歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:東京都 歴史散歩( 86 )

国立天文台に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編              2018・9・20

深大寺から20分くらい歩いて
国立天文台に行ってきた


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見学できる

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第一赤道儀室

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アインシュタイン搭までの道が
素適だった
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アインシュタイン搭


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延宝5年)1677)
渋川春海は初の天文方として
幕府に採用された



あと・・いろいろあったが
よくわからなかった

終了




by gannyan1953 | 2018-10-14 11:21 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

深大寺を訪ねて

歴史と素適なおつきあい     2018・11

「多摩川にさらすてづくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」という
万葉集の歌が残る調布は渡来人が開拓し、深大寺を建立しました。
2017年改めて国宝指定された白鳳仏が安置されています

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深大寺 国宝 白鳳仏


集合:9:45 京王線「調布」駅 中央口改札

調布駅・・天神通り・・布田天神社・・琥珀神社・・深大寺

深大寺で解散 バスか徒歩で調布駅に向かいます

調布
調布の地名の由来は租庸調(現在学校では租調庸と教えている)の調で、
ここでは特産の麻布を納めたことに由来する。
通称ハケ(崖線)からの湧水を使ったソバは江戸時代から有名で、
「深大寺そば」というブランド品は庶民には手の届かない品だった。
8世紀渡来人により栽培が始まったと伝わる。
幕末頃から庶民にも親しまれ門前町にそば屋が多くなった。
市内には日活・大映の撮影所・スタジオ・映画関連企業があり
映画の町調布といわれるようになった。
ロケにふさわしい景観とフィルムの現像にかかせない地下水が
豊富だったからという。
漫画家水木しげるさんが調布の町をモデルに「ゲゲゲの鬼太郎」を
書き、布田天神社の裏に鬼太郎が住んでいた設定になっている。
2018年 新しくテレビのアニメが始まった。

天神通り
ゲゲゲの鬼太郎の登場妖怪たちがいる布田天神社参道
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鬼太郎

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これは山田君

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ねずみ男

私は、ねずみ男が好きである。結構性格悪くとにかく不潔で臭い
ばったり会ったりもしたくない
けど 憎めないキャラ

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ねこ娘と一反もめん

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塗り壁


大正寺
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廣福山栄法寺と、紫雲山寶性寺、三栄山不動院の3ヶ寺が大正4年に合併、
三栄山大正寺として創建された。
布田天神社の別当だった。
とても静かな寺である。

布田天神社  祭神:少彦名命と菅原道真
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創建年代は不明だが社伝には、垂仁天皇(BC29年)のころとされる。
延喜式神名帳に記述があるので古社である。
文明年間(1469〜1486)に多摩川の氾濫で
1477年現在地に移転した。
江戸時代の本殿、秀吉の太閤の政令、狛犬は寛政8年(1796)のもので
市の繁栄を祈願したもので毎月25日に開かれている。

琥狛神社 祭神:大歳御祖神(オオトシミオヤノカミ)
創建は定かでないといわれるが、
神社の由緒には崇峻天皇(589)8月に創建とされる。
祭神は農業の神である。
社殿は天和3年(16839の再建でこの辺りでは最も古い。
ジブリの「千と千尋の神隠し」のハクは
この神社からつけられた名前だと言う。

狛は狛江の狛と同じでもとは高麗神社ではなかったかといわれる。
調布も狛江も渡来人が開拓した場所である。

深大寺城址

古くは武蔵七党の狛江氏の築城とされる。
戦国時代は扇谷上杉氏の所領で北条氏に対する防衛の城だった。
が、北条はここを迂回し、直接川越の上杉本拠地を攻めたため
価値がなくなり廃城となった。

深大寺  天台宗
浮岳山昌楽院 深大寺・厄除元三大師という。
縁起には、深大寺を創建した満巧上人(まんくうしょうにん)の父福満が
郷の長と恋仲になり、娘の父は湖水の中にある島に隠した。
深沙大王に願ったところ
霊亀にのり島に渡って娘を見つけ出す。
娘の父はこの奇瑞を知って2人の仲を許したという。
生まれたのが満巧上人で天平5年(733)に
深沙大王を祀る堂を建てた。

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白鳳仏 拝観入口

福満

『縁起』によると

『福満が、この地の長・右近の娘と恋仲となった

右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島に隠してしまった

そこで福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思いだし

深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、

霊亀の背に乗ってかの島に渡ることができた

右近夫妻は二人の仲を許し、やがて生まれたのが

満功上人であったと伝わる
天平5年(733)満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、

南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後この地に深沙大王を祀った』



昔から泉が湧き出て田畑を潤し

素朴な水への信仰から人々が集まった。

深沙大王疫病を除き、魔事(正しい道を邪魔すること)を遠ざける神様である。

玄奘三蔵を砂漠で救った神が刃深沙大王である。


鬼太郎茶屋

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調布に住み続けた水木しげる氏の「ゲゲゲの鬼太郎」

作品のテーマは自然との共存で人、妖怪、鳥や動物、虫

すべての生き物との共存が表現されている。

古民家にグッズや喫茶がある。










by gannyan1953 | 2018-10-08 12:02 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな早稲田から神楽坂

歴史と素適なおつきあい・中川歴史ウォーキング 2018・11・17(土)

ちょっとディープな戦争遺跡から都の西北早稲田、そして
おしゃれで昔の風情漂う神楽坂を訪れます


集合:早稲田駅出口3a3b方面改札口

夏目漱石誕生の地・・箱根山・・穴八幡宮・・早稲田大学・・赤城神社
筑土八幡神社・・神楽坂の善國寺・・飯田橋


夏目漱石誕生の地
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漱石は慶応3(1867)年1月5日、この地に生まれた。誕生の地(喜久井町1)から若松町の方へと上がる坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克である。このことは漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷士として土着していた夏目氏は、元禄時代以降、馬場下の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は家紋「井桁に菊」に因み、町名を当家にゆかりのあるものとした。
漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、店先の古道具の横にいつも寝かされている漱石を見た姉が、不憫に思い、すぐに生家に戻された。2歳11カ月になると再び、内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になる。養母は夏目家の使用人である。その後実父と養父の関係がこじれ(養父の浮気が原因で養母が夏目家に帰る)、22歳のときにやっと復籍することができた。
隣家の酒屋「小倉屋」は堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つときに、ここに立ち寄り升酒を飲んで行ったという。(漱石山房HP)

夏目漱石(1867~1916)

小説家・英文学者。本名 夏目金之助。
代表作「吾輩は猫である」「こころ」。正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝大を卒業して松山、熊本で教鞭をとる。その後、英留学して鬱、胃潰瘍に悩まされる。帰国後、帝大で教鞭をとるが、精神的に不安定な日々を送る。教師か小説家か悩んだ末、帝大を辞職し朝日新聞に入社する。精神衰弱を和らげるため高浜虚子の勧めで小説を書き始め文豪への道をたどる。ちなみに漱石は「浪漫、新陳代謝、流石、経済、電力」など多くの造語を作っている。死後、解剖され、脳はエタノールに浸されたまま東大医学部に保存されている。

弁天町に漱石終焉の場所があり、漱石公園となり漱石の胸像、猫塚がある。(漱石山房HP・ウイキペデイア)

穴八幡宮(高田八幡宮)
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祭神: 応神天皇・仲哀天皇、神功皇后
康平 5(1062)源義家が凱旋祝いにこの地に兜、太刀を納め八幡宮を勧請したとある。
寛永13(1636)幕府の御持弓組頭松平直次が、的場を築き八幡宮を守護した。
寛永18(1641)別当放生寺を造営する際横穴が現れ、金銅の阿弥陀如来像が現れた。これにより
穴八幡とよばれるようになった。
このころ、神木の松が瑞光を放っていたので光松山放生寺となった。徳川家光は当社を北の総鎮護とし、幕府の祈願所とした。吉宗が世継ぎの疱瘡平癒祈願のため流鏑馬が奉納された。
又、加賀藩も深く崇敬し金沢城内に勧請している。
明治以降衰微したが、大正天皇が皇太子のとき虫封祈祷を行ったことから崇敬者が増え、現在では「一陽来復」の御札(冬至から節分まで)を求める人で賑わっている。

一陽来復―易経で陽と陰が繰り返し、どん底の状態にあっても又いいことが巡ってくるという意味であるが、ここの参拝客は、お金がまわりまわって自分の懐に帰ってくる商売繁盛の意味ととっているらしい。
このあたり、早稲田大学建設に伴い移転している神社仏閣が多いが穴八幡は江戸時代から同じ場所である。
(ウイキペデイア)
江戸時代、牛込のほとんどの町は穴八幡と赤城明神両社の氏子であるが、牛込には幕臣が多く住み、日光参拝に供奉しなければならなかった。ところが、赤城山の神と日光の神はたびたび戦をして仲が悪い。赤城明神の氏子が日光参拝すると山が荒れるという話があり、牛込の総鎮守は穴八幡とした。
神楽坂の地名の由来は諸説あるが、穴八幡の神楽の御旅所があったことからだという。(赤城台の歴史HP)

箱根山

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新宿戸山に昔尾張藩下屋敷があり、回遊式庭園が造られた。
池を造るために掘った土を積み上げて造られた山で
玉円峰(ぎょくえんぽう)といわれたが、陸軍戸山学校が跡地に
でき、それから箱根山といわれるようになった。
陸軍戸山学校
体操科は剣術、軍学生徒科では軍歌の演奏を学び
野外演奏場跡が残る。

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ここで軍歌の演奏を練習したのだと思われる。
最後の軍学生徒となった118名の成績名簿が発見され、
東京音楽学校から陸軍戸山学校に編入した名前がわかった。

芥川也寸志 首位  さすが・・サキソフォン担当
団伊玖磨 4位・・歌曲のピアノ伴奏が難しい・・バスドラム担当
父高順(斎藤高順・たかのぶ)10位 小津映画の作曲をした 多分サキソフォン担当奥村一 33位 ソナチネやソナタや映画音楽を作曲 オーボエ担当

このメンバーが演奏場で演奏していたと思うとワクワクする

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将校さんの会議室




ところが私は2度訪れたがいつも居心地悪く、
滞在はそこそこにしている。そこで調べてみて驚いた。
幽霊出る・・都市伝説がある・・

おまけに2006年隣の国立病院で
多くの人を埋めたと戦争当時の看護師が証言!
国立国際医療センターがすぐそばにあるが、
兵部省の軍医付属病院が設置され(初代院長は松本良順)
病院は陸軍第一病院、戦後は国立第一病院となった。
ここに陸軍軍医学校、防疫研究室があった。
現在はエイズ研究など行われ、寿産院事件の幼児、第5福竜丸の船員、
横井庄一さん、小野田寛郎さんなど入院した。
1989年国立予防衛生研究所の建設現場から100体以上の人骨が
発見され、戦争中の何らかの遺体であるとされた。
731部隊に関係しているのではないかと疑惑をもたれている。
(オルタ 元朝日新聞政治部長)

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早稲田大学 大隈講堂1927年建設



早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 昭和3(1928)


坪内逍遥博士、古希の祝いに、その半生を傾倒したシェイクスピア全集全40巻の翻訳が完成したのを記念して設立された。演劇、映像の貴重な資料を揃えている。建物はエリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計された。(早稲田大学HP)

會津八一記念博物館 大正14年(1925)

會津八一(1881~1956)は東洋美術の研究者であり、書家、歌人としても有名な人である。坪内逍遥の弟子で、早稲田大学卒業後、英語教師として新潟の有恒学舎、早稲田の中高で美術史の教授として早稲田大学に勤務した。八一は「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法をみてゆくことは大切である。どれ程理論が立派に出来上がっても実物を根底にする真実性が含まれていなければ、即ちそれは空論だ、取るに足るものではない。」と述べた。この趣旨で、昭和9(1934)早稲田恩賜館にコレクションを展示する。昭和29(1954)會津博士記念東洋美術陳列室が移転、再開される。1998年現在の會津八一記念博物館として生まれ変わった。(會津八一記念館HP)


赤城神社 

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鎌倉時代正安2年(1300)赤城山の麓から移住した大胡(おおご)氏・藤原秀郷子孫により創建と伝わる。

江戸時代牛込の鎮守と信仰された。鶴巻町に元赤城神社があり、

こちらは2010年モダンな社となり、ロケも多くデートスポットになっている。

赤城明神の伝説に将門の首が飛んできてここに落下、そのとき木に血がついたため

アカギとなったとある。(赤木台の歴史)藤原秀郷は将門を討った人である。


筑土八幡神社

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祭神:応神天皇

嵯峨天皇の時代(809〜823)老人の夢に八幡神があらわれたことで

創建された。円仁が祠を、最澄が造ったといわれる阿弥陀如来を安置したという。

元和のころ江戸城近くに明神が移転、筑土明神社となり現在は筑土神社となった。

ここには将門の首を入れた桶が残っていたが戦災で焼失した。

もとはこの地に桶があったことになる。

 
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寛文4年(1664)製作
船形で、猿が桃の実を手折る珍しい庚申塔


神楽坂


穴八幡の御旅所があったことに由来する。

他に津久戸明神が牛込に移転する時

この坂が登れず、神楽を演奏したら登れた説がある。

フランスの学校があったことから

東京のシャンゼリゼといわれた。

路地は花街の風情が残るといわれ

今では外国人も多い。


善國寺 日蓮宗

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安土桃山時代文禄4年(1595)日惺上人により創建。

本尊は毘沙門天で江戸時代より「神楽坂の毘沙門様」と信仰された。



 


by gannyan1953 | 2018-08-29 11:52 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

早稲田にある箱根山

歴史と素適なおつきあい番外編  2018・8・15

今日は終戦記念日

ミステリースポットに先日訪れた話

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尾張藩下屋敷跡

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ここはのちに陸軍の戸山学校があった

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青年将校が使用した将校集会施設
今はその上に幼稚園・教会が建てられている

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体操科では剣術、軍学生徒科では軍歌の演奏を学び
 これが野外演奏場跡

ここで軍歌の演奏を練習したのだと思う

最後の軍学生徒となった118名の成績名簿が発見され
東京音楽学校から陸軍戸山学校に編入した

芥川也寸志 首位 さすが・・
団伊玖磨 4位・・歌曲のピアノ伴奏が難しい・・あとで練習しよ!
父高順(斎藤高順・たかのぶ)10位 小津映画の作曲をした 
奥村一 33位 ソナチネやソナタや映画音楽を作曲 オーボエ担当

このメンバーが演奏場で演奏していたと思うとワクワクする


ところが
私は2度訪れたが
いつも居心地悪く
滞在はそこそこにしている

そこでググってみて驚いた
幽霊出る
都市伝説がある

おまけに2006年に隣の国立病院で
多くの人を埋めたと看護師が証言!

ビビった


あの空気の重さはそこにあったのかと
再度ビビった

あまり詳しくかきたくないので
興味ある人はリンクでみてください


この早稲田新聞は早稲田大学とは関係のない組織だそうです









合掌









by gannyan1953 | 2018-08-15 12:31 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

柴又めぐり

歴史と素適なおつきあい    2018・10

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寅さん 埴輪




集合:11時 京成金町線「柴又駅」
押上から京成線で京成高砂・・金町線で柴又へ

押上駅10:25京成線・スカイツリー方面の
改札口集合もします
10:36押上発の京成線に乗ります



おりつ不動尊

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両親に虐待されたおりつさん。とうとう父親に殴られ
亡くなったおりつさんを床下に埋めた。
1年経ち夢におりつさんが出てくるようになり
父親は自首した。人々はおりつさんを哀れみ、
近所の有志で地蔵が建てられた。

フーテンの寅像
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「旅に出る寅さんが、妹さくらを振り返るシーン・・」
1999年に地元商店街と観光客の募金により
建てられた。
最近サクラ像も建てられた。
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「男がつらいよ」は1968年にドラマで放映され
最終回に奄美大島でハブを捕まえようとし
寅さんはハブに噛まれて死んでしまう。
これに視聴者がクレームをだし、映画化されることになった。
映画は人気を博し
1969年から1995年にかけ48作発表された。
ドラマの時の寅さんの出生地は柴又ではなかった。

「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です
 帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、
 人呼んでフーテンの寅と発します」

は映画からである。情はあついが、やることは
支離滅裂、かなり面倒な性格であるが、
あたたかく包み込む場所柄として
帝釈天を守る商店街と設定されたらしい。

ここにいると実在の寅さんの故郷のように
思えてくるからやはり不思議な人である。

父が酔っぱらった勢いでできてしまった寅さんは
生まれてから父と義理の母に育てられ、
結局父親とけんかをし、「てきや」になって20年ぶりに
故郷に帰るという話からはじまる。

団子屋を父から叔父が受け継ぎ
そこには妹のさくらも住んでいた。

モデルになったのは「高木屋」である
撮影時、休憩に使ったのが「高木屋」
ところがロケに使ったと張り紙しているのは
「とらや」である
もとは柴又屋といって、映画公開後に「とらや」になった

映画会社もこれには困ったが
映画の中で「とらや」はやめて「くるまや」に
名前をかえた。

しかしほとんどの通行人は「とらや」を寅さんが
利用したと思っている

柴又八幡神社
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創建年代は不明だが、社の下に前方後円墳があり、
横穴式石室があり、社の下に埋められている。
調査したところ、円筒埴輪、鉄刀、馬具、須恵器など
出土した。

平成13年(2001)に寅さんに似た埴輪が
出土し話題になった。
渥美清氏は平成8年に亡くなっている。

柴又帝釈天 (庭園・彫刻拝観400円)
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日蓮宗 題経(だいきょう)寺といい、創建は江戸初期寛永6年(1629。)
18世紀末帝釈天が信仰を集め、庚申の日に賑わうようになり
「柴又帝釈天」と言われるようになった

本尊は帝釈天ではなく、となりにある祖師堂に安置される
「大曼荼羅」である

彫刻ギャラリーは外国人に人気がある。

山本亭 (100円)

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大正から昭和にかけ作られた和洋折衷の建物である。
カメラ部品の製造をしていた山本家が震災で被災し。
柴又にあったこの屋敷を改修して4代まで住んだ。
現在は東京都所有である。
庭園がアメリカの雑誌で足立美術館、桂離宮についで
ランキング3位にはいり、あまり知られていない庭園だったので、
話題になった。


寅さん記念館(共通券500円)
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男はつらいよのセットや撮影風景など
展示され「くるまや」も再現されていて、
どっぷり寅さんワールドにひたることができる。
渥美清氏が亡くなった翌年にオープンした。

山田洋次ミュージアム(共通券500円)
2012年に開館され、家族や人情の映画を作り続ける
山田洋次監督の世界にふれることができる。


矢切の渡し (片道200円)
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江戸初期、地元の人々の農地への移動手段、日用品の購入、
寺社参拝などの目的で幕府が設けた渡しである。
松戸の渡しといわれていた。

渡し場の賃金は1人3文、馬が5文であった。

明治になり鉄道の発達で渡しの廃止が続くが現在東京近郊では

ここだけになった。

矢切の渡しという名を有名にしたのは、

明治39年(1906)政夫と民子の悲恋を描いた

「野菊の墓」:伊藤左千夫著 に書かれたことによる。

向こう岸の西蓮寺に野菊の墓文学碑がある。

高台にあり富士山も望める。

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それから昭和57年(1982)に細川たかし氏が歌った

「矢切の渡し」

そして寅さん人気で有名になった。

明治になって杉浦家が渡船を行っている。



















by gannyan1953 | 2018-07-25 15:47 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

早稲田大学学食のレシート

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・6・6

友人が神楽坂のかぐら工房で作られた花瓶が気に入り
また買いにいった

ランチは早稲田がいいということになり
行ってきた


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いつものように
ハンバーグ

野菜の和え物やパンプキンサラダをつけて

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538円

何気に食べてからレシートを見ていたら・・・

なんと

772キロカロリーだと

みんなの見比べたら丼を食べた友人は900キロカロリー以上

確か1日の摂取カロリーは1500カロリーくらいでよかったはず

わああ・・・・・・・・・

リアルなレシート

どおりで運動しても痩せない筈だ

早稲田の駅でソフトクリームも食べて
ご機嫌でご帰還しました






by gannyan1953 | 2018-06-07 15:40 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

岩淵水門を設計した青山士(あきら)

歴史と素適なおつきあい番外編    2018・4・30


赤羽馬鹿祭りを見に行って、さきに岩淵水門を見に行った


荒川知水資料館に立ち寄り、はじめて青山士氏を知った

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パナマ運河工事に従事したときの写真


美形男子である
私は面食いである

気になった

1878年磐田に生まれ東京帝大を卒業、
内村鑑三の影響をうけ
パナマ運河に興味を持った

卒業後パナマ運河工事に携わる

1913年頃ガトゥン閘門の設計をしたという


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パナマのガトゥン閘門


帰国後
内務省に入り

1924年旧岩淵水門の設計をし
荒川放水路工事の指揮をとった


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左の赤いのが青山氏が設計した
旧岩淵水門


信濃川補修工事は、1927年に完成した放水路が
梅雨の増水で壊れ堰の転倒事故が起こった

事故が起こった時
「大事件の前には必ず小事件がある。
小事件をいち早くキャッチすることが
技術者の最大の責任である」

「技術は人なり」

これ聴いたことがある

「手抜き工事は国民への背信行為である」

これはいい言葉ですね

壊れた信濃川の堰はこの青山氏が担当し治した

とにかくお顔がきれいで品格があるのに
惹かれてググってしまいました・・・


参考:ウイキペディア 荒川知水資料館パネル展パンフレット


by gannyan1953 | 2018-04-30 21:23 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

山田孝之の北区赤羽

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・4・29

山田孝之の「東京都北区赤羽」・・20014年のドラマ

赤羽の岩淵水門を見にでかけた
ちょうど赤羽では「赤羽馬鹿祭り」を開催
全体ににぎやかな道だった


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左が旧水門





岩渕水門は北区志茂の荒川隅田川を仕切る水門で
かつて荒川放水路といった人工河川を現在荒川といい
かつての荒川を隅田川という。
ここは分岐点である。

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向こう岸は川口

川口というとキューポラのある町を思い浮かべるが
いったい何年前の話なのか

1962年の映画だった

江戸時代から鋳物産業が盛んで
日光御成街道の宿場であった


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上の部分がキューポラ


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川口ヒストリーより


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川口ヒストリーより

キューポラからの煙で霞む

全然今の姿から遠望ではわからない

今度は川口市に行ってみよう

きっと町中にどこか残っていそう


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バザーでもやっているのかと思ったら長屋のような
キャンプ場

もう少し広々と、バーベキューやりたいな


王子に近づくと遠くから太鼓やら
吹奏楽が聞こえてくる


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祭りの人ごみを避けたら
あらま
ワニダがあった
オーナーさんは
ドラマに出演していらっしゃいました

ここからはドラマのロケ地になります




これは前回です

今回まわっていなかった場所を探しに・・



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亀の池弁財天


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亀は国産もあれば外来種もごっちゃ
小さな池に亀がいっぱい


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山田君がお菓子買いにいったお店

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左のマンションが山田君が住んでいたマンション
歩けば結構赤羽から遠い
でも住所は赤羽西

ロケ地探しはここで終了
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にぎやかでした


電車で十条駅から王子に行こうとしたら、
埼京線だった・・王子を通らない・・

仕方ない
王子まで歩こう

道に迷い随分歩きました
と思って地図を作ってみたら

迷っているようでちゃんと
王子に向かっていました














by gannyan1953 | 2018-04-29 17:43 | 東京都 歴史散歩 | Comments(1)

ちょっとディープな王子散歩


中川歴史ウォーキング41    2018・6・16

バラが咲き誇る古川庭園、それから王子稲荷のきつね様に会い
戦争遺跡(陸軍兵器工場や陸軍造幣廠)を訪ねます

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ベビーメタル仕様の狐面


集合:9:45  南北線「西ヶ原」駅 改札口

西ヶ原駅・・平塚亭・・平塚神社・・古河庭園・・無量寺・・一里塚
・・醸造試験場跡地・・王子神社・・王子駅周辺で自由ランチ・・装束稲荷・・
王子稲荷・・北区中央図書館(軍需工場跡)・・中央公園文化センター(兵器工場跡)






歴史
西ヶ原は先土器時代から人が住み、現在でも北区で良好な
住宅地となっている。
豊島郡の郡衙があり、中世には豊島氏の支配となり
源義家が世話になった豊島氏に鎧を贈っている。
江戸寺時代に日光御成街道が通り一里塚が残る。
飛鳥山は将軍吉宗が庶民のための行楽地とした。
明治になると王子や赤羽根に軍需工場が造られ
戦争遺跡を残す。

平塚亭
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大正初期から営業され、だんごは作家内田康夫の
「浅見光彦シリーズ」で有名である。
小説では浅見家が近くにあるという設定になっており
浅見光彦の住民票も作られ
北区役所で一通500円で住民票が売られている。

平塚神社
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平安末期に平塚城があった。
後三年の役の帰りに源義家が豊島氏のいたこの地に訪れ
そのもてなしに感謝し鎧を授けた。
豊島氏が鎧を埋め塚を造ったことに由来する。
豊島氏は太田道灌に滅ぼされる。

古河庭園
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明治に睦奥宗光が土地を購入し別宅とした。
睦奥宗光の次男が古川財閥の古川市兵衛の養子となり、
2代目となり古河家の所有になった。
大正3年(1914)3代目古河虎之助が周囲の土地を購入し
本宅用として整備をした。3年後にジョサイア・コンドルにより設計され
西洋館、洋風庭園ができた。
市兵衛は足尾銅山に投資し「銅山王」といわれ
背後に足尾鉱毒事件や激しい労働争議をかかえていた。
睦奥宗光の次男は若くして亡くなり側室との子の虎之助が当主となり
銀行を設立するなど多角化をすすめ古河財閥の基盤を確立した。
そのころこの邸宅が作られた。
関東大震災のとき避難者を受け入れここを解放し救済した。
労働争議で疲れ、震災の救済で信仰心も生まれ
ここを会社の迎賓館とし、自らは質素な生活を求め牛込に転居した。
西郷従道の孫を養子に迎え満州事変から古河財閥は栄えた。
太平洋戦争末期に陸軍第9師団の将校宿舎となり、戦後は連合軍が接収、
財界解体で所有は大蔵省になった。5代目古河潤之助は2018年3月に82歳で
亡くなった。
その後公園になった。
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山田君自販機


無量寺  真言宗豊山派
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6月 



平安時代からあったといわれる。
江戸時代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣している。
もとは長福寺だったが、将軍家重の幼名が長福丸
だったため無量寺と改めた。
猫に優しい美しい寺である。
外国人も多く訪れている。

西ヶ原の一里塚
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日光御成街道の2つ目の一里塚であるが
撤去されようとするところ王子に住む
渋沢栄一を中心とする地元住民により
撤去は免れた。旧位置を保つ貴重な一里塚である。

醸造試験場跡地
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レンガの建物があり、国立の機関で日本酒造りの近代化と
酒類産業の発展のために明治37年に造られた。
設計は横浜の赤レンガ倉庫や神奈川県立博物館を造った
妻木頼黄(よりなか)で、東大でジョサイア・コンドルに学んだ。

王子神社
新編武蔵風土記稿に源義家が後三年の役の帰りに
鎧を授けたことが始まりで、王子の地名の由来となっている。
豊島氏が熊野から若一王子を勧請した。
境内に 蝉丸を祀る関神社がある。

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蝉丸は宇多天皇、醍醐天皇の子と定かではないが、
百人一首え有名である。姉の髪が逆立ち人々に笑われるのを
嘆くので、カツラを作ってあげたという。
それでこの神社はかつらの神様であるという。
東海道歩きをしたときに蝉丸神社分社だったかと思うが
寂しく荒れていたという記憶がある。

装束稲荷 祭神 ウカノミタマノ神
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関東八ヶ国の稲荷の使いが王子稲荷へお参りに行く時
この装束稲荷の榎木の下で装束に着替え練り歩いた
という言い伝えがあり、安藤広重の錦絵にある。
狐火が続き昔はその数で翌年の作物の吉凶を占った。

現在では大晦日の行事として狐面をつけて
練り歩く。
向かえの店は王子ヤマワできつねグッズ、今戸焼き、狐のガチャガチャなど
楽しい店である。最初の写真の狐面を購入した。

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装束稲荷の狐様はモダン

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王子稲荷神社 祭神 ウカノミタマノ神
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源頼義(よりよし・義家の父)が奥州征伐の祈願に
立ち寄り、関東の総稲荷としたと伝わる。
西暦1060年には存在したという。
きつねの穴もある。

落語「王子の狐」

王子稲荷の狐は人を化かすと有名だった
狐が美女に化けるのを見た男は声をかける

「お玉ちゃん、食事でもしないかい」
「あら熊さん お久しぶり」

料亭扇屋に上がり込み油揚ならず天婦羅を出され
お玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ眠ってしまった

男は土産に卵焼きを包ませ「勘定は女が払う」と
言ってさっさと帰ってしまった

目が覚めたお玉ちゃん、男が帰ったと聞いてビックリ、
耳が立ち尻尾までにゅっと出てしまった
店の人もそれをみてビックリ、追いかけた
ほうほうのていでお玉ちゃんは逃げ果せた。

男は翌日友人宅に扇谷の卵焼きを持ってでかけた
そこで「狐を化かした」と吹聴するが
「狐は執念深い 馬鹿なことをしでかしたものだ」と脅され謝りにいくに

狐の穴の近くにいた子狐に手土産と謝罪を言付かった。
子狐は「昨夜はひどい目にあった」と穴でうんうん
うなっている母狐に手土産を渡した。
中身はぼたもちで子狐は
「かあちゃん 美味しそうだ
食べてもいいか?」
母狐「いけないよ 馬の糞かもしれない」


今でも 扇屋さんは甘い卵焼きを販売しています
売り切れが多いですが

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きつねのお穴

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名主の滝公園

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江戸時代王子村の名主畑野孫八が屋敷内に滝を開き
茶を栽培して避暑のために一般に開放したことがはじまりである。

ちんちん山児童公園
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軍需品を運ぶチンチン電車があり、
そのトンネルがあった
軌道の跡である
一帯の陸軍砲兵工廠の工場を結ぶ鉄道跡である
真ん中のだんごのが積まれたようなマークが
砲兵工廠のマークになる


北区中央図書館
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大正時代に建てられた東京砲兵工廠の275号という建物が
現在図書館として使用されている。
都響砲兵工廠は小石川(後楽園)から明治38年(1905)に
十条に移転、設計は陸軍省である。
この建物は弾丸鉛身場として大正8年に建設、54mあり
梁は中央に鉄骨の柱、鉄骨の2つのトラス(三角形の集合体構造)
で2連棟の形式でできている。レンガは北区内で作られており
関東大震災でも壊れず高度な技術で作られた建物である。

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面白い看板


中央公園文化センター
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東京第一陸軍造兵廠があり、陸軍で使われる銃弾などの
兵器を製造していた軍用地だった。この建物はその本部で、
昭和5年(1930)に建設された。
戦後米軍に接収され東京兵器補給廠となった。
一部自衛隊の駐屯地として使用したがほとんどが米軍の
キャンプ王子となった。ベトナム戦争のときは野戦病院が
あった。昭和43年(1968)ころ全学連などの反対デモが展開された。
学生の投石を止めに入った一般人が投石で左目負傷、失明となり、
巻き込まれた一般人1人が死亡している。
こうしたことで、昭和46年(1971)に返還され、のちに北区の中央公園と
して開園された。
白い建物だが元は茶色のタイル張りだったが、米軍が白く塗り替えた。

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ボイラー

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煙突の一部

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角材や投石で警官隊と衝突する学生(米軍王子キャンプ正門前)=株式会社朝日ソノラマ
社発行の「朝日ソノラマ」(1968年5月号)から
もの書きを目指す人びとへ わが体験的マスコミ論 岩垂 弘(ジャーナリスト)より


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王子駅の小さなトンカツ屋さんで
ハンバーグランチ







 










by gannyan1953 | 2018-04-22 11:07 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

日野の新選組



中川歴史ウォーキング39    2018・4・21(土)

歴史を勉強するきっかけとなった人物「土方歳三」の
故郷を訪ねます

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集合:JR日野駅・・八坂神社・・とうがらし地蔵・・日野宿本陣・・土方歳三資料館・・とうかん森・・石田寺・・
ランチ・・高幡不動


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3月30日
望海風斗さんの土方さんを鑑賞







八坂神社 
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   額は9月のお祭りの時に公開される

多摩川の渕に光るものがあり
拾い上げたら牛頭天王の神像だった
それがきっかけで社が建てられた
本殿は完成12年(1800)のもので
絢爛華麗な江戸後期の社殿である
安政5年(1858)天然理心流剣士たちが
剣の上達を願って奉納した額がある
欅の板に大小2本の木刀が架けられている

御朱印は新撰組のだんだら模様入りである




井上源三郎資料館 

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井上源三郎の生家である
兄松五郎は八王子千人同心だった

とうがらし地蔵 
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沖田総司が多摩時代よくお参りしたといわれる。

日野宿本陣   
(日野宿本陣・新選組のふるさと歴史館共通券300円)

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建物は甲州街道日野宿の本陣で、名主佐藤彦五郎邸であった
彦五郎の妻は土方の姉で、彦五郎の従姉妹にあたる「とく」だった
母を幼い頃なくした土方にとってとくは
母親のような存在だった
そのとくの嫁ぎ先なので
土方はよく出入りしていたという
姉とくは幼いときは「らん」、嫁いでからは「とく」、
明治になって「のぶ」と名乗った


長屋門あたりに天然理心流道場があった
土方歳三が昼寝した部屋や、
土方の遺品を届けた市村鉄之助が 匿われた部屋がある
甲州街道で残る数少ない本陣である

佐藤彦五郎は新撰組が結成されてからも、近藤や土方と深く親交が続いた

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土方歳三が昼寝をした部屋
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玄関のひょうたん
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コウモリは子沢山の縁起物
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麻模様は子供の成長の縁起物

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鯉の滝登りの縁起物
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ウサギも子沢山の縁起物



日野市立新選組ふるさと歴史館(立ち寄りません)

土方歳三、井上源三郎、近藤勇、沖田総司たちが
集った日野、のちに新選組となり歴史に名を残したことで
歴史の流れのなかの新選組という観点で展示を行っている
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こんなこともできますが・・



土方資料館(見学不可)

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土方歳三生家で、現在は土方資料館となっている
手植えの矢竹、刀の和泉守兼定など遺品や薬の行商をした道具類などを展示している
主に日曜に開館される 



とうかんの森 

 


 

土方が生まれた元生家があった場所。洪水で、移転した。

  
石田寺(せきでんじ)真言宗

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南北朝の康安元年(1361)慶興という僧が建立、16年後衰え廃寺となる。
天文13年(1544)玉川の洪水が起こり、一体の観音様が流れ着いたので
廃寺だった場所に観音堂を建て安置した。
文禄2年(1593)慶心という僧が石田寺と号した

樹齢400〜600年というカヤノキがある
昭和43年(1968)土方歳三の兄喜六の曾孫にあたる
土方康氏が土方の碑を建立している
蝦夷で戦い亡くなった土方の墓がある
戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」菩提寺は高幡不動である
石田寺は高幡不動末で土方家の墓所がある


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高幡不動 真言宗
真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺という
創建は大宝年間(701)ころ、奈良時代行基による開基と伝わるが
平安時代初期に慈覚大師による東国鎮護の目的で山中に不動明王を
安置したといわれている

不動堂は嵐で倒壊したたため
室町時代康永元年(1342)に再建された
足利氏の時代は汗かき不動と親しまれた
当時は36の寺がある壮大な伽藍だったが
昭和になって往時の姿に戻ってきた

大日堂には鳴り龍の天井、土方歳三の位牌がある(有料)

奥殿には1000キロを超える大きな
丈六不動明王が安置されている(有料)

境内には殉節両雄の碑、土方の像がある。
碑は明冶21(1888)年新選組 の親戚知己門人らの長い努力により建設され
篆額(てんがく)は会津藩主松平容保、撰文は仙台藩濡者大槻磐渓、
書は元幕府御典医松本良順による。

裏山(不堂ヶ丘)は八十八所めぐりができる
不動ヶ丘は高幡城址である
享徳4年(1455)分倍河原の戦いで
関東公方足利成氏VS関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏が戦った
上杉憲秋という武将が先鋒で、立河原合戦(立川にこと)で敗走し
高幡不動で自刃している(日本城郭大系)

四国八十八カ所めぐりをしてみた
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稲荷が丘

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稲荷が丘

急いで下山

1時間近くかかったような・・・・



隊士紹介


近藤 勇(1834~1868)  

上石原村宮川久次郎の3男。4代目天然理心流宗家を継いだ。芹沢鴨暗殺後新選組を掌握し局長となる。池田屋で名を馳せてから政治にかかわり永井尚志に随行、朝彦親王の提言で京洛政治の支柱をなした。墨染で襲撃されけがのため鳥羽伏見の戦いには参戦していない。江戸に帰ってから甲陽鎮撫隊での敗走後五兵衛新田をへて流山に駐屯中官軍に投降。板橋にて斬首。板橋、大阪千日前、京都粟田口にて梟首。

土方歳三(1835~1869)  

石田村土方義諄の四男。父は生まれる前に、母は6歳の時に亡くなっているので、兄の喜六夫妻に育てられた。近藤勇の天然理心流入門後、門人と共に新選組を発足、法の番人的役割を厳しく実行。組織の悪役を一手にひきうけ隊内の粛清を行い、妥協を許さなかった。鳥羽伏見で京の新選組崩壊後、新選組を立て直しながら北へ転戦。函館で、弁天台場の新選組同志を救援にむかう途次、攻防戦で壮烈な戦死を遂げた。

沖田総司(1844か1846~1868) 

 白川藩士沖田勝次郎の子。義兄林太郎は1859年11月まで白河藩に在籍。総司16歳である。9~11歳ころ天然理心流道場の内弟子となりのちに塾頭となる。一番の使い手といわれ活躍するが結核を患い、江戸敗走後新選組から離れ良順のいた今戸から千駄ヶ谷にて病没。

井上源三郎(1829~1868)

八王子千人同心井上藤左衛門3男。次兄松五郎と共に天然理心流3世近藤周助の門人。穏やかな人柄といわれる。鳥羽伏見の戦いで淀千両松の激戦で最後まで踏みとどまり討死。甥の井上泰助が首をもって退却したが重くて果たせなかった。


時代背景

幕末期、徳川幕府はロシア使節ラックスマンをはじめ、あいつぐ異国船来航に手をこまねいている状態であった。その無能ぶりが露呈してしまったのが黒船騒ぎで有名なペリー来航であった。国内は開国か攘夷かと揺れていた。結局幕府は日米和親条約を締結。時の天皇孝明天皇は攘夷論であった。幕府の開国策に反対する攘夷論は尊皇論と結びつきやがて長州、薩摩、土佐などの雄藩を中心とした倒幕運動へと発展していく。日米修好通商条約を締結した大老井伊直弼は反対する尊攘派や幕府改革派を弾圧した。安政の大獄である。井伊直弼の専制政治に対する不満は桜田門外の変を引き起こす。白昼に起こった大老殺害はますます幕府の衰退への転機となる。王城の地京都では尊皇攘夷を唱える志士たちの天誅という言葉のもとに幕府要人や幕府寄りの公暁らの暗殺が横行していた。

*攘夷論 ―開国に反対して外人排斥を主張した意見。 * 日米和親条約―1854 再度来航したペリーが武力を背景に幕
府にせまり締結された。下田、函館の開港、漂流民保護、欠乏品の給与、米領事の駐在など。 * 尊王論―皇室崇拝の思想。 * 尊皇攘夷論―欧米列強との接触により危機意識が高まり1863を頂点とし倒幕派の下級武士を中心に運動は激化。薩英戦争、下関砲撃での経験で攘夷不可能が明白になっても幕府批判の政策として高唱され、維新の実現となった。 * 日米修好通商条約―1858 勅許を待たずに締結された最初の不平等通商条約。国内経済不安定を招き尊皇攘夷論は激化。

新選組結成

文久2(1862)年 将軍警護のため江戸浪士組募集が行われた。14代将軍家茂は攘夷を強く迫る孝明天皇に拝謁し、緩和するために上洛することとなった。そこで治安の悪い京都で将軍の身辺を守ることとなった。文久3(1863)年上洛した浪士組の一部は、提唱者であった清河八郎の裏切りともいえる反幕府の爆弾宣言に反発、壬生浪士組として一部京都に残留する。清河ら東帰した浪士は清河が暗殺されたあと、庄内藩預かりの新徴組になる。
残留した壬生浪士組は京都守護職を拝命していた会津藩を後ろ盾に市中見回りの役にあたることになる。これが新選組の前身である。のち武家伝奏より「新選組」の名を拝名する。「撰」の字で「新撰組」ともいうが、書簡では両方とも使われている。

新選組の活動

新選組として活躍したのは6年間のことである。京都での全盛時代から鳥羽伏見の戦いで敗戦し、関東での戦い、近藤勇を失ってからの東北蝦夷へと新選組は北へ転戦していった。

京都 ―文久3(1863)年2月~明冶1(1868)年1月―

京都守護職お預かりの組織として、京都の治安を守るため壬生に屯所を置いて京都守護職預壬生浪士組として活動。八・一八の政変ののち、武家伝奏方から活躍をたたえられ「新選組」という名を賜った。
最初中心となっていたのは芹沢鴨、近藤勇であったが芹沢の行状が粗暴なため粛清される。ここに多摩出身天然理心流一派が新選組の実権を握ることになった。
池田屋騒動で一躍有名になる。寄せ集めの集団であるため隊の規律を厳しくし、強い集団に仕立て上げるため局中法度という隊規を作りこれにより隊内の粛清も多く行われた。活躍するにつれ、会津藩から離れ幕府直参に取り立てられる。ここまでが新選組全盛時代となる。鳥羽伏見の戦いでは幕府軍、会津軍とともに戦うが敗走。軍艦で、江戸に退却する。


* 武家伝奏―室町幕府から設けた諸家の奏請を朝廷にとりつぐ公武間の重職。
* 天然理心流―近藤内蔵之助が祖で、近藤勇は4代目宗家。神道流の流れと伝わる。3代目周助が市谷に道場試衛館を開き、勇は土方の義兄日野宿名主佐藤彦五郎宅と小野路村名主小島鹿之助宅の道場に出稽古した。通常の3倍の木刀で稽古をしたという。天然理心流と新選組剣法とは違っており、新選組は実戦に強く集団剣法である。
*鳥羽伏見の戦いー1868 薩長の武力倒幕派が徳川慶喜に辞官納地を要求し、江戸の治安を乱し挑発した結果、旧幕府軍、会津、桑名は激怒し鳥羽と伏見の街道から京都に進発、敗退した。倒幕派の計画どおり旧幕府側を朝敵とした。

関東 ―明冶1(1868)年1月~4月―

品川に戻った新選組は恭順を唱える将軍徳川慶喜の警衛にあたる。勝海舟に甲府城奪取を言い渡され甲陽鎮撫隊を編成し甲府に向かうが敗退する。流山で屯集したが、官軍にみつかり近藤勇は投降する。のち、4月板橋で斬首になる。

*恭順を唱える幕府(勝海舟)は抗戦派を江戸から遠ざけたかった。大鳥圭介率いる伝習隊は関東平野を北に、撤兵隊(さっぺいたい)は房総、遊撃隊は箱根、彰義隊は上野で抗戦した。東北では会津、庄内の恭順は受け入れられず奥羽皆敵とされ戊辰戦争に突入していく。
*甲府敗退後永倉新八は靖兵隊を組織し新選組から離れるが、生き残り貴重な資料を残す。

東北・蝦夷 ―明冶1(1868)年4月~明冶2(1869)年5月―

会津如来堂では会津に殉じると願う新選組の一部斎藤一らが戦っている。斎藤はのち生き残り警視庁に奉職。土方歳三はこの後宇都宮、会津で、戦い、仙台、蝦夷と新選組の再編成を繰り返しながら北上、函館で降伏直前に戦死。函館の五稜郭を本拠とした蝦夷共和国では陸軍奉行並という役であったので新選組の隊長ではなかった。脱走軍として新政府軍に降伏後、捕縛された隊士で竜馬暗殺の容疑で刑死、獄死した隊士もいた。

*蝦夷共和国―幕臣榎本武楊が総裁となり作り上げた共和国。幕臣救済目的で蝦夷開拓を朝廷に訴えた。

多摩出身ということ

・武州多摩はほとんどが幕府直轄領
天領「徳川家危急の折には馳せ参ず」比較的税も少なく豊かで質実剛健、おおらかな気風があった。
・剣道好き
多摩は江戸への敵侵入の道筋にあたるため防禦地にあたる。治安を守るためにも武道が
さかんであった。幕末には30~40の道場があったといわれる。
・八王子千人同心の報恩 
八王子千人同心とは日光東照宮の防火見回り、蝦夷地の警備開拓を勤める。武田家滅亡後その遺臣団が中核をなし、平時は農民として暮らした。10人の千人頭に100人の同心を置いた。新選組には千人同心出身者もおり、左幕どおしの交流があった。                  

(余話)蝦夷地開拓のため千人同心80人は1858年七重村に入植した。函館奉行の命で桑を栽培、成功し郡内織を織り出した。ようやく軌道に乗り出したころ、維新がおき千人同心は新政府任命の函館知事の支配下にはいった。榎本軍と戦うため出兵命令がおりたがあくまでも徳川忠誠を叫ぶ数人は榎本軍に合流、同胞合い撃つ非情な戦いになった。(多摩の100年朝日新聞)

多摩の豪農

近藤や土方は豪農出身で、農民でも豊かな環境に育っている。多摩には豪農が農民を支配し、代官所とも深く結びついていた。1835年伊豆韮山代官江川太郎佐衛門英竜は農民に小銃をもたせたいという意見書を幕府に提出。農民の非武装化は鉄則であったため、却下されたがその28年後1863年江川太郎佐衛門英武が多摩の直轄領で試験的に行うことが許された。幕府は農民層の手を借りなければならないほど追い詰められていた。もともとこのような進言をしていた背景には、多摩の富裕層豪農をとおしての農民支配に自信があったからである。代官所からゲベール銃を渡され農閑期には近代兵器の訓練がなされた。農兵隊結成である。いまでも名主格の家には武具が保管されているところもある。新選組のパトロンとして存在する佐藤彦五郎、小島鹿之助も多摩の豪農であった。農兵隊を指揮するまとめ役でもあった。

(余話)維新の2年前の慶応2年多摩で、武州一揆が起こった。一揆勢は入間郡名栗村から日野まで迫り、日野農兵隊がこの一揆勢を壊滅させた。農民が農民をゲベール銃で撃つ悲惨な事件であった。これは開国をしたためにおきた物価上昇や天災による飢饉で苦しんだ貧農が、外国の脅威から守るために編成された農兵隊にうちとられるという皮肉な結果となった。(多摩の100年 朝日新聞)

会津との関係
新選組は京都の治安を守るための警察隊であった。江戸、京都に浪士があふれ攘夷だ、尊皇だと殺戮が繰り返される世情に浪士を浪士でもって制する幕府の思惑もあった。京都守護職である会津藩のお預かりになったことは当然と考えられるが、東山黒谷に屯集させた会津藩士は1000名にのぼる。それだけの藩士が在京しているのに、なぜたった24人の新選組を預かるのかという疑問がある。
それは初代会津藩主保科正之までさかのぼる。2代将軍秀忠の庶子として生まれたが正室お江与の方に遠慮して江戸城外で育てられた。その養育係が信玄の六女であり、その後信州高遠藩主保科正光に養育された。この保科家は祖父の時代信玄家臣であったころ武田武士の精華ともいうべき一族であった。会津には「高遠以来」という言葉が残るほど会津の名家は武田遺臣団であった。田中玄清、西郷頼母、山川浩、佐川官兵衛の会津4家老はいずれも「高遠以来」の者たちであった。武田の血を受け継ぐ者どおしという関係であったからではないか。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)

自由民権運動

なぜ新選組が甲陽鎮撫隊を編成し甲府を守ったか。甲州武田家の血の記憶が甲州に向かわせたのではないか。進軍途中あきれ返るほど、内藤新宿や日野で酒宴を催し戦機を逸したことも故郷回帰の凱旋ムードに浸ったからだろう。
明冶にはいり自由民権運動が盛んになり、その一大拠点が多摩であった。徳川への忠誠心が強かったためか、明冶政府の左翼急進思想となった。小島鹿之助も新選組のスポンサーから、自由民権運動の擁護者となる。ただつけ加えると豪農が擁護する民権はのちに下層農民からのつきあげで行き詰まっていくことになる。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)

多摩の民権運動については、歴史と素適なおつきあい 東京都「小野路と薬師池」を参照

参考文献    歴史群像シリーズ(新撰組・幕末剣心伝・土方歳三・徳川慶喜)学研 ・日本史辞典・「新選組のすべて」新人物往来社・「幕末を駆け抜けた男たち」今川徳三・「多摩の百年」朝日新聞

by gannyan1953 | 2018-02-18 13:12 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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