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歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:東京都 歴史散歩( 102 )

喜多見藩を訪ねて 東京23区唯一の藩

歴史と素適なおつきあい   2019・6・14

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喜多見城址



東京23区に藩と城(陣屋)がおかれたことは
珍しい事で、そこには静かで重厚なお寺があった・・城跡である





二子玉川駅西口改札口・・バス「「玉07 成城学園駅西口」乗車
・・「次大夫堀公園」下車・・次大夫堀公園民家園・・喜多見稲荷塚古墳
・・大六天塚古墳・・慶元寺(陣屋跡)・・喜多見氷川神社
「道とん堀」ランチ・・二子玉川駅


喜多見藩とは

藩主の喜多見氏は、江戸氏の流れで、平安時代は
江戸を領地としていた。

江戸重継を祖とし、広範囲に勢力を広げた。

戦国時代、太田道灌に領地を明け渡し現在の喜多見に移った。
古河公方、北条氏の家臣となり、北条が敗北すると
徳川の家臣となった。

そのとき姓を改め江戸初期に喜多見勝忠となった。

関ヶ原、大阪の陣の功績で近江の郡代となった。
綱吉のときに喜多見重政が家督を継いでいたが
綱吉に寵愛を受け1万石を領した。

貞享3年(1686)には2万石の大名になり
武蔵喜多見に喜多見藩が立藩し、幕府のお膝元という
立地にもかかわらず築城も許され費用は将軍綱吉から賜った。

ところが


元禄2年(1689)喜多見氏の分家が刃傷事件を起こし
連座して改易となったという。
側用人となり犬の支配役だった。

重政は桑名藩お預かりとなり、元禄6年(1689)に
桑名で亡くなった。

改易理由は不明だが重政が亡くなったあと
「生類憐れみの令」が急速に悪法に進んだという。

柳沢吉保陰謀説、綱吉の怒りをかったともいわれる。



次大夫堀公園民家園

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次大夫堀


小泉次大夫に因んだ用水で
狛江から世田谷、大田区にあった六郷用水のことである。

次大夫は徳川家康の命で二ヶ領用水や六郷用水を造った人である。
この場所は用水のあったところに再現されたものである。



喜多見稲荷塚古墳
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砧古墳群のひとつで6〜7世紀の円墳である。

泥岩切石積石室があった。埋葬者の太刀、耳環、埴輪など
発掘された。

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須賀神社



第六天塚古墳


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喜多見古墳群のひとつで5〜6世紀の円墳である。
埋葬施設が礫郭で埴輪が立てられていた。



喜多見城址・慶元寺


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寺は平安時代に江戸氏によって現在の皇居紅葉山に造られた寺で
東福寺といった。

江戸氏が江戸を道灌に譲り、喜多見に移転したとき
ここに移転され、寺名も変えた。


江戸時代将軍家光から朱印状を賜り格式ある寺院となった。
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江戸太郎さん


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本堂


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三重塔



本堂は享保元年(1716)のもので世田谷区最古の寺院建築である。


貞享3年(1686)〜元禄2年(1689)
わずか3年の喜多見藩2万8000石があった陣屋跡、
喜多見城址は参道の右側にあったと思われる。


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寺と神社の間の道



喜多見氷川神社


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天平12年(740)創建と伝えられるが室町時代の洪水で
古文書が流失しているため定かではない。

古くは多摩川沿いにあったともいわれている。


祭神はスサノオノミコトで男装備の荒彫神像と伝わり、
創建当時のもの、行基作とも伝わる。


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龍に見えない・・・


室町時代に江戸氏の修復を受け祈願所としたという。

江戸氏(喜多見氏)からの刀剣の奉納など
あったが、現存していない。

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参道が美しい




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帰り道 多摩川

















by gannyan1953 | 2019-04-30 16:20 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

2020年オリンピックマラソンコース②

歴史ウォーキング49    2019・6・15(土)

第2回マラソンコース  神田から浅草雷門まで歩きます
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浜町公園

集合:6月15日(土)9:45 JR「神田駅」東口改札口

今川橋・竜閑堀跡・・長崎屋跡・・福徳神社・・三浦按針遺跡
日本橋・・日本橋日枝神社・・蠣殻町・・銀杏八幡宮・・水天宮・・郡代屋敷跡・・江戸城浅草見附跡
浅草天文台跡・・蔵前神社・・駒形橋・・吾妻橋・・雷門





今川橋・竜閑堀
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竜閑川は元禄4年(1691)に開削された堀で人工の川である。
神田堀、神田八丁堀などと呼ばれていた。
五街道の東海道以外の街道は日本橋から
最初の今川橋を渡る。
江戸時代安永年間(1700年代)ここに大判焼きの店があり、今川焼という名が
ついたという。
資材運びなどに使用された。
日本橋川の河口付近に
竜閑という武士の屋敷があったために
竜閑堀といわれた。
明暦の大火後防火のため土手が築かれ
町民が自ら資金を調達し開削したという。
安政4年(1857)に埋められたが
明治16年(1833)又開削され
戦後のガレキを処理するために埋められた。
堀跡を辿ると伝馬町牢屋敷につながる。

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長崎屋跡
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幕府が鎖国をし、オランダのみ長崎の出島に商館をおき、
貿易が許された。商館長カピタンはお礼のため江戸に来て
この長崎屋に滞在した。手土産を献上、将軍に拝謁した。
将軍には献上物、家老などには進物といい、
残った場合売却され旅費などに充てたという。
旅費は12000両、莫大な儲けをする
オランダの自己負担である。
江戸は長崎屋、京都は海老屋、大阪は長崎屋
下関は大町年寄、佐甲家、伊東家
小倉は大阪屋などに宿泊した。
江戸では厳重に役人が監視したが京都では監視がゆるく
芸者や遊女を招き、羽目をはずすこともあったという。
大阪では輸出品の銅の精錬を行う住友銅吹所を見学する事が慣例だった。
南蛮人から学んだ製法で粗銅から銀を抽出できた。
ここで饗応を受け、それを見学にくる庶民には銅吹所の泉屋が
炊き出しをしたという。
江戸の長崎屋には、オランダ人の知識を得るため
多くの蘭学者や医師などつめかけたという。

福徳神社  ウカノミタマノミコト
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貞観(じょうがん)年間(清和天皇の頃で800年代)には
鎮座していたという。福徳村の鎮守だった。
源義家が崇敬し太田道灌が武具を奉納、家康も参拝、
徳川秀忠は木々の春の芽吹きが美しいと
芽吹稲荷と別名をつけた。
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三越
このあたりの大理石に化石が見える

三浦按針遺跡
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三浦按針ことウイリアム・アダムスは
イギリスで生まれ、造船技術や航海術を
身につけ、航海するうちオランダ人と親しくなり
オランダ商船リーフデ号で太平洋にでて遭難、
日本の九州臼杵に漂着した。
当時秀吉の元で五大老だった家康が
江戸に招き帰国を願うアダムスを
米や俸給を与え慰留し
数学や天文学、通訳などさせた。
三浦半島に領地を与えられ
「安針塚」という駅名になっている。
家康の死後、鎖国もあって
平戸で寂しく亡くなったという。
いっしょの船に乗っていたヤン・ヨーステン
は八重洲の地名に残る。
彼は朱印貿易でジャカルタからの帰国途中
インドシナで座礁、溺死した。
日本人と結婚した2人の子孫は今でも
いつのだろうか。
記録が残っていない。

日本橋
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これは道路の真ん中にあるので
見たい人は車に気をつけてくださいね

慶長8年(1603)木造の太鼓橋が架けられた。
最初は粗末な2本の木で架けられたから日本橋、
日本の中心だったから日本橋の説がある。
現在の石橋は
明治44年(1911)に架けられた。
架橋100周年に舟めぐりが始まった。
魚市場の跡や橋の景観を見直す動きもある。
日本橋は江戸開府とともに城下町として急成長し、
全国から商人や、職人が集まった。
五街道の起点で水運に恵まれ、
多種多様な物質が集結、流通した場所である。

日本橋日枝神社 日枝大神
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天正18年(1590)家康が日枝神社を崇敬し
ここは八丁堀北嶋(鎧島)祓所という御旅所だった。
神輿が船で神幸(しんこう)した。
ご神木は触るとパワーもらえるという
空仰ぐ狛犬は遠吠えしているといわれ
癒されるのだそうだ

其角住居跡
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其角は芭蕉の弟子であしゃれな俳句を詠んだらしい
英一蝶が八丈島に流されくさやが送られてくると
英一蝶は達者だと喜んでいたという
吉原でいっしょに遊んだ仲だという
八丈島に差し入れの品を送るんだろうに
八丈島から送られてくるのが面白い


 

蠣殻町
漁師の小網の干場で、
牡蠣の殻が堆積した浜だったという説がある。
江戸時代は大名や武士の屋敷が多かったが、
明治になり鎧橋が架けられると庶民が住み着き
キッコーマンやヤマサなど醤油製造販売や、
砂糖の卸店など商人の町となり発展した。

銀杏八幡宮
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蠣殻町の鎮守で樹齢400年の銀杏がある。
昭和のはじめ銀杏を移転し商店街にする計画があったが、
近隣の住民が
三番地の人「三番地の空き地へ」
四番地の人「いや四番地に」
三番地の人「冗談いうねえ、三番地に立っているんだ」
四番地の人「よさねえか、根っこは四番地にはっているんだ」

移転は中止となった。

水天宮
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久留米藩の有馬家が、久留米の水天宮を

三田の上屋敷に勧請した。

藩邸にあったので、一般人は参拝できなかったが、

一般参拝の許可を求める伺いを幕府に願い出たところ

毎月5の日に一般公開されるようになった。

有馬家は賽銭、奉納物、販売物など安政のころ

年間2000両にのぼり、貴重な収入になった。

明治4年赤坂に屋敷とともに移転したが

翌明治5年現在地に移転した。

江戸鎮座200年を記念して社殿の建て替えを行った。

現在の宮司は有馬家当主である。



郡代屋敷跡
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郡代とは関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する役目で
行政、裁判、年貢徴収、警察権、鷹場の管理を行った。
といわれるが、実際には伊奈氏のころには関東代官といわれ
伊奈氏が改易された以降を郡代という役職名になったという。
伊奈氏は家康父子に仕え湿地帯で水も不足した
江戸を作り上げた人である。

伊奈氏は12代200年間に渡り世襲し、

7代は宝永大噴火の砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行にもなった。

高山の観光地の高山陣屋は伊奈氏が高山の郡代も兼ねていて、

幕府直轄の天領の陣屋である。

関東郡代は伊奈氏の自称で他の郡代、代官とは別格だった。

のちに老中の直属となり伊奈氏の地位をめぐる御家騒動が起こった。
寛政4年(1792)に罷免、改易された。
諫言によるといわれている。
御家騒動とは、11代は子が生まれず
備中松山藩主の子を養子にした。
その子は12代になった。
そののち11代の実子が生まれ、
12代は子がなかったので、実子を
跡継ぎにした。
ところがそのあと12代に子ができると
跡継ぎをめぐりややこしくなった。
12代は天明の打ちこわしで庶民を救うため
借金をしたが、返す事ができず
とうとう家中のものが幕府に
12代の不行跡を訴え
結果12代も実子も失脚した。
幕府は借金は個人的なことで
知らぬ顔をしたというが、
権力と人望を持った伊奈氏の力を
怖れての事かもしれない。
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江戸城浅草見附跡
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江戸を守るための見張り番所だがこの場所は隅田川にかかる

重要な場所だった。明暦の大火で小伝馬町の老屋敷にいた罪人が

戻る約束をして放免されたが、脱獄と伝わり

この門を閉めてしまったため、

江戸市民が逃げ場を失い命を落としたといわれる。 

このあと防備より、防災を重視し両国橋が架けられた。

浅草天文台
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幕府の天文方があり、暦を作ったり天体観測も行われた。
伊能忠敬もここに通った。

蔵前神社
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元禄6年(1693)五代綱吉が石清水八幡宮より勧請、
江戸鬼門除けとされた。

榧寺
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秋葉大権現のおかげで数多い江戸の火事で焼けなかったお寺

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駒形どじょう


駒形(こまかた)堂
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駒形堂に由来する地名で駒形堂は天慶5年(942)
平公雅(たいらのきんまさ)によち建立された。
円仁作の馬頭観音を祀るためと伝わるが
古くは浅草寺の総門があったという
昔は駒形の渡しがあった。
ちなみに土地の人はこまかたという。

平公雅は、将門の親戚で父良兼が将門の所領を
求め戦っていたが、将門との関係は中立だった。
父が人質にした将門の妻子を将門に
返している。乱ののち武蔵守となり、
浅草寺の再建をした。

吾妻橋
橋は安永3年(1774)に架けられ
それまでは「竹町の渡し」があった。
橋名は隅田川が大川と呼ばれていたので
大川橋だったが、向島の吾妻神社に行く道だったので
吾妻橋となった。
吾妻神社は北十間川に沿って押上の東にある。

雷門
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外国人が多く
「江戸てんや」で食事したが、
現金で支払いできなくて
帰る日本人もいたことが面白い
店内各国の言葉で、みんな上手に箸を使っているのに
感心した。


創建は定かでないが、慶安2年(1649)家光が再建したときに
雷門という表記がある。
駒形堂に総門を造り、鎌倉時代に移築された時
風神雷神を配したといわれている。
幾度も焼失し、慶応年間から再建されず
昭和35年(1960)松下電機の松下幸之助により
燃えないようにコンクリートの門が寄進された。


by gannyan1953 | 2019-04-04 15:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

日本橋七福神巡り

歴史と素適なおつきあい   2019・5.8(金)


最近最強スポットと言われるようになった
小網神社もあります
老舗をのぞきながら歩きましょう

集合:9:50 半蔵門線「水天宮」駅

水天宮・・松島神社・・茶の木神社・・谷崎潤一郎生誕の地・・
西郷隆盛邸跡・・小網神社・・ランチ魚久・・
甘酒横丁・・末廣神社・・笠間稲荷神社・・
椙森神社・・(小津和紙)・・水天宮か三越前



日本橋
慶長8年(1603)木造の太鼓橋だったが、現在の石橋は
明治44年(1911)に架けられた。架橋100周年に舟めぐりが始まった。
魚市場の跡や橋の景観を見直す動きもある。
日本橋は江戸開府とともに城下町として急成長し、全国から商人や、職人が集まった。
五街道の起点で水運に恵まれ、多種多様な物質が集結、流通した場所である。
暖簾、企業という形で今も成長している活気のある町である。
町名は日本橋を冠する町が21あり、日本橋を残したい人々の思いが伝わる。

日本橋七福神
昭和25年頃、有馬頼寧(よりやす)の提唱で始まり、51年に復活した。(江戸東京札所辞典)
頼寧は有馬家の末裔で伯爵、政治家だった人で水天宮は江戸時代有馬家が勧請した。



水天宮 弁財天 安産・子宝・美の向上

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弁財天

久留米藩の有馬家が、久留米の水天宮を三田の上屋敷に

勧請した。藩邸にあったので、一般人は参拝できなかったが、

一般参拝の許可を求める伺いを幕府に願い出たところ

毎月5の日に一般公開さ

されるようになった。

有馬家は賽銭、奉納物、販売物など安政のころ年間2000両にのぼり、

貴重な収入になった。

明治4年赤坂に屋敷とともに移転したが翌明治5年現在地に移転した。

江戸鎮座200年を記念して社殿の建て替えを行った。

現在の宮司は有馬家当主である。



松島神社 大黒天 金運

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創建は定かではないが、鎌倉時代以前と伝わる。

ここは昔島で、松の繁茂するなかに島の鎮守となり、

松島稲荷大明神となった。

正徳3年(1711)社号にちなみ

松島村と称した。

周囲を埋め立て大名屋敷を造営するために

集まった大工、左官、家具職人など住み着き

蛭子社に合祀し、水子供養のため布切れ、

土、木片などで乳児の形をつくりお供えした。


茶ノ木神社 布袋 福徳

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江戸時代佐倉藩の大老堀田家の中屋敷の鎮守だった。

社の周囲は丸く刈り込まれた茶の木が植え込まれた。

この屋敷は火災がなく、いつのころからか火伏の神と

崇められ、堀田家は年一回初午の日に一般参拝を行った。

お茶の木さまと親しまれた。


京粕漬け魚久

初代は奈良の生まれで京都で料理修行して

日本橋に隣接する蠣殻町で大正3年「魚久商店」を開業した。

日本橋に魚河岸があり、蠣殻町は米相場を支配する商業の中心地だった。

昭和15年に「江戸風懐石魚久」を開店すると

粕漬けが評判になり、現在に至る。


谷崎潤一郎生誕の地

明治19年(1886)この地で豊かな家庭に生まれた。

その後すぐに身代が傾き、進学も危ぶまれたが

学業に秀でていたため援助をうけ東大に進学している。

東大在学中から小説を書き、最初は北欧的なスタイルだったが

関東大震災を機に関西に移ってから

純日本的な傾向になり、日本の美しい文体を

確立した。私生活は結婚、離婚を繰り返し

細君譲渡事件もあった。


鯨と海と人形町

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あやつり人形のバネは鯨のひげが使われる。

文楽の人形の首の動きは弾力のある

鯨のひげでなければ出せないという。

寛永のころこのあたりには芝居小屋があり、

人形をつくる職人が多く住んだ。


西郷隆盛屋敷跡

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江戸時代は姫路酒井藩に下屋敷があり、

明治4年(1871)新政府に参議として

上京し、ここに明治6年まで住んだ。

26000坪の広い屋敷で

書生15人ほど、下男7人を雇い、

猟犬数頭が飼われたという。


小網神社 福禄寿 強運

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1000年前ころに観世音と弁財天があったという。

文正元年(1466)疫病が流行し、漁師が稲穂を持って

この庵で数日過ごすと夢のお告げで稲荷を勧請すると

疫病が止むといわれた。早速稲荷大明神として称し

祈願をすると疫病がとまったという。

太田道灌はこの神徳に崇敬したという。

太平洋戦争では氏子の出征兵士がお守りを受け

その兵士が全員生還したこと、

社殿が戦災を免れた事、

宮司がご神体を抱え新大橋に避難したが

新大橋も被災しなかったことなど

強運厄除の神と大変人気がある。


甘酒横丁
明治始めに甘酒屋があったことに由来する。
明治座にむかう道である。
つづらやが有名である。

末廣神社 毘沙門天 勝負運
元和3年から明暦3年まで吉原がこの地にあり
地主神として信仰され、明暦の大火で吉原が移転してから
この地の氏神となった。延宝3年の社殿修復の折扇が見つかり
末廣神社となった。

笠間稲荷神社 寿老人 長寿
笠間藩牧野氏の下屋敷にあった。綱吉から拝領した土地で
広い庭園には池、築山を設けた。
綱吉は生母桂昌院とともに30数回は訪れたという。
江戸末期には初午の日には一般参拝に公開された。
廃藩後も笠間稲荷東京別社として被災、戦災で社殿を失うも
再建された。

椙森神社 恵比寿 商売繁盛

平安時代に平将門の乱を鎮定するため藤原秀郷が

戦勝祈願した所と伝わる。

室町時代は太田道灌が雨乞い祈願のために

伏見稲荷のを勧請、江戸時代は椙森稲荷といわれ

富くじの富興行が行われた。

昭和6年にコンクリートの社殿が造られ
戦災を免れた。














by gannyan1953 | 2019-04-03 15:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

江戸城の火事の跡

歴史と素適なおつきあい番外編

孫と日本橋から江戸城見学をした

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これが江戸城の火事の跡

まずは日本橋三越へ

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三越の化石を見つけた

大きな化石はこうして印があるが、
探すとたくさん見つかる

アンモナイトしか見つけられなかったが
なかなか面白い

老舗のデパートはイタリア産の大理石を
使っている
アルプス山脈はアフリカ大陸がぶつかり、
隆起したという
このとき海の底もいっしょに隆起し
アンモナイトが埋まったらしい
日本橋でアルプス山脈と地球を
考えるの面白い


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途中工事中の囲いの塀が
ゴジラでいっぱいになっていた

とりあえず私が見たと覚えている映画のみ
写真をとった

ゴジラのテーマは
アイヌの人を迎えるために
踊ったリズムで作曲された

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行進呪術(北の考古学・瀬川氏のブログ)

おもしろいのが行進呪術で「諏訪明神絵詞」にもあるが、

千鳥足で歩く行進呪術は修験道の反閉(へんばい)をまねたものらしい。

仲間が遠くから帰ってきたときに悪いものを持ち込まないように行う呪術である。

この行進呪術は芸能化されタプカーラという踊りになる。

その踊りからヒントを得て作曲されたのが、「シンフォニア タプカーラ」で

ゴジラの作曲者の伊福部氏である。

最近では地震緊急速報の音はタプカーラの音から作られた。

彼は和人だが北海道出身でアイヌの文化を見て、アイヌを身近にして育った人である。

ゴジラの壁を、だだだん だだだん と歌いながら
見てきた




江戸城は新天皇即位と
サクラを見に来る人でいっぱいだった

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天守台石垣の焼跡で、これは本丸御殿を焼失した
文久3年(1863)の大火で石が焼けた

黒い線が、石が燃えて割れた跡

天守閣が燃えたときかと思ったら違っていた
明暦3年(1657)の明暦の大火で
本丸は焼けてしまった

以後、天守閣が再建される事はなかった

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平川橋に江戸時代慶長の時代の
擬宝珠(ぎぼし)があった







by gannyan1953 | 2019-04-02 22:22 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

2020オリンピックマラソンコース①

歴史と素適なおつきあい番外編    2019・1・4
中川歴史ウォーキング47
東京オリンピックのマラソンコースを歩くことにした

第1回 約9キロ

千駄ヶ谷駅・・沖田総司終焉地・・四谷大木戸跡・・小泉八雲旧居跡
・・防衛省前・・市ヶ谷八幡宮・・飯田橋・・水道橋・・神田駅





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千駄ヶ谷
新宿御苑あたりを水源とする渋谷川上流にあり、多くの萱があった。
それを一日に千駄(駄は馬に積む荷物の重さの単位)積んだ事からという。
戦後最初は米軍の遊び場となり連れ込み旅館が多かったが、
1964年の東京オリンピックで一掃され、多くは湯島に移動したという。

千駄ヶ谷駅を出たら道を渡って左に行く
陸橋の手前右に階段があるので下りる

そこが国立競技場から出発した選手たちの
最初の道路

左に行く(北)

大京町
江戸幕府の常備兵力の大番と人名と思われる右京が合併し
大京町となった。
西への警護に多くの旗本が住んだ。

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新選組の沖田さんが亡くなったといわれる場所
植木屋平五郎の家で療養したという。

もうひとつの終焉の地は今戸神社

少し進むと
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多武峯内藤神社

新宿御苑が内藤家屋敷だったころ
屋敷神だったが、明治5年ここに移転した

ここに駿馬塚がある

内藤家の伝説にかかわる馬のことで
家康入府後、家臣だった内藤清成を呼び
新宿御苑あたりを示し
「馬でひといきにまわれるだけの土地を与える」
といわれ
馬でぐるりと走ったが
疲れて馬は死んでしまった
ここに埋められたという

18代内藤家当主によると
その話は伝説で青梅街道の要所を
信頼できる配下に治めさせたかったのではないか。
明治になるまでここを治めたことは
大変珍しいことである
という。

愛馬は死んでしまったが、東京ドーム14個分
20万坪を拝領した

のちに3分の1を内藤新宿という宿場を作った

内藤清成さんも青山忠成さんも
三河岡崎の生まれで
ともに江戸に地名を残した

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お稲荷さんと八幡様

沖田さん終焉の地にも川の跡があったが
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これは四谷大木戸の川の跡

渋谷川である

もともと水の流れが少ない川だったが、
新宿御苑、明治神宮の湧き水
ここ四谷大木戸の水番所から余った水が
流され
水車がまわる風景になった
渋谷川上流の河骨(こうほね)川は
唱歌「春の小川」のモデルといわれる。

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用水と川

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四谷大木戸跡

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内藤新宿の碑


まっすぐ進むと
ちょっとディープな市ヶ谷散歩でまわったコースが
目の前に広がる。重なるところも多い。





富久町
明治になって久しく富むからつけられた。
バブルの地上げで家屋が穴あき状態になっているが、
地上げされた場所には高層マンションができている。
地上げの後には道路建設のための立ち退きがあり、
未だ道路建設は立ち退きが進まず難航している。
2度までも立ち退きを要求される土地柄である。
久しく富む街になって欲しいと思う。


富久(とみひさ)町を右に行く
ここからまっすぐ進む。

小泉八雲旧居跡
明治29年(1896)から六年間ここで過ごした。
東大で英語の教鞭をとっていた。亡くなったあとの教師は夏目漱石だった。
1850年ギリシャで生まれ父の故郷アイルランドで育った。
アメリカでは黒人女性と結婚している。2年で離婚。
日本に特派員として訪れ日本の印象が忘れられず再来日した。
松江で日本人のセツと結婚し、熊本、神戸と転々とした。

再話文学として有名で昔話に興味を持ち小説を書いた。
怪談で有名である。
ダブリンで過ごしたとき、父の言うキリスト教より、
ドルイド教に興味を持っていたという。
アイルランドは妖精の国といわれるが、その風土が
ロマン、幻想的な小説になったと思う。

私が今までで一番怖かった話が
小泉八雲の幽霊滝の伝説である。
小学生のころラジオの朗読劇で聞いた。

合羽坂下
由来は江戸時代「蓮池」という池に
大雨が降るとカワウソが現れた。
これを河童と勘違いしたという。


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レトロでかっこいい
数学に関係したところ

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太田姫神社
道灌の娘である
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陸橋で水道橋方面に行く。

藤田東湖最後の地
後楽橋をすぎると現在の右側道路に
藤田東湖邸があった。水戸学の大家で
幕末に多くの志士たちに影響を与えた。
安政の大地震で一度は屋内から逃げたが
母が火鉢の火を心配し戻ったので
母を追い、崩れる梁を肩で受け止め
母が救出されてから力尽き圧死した。
西郷隆盛が清らかな人だったと惜しんだ。
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万世駅のモニュメント



カトリック神田教会
明治7年(1874)この地に創設
ラテン学校があり、そこにザビエルに捧げる聖堂となった
大火で焼けたり、震災で聖堂は失われたが
昭和3年(1928)現在の建物が建てられた
ここにザビエルの聖遺骨が祭壇にある




以前夕方に聖堂に入ったら夕日で照らされる
ステンドグラスに息をのむほど美しかった
マリア様のパワースポット一押しの場所である。

神保町を左に行く

神保町
地名の由来は戦国大名神保氏からである。
もとは上野国多胡郡の神保邑の発祥で
江戸時代佐渡奉行を勤めた。
明治になって地名に神保の名をとった。
小川町だったころ大火で焼失し、神田高等女学校教員の
岩波茂雄が古書店を開いた。
夏目漱石や哲学叢書の出版で成功し岩波書店が起こった。
大学生が足を運び書店、カフェなどでき、
ない本はないとまでいわれる本屋街になった。
司馬遼太郎が「街道をゆく」で米軍がここの古書が焼失する事は
文化的に大きな損失だと空襲を避けたと書いているが真偽はわからない。

小川町
江戸時代は鷹狩りを行う鷹匠が住んでいたので
元鷹匠町だったが、生類憐れみの令がなくなってから
元禄時代に小川の地名になった。
太田道灌は
「武蔵野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」
と歌った。
小川の流れる風景が由来になったのだろうか。
正岡子規が勤めた新聞社や坊ちゃんの主人公が
学んだ学校があった。
今ではスポーツ品店が多くある。

須田町
江戸時代はすたといわれた。
運河が交差する要所で
明治になると都電のターミナルの要所となる。
万世橋駅が作られ中央線の起点となった。
戦後米軍から流れた真空管を扱う露店が多くなり
秋葉原の原型となった。

神田
神田は伊勢神宮の御田(おみた・みたなど)だったところで、
大手町から駿河台までの丘陵を神田山といった。
江戸時代に丘陵をを切り崩し
日比谷入江、日本橋浜町、京橋あたりの沼地、海を
埋めた。
神田山を削って掘割にして今の神田川をつくり
日比谷の入江に注いだ平川の氾濫が城下に
水害をもたらすのを防いだという。

「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」
と森の石松の浪花節にある言葉は有名である。
昔から神田明神の氏子がいなせな民衆が
多かったからといわれる。

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三越前まで歩いた
その手前 十思公園に行くこの細い道
渋谷川の跡である


 




















by gannyan1953 | 2019-03-06 21:14 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

清水谷から霊南坂の歴史散歩

歴史と素適なおつきあい    2019・3・8(金)

歴史に残る坂道や大名屋敷を訪ねます
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集合:9:50 半蔵門線 永田町7番出口方面改札口



赤坂見附
江戸城三十六見附のひとつで見張りの番所があった。

紀伊和歌山藩邸
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昔からあった道が今風になっていて
石垣が見える


寛永9年(1632)に拝領した。当初は中屋敷だったが、
麹町にあった上屋敷が火事で焼失しここが上屋敷となった。
廃藩置県で、和歌山藩主は知事を辞職し
上京してここに住んだ。
明治6年(1873)皇居だった西の丸が火事で焼失したため
この屋敷を皇室に献納し、金2万円を賜った。
また皇太后を近くにお迎えしたいと
のことで、南西部の地所も献納した。
この広大な土地は現在も皇室が東宮御所、迎賓館など
になっている。


大久保利道終焉の地

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大久保利通が殺害された清水谷近くに碑がある。

明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と

並び維新の三傑と称される。

初代内務卿を務め実質の首相だった。

廃藩置県、版籍奉還をして中央集権体制を確立した。

明治4年(1871)には岩倉具視とともに

外遊し日本国家のあり方を学んできた。

国を強くするために私財を投げ打って行ったため
亡くなったあとは借金の山だったが、
遺族に返済を求める人はいなかったという。

禄を失った不平支族の恨みによる
暗殺だったというが、
惜しい人を亡くしたと私は思う。

霞ヶ関に住んでいた大久保が清水谷を通過したのは
御所が焼失し和歌山藩邸に移り住んだためであった。
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清水谷公園にある
司馬遼太郎によると大久保は
国家を強力にする事ばかり考えて
住む人々の水事情には無頓着で
用水のメンテナンスを怠ったという
江戸時代はそれぞれの役割を持った人々で
動いていたが文明開化で町の仕組みが変わったからだという
そうだったのか・・・



その先に紀尾井坂がある。
襲撃されたのは紀尾井坂ではなく
清水谷だった。

ニューオオタニは
彦根の井伊家屋敷跡になる。



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食違い見附
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東京トリップより
喰違とは
ジグザグの道にして通りにくくする虎口だそうだ

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弁慶堀を見下ろす





このあたりで岩倉具視も襲撃されている。
赤坂見附から日枝神社方面に南下する。

ここからは司馬遼太郎の
「街道をゆく・赤坂散歩」の
舞台にいく。

「このあたり一帯は中世の山城のような地形で
その坂上の平坦地が本丸にあたる。
そこにホテルオオクラがある。
以前このあたりを散歩して塀裏の小路に入り込み
小さな寺を見つけた。」

信州高田派の寺である。

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ここは陽泉寺 曹洞宗の寺

高田派とは、親鸞は越後に流されたあと茨城から
関東に来て栃木の真岡市高田の地に住んでいた武士が
親鸞に帰依し高田派の祖となった。
現在は津市の一身田というところに本山専修寺がある。
戦国時代に戦火で焼かれ津に移ったという。

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常国寺



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正福寺
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澄泉寺
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林誓寺





澄泉寺の末寺として常国寺・林誓寺・正福寺がある。
真岡から桜田村(霞ヶ関)にやってきて
幕府ができると赤坂台に移され、
アメリカ大使館の敷地も寺のものだったという。
住職の名前は桜田という。
司馬遼太郎はそこに感動し、
古い東京人と言った。

外国人が多く住むマンションがあり、
出会った人はみな外国人と警官だった。

ホテルオオクラ
南に江戸見坂があり、江戸の町並みが見えたという。
東に汐見坂があり、江戸時代はじめには海が眺望できた。
幕末には川越藩屋敷があった。
西に霊南坂があり、江戸時代のはじめ高輪東禅寺が
嶺南庵としてここにあり、
開山嶺南和尚の名をとったが、
いつしか嶺が霊になった。

アメリカ大使館と大倉集古館の間が
霊南坂である。

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今年秋まで改築中

アメリカ大使館
常陸牛久藩邸だった。
写真はとれません!

共同通信会館
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肥前佐賀藩邸だった。

虎ノ門金毘羅宮
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祭神:大物主神・崇神天皇
讃岐の丸亀藩主だった金毘羅宮を藩邸だった芝に勧請、
延宝7年(1679)に江戸城の裏鬼門にあたる
現在地に遷座、江戸の人々はお参りを強く要請し
毎月10日に藩邸内の金毘羅宮に参拝を許可していた。

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溜池櫓台

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外堀の展示室










by gannyan1953 | 2019-02-03 11:20 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

高橋是清さんすごい!

歴史と素適なおつきあい番外編

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 高橋是清

2月のウォーキングは「麻布大観音のパワー」をいただきに行く

途中 高橋是清翁記念公園に立ち寄る。

日経新聞の記事にすごい人生が載っていた。

歴史学者 本郷和人さんの記事である。

奴隷には驚いたが
アメリカ行きは13歳
船でお酒を飲んでみせたという
13歳までに
女の子にいたずらまでする
悪ガキだったようである

帰国してから
ペルー銀山への投資やら、
畜産事業にも手を出し、
銀相場にも手を出した

これら全部失敗!

芸者のヒモになったこともある。

でも日銀では海外の投資をもらうために
尽力している

日露戦争の資金繰りに困り
イギリスの銀行家や
ニューヨークで活躍するユダヤ人から投資してもらった。

日本は必ずロシアに勝つと言ったらしい

結局日露戦争の影の立役者は高橋是清だった

英語の先生を2度程したが、

教え子に

辰野金吾や
正岡子規もいた。

だまされやすい人柄

かわいい人だったのかもしれない

以下

「麻布大観音でパワーをもらおう」
の記事

「だるまさん」の愛称で親しまれた
高橋是清邸があった場所である。
2000坪あった。邸宅は東京たてもの園に
移築されている。
高橋是清は大蔵大臣を6回も歴任し、
内閣総理大臣にもなっている。
日本の経済を何度も立て直し
大蔵大臣として評価されている。
江戸末期仙台藩士の子として生まれたが、
母は正妻ではなく足軽の高橋家にもらわれた。
勉強がよくできたのでヘボン塾に通い、
アメリカ留学をするが、意味もわからず
書類にサインをして奴隷として
その家の使用人に50ドルで売られた。
働く間英語も勉強し、なんとか奴隷の
契約書を破棄する事ができた。
帰国するがが維新後のことで
仙台藩は逆賊となっていた。
そこで治外法権のある外国人として
入国し、サンフランシスコで出会った
森有礼の紹介で文部省に入省、
それから総理大臣にまでなった人である。
2・26事件で殺害される。
インフレが起きそうな経済立て直しに
軍部の予算を減らそうとした事から
2・26事件の標的となった。








by gannyan1953 | 2019-01-27 11:43 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

70YEARS LIVE 『OLD GUYS ROCK』に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編 2019・1・20(日)


またまた縁あってジュリーの
70YEARS LIVE 『OLD GUYS ROCK』に行ってきた

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2時半
武道館へ

ジュリーの声は変わらなかった
長くのばすと少しダミ声になるが
きれいな声で歌っていた

感動した

太って悪いか・・
もう70歳なんだから
好きに行きたい

共感しました

ありがとうございました
勇気がでました

ジュリーの前に
歴史散歩

まずは平将門様の築土神社へお参り

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九段下にくるとできるだけお参りしている

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奥にある石碑が今日のお目当て

太平洋戦争の空襲の時
当時の社司さんが世継稲荷のご神体を抱えたまま
焼死されたそうで

南無阿弥陀仏


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世継稲荷


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九段会館工事中
九段会館は東日本大震災で被災し
人も亡くなっている

2・26事件にもかかわり
歴史的建造物だが、完全取り壊しではなく
一部保存の形で再建されるらしい

靖国神社
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気になった場所
本殿の左にある
ちょっと見辛いが

囲われた地面に注連縄

他の神社での記憶では
神聖な場所で

神が降臨したりする場所

と記憶している
どちらかというと古代祭祀に近いものだ

靖国は新しい・・・

そこで聞いて見た

靖国に入っている御霊を
「しょうこん」する場所だそうだ

私は「昇魂」と受け取ったが、
あとでよく考えたら
「招魂」だったのか

鎮霊社や、御霊社と近いが、違う場所にある

靖国神社の境内案内には載っていない

もう少し調べる必要があるが、
ネットにはのっていなさそうである。

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神道無念流

斎藤弥九郎が開いた練兵館跡で
靖国神社ができるため立ち退きをした。
長州藩の桂小五郎(木戸孝允)高杉晋作、伊藤博文
品川弥二郎など門下生だった













by gannyan1953 | 2019-01-21 14:31 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

ファントム 宝塚

歴史と素適なおつきあい番外編   2019・1・16


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今日は縁あって 宝塚「ファントム」を観劇してきました。

望海風斗さんの舞台でオペラ座の怪人のお話です。

原作とは違うお話になっていますが、
とても話の筋と、気持ちがよくわかり、
涙を流しながらの観劇でした。

歌も踊りも素晴らしく
上質なミュージカルをみてきた感じでした。

8800円は安かった!

日比谷ミッドタウンでお茶してきました。


帰宅したらなんと
武道館の沢田研二さんのチケットが
手に入るという知らせ。

是非是非
行ってきます!

久しぶりのジュリー!

お会いできる日を
楽しみにしています。




by gannyan1953 | 2019-01-16 20:24 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

2019年新春

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・1・1

あけましておめでとうございます
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2018年12月31日の富士山
お掃除、おせちと昨日まで頑張ったので
おひとりさま高尾山を楽しみました
今年もよい年でありますように!




by gannyan1953 | 2019-01-01 00:00 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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