノミタマノ神
b0228416_21291436.jpg
源頼義(よりよし・義家の父)が奥州征伐の祈願に
立ち寄り、関東の総稲荷としたと伝わる。
西暦1060年には存在したという。
きつねの穴もある。

落語「王子の狐」

王子稲荷の狐は人を化かすと有名だった
狐が美女に化けるのを見た男は声をかける

「お玉ちゃん、食事でもしないかい」
「あら熊さん お久しぶり」

料亭扇屋に上がり込み油揚ならず天婦羅を出され
お玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ眠ってしまった

男は土産に卵焼きを包ませ「勘定は女が払う」と
言ってさっさと帰ってしまった

目が覚めたお玉ちゃん、男が帰ったと聞いてビックリ、
耳が立ち尻尾までにゅっと出てしまった
店の人もそれをみてビックリ、追いかけた
ほうほうのていでお玉ちゃんは逃げ果せた。

男は翌日友人宅に扇谷の卵焼きを持ってでかけた
そこで「狐を化かした」と吹聴するが
「狐は執念深い 馬鹿なことをしでかしたものだ」と脅され謝りにいくに

狐の穴の近くにいた子狐に手土産と謝罪を言付かった。
子狐は「昨夜はひどい目にあった」と穴でうんうん
うなっている母狐に手土産を渡した。
中身はぼたもちで子狐は
「かあちゃん 美味しそうだ
食べてもいいか?」
母狐「いけないよ 馬の糞かもしれない」


今でも 扇屋さんは甘い卵焼きを販売しています
売り切れが多いですが

b0228416_21294235.jpg
b0228416_21293675.jpg
b0228416_21295583.jpg
b0228416_21301016.jpg
b0228416_21301969.jpg
きつねのお穴

b0228416_21302631.jpg


名主の滝公園

b0228416_21352205.jpg

江戸時代王子村の名主畑野孫八が屋敷内に滝を開き
茶を栽培して避暑のために一般に開放したことがはじまりである。

ちんちん山児童公園
b0228416_21460600.jpg
軍需品を運ぶチンチン電車があり、
そのトンネルがあった
軌道の跡である
一帯の陸軍砲兵工廠の工場を結ぶ鉄道跡である
真ん中のだんごのが積まれたようなマークが
砲兵工廠のマークになる


北区中央図書館
b0228416_21452612.jpg
b0228416_21454005.jpg
大正時代に建てられた東京砲兵工廠の275号という建物が
現在図書館として使用されている。
都響砲兵工廠は小石川(後楽園)から明治38年(1905)に
十条に移転、設計は陸軍省である。
この建物は弾丸鉛身場として大正8年に建設、54mあり
梁は中央に鉄骨の柱、鉄骨の2つのトラス(三角形の集合体構造)
で2連棟の形式でできている。レンガは北区内で作られており
関東大震災でも壊れず高度な技術で作られた建物である。

b0228416_21471811.jpg
面白い看板


中央公園文化センター
b0228416_21511233.jpg
東京第一陸軍造兵廠があり、陸軍で使われる銃弾などの
兵器を製造していた軍用地だった。この建物はその本部で、
昭和5年(1930)に建設された。
戦後米軍に接収され東京兵器補給廠となった。
一部自衛隊の駐屯地として使用したがほとんどが米軍の
キャンプ王子となった。ベトナム戦争のときは野戦病院が
あった。昭和43年(1968)ころ全学連などの反対デモが展開された。
学生の投石を止めに入った一般人が投石で左目負傷、失明となり、
巻き込まれた一般人1人が死亡している。
こうしたことで、昭和46年(1971)に返還され、のちに北区の中央公園と
して開園された。
白い建物だが元は茶色のタイル張りだったが、米軍が白く塗り替えた。

b0228416_21512720.jpg
b0228416_21514987.jpg
b0228416_21522061.jpg
ボイラー

b0228416_21522422.jpg
煙突の一部

b0228416_22062138.jpeg
角材や投石で警官隊と衝突する学生(米軍王子キャンプ正門前)=株式会社朝日ソノラマ
社発行の「朝日ソノラマ」(1968年5月号)から
もの書きを目指す人びとへ わが体験的マスコミ論 岩垂 弘(ジャーナリスト)より


b0228416_21524017.jpg

王子駅の小さなトンカツ屋さんで
ハンバーグランチ







 










by gannyan1953 | 2018-04-22 11:07 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

日野の新選組



中川歴史ウォーキング39    2018・4・21(土)

歴史を勉強するきっかけとなった人物「土方歳三」の
故郷を訪ねます

b0228416_10465045.jpg

集合:JR日野駅・・八坂神社・・とうがらし地蔵・・日野宿本陣・・土方歳三資料館・・とうかん森・・石田寺・・
ランチ・・高幡不動


b0228416_20472204.jpg
3月30日
望海風斗さんの土方さんを鑑賞







八坂神社 
b0228416_12255233.jpg
   額は9月のお祭りの時に公開される

多摩川の渕に光るものがあり
拾い上げたら牛頭天王の神像だった
それがきっかけで社が建てられた
本殿は完成12年(1800)のもので
絢爛華麗な江戸後期の社殿である
安政5年(1858)天然理心流剣士たちが
剣の上達を願って奉納した額がある
欅の板に大小2本の木刀が架けられている

御朱印は新撰組のだんだら模様入りである




井上源三郎資料館 

b0228416_14454738.jpg
 
   

井上源三郎の生家である
兄松五郎は八王子千人同心だった

とうがらし地蔵 
b0228416_14455427.jpg
 

沖田総司が多摩時代よくお参りしたといわれる。

日野宿本陣   
(日野宿本陣・新選組のふるさと歴史館共通券300円)

b0228416_14464187.jpg


b0228416_14471333.jpg
建物は甲州街道日野宿の本陣で、名主佐藤彦五郎邸であった
彦五郎の妻は土方の姉で、彦五郎の従姉妹にあたる「とく」だった
母を幼い頃なくした土方にとってとくは
母親のような存在だった
そのとくの嫁ぎ先なので
土方はよく出入りしていたという
姉とくは幼いときは「らん」、嫁いでからは「とく」、
明治になって「のぶ」と名乗った


長屋門あたりに天然理心流道場があった
土方歳三が昼寝した部屋や、
土方の遺品を届けた市村鉄之助が 匿われた部屋がある
甲州街道で残る数少ない本陣である

佐藤彦五郎は新撰組が結成されてからも、近藤や土方と深く親交が続いた

b0228416_14482276.jpg
土方歳三が昼寝をした部屋
b0228416_14473872.jpg
玄関のひょうたん
b0228416_14474584.jpg
コウモリは子沢山の縁起物
b0228416_14474926.jpg
麻模様は子供の成長の縁起物

b0228416_14475390.jpg

b0228416_14475611.jpg
鯉の滝登りの縁起物
b0228416_14480167.jpg
b0228416_14480430.jpg
ウサギも子沢山の縁起物



日野市立新選組ふるさと歴史館(立ち寄りません)

土方歳三、井上源三郎、近藤勇、沖田総司たちが
集った日野、のちに新選組となり歴史に名を残したことで
歴史の流れのなかの新選組という観点で展示を行っている
b0228416_14583606.jpg
こんなこともできますが・・



土方資料館(見学不可)

b0228416_14591989.jpg
b0228416_14593209.jpg
b0228416_14593616.jpg


土方歳三生家で、現在は土方資料館となっている
手植えの矢竹、刀の和泉守兼定など遺品や薬の行商をした道具類などを展示している
主に日曜に開館される 



とうかんの森 

 


 

土方が生まれた元生家があった場所。洪水で、移転した。

  
石田寺(せきでんじ)真言宗

b0228416_15005339.jpg


南北朝の康安元年(1361)慶興という僧が建立、16年後衰え廃寺となる。
天文13年(1544)玉川の洪水が起こり、一体の観音様が流れ着いたので
廃寺だった場所に観音堂を建て安置した。
文禄2年(1593)慶心という僧が石田寺と号した

樹齢400〜600年というカヤノキがある
昭和43年(1968)土方歳三の兄喜六の曾孫にあたる
土方康氏が土方の碑を建立している
蝦夷で戦い亡くなった土方の墓がある
戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」菩提寺は高幡不動である
石田寺は高幡不動末で土方家の墓所がある


b0228416_15010261.jpg
b0228416_15005781.jpg
b0228416_15010806.jpg

 


高幡不動 真言宗
真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺という
創建は大宝年間(701)ころ、奈良時代行基による開基と伝わるが
平安時代初期に慈覚大師による東国鎮護の目的で山中に不動明王を
安置したといわれている

不動堂は嵐で倒壊したたため
室町時代康永元年(1342)に再建された
足利氏の時代は汗かき不動と親しまれた
当時は36の寺がある壮大な伽藍だったが
昭和になって往時の姿に戻ってきた

大日堂には鳴り龍の天井、土方歳三の位牌がある(有料)

奥殿には1000キロを超える大きな
丈六不動明王が安置されている(有料)

境内には殉節両雄の碑、土方の像がある。
碑は明冶21(1888)年新選組 の親戚知己門人らの長い努力により建設され
篆額(てんがく)は会津藩主松平容保、撰文は仙台藩濡者大槻磐渓、
書は元幕府御典医松本良順による。

裏山(不堂ヶ丘)は八十八所めぐりができる
不動ヶ丘は高幡城址である
享徳4年(1455)分倍河原の戦いで
関東公方足利成氏VS関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏が戦った
上杉憲秋という武将が先鋒で、立河原合戦(立川にこと)で敗走し
高幡不動で自刃している(日本城郭大系)

四国八十八カ所めぐりをしてみた
b0228416_15011373.jpg

稲荷が丘

b0228416_15011763.jpg
稲荷が丘

急いで下山

1時間近くかかったような・・・・



隊士紹介


近藤 勇(1834~1868)  

上石原村宮川久次郎の3男。4代目天然理心流宗家を継いだ。芹沢鴨暗殺後新選組を掌握し局長となる。池田屋で名を馳せてから政治にかかわり永井尚志に随行、朝彦親王の提言で京洛政治の支柱をなした。墨染で襲撃されけがのため鳥羽伏見の戦いには参戦していない。江戸に帰ってから甲陽鎮撫隊での敗走後五兵衛新田をへて流山に駐屯中官軍に投降。板橋にて斬首。板橋、大阪千日前、京都粟田口にて梟首。

土方歳三(1835~1869)  

石田村土方義諄の四男。父は生まれる前に、母は6歳の時に亡くなっているので、兄の喜六夫妻に育てられた。近藤勇の天然理心流入門後、門人と共に新選組を発足、法の番人的役割を厳しく実行。組織の悪役を一手にひきうけ隊内の粛清を行い、妥協を許さなかった。鳥羽伏見で京の新選組崩壊後、新選組を立て直しながら北へ転戦。函館で、弁天台場の新選組同志を救援にむかう途次、攻防戦で壮烈な戦死を遂げた。

沖田総司(1844か1846~1868) 

 白川藩士沖田勝次郎の子。義兄林太郎は1859年11月まで白河藩に在籍。総司16歳である。9~11歳ころ天然理心流道場の内弟子となりのちに塾頭となる。一番の使い手といわれ活躍するが結核を患い、江戸敗走後新選組から離れ良順のいた今戸から千駄ヶ谷にて病没。

井上源三郎(1829~1868)

八王子千人同心井上藤左衛門3男。次兄松五郎と共に天然理心流3世近藤周助の門人。穏やかな人柄といわれる。鳥羽伏見の戦いで淀千両松の激戦で最後まで踏みとどまり討死。甥の井上泰助が首をもって退却したが重くて果たせなかった。


時代背景

幕末期、徳川幕府はロシア使節ラックスマンをはじめ、あいつぐ異国船来航に手をこまねいている状態であった。その無能ぶりが露呈してしまったのが黒船騒ぎで有名なペリー来航であった。国内は開国か攘夷かと揺れていた。結局幕府は日米和親条約を締結。時の天皇孝明天皇は攘夷論であった。幕府の開国策に反対する攘夷論は尊皇論と結びつきやがて長州、薩摩、土佐などの雄藩を中心とした倒幕運動へと発展していく。日米修好通商条約を締結した大老井伊直弼は反対する尊攘派や幕府改革派を弾圧した。安政の大獄である。井伊直弼の専制政治に対する不満は桜田門外の変を引き起こす。白昼に起こった大老殺害はますます幕府の衰退への転機となる。王城の地京都では尊皇攘夷を唱える志士たちの天誅という言葉のもとに幕府要人や幕府寄りの公暁らの暗殺が横行していた。

*攘夷論 ―開国に反対して外人排斥を主張した意見。 * 日米和親条約―1854 再度来航したペリーが武力を背景に幕
府にせまり締結された。下田、函館の開港、漂流民保護、欠乏品の給与、米領事の駐在など。 * 尊王論―皇室崇拝の思想。 * 尊皇攘夷論―欧米列強との接触により危機意識が高まり1863を頂点とし倒幕派の下級武士を中心に運動は激化。薩英戦争、下関砲撃での経験で攘夷不可能が明白になっても幕府批判の政策として高唱され、維新の実現となった。 * 日米修好通商条約―1858 勅許を待たずに締結された最初の不平等通商条約。国内経済不安定を招き尊皇攘夷論は激化。

新選組結成

文久2(1862)年 将軍警護のため江戸浪士組募集が行われた。14代将軍家茂は攘夷を強く迫る孝明天皇に拝謁し、緩和するために上洛することとなった。そこで治安の悪い京都で将軍の身辺を守ることとなった。文久3(1863)年上洛した浪士組の一部は、提唱者であった清河八郎の裏切りともいえる反幕府の爆弾宣言に反発、壬生浪士組として一部京都に残留する。清河ら東帰した浪士は清河が暗殺されたあと、庄内藩預かりの新徴組になる。
残留した壬生浪士組は京都守護職を拝命していた会津藩を後ろ盾に市中見回りの役にあたることになる。これが新選組の前身である。のち武家伝奏より「新選組」の名を拝名する。「撰」の字で「新撰組」ともいうが、書簡では両方とも使われている。

新選組の活動

新選組として活躍したのは6年間のことである。京都での全盛時代から鳥羽伏見の戦いで敗戦し、関東での戦い、近藤勇を失ってからの東北蝦夷へと新選組は北へ転戦していった。

京都 ―文久3(1863)年2月~明冶1(1868)年1月―

京都守護職お預かりの組織として、京都の治安を守るため壬生に屯所を置いて京都守護職預壬生浪士組として活動。八・一八の政変ののち、武家伝奏方から活躍をたたえられ「新選組」という名を賜った。
最初中心となっていたのは芹沢鴨、近藤勇であったが芹沢の行状が粗暴なため粛清される。ここに多摩出身天然理心流一派が新選組の実権を握ることになった。
池田屋騒動で一躍有名になる。寄せ集めの集団であるため隊の規律を厳しくし、強い集団に仕立て上げるため局中法度という隊規を作りこれにより隊内の粛清も多く行われた。活躍するにつれ、会津藩から離れ幕府直参に取り立てられる。ここまでが新選組全盛時代となる。鳥羽伏見の戦いでは幕府軍、会津軍とともに戦うが敗走。軍艦で、江戸に退却する。


* 武家伝奏―室町幕府から設けた諸家の奏請を朝廷にとりつぐ公武間の重職。
* 天然理心流―近藤内蔵之助が祖で、近藤勇は4代目宗家。神道流の流れと伝わる。3代目周助が市谷に道場試衛館を開き、勇は土方の義兄日野宿名主佐藤彦五郎宅と小野路村名主小島鹿之助宅の道場に出稽古した。通常の3倍の木刀で稽古をしたという。天然理心流と新選組剣法とは違っており、新選組は実戦に強く集団剣法である。
*鳥羽伏見の戦いー1868 薩長の武力倒幕派が徳川慶喜に辞官納地を要求し、江戸の治安を乱し挑発した結果、旧幕府軍、会津、桑名は激怒し鳥羽と伏見の街道から京都に進発、敗退した。倒幕派の計画どおり旧幕府側を朝敵とした。

関東 ―明冶1(1868)年1月~4月―

品川に戻った新選組は恭順を唱える将軍徳川慶喜の警衛にあたる。勝海舟に甲府城奪取を言い渡され甲陽鎮撫隊を編成し甲府に向かうが敗退する。流山で屯集したが、官軍にみつかり近藤勇は投降する。のち、4月板橋で斬首になる。

*恭順を唱える幕府(勝海舟)は抗戦派を江戸から遠ざけたかった。大鳥圭介率いる伝習隊は関東平野を北に、撤兵隊(さっぺいたい)は房総、遊撃隊は箱根、彰義隊は上野で抗戦した。東北では会津、庄内の恭順は受け入れられず奥羽皆敵とされ戊辰戦争に突入していく。
*甲府敗退後永倉新八は靖兵隊を組織し新選組から離れるが、生き残り貴重な資料を残す。

東北・蝦夷 ―明冶1(1868)年4月~明冶2(1869)年5月―

会津如来堂では会津に殉じると願う新選組の一部斎藤一らが戦っている。斎藤はのち生き残り警視庁に奉職。土方歳三はこの後宇都宮、会津で、戦い、仙台、蝦夷と新選組の再編成を繰り返しながら北上、函館で降伏直前に戦死。函館の五稜郭を本拠とした蝦夷共和国では陸軍奉行並という役であったので新選組の隊長ではなかった。脱走軍として新政府軍に降伏後、捕縛された隊士で竜馬暗殺の容疑で刑死、獄死した隊士もいた。

*蝦夷共和国―幕臣榎本武楊が総裁となり作り上げた共和国。幕臣救済目的で蝦夷開拓を朝廷に訴えた。

多摩出身ということ

・武州多摩はほとんどが幕府直轄領
天領「徳川家危急の折には馳せ参ず」比較的税も少なく豊かで質実剛健、おおらかな気風があった。
・剣道好き
多摩は江戸への敵侵入の道筋にあたるため防禦地にあたる。治安を守るためにも武道が
さかんであった。幕末には30~40の道場があったといわれる。
・八王子千人同心の報恩 
八王子千人同心とは日光東照宮の防火見回り、蝦夷地の警備開拓を勤める。武田家滅亡後その遺臣団が中核をなし、平時は農民として暮らした。10人の千人頭に100人の同心を置いた。新選組には千人同心出身者もおり、左幕どおしの交流があった。                  

(余話)蝦夷地開拓のため千人同心80人は1858年七重村に入植した。函館奉行の命で桑を栽培、成功し郡内織を織り出した。ようやく軌道に乗り出したころ、維新がおき千人同心は新政府任命の函館知事の支配下にはいった。榎本軍と戦うため出兵命令がおりたがあくまでも徳川忠誠を叫ぶ数人は榎本軍に合流、同胞合い撃つ非情な戦いになった。(多摩の100年朝日新聞)

多摩の豪農

近藤や土方は豪農出身で、農民でも豊かな環境に育っている。多摩には豪農が農民を支配し、代官所とも深く結びついていた。1835年伊豆韮山代官江川太郎佐衛門英竜は農民に小銃をもたせたいという意見書を幕府に提出。農民の非武装化は鉄則であったため、却下されたがその28年後1863年江川太郎佐衛門英武が多摩の直轄領で試験的に行うことが許された。幕府は農民層の手を借りなければならないほど追い詰められていた。もともとこのような進言をしていた背景には、多摩の富裕層豪農をとおしての農民支配に自信があったからである。代官所からゲベール銃を渡され農閑期には近代兵器の訓練がなされた。農兵隊結成である。いまでも名主格の家には武具が保管されているところもある。新選組のパトロンとして存在する佐藤彦五郎、小島鹿之助も多摩の豪農であった。農兵隊を指揮するまとめ役でもあった。

(余話)維新の2年前の慶応2年多摩で、武州一揆が起こった。一揆勢は入間郡名栗村から日野まで迫り、日野農兵隊がこの一揆勢を壊滅させた。農民が農民をゲベール銃で撃つ悲惨な事件であった。これは開国をしたためにおきた物価上昇や天災による飢饉で苦しんだ貧農が、外国の脅威から守るために編成された農兵隊にうちとられるという皮肉な結果となった。(多摩の100年 朝日新聞)

会津との関係
新選組は京都の治安を守るための警察隊であった。江戸、京都に浪士があふれ攘夷だ、尊皇だと殺戮が繰り返される世情に浪士を浪士でもって制する幕府の思惑もあった。京都守護職である会津藩のお預かりになったことは当然と考えられるが、東山黒谷に屯集させた会津藩士は1000名にのぼる。それだけの藩士が在京しているのに、なぜたった24人の新選組を預かるのかという疑問がある。
それは初代会津藩主保科正之までさかのぼる。2代将軍秀忠の庶子として生まれたが正室お江与の方に遠慮して江戸城外で育てられた。その養育係が信玄の六女であり、その後信州高遠藩主保科正光に養育された。この保科家は祖父の時代信玄家臣であったころ武田武士の精華ともいうべき一族であった。会津には「高遠以来」という言葉が残るほど会津の名家は武田遺臣団であった。田中玄清、西郷頼母、山川浩、佐川官兵衛の会津4家老はいずれも「高遠以来」の者たちであった。武田の血を受け継ぐ者どおしという関係であったからではないか。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)

自由民権運動

なぜ新選組が甲陽鎮撫隊を編成し甲府を守ったか。甲州武田家の血の記憶が甲州に向かわせたのではないか。進軍途中あきれ返るほど、内藤新宿や日野で酒宴を催し戦機を逸したことも故郷回帰の凱旋ムードに浸ったからだろう。
明冶にはいり自由民権運動が盛んになり、その一大拠点が多摩であった。徳川への忠誠心が強かったためか、明冶政府の左翼急進思想となった。小島鹿之助も新選組のスポンサーから、自由民権運動の擁護者となる。ただつけ加えると豪農が擁護する民権はのちに下層農民からのつきあげで行き詰まっていくことになる。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)

多摩の民権運動については、歴史と素適なおつきあい 東京都「小野路と薬師池」を参照

参考文献    歴史群像シリーズ(新撰組・幕末剣心伝・土方歳三・徳川慶喜)学研 ・日本史辞典・「新選組のすべて」新人物往来社・「幕末を駆け抜けた男たち」今川徳三・「多摩の百年」朝日新聞

by gannyan1953 | 2018-02-18 13:12 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

高幡不動まで歩いて行ってみた

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・1・31


b0228416_09074840.jpg

16年前、父とガンジー(ゴールデンレトリバー)と高幡不動に
車ででかけた
ここはワンちゃんも境内を歩くことができる
そのときにおみくじでいただいた
大黒天がなくなってしまったので
またおみくじいただきに出かけた

駐車場と歳さんの銅像近くのおみくじ
ひいたらなんと

今回も大黒天でした102.png

ありがとうございました169.png

歩くと約24キロ・・・街道歩きの気分


歩行時間は6時間30分







b0228416_09133035.jpg
川崎と横浜市の境界の送電線沿い
尾根伝いに歩く


b0228416_09295676.jpg
新百合ケ丘を過ぎて平尾

b0228416_09304410.jpg
稲城は山の中を走って行く記憶だったが
ものすごく開発されていて昔が思い出せない

b0228416_09314834.jpg
日大グランド脇の道は昔のままだった
昔通った時 狸が横断したことがある

急ブレーキかけたので、後ろに車がいなくてよかったと思った

さすが平成狸合戦ポンポコの多摩だ


b0228416_09341980.jpg
諏訪下橋手前、獣医さんを右折すると諏訪坂館跡
鎌倉時代の居館跡といわれるが
詳しくはわからない
鎌倉街道近くにある

b0228416_10052704.jpg
直ぐ近くの諏訪下橋・・鎌倉街道になっている

歩く道は直進する

b0228416_10064717.jpg
多摩市役所の脇は昔市場だった

b0228416_10065765.jpg
b0228416_10073908.jpg
多摩市役所の辺りは台地の上にあり裏手は谷になっている

b0228416_10091422.jpg
大きな農家が残り風情ある道が続く

b0228416_10094874.jpg
山田君自販機

この手は山田君だろうか?
ただ今 ジョージアに問い合わせ中
返事いただけるといいな・・・

数日して・・・

こ・・コ・・コカコーラからきれいな声のお姉様から
こちら「コカコーラでございます」と
電話あり

少しビビった

お尋ねの自販機のジョージアを持つ手の主は
「山田孝之さんではありません」

と申し訳なさそうにおっしゃってくださいました

大変恐縮して電話を切りました

コカコーラ様お電話ありがとうございました127.png

今後とも山田君をお引き立て下さいますよう
お願い申し上げます

b0228416_10095695.jpg
宝泉院

b0228416_10105056.jpg
大栗川 この上流で大学生だった息子がギターを夜弾いていて
職務質問された息子の話を思いだした


b0228416_10125478.jpg
高幡不動 土方サンこんにちは!

b0228416_10133353.jpg
早速お位牌にお参り

b0228416_10140748.jpg
五稜郭に伝わる歳さん埋葬の伝承地

14年前だったか訪れた場所だ

b0228416_10152503.jpg
松平容保篆額の殉節両雄の碑

b0228416_10153724.jpg
歳さん
こんにちは!
b0228416_10192817.jpg
b0228416_10193396.jpg
参道には山田君自販機いっぱい


b0228416_10201625.jpg

お土産

土方歳三まんじゅうは人形焼きになっていて
頭から食べるか
足から食べるか迷う

歳三恋歌は
b0228416_10402681.jpg

ミルク味で美味しい!


今日は山田君自販機と
トシさんにお参りでき
幸せな一日でした
































by gannyan1953 | 2018-02-03 10:21 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

旧羽田町を訪ねて

歴史と素適なおつきあい    2018・3・9(金)



b0228416_16522689.jpeg
穴守稲荷が現在の空港にあったことがわかる


集合:9:50 京急空港線「穴守稲荷」駅

穴守稲荷駅・・コンちゃん・・鴎稲荷・・赤レンガ堤防・・羽田の渡し・・
玉川弁財天・・福守稲荷・・五十間鼻無縁仏堂・・大鳥居・・白魚稲荷・・
駅前地蔵尊・・天空橋・・穴守稲荷駅前ランチ・・穴守稲荷



羽田の歴史

羽田の漁師は平治年間(1159)に7人の落人からはじまりと伝わる

中世から猟師が定着し小田原北条の水軍だったとも伝えられる
天正18年(1590)までは小田原北条の家臣
行方与次郎という武士の支配地だった

江戸時代参勤交代の船橋、大坂夏の陣には軍船となった
漁場は多摩川河口で大量の栄養が流れてくるので
絶好の漁場だった

干潟が大きく貝が豊富だった
江戸時代元禄の頃田んぼが増えて猟師町にも
農家が増えてきた


羽田の地名の由来は
海に接する場所をハネというから
陶土が出るところを植田(はねだ)というから
などいわれる

b0228416_09581317.jpg
玉川弁天社 広重

b0228416_10000855.jpg
羽田の渡し 広重
広重の羽田の渡しの絵にある常夜灯は弁天社のもので、
龍王院が岸部に竜灯を灯した

海の龍神の火である

玉川弁財天の玉は宝珠のことで
奥多摩日原山に弘法大師の建てた大日堂があり
そこから湧き出る泉の中から宝珠が湧き出て
多摩川を流れ羽田の水中で光っていたという

高野山系の聖が多摩川上流からやってきて
そして定着して龍王院を建てたという話になる

穴守稲荷はそのずっとあとの話で
現在空港のあるところは昔要島といった

浅瀬で新田開発のため干拓された
天明年間に名主鈴木弥五右衛門という人が
海岸に出張っていた洲を開墾したのである
文化12年(1815)完成しその守護のため
稲荷を勧請したという

明治になって穴守稲荷は神社に昇格し
海により近い場所に位置し人々の
信仰が流行していくことになった



穴守稲荷の裏にはきつねの穴があるが
田山花袋は
穴の向うの土手に立って

「大都会の呼吸を聴くような響きがかすかに海を伝って響いてくる」

「東京近郊に縁起が古い訳でもない稲荷が屈指の
流行神になったということは
不思議な現象である」


戦後すぐの強制退去
戦後羽田空港を接収したGHQが
昭和20年9月21日1200世帯の住民に対し
48時間以内の立ち退きを命令した
住民は有無を言わせぬ命令に無念だったことと思う
補償があったのかはわからないが、

当時の羽田は小学校、神社、海水浴場、鴨猟場
競馬場があり賑わっていた

b0228416_17571150.jpeg


明治18年(1885)穴守稲荷が勧請され今の空港の位置にあった
明治35年(1902)年蒲田からの電車が通り行楽地となった
大正6年(1917)日本飛行学校ができた
昭和4年(1929)国策会社の日本航空輸送が運行を開始(2年間は立川発着)
昭和6年(1938)東京飛行場開設 羽田空港の歩みが始まる



海苔の養殖も盛んで戦後のGHQの強制移転で
海苔業者は転職を強いられた
このとき都内に17組合4190人の関係者に
330億円の補償金が支払われた


b0228416_17040243.jpg

コンちゃん
おはようございます





b0228416_16220958.jpg
b0228416_16221772.jpg
ここ羽田は山田君いっぱいいます


鴎稲荷  祭神:宇迦之御魂命


b0228416_16241100.jpg
b0228416_16243145.jpg
b0228416_16245515.jpg
b0228416_16250583.jpg


創建は鳥居に弘化2年乙巳年3月吉祥日と刻まれていることから

弘化2年(1845)と思われる

鴎が多く大漁の兆しとして祀られたことから

鴎稲荷神社といわれた



赤レンガ堤防

b0228416_16263727.jpg


大正から昭和にかけて多摩川の治水工事で

つくられた堤防である


羽田の渡し

b0228416_16271240.jpg
太子橋
b0228416_16274258.jpg
羽田の渡しの碑


羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎)を渡る「羽田の渡し」があった
約80mの距離で「おーい」という声が届いたという
徳川家康が狩りにきて1人で渡し場にきた
船頭は家康とは知らず馬の鐙を取ったという
2、30人乗れる船で魚介や農産物、衣料品など運んだ
賑わいをみせていたが昭和14年大師橋ができ、廃止された
昭和30年頃までは佃煮業者が多く存在した

正蔵院

b0228416_16283022.jpg

羽田神社
小田原北条の頃牛頭天王を祀ったことから創建された
b0228416_16304594.jpg
b0228416_16321825.jpg
登れないが富士塚あり
b0228416_16330795.jpg
凍っています
b0228416_16333431.jpg
山田君





玉川弁財天

b0228416_16372368.jpg
玉川弁財天



弘法大師が護摩の灰を固めて自ら製作したご神体があるという
龍王院が別当寺で上の宮と称した
要島(現在の空港の地)の新田開発で下の宮としてこの地に弁天社が
勧請された
厳島、江ノ島と玉川は日本三大弁天といわれたという
ちなみに普通にいわれる日本三大弁天様は
厳島、江ノ島、竹生島の弁天様である
b0228416_16380920.jpg
水神社



戦後の退去命令により、下の宮に遷し現在に至る
登録は水神社になっている

ちょうど5月11日は祭礼の日で船の渡御だろうか
漁業関係者がスーツを着て現れた
お昼にはあなごの天婦羅を配るそうだ

この日野ランチは穴子の天婦羅
口に入れた時あっと思い出した
ここに戻れば無料だったのに・・・

b0228416_10464776.jpg

b0228416_10465305.jpg


福守稲荷
b0228416_16364835.jpg
もしかしたら私有地にあるお稲荷さんかも
現在修理中


松前健著「稲荷信仰」に大田区史から調べられたこの稲荷について
書かれてあった

もとは一軒の地主がいたが没落し
大正時代ここに住んでいた4軒に分割売却された

それからその4軒で守られている
一軒だけが祀るとその家だけが繁盛するので
4軒の真ん中に祀られることになったという

5月に再度訪れたらきれいに直しが入っており
大切に守られている気がした




五十間鼻
b0228416_16392314.jpg
90mの実感ができない
b0228416_16401025.jpg
なんだか怖い
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


洪水防止のため長さ五十間(約90m)石を敷き詰め
急流から岸辺を守るために作られた
関東大震災、空襲など死体が多く流れ着き
五十間鼻無縁仏堂が建てられた
今では初日の出を見る人で賑わう場所である

大鳥居
b0228416_16405723.jpg
弁天橋を渡ると移された大鳥居がある


戦後すぐの9月のGHQによる強制移転で
穴守稲荷は現在地に遷された
この土地も土地の人の寄付によるものである
ところが、元の社殿など壊していくが
鳥居だけは事故など起こり、壊すことができない
そのまま平成まで空港内にとどまっていた
祟りの鳥居とか呪われた鳥居などと言われていた
航空関係社は、事故が起こらないようお参りするようになったという

取り残された穴守稲荷の鳥居は
平成11年(1999)ようやく現在地に移転された
移転費用は有志からの2000万円で行われている
強制立ち退きで現在の所有者が、判明していないからである
平和の扁額は羽田ボランティアの会が掲げたものである

今ではパワースポットとして多くの人が訪れている



白魚稲荷神社 祭神:宇迦之御魂命

b0228416_17105672.jpg
漁師が白魚を奉納する習わしがあったことから
称された
創建年代は不明だが旧羽田猟師町の成立した頃
1600年代(正保から元禄)と考えられている
貝の業者のあと砂利の業者からも慕われている

b0228416_16422995.jpg
飛行機から見える場所にあった看板の廃墟
いまは沖合に滑走路が延びたのでこの看板を飛行機から
見ることはできない
さびついてさびしい


天空橋
b0228416_16441570.jpg
色が茶色
ラピュタのイメージなし


駅名は日本一かっこいい駅名といわれたこともあるが、周囲に
民家もなくもとは羽田空港駅だった

現在は京浜急行とモノレールが接続されている

以前私も天空のラピュタを想像して訪れたことがあるが、
京急線は地下の駅で外に出たら殺風景で
そのまま空港まで誰1人歩いていない道を歩いた
行き着いた場所は研修センターとかで電車に乗って
羽田空港ターミナルに行くしかなく
ある意味面白い場所である

川にかかる天空橋は昔地下に潜る前の
京急線で行楽地に向かう路線だったところを
人道橋にしたという

飛行機好きにはたまらない橋だという
b0228416_16442563.jpg
鉄橋らしさは感じる
飛行機とんだけど遠い!
飛行機見学には向いていない
b0228416_17114138.jpg

京急が地下を潜る前の羽田空港駅前のお地蔵さん


b0228416_16455546.jpg
山田君

天空橋こえると人家はなく
消防署があっただけ


b0228416_16495821.jpg
天空橋から穴守橋渡って穴守稲荷にむかう
飛行機の操縦の練習台だったそうだ
b0228416_16500732.jpg

再度5月に訪れた時ここにある会社の社長さんが
中を見せてくれ
操縦席に座ることができた

天井までびっしりの機械に驚いたが

操縦士2人+機関士がいたことがよくわかる

今じゃこの種の飛行機は飛んでいない

ってこの飛行機御巣鷹に落ちた飛行機と同じ種類だ・・・

b0228416_10465645.jpg


b0228416_16501277.jpg
食事処はなく穴守稲荷駅周辺しかなく駅まで戻った
商店街の
居酒屋さんランチ
680円
コーヒー飲み放題サービス

美味しかったです

このランチは下見の時

当日はみんなで穴子の天婦羅食べました
割烹旭



穴守稲荷  祭神:豊受姫命

b0228416_16141314.jpg
名主鈴木家が自宅に勧請した稲荷があった

天保の初めか文政の末か、
堤防決壊の危機にみんなで堤防にあいた穴を塞いだ

被害を食い止めたのは稲荷を祀ったからに違いないと
鈴木家だけでなく地域の信仰の対象になった

穴とは堤防に開いた穴のことで
遊女たちは性病から守る神として信仰があった
稲荷を勧請したのは土手に穴を開けるネズミ退治に
お稲荷さんのきつね様をお連れしたかったからだという

b0228416_16141967.jpg
b0228416_16142634.jpg
迫力の面構え



社殿は明治になって暴風雨で壊れたため再建したが
温泉もわき、潮干狩りができ、旅館や芸者の置屋もでき
大変な賑わいを見せた

b0228416_16151523.jpg
いい雰囲気です
鳥居をくぐると
b0228416_16152640.jpg
奥宮です
b0228416_16155140.jpg
役目を終えた鳥居ですかね
ここに御神砂があり自分で袋に詰めます
b0228416_16162056.jpg
いただきました
雪が溶けたら・・庭にまきます







神社がパワースポットと言われるのはお砂のことで
いただいたら、床下や新建築の土地の中央におくという

いわれは

昔々漁から戻って釣った魚を入れるかごを
見ると釣った魚がいません
わずかな砂があるだけです

こんなことが続き、きっと穴守稲荷のきつねの仕業と思い
捕まえてみたもののきつねを放しました

それからその漁師は大漁が続きかごにあった砂を
家にまいたところ大変な富を得ることができました

それから招福の徳にあやかろうと穴守の砂を求めるようになった
といわれます

奥宮の後ろにまたお稲荷さん
b0228416_16202470.jpg
b0228416_16205097.jpg
b0228416_16205851.jpg
b0228416_16210630.jpg
b0228416_16211252.jpg
伏見稲荷のミニチュアみたい












羽田空港半世紀の歴史

蒲田・羽田の歴史

大田区HP

猫のあしあと

東京都の歴史散歩 中:山川出版



by gannyan1953 | 2018-01-24 16:51 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

招き猫の発祥の地を訪ねて

中川歴史ウォーキング         2018・3・17(土)

大河ドラマ「直虎」の井伊家の殿様が由来する
かわいい招福招き猫のふるさとです
ひこにゃんのモデルにもなっています
戦国時代の楽市が今でも続くボロ市
そして泣き泣き高杉晋作らが
松蔭先生の亡きがらを葬った松蔭神社があります


b0228416_11312537.jpg
豪徳寺の招き猫







集合:9:45 東急「三軒茶屋」中央改札口出たところ


三軒茶屋・・電車「宮の坂駅」下車・・世田谷八幡宮・・勝光院・・世田谷城址公園・・
豪徳寺・・勝國寺・・松陰神社・・世田谷代官屋敷・・世田谷区立郷土資料館・・
大吉寺・・常磐塚・・駒留八幡神社・・三軒茶屋



三軒茶屋
国道246号線(玉川通り)と世田谷通り(津久井往来)の分岐点で、
江戸時代この地に茶屋が3軒あったことから地名の由来になった
現在は田中屋が陶器店として残っているがもう店を閉めているようだ
世田谷線は荒川線とともに残る路面電車である。
全長5キロで今回は2、7キロ先の宮の坂駅まで楽しむ

世田谷八幡宮 祭神:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
源義家が後三年の役の戦勝を記念してたてたといわれる
天文15年(1546)吉良頼康(よりやす)が再建し
吉良家の氏神となった

勝光院 曹洞宗
建武2年(1335)世田谷城主吉良治家(はるいえ)開基で
吉良家の墓地がある

天正元年(1573)吉良氏朝が父頼康の菩提を弔うため
横浜小机の雲松院から僧を招き中興した
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河吉良荘より起った
世田谷吉良氏は庶流で、14世紀後半から世田谷を支配した
16世紀氏朝のころは小田原北条氏と婚姻して
北条とともに没落した
徳川の時代になると上総寺崎村に所領を移すが
旗本として存続しこの寺はずっと菩提寺とされてきた

二つのシラサギ伝説

めでたい伝説
「愛縁仏縁起」によると北条氏康の娘・崎姫が永禄元年(1558)
蒔田から三千石を持参し吉良家に嫁入りした。
天文6年(1537)春薬師如来のお告げがあり、
シラサギの足に和歌を書いた短冊を
つけて放したら、頼康の鷹がこれをとらえた
その縁で嫁入りをしたという
愛縁薬師如来は2尺の木像で運慶作と伝えられる

悲しい伝説
奥沢城(九品仏)に伝わる話で
奥沢城主の娘常磐が頼康の側室となり
懐妊するが12人の側室に妬まれ
無実の罪に問われる
常磐は奥沢城にいる父にあてた手紙を
シラサギの足に結んで放つが
父には届かずシラサギも常磐も追われて死んでしまう
シラサギの死んだ場所からサギソウが生えたという

のちに冤罪とわかり陥れた側室たちも殺される
そして常磐をふくめ十三の墓をつくり
十三塚と呼ばれた

目出たい話と悲しく陰惨な話が
伝わったことが興味深い

常磐の亡くなった場所には常磐塚がある

世田谷城址公園
吉良氏8代二百数十年の館跡で空堀をめぐらし、
烏(からす)山用水、北沢用水に囲まれた
平山城(ひらやまじろ)である
南北朝のころ足利氏の祖と同じくした吉良氏は
三河吉良氏の後裔で上野国飽間(あきま)郷を領し
貞治5年(1366)鎌倉公方りる世田谷を拝領した
長尾景春の乱では道灌とともに戦っている
小田原北条氏とも縁組みをして、吉良氏は蒔田城に移り、
世田谷城は北条氏が領した
秀吉の小田原攻めでは戦わず逃亡したが徳川の時代になると
高家として蒔田氏を名乗った

豪徳寺 曹洞宗
高輪泉岳寺の末である。文明12年(1480)
世田谷城主吉良政忠が母の菩提を弔うため建立したことが
はじまりである。天正12年(1584)に臨済宗から
曹洞宗に改宗、寛永10年(1633)彦根藩主井伊家の菩提寺になった
徳川四天王の1人井伊家の菩提寺としての威厳をもつ
仏殿は黄檗様式で裳階屋根に「元禄三年」銘の三世仏の扁額があり
阿弥陀・釈迦・如来の木像坐像が安置されている

墓地には桜田門外の変で暗殺された、井伊直弼の墓がある
井伊というと井伊直弼が有名だが戦国歴女は
井伊直政をよく知っている
b0228416_14195385.jpg
戦国無双 井伊直政


井伊家の墓だが直盛、直親、直虎、直政までは
井伊谷(浜松)の龍潭寺(りょうたんじ)にある

大河ドラマ「直虎」の父が直盛、次の代が直親だったが、
今川の謀略で殺されてしまい、直盛の娘直虎が女城主になる

直政は直親の子で徳川四天王となる

その子直孝から墓は豪徳寺になった
その直孝が鷹狩りの帰り小さな寺の前を通ると
猫が手招きをする仕草をした
中に入ると突然雷雨になり
雨宿りをさせてもらったことが縁で
井伊家の菩提寺となり直孝の法名にちなみ
豪徳寺となった

猫の手招きから寺の隆盛のきっかけになったことから
招猫堂が建てられた
願いが叶うと奉納するので
招き猫がいっぱいになる
ひこにゃんは豪徳寺の猫が
モデルになりひこちゃんも墓参りに訪れている

定かではないが直孝の奥様は蜂須賀小六の孫阿喜姫である
その姫の飼い猫がモデルになったという話もある

三重塔には干支の動物がいるのだがここはネズミと一緒に
招福猫がいるので必見である

勝國寺 真言宗
世田谷城の裏鬼門を護るという

国士舘大学  できればランチ

松陰神社
安政6年安政の大獄に連座し処刑された吉田松陰が祭神である
文久3年にようやく遺体を引き取りここに改葬された
この地は長州藩の別邸だった
明治15年墓の横に松陰神社が建立された
11歳で殿様の先生になるほど勉強がよくできたので
学問の神様として崇敬がある

吉田松陰は(1830)萩で生まれ
学業をたしなみ国をよくする手段として
勉学のため下田からアメリカに渡ろうと図るが失敗、
井伊直弼が大老の時行った安政の大獄で
萩の牢に入るが、そこで塾を開き
伊藤博文、高杉晋作、山県有朋たち
多くの将来の志士たちに教えた。


千住の小塚原については


世田谷代官屋敷
井伊家の代官大場家の私邸、役宅である
大場家は鎌倉時代の大庭景親の流れという
戦国時代吉良四天王のひとりとして武勇があったが、
秀吉に小田原北条が滅亡したことでこの地に帰農した
寛永10年(1633)井伊家が世田谷を領有することになり
代官となり世襲された

隣接して世田谷郷土資料館がある
世田谷の歴史をわかりやすく展示している

大吉寺
吉良家の祈願寺である
寺内大吉の生家である
「はぐれ念仏」で直木賞をとった作家であり
スポーツライターであり
僧侶で増上寺の法主も勤めた人である
2008年に亡くなった

常磐塚
常磐がこの地で亡くなりお腹にいた
嬰児8ヶ月もここで亡くなるが
胞衣に吉良の紋章があらわれたという
この塚は13塚のひとつとも言われるが
あとの塚は現在そんざいしない
ここの13塚は常磐を妬み後にに殺害された
側室たちの塚だと伝わる

駒留八幡宮
徳治3年(1308)北条左近太郎成願が馬が立ち止まった
ところに八幡大神を勧請したことが始まりで
室町時代常磐がこの近くで亡くなり死産したその子供を
祀り若宮八幡と称した
常磐は弁財天として祀られた


参考:猫のあしあと・ウイキペディア・各寺社HP・東京都の歴史(山川出版)












by gannyan1953 | 2018-01-15 12:14 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
日韓の史料を見ると新羅は..
by Zombie at 02:22
日韓の史料を見ると新羅は..
by Zombie at 01:27
ご無沙汰しております。コ..
by gannyan1953 at 14:19
早渕川の紹介ありがとうご..
by 福富洋一郎 at 08:30
> 歴史好きさん ご訪..
by gannyan1953 at 23:57
始めまして。 阿豆佐..
by 歴史好き at 19:53
> rollingwes..
by gannyan1953 at 14:13
初めまして、ローリングウ..
by rollingwest at 16:31
できればメールでお話しし..
by gannyan1953 at 09:08
新横浜スパインクリニック..
by gannyan1953 at 18:23
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
早稲田にある箱根山
at 2018-08-15 12:31
民間人捕虜の墓が横浜にあった
at 2018-08-15 11:29
岩村城の歴史
at 2018-08-05 16:51
岩村城
at 2018-08-03 13:17
半分青いロケ地に行ってきた 岩村
at 2018-08-02 12:46
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧