歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:神奈川県の歴史散歩( 65 )

朝比奈の切通しを歩こう

中川歴史ウォーキング48    2018・4・20

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朝比奈の切通(朝夷奈)は、七つの切通の中で一番自然を残し、
旧金沢街道の面影を残しています

峠は水が流れて、泥が多いです。
すべりにくい靴を履いて下さい。

集合:9:45 鎌倉駅東口・・バス5番乗場から乗車・・泉水橋・・
梶原景時屋敷跡・・光触寺・・十二所神社・・朝比奈の切通・・熊野神社
・・朝比奈バス停・・上行寺遺跡
昼食はお弁当です

朝比奈バス停に到着する時刻は予定で12:30です
金沢八景まで徒歩35分約2キロあります。
① 帰宅される方は朝比奈からバスで鎌倉・金沢八景に行けます
② 金沢八景まで歩く方はコンビニでトイレ、公園でランチか、
  少し進むと魁力屋、手前にそばやがありますが、土曜日は混んでいます




梶原景時屋敷跡
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祠は梶原屋敷と関係があるのかわからない
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井戸

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途中にある鯨のいる家
芸術家宅らしい


ここに悪役で有名な梶原景時の屋敷があった。
歌舞伎の「熊谷陣屋」「義経千本桜」など悪役となる。
源頼朝を石橋山の合戦で助けた事から
頼朝のブレーンとして幕府に存在した人である。
文武両道でまだそのころ御家人には読み書きできない人もいたという。
その中で和歌にも長けた景時は重宝する人物だと思う。

義経を追い込んだ張本人といわれるが、
彼の行動は頼朝の意向にそったもので、
駿河で殺害されたのは、北条氏に
疎まれたものと思う。
以前北鎌倉から梶原景時の墓を訪れたが
工事中で拝観できなかったことが
残念である。

いずれにせよ人気がなかった。
ちょっとかわいそうである。

屋敷跡は標識もない。


明王院
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嘉禎(かてい)元年(1235)幕府の鬼門除けとして
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経により建立された。
五大明王を祀り元寇のときも護摩法要を行った
記録が残る。鎌倉十三仏霊場のひとつである。

大江広元邸跡
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京都の下級貴族だった大江広元は、
鎌倉幕府成立時、源頼朝のブレーンだった。
なぜ奥まった場所に屋敷があったのか。
北条から離れた地に住みたかったのか、
頼朝と梶原の3人で朝廷、当時の後白河法皇との
駆け引きや後白河が推す義経追討など
武士の政治を行うための準備の
密談に適した場所だったかもしれない。
義経追討の理由で全国に守護、地頭を置く事を
提案し、結局全国に頼朝勢力を配置したことになる。

光触寺 時宗 本尊:頬焼阿弥陀三尊
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岩倉山長春院光触寺で創建は弘安元年(1278)で
開山作阿上人、開基は一遍上人。
「頬焼阿弥陀縁起」によると
町の局が運慶に阿弥陀如来の製作を依頼し
安置した。あるとき失せ物があり、
家人の万蔵法師に疑いをかけ焼きごてで
頬を焼いた。
ところが、焼印は、阿弥陀様についてしまった。
局は阿弥陀様が万蔵の身代わりになったことで、
霊験を感じ、比企ヶ谷に岩蔵寺を建立した。
岩蔵寺は弘安元年に現在地に移り
名は光触寺となった。
塩嘗地蔵があり、六浦の塩売りが
商売繁盛を祈願し建立し塩を備えた。
つぎに行くと塩がなくなっているので
お地蔵様がなめたという話になった。
もとは県道にあった。
朝比奈から六浦への道は鎌倉の「塩の道」だった。

大江稲荷
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広元の墓は頼朝のそばにあるが、実際は明王院の裏山の
頂上にある石塔だといわれている。
天園ハイキングコース胡桃山山頂脇にあるという
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胡桃山の大江広元の伝墓 




十二所(じゅうにそう)神社

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アマツカミ7柱クニツカミ5柱が祀られているので
十二所という。明治前は十二所熊野権現だった。
明治までは光触寺にあった。
政子さんの出産の祈願をしたというので、
鎌倉時代初期にはあったことになる。
気をふくのは熊野権現は八咫烏、
ここはウサギの彫り物で話題になるところで、
理由は定かではないが、鎌倉の東端にあたり、
卯は東の方向だから。
兎の文字は免と似ているから災いから免れるとか・・

朝比奈切通
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鎌倉七口のひとつで六浦(むつら)道である。
ここを越えて六浦の港から三浦、房総に抜ける道である。
一夜にして造ったと言われる朝比奈三郎の伝説がある。
その後幕府成立から100数年後改修された。

大刀洗の水

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梶原景時が同僚広常を殺害し帰りに太刀を洗ったといわれる水である。
広常は古くは関東の豪族で頼朝の父義朝に仕えた。
義朝が亡くなると平家に従い頼朝が平家打倒の旗を挙げると
頼朝に従った。
頼朝が謀反を疑い寿永2年(1184)誅殺された。
行われたのは広常の屋敷で朝比奈三郎に因んだ三郎の滝あたりに
屋敷があった。そこで2人は双六に興じ、景時が襲ったという。

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熊野神社
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頼朝が鬼門に当たる地に熊野三社明神を祀った。
静かなところだが、昔の六浦へ行く道があったのかもしれない。

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参道が美しい

鼻欠地蔵
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名所図会


製作年代はわからないが、武蔵と相模の国境にある。
この境で諍いが多く彫られたといわれるが、右の脇道は白山道で
その先には、白山寺、東光寺があった。釜利谷に向かう道ではといわれている。
現在白山堂があるが、そのそばに磨崖仏がある。
鼻欠け地蔵の磨崖仏との関係はわからない。

照手姫の伝説
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侍従川は照手姫の乳母の名前からついたというが、
ここでは照手姫は小栗判官の侍女となっている。
伝説で、小栗判官は常陸の城主で足利持氏に攻められ、
逃走中に相模で恋人になった照手姫の父親に毒を盛られる。
上野原に捨てられるが、藤沢の遊行寺の上人に助けられる。
小栗判官は地獄にいたが、閻魔様の計りで餓鬼の姿となった。
上人は歩行できない小栗判官を地車にのせ
熊野湯ノ峰温泉にむかう。
湯に入ると姿が戻り、病気も治った。
照手姫は相模国横山の養女で、父の行いに驚き逃走、
小栗判官の後を追うが、川に沈められたり、
人買いに売られたりして青墓で下女をしていた。
帰り道、ようやく青墓で小栗判官と照手姫は
出会う事ができ夫婦になった。


小泉又次郎生家の碑
六浦のとび職の子に生まれた。
小泉純一郎の祖父で横須賀市長、逓信大臣、衆議院議長など
歴任。義侠心のある大衆政治家で入れ墨があった。
入れ墨は家業を継ぐために軍人をやめるために
彫ったという。その後家業を弟に譲り
政界に入った。娘の婿純也を養子にして
生まれたのが、小泉純一郎である。



上行寺遺跡
上行寺の東の山は引越という地名で
昭和59年(1984)中世のやぐらが多く発見された。
標高30mの上に平場、崖面があり
43のやぐらと6基の建物跡、400の五輪塔、200体の
遺骨が出土した。鎌倉から室町時代の墓地といわれる。
岸壁に刻まれた阿弥陀如来は東を向き
彼岸の日の来迎を拝む意味があったという。
マンション建築のため発見されたいきさつがあり、
残念だが壊され、今は一部の復元遺跡となっている。







by gannyan1953 | 2019-03-04 13:36 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

映画 この道

歴史と素適なおつきあい番外編  2019・1・23


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気づいたら映画「からたちの花」あと2日でおしまい!

童謡誕生100年を記念してつくられた映画。

私たちは、「からたちの花」というグループ名で
篠笛とピアノの伴奏で演奏している。
 
映画の冒頭

白秋が亡くなり10周年の演奏会が
小田原で開かれた。

最初に「からちの花」アンコールは「この道」

あらあら私たちの企画通りの曲目。

困ったような嬉しいような。









小田原の道はとても好きだが小田原の観光協会には

地図もない

今回の映画で
人が多く歩いてくれるといいな

白秋には3人の妻がいる

一番目の妻は映画に出てくる敏子さん

ほんとに美しい人だったようである

白秋は不倫した

敏子さんの夫に姦通罪で訴えられ逮捕される

白秋が留置された拘置所は市ヶ谷にあった






このブログの刑死場とあるところである

その後敏子さんと結婚し三浦半島に
住んでいた時
「城ヶ島の雨」が書かれた

敏子さんは
白秋と別れたあと、
国立音大の舎監になっていたようである。


2番目は章子さん。

貧窮生活も一緒に過ごした奥さんだが、
どうも不倫したらしい。

白秋は許さず離婚。

離婚後、章子さんは最初は柳原白蓮をたより、
その後も結婚したり離婚したり
お寺に入ったり、
最期は精神に異常をきたした。
激しい人生だったようである。

3人目は 菊子さん。
普通のあたたかい家庭というものを築いた人で
晩年、白秋は幸せだったのだろうか。

ところで、
演奏していてだんだん恐ろしくなってくる曲がある

曼珠沙華」とかいて
ひがんばな

映画に出てきた


ラジオ放送だったと思うが

当時どのような気持ちで聞いたのか
知りたかった

ゴンシャン ゴンシャン どこへ行く
赤いお墓の 曼珠沙華(ひがんばな)
今日も手折りに きたわいな

ゴンシャン ゴンシャン 何本か
地には七本 血のように

ちょうどあの児の 歳の数

ゴンシャン ゴンシャン 気をつけな
一つ摘んでも 日は真昼

ゴンシャン ゴンシャン なし泣くろ
いつまで取っても 曼珠沙華
曼珠沙華

恐や赤しや まだ七つ


ゴンシャンは良家の子女という意味である

好きだったお嬢さんの成れの果て・・辛い姿なのか

発狂した良家の子女か、

白秋自身の恐怖から来る妄想か・・・

梅若伝説の子を思い探し求め
狂女となった母の姿か


どんな解釈をしていいのか

ずっと考えている
 
さいごに


彼岸花 「雪と花火」より

作詞 北原白秋
作曲 宮原禎次

 
にくい男の心臓を 針でつかうとした女
それはいつかのたはむれ、晝寝のあとにはつとして

今日も驚くわが疲れ 

にくい男の心臓を 針でつかうとした女
もしや捨てたらきつとまた どうせ濕地しめぢの彼岸花

蛇がからめば身が細る

赤い濕地の彼岸花 午後の三時鐘が鳴る

こんなの見つけた

彼岸花 曼珠沙華
両方書いていた

これもおどろおどろしい・・・・










by gannyan1953 | 2019-01-25 09:56 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

橘樹郡の古代を訪ねて

歴史と素適なおつきあい   2019・2・8(金)

都筑郡の隣に橘樹(たちばな)郡がありました
古代の役所の成立から終息までわかる
橘樹官衙(たちばなかんが)遺跡は
7世紀から10世紀に人々が集まっていた古代の場所でした


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影向寺

集合:9:50 梶ヶ谷駅 バスに乗ります 昼食は川崎市民プラザです

梶ヶ谷(バス)上野川・・影向寺・・橘樹官衙・・能満寺・・
野川神明社・・川崎市民プラザ・・西福寺古墳・・馬絹古墳

橘樹(たちばな)郡の歴史

武蔵国の郡で横浜、川崎北部にあった。
縄文時代の子母口(しぼくち)貝塚、
弥生時代の影向寺、野川神明社周辺の遺跡がある。
古墳時代には多摩川周辺に多くの古墳が作られ
534年の「武蔵国造の乱」後に献上された
橘樹屯倉が川崎から日吉にかけて
あったと推測されている。

「武蔵国造の乱」とは、
6世紀に起こった笠原使主(おみ)と同族の小杵(おき)の
国造の役職を争った戦いで、
使主は埼玉古墳群、小杵は多摩川駅近くの
亀甲山古墳、芝丸山古墳を比定されている。
埼玉古墳群の方が大規模なため、
使主の勝利といわれている。

7世紀以降、大和政権の律令制のもと、
武蔵国橘樹郡となった。
郡名の由来は
ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説からで、
身を投げたヒメの衣服がこの地に流れ着いたという
いわれから橘樹神社が建てられた。

影向寺は官衙の郡寺であった可能性が高い。
郷は影向寺・横浜市港北区高田・
北加瀬、南加瀬・川崎市高津区下作延の4つ
だといわれる。
のちに末長(富士通ゼネラルあたり)が加わった。

府中の武蔵国府につながる府中街道が整備され
穀倉地帯としていち早く農業が発達したところである。
そして影向寺の創建、馬絹古墳が建造される。

奈良時代に官道の東海道があり、
小高駅が置かれ荏原郡の大井駅に向かう
人々は丸子の渡しを使った。
足柄道(大山街道)が官道として利用され始める。

鎌倉時代は幕府の御家人稲毛三郎が枡形城を構え
摂関家の荘園となり稲毛領とよばれた。
室町時代は後北条氏の所領となる。

今回は橘樹官衙跡、古墳を訪ねる。

影向寺
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天平12年(740)創建と伝わる。
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発見された瓦
素弁八葉蓮華文軒丸瓦
(そべんはちようれんげもんのきまるがわら)

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奈良県山田寺発掘の瓦で
よく似ている
白鳳期の瓦だという



創建時の瓦が発掘され白鳳末期のものと認められ
天平より50年ほど遡るのではないかといわれる。
最初私寺だったのが、律令制に組み込まれ
公寺になったと考えられている。

縁起に天平11年(739)光明皇后が目を患い、
聖武天皇は夢で「武蔵国橘樹郡の霊地に霊石がある。
石には清浄な水が湛えられここに伽藍を建立し、
薬師如来を安置すれば御平癒する」と告げられた。
早速行基を遣わし、皇后の病気は平癒したという。
翌年伽藍が建立された。

このあたり蔵骨器(骨壺)の出土が
全国的に見て多くあるのが特徴で、
火葬の風習は位の高い人物にされるので、
官人の多くは渡来系またはそれらと結びつく人が多かったと
思われる。従って渡来系指導者の寺院建立があったといわれる。

影向寺に薬師三尊が安置されている。
覚大師(794〜864)の作といわれる。
寺の活動に財力があったと思われるので
有力な人物の後ろ盾があったと考えられる。

薬師堂は最初の建立と場所に建っている。

影向石
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釈迦の仏舎利を納めた塔の心礎石で、近世になり
そのくぼみに溜まる水が眼病に効くと信じられ
多くの人がお参りした。
影向とは神仏が憑依することで憑依する木や石が必要だった。
火災で本堂が焼け落ちたとき、薬師が自ら石の上に乗って
難を逃れたといわれる。
栄興、養光といわれ寺名が「影向寺」となった。

乳イチョウ
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乳柱を削って飲むと母乳がよくでるといわれる。

橘樹官衙跡・たちばな古代の丘緑地
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伊勢山台という標高40mくらいの丘にあり、
掘立柱建物、塀、柱穴などの遺構がある。
稲を貯蔵したり、武器や税物などの収蔵庫があった可能性がある。

大宝元年(701)から真北方位の郡衙、正倉の勅が出ており

それに対応する施設が作られたといわれる。

9世紀になると小型の建物が多くなり

廃絶に向かったと思われる。

発生から廃絶までの歴史を辿る事が

わかる重要な遺跡である。


能満寺

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天台宗で行基創建とされる。本堂が元文4年(1739)に建立され

本尊の木像虚空蔵菩薩、木像聖観世音菩薩立像が安置されている。

虚空蔵菩薩は明徳元年(1390)鎌倉の仏師朝祐によって

造られたことが墨書銘によりわかる。

深大寺の末山といわれる。


野川神明社

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縄文時代より人が住んでいたことから

創建は古いと思われる。江戸期には韋駄天社と称し

明治41年韋駄天社、子神社、神明社、大六天社が合祀され

神明社となった。

縄文前期の家の跡があり、集落があり、影向寺の西、第三京浜で

なくなったが貝塚があった。縄文前期には遺跡の周囲は

海岸がせまっていたと考えられる。

弥生後期の墓地が発掘され方形周溝墓だったことがわかった。

現在 韋駄天の像が作られアスリートたちの参詣がある。


西福寺古墳

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5世紀後半から6世紀はじめにかけて

築造された古墳で馬絹・梶ヶ谷古墳群のひとつである。

周溝があり円筒埴輪がぐるりと立っていたと思われる。

墳頂はややへこんでいるので

横穴墓があったと推測されている。


馬絹古墳

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副葬品が盗掘されて明確な時期はわからない。

内部に大きな石室があり、

唐尺(とうじゃく)が使用されていること、

切組積で石室が作られていることから

7世紀後半の古墳と思われる。

築造技術は精緻で石室内の装飾は

古代朝鮮半島の古墳の影響を

強く受けていると思われる。

埋葬された人物は高い分かレベルを持ち

政治力、経済力があったと思われる。


馬絹神社

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女体権現社と称し馬絹村の鎮守。
元禄年間(1688〜1704)の創建と伝わる。
昭和61年馬絹神社と改称した。
元禄より前に創建されたとも言われており
伊勢神宮の遥拝の地といわれる。
















by gannyan1953 | 2019-01-03 14:00 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

藤沢の中将姫伝説

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・10・17

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中将姫の祠

グーグルマップを見ていたら・・・
中将姫の祠を見つけた

なんで神奈川県に中将姫がいたのか・・・

ググるとほとんどが奈良周辺の伝説

美濃の寺を訪ねてそこで婦人病になったとも
そして藤沢に・・・?
ひっそりとある中将姫の祠を訪ねた



湘南台からのコースで
往復12kmくらい

湘南台・・用田寒川社・・示現寺・・水道橋・・川の駅 中将姫・・
中将姫祠・・湘南台駅

地図には垂水御所などあるが、
疲れたのでまた今度


中将姫とは

歴史に詳しくない人は誰それという

中将湯知ってる?

というと知っているという

中将湯は、ツムラを創業した津村重舎の
母方の実家藤村家に伝わったという

中将姫は、義母から虐待を受け
藤村家に一時お預かりの身となった

のち当麻寺で修行し
薬草の勉強もした

秘薬として世話になったお礼に
藤村家に伝えたという

もう一説はツムラの社員が余った薬草を
お風呂に入れたらよかったからという
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ツムラ創業100年の記念の入浴剤
2003年の事
あー・・・お湯に入ってみたい



いや、中将姫から教えられた事の方がロマンがあっていい
 あとは後半に



用田 寒川社

天正2年(1574)
伊豆の河津庄の領主 伊東氏の子孫といわれる
用田の豪族 伊東家により勧請された

明治になり用田の鎮守となり
祭神は誉田別命(ほむだわわけのみこと)
御所見小史には
天照大神・八幡妙見稲荷・宇賀神も祭祀とある

境内に八雲神社がある


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参道が長くて立派

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左が寒川社 右が八雲社

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うっそうと気が茂り森のようになっている

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寒川社を振り返るとひとつの山

示現寺
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永禄3年(1560)寒川と同じ伊東家により観生寺として建てられ
戦後継承者がいなくなり廃寺となった
平成元年(1989)
前住職が開山、示現寺となり日蓮宗の寺となった

Facebookによると、水業・写経などできるらしい




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示現寺をあとにのんびり歩く

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こんな道を行くと案内地図はいう

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登りきると中原街道

街道を横切り
脇の野原には・・・ネコの親子がひなたぼっこ

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すぐ又・・こんな道・・なかなかの風情

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すると川に突き当った

目久尻川
おもしろい名前だ

① 座間の寒川神社の御厨(みくりや)から流れてくるから
目厨川(めくりやかわ)から

②海老名の伝承で河童が悪さをし地元の人が
河童の眼をくりぬいたから・・目穿川(めくじり川)

おお怖!
私的には①押し
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水道橋

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のどかな風景だが実はこのあたりを10分歩く
その間 3機の軍用機が飛ぶ

ぜんぜん静かでのどかじゃない

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2機目の軍用機


川の駅

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まっ 駅といえども あるのはこれだけ

ここから左の突き当たりが中将姫の祠

があるはずだが

中将姫の幟は見えるが
道がない

わきの寺に行ってみて

寺のお墓を通過してぐるりとまわってみた

壽昌寺

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慶長18年(1613)やはり伊東家により開山



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やっと山の方からの入口にたどり着いた


中将姫 祠

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中腹に祠がある

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當麻寺にある中将姫が織った曼荼羅の写真

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中将姫は
 
鎌足の曾孫にあたり
実の母は5歳のときに亡くなり
後添えの義母が
辛くあたるようになった

殺されそうになり
家臣の知り合いの藤村家にかくまった

のち


当麻寺で隠れ住むが
天皇の后にという話が持ち上がり
そこで尼になった


そして一夜でハスの糸で
当麻曼荼羅を織り上げる

私が興味をもったのは

折口信夫の
「死者の書」である

姫がゾンビになった大津皇子を慕う内容だったと思う

50年前に二上山に葬られた大津皇子が墓からよみがえり
着物も腐りはてているので

ガウンを作ろうと
織物をしたと・・・

大変魅せられた小説である

「した した した」という水のしたたる音がさみしい

二上山の夕日が見たくて
橿原のダイワロイヤルに宿泊して
見る事ができた

二上山の大津皇子の墓は
寂しかった


ここ藤沢に伝わる話は

義母から逃れ、顔をみられないように
お面をかぶり過ごした

のちにそのお面は
壽昌寺に納められたが
紛失してしまった

ここまで逃げてきたというのは

あり得ないと思うが

神奈川に伝承があってよかった











by gannyan1953 | 2018-10-23 22:03 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

蒔田城址・弘明寺を訪ねて


歴史と素適なおつきあい番外編   
中川歴史ウォーキング44


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弘明寺 本堂

江戸時代につくられた吉田新田の先端から大岡川に沿って
吉良氏の蒔田城址、古刹弘明寺を訪れます

集合:9:45ブルーライン吉野駅改札口

吉野駅・・お三の宮日枝神社・・井土ケ谷事件の跡・・蒔田城址・・勝國寺・・大岡川・・弘明寺

大岡川は蛇行が多く昔から氾濫し、
江戸時代に川を利用し吉田新田が作られた。
吉野町は釣鐘状の吉田新田の先端にあたる。

吉田新田
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北の野毛山と南の山手という洪積台地にはさまれた谷戸状の地形で
縄文海進によって溺れ谷となり、その後湾口に砂州がのび釣鐘型の内海となった。
この沿岸では横浜村、野毛村など村民が、少ない田畑を耕したり、塩田を開いて
生活していた。
明暦2年(1656)この地形が埋め立てに適しているとに
着目した江戸の材木商・吉田勘兵衛が、
江戸幕府から埋め立て、新田開発の許可を得て開始。
沿岸の村民も広い田畑を求めて賛同した。
万治2年(1659)にはじまり寛文7年(1667)に
難航しながらも完成した。
吉田勘兵衛は慶長16年(1611)〜貞享3年(1686)
摂津国能勢で戦国大名の一族である数掛山城主波多野秀親の孫で、
江戸での商売に憧れ、血縁関係の能勢領主・能勢頼次に従い
江戸に移り、日本橋材木町に住み木材と石材の商いを始めた。
火事の多い江戸で商売は繁盛し、やがて幕府御用達となり
江戸城修理も行った。
新田開発は吉田新田以前に隅田川沿いの湿地帯、
千住中村の音無川流域(現在南千住)を干拓している。
寛文9年(1669)4代将軍徳川家綱は、勘兵衛の功績を
讃え、新田名に吉田新田と改称し、名字帯刀を許した
新田完成後、新田内の日ノ出町付近に住み続け
今でも不動産の吉田興産(株)を経営している

お三の宮日枝神社  祭神:オオヤマクイノミコト

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寛文13年(1673)吉田新田を開発した吉田勘兵衛が
江戸の山王権現を勧請、吉田村の鎮守とした。
山王宮が訛っておさんの宮となった。
他におさんの人柱伝説が伝わる。
おさんさんは吉田勘兵衛の下女だった説:干拓失敗に同情
癩病だったおさん:役に立ちたいと思った
烈女おさん:勘兵衛の助けで夫の仇うちを果たし感謝して
などいろいろ話はふくらむが
大正9年(1920)日枝と稲荷の本殿内陣を調査したら
ご神体の下から「大乗経」の木箱が発見された。
身延山に祈願、その結願の日に勘兵衛が書写し
埋納されたといういわれがある。
その後大震災で焼失してしまうが、
この埋納が人柱伝説として伝わったと
昭和2年(1927)に吉田家から
刊行された「吉田勘兵衛事績」に書かれている。

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堰神社
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お参りすると咳に効くといわれている。

大岡川・中村川分岐

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ここは大岡川のかつての河口にあたり、
水源は磯子の氷取沢で蒔田公園で分流する。
この分岐点で右手は中村川、左手は大岡川となる
中村川、堀川は現在の首都高速の下を流れ
大岡川は京浜急行に沿って流れる

井土ケ谷事件跡

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文久3年(1863)このあたりで攘夷派により、
フランス人が殺傷された事件。
カミュ少尉と士官2名が保土ヶ谷に馬でむかう途中
3人の浪士に襲われ、カミュは亡くなった。
幕府は謝罪のためフランスに出向き
195,000フラン(35,000ドル)を遺族に支払った。
浪士は不明で捕縛はできなかった。


蒔田
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ここから地下鉄の車両が搬入された

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駅近くの杉山神社


蒔田駅の北に太田道灌の屋敷、南に蒔田城(吉良氏)、
そのもっと南に磯子城(平子氏)があった。
蒔田の地名は室町時代からあり、北条傘下の吉良氏が城主だった。
このウォーキングで、吉良氏の城めぐりは
九品仏の奥沢城、豪徳寺の世田谷城、
そして蒔田城である。
蒔田御所といわれ
吉良から蒔田を名乗った。

吉良氏は源氏の血筋で
長男(吉良義継)が蒔田氏へ
次男(吉良長氏)が上野介へ
三男(足利泰氏)が足利尊氏へ
と大雑把だがこのように分かれていく。

この中の吉良上野介が忠臣蔵で有名である。
赤穂事件の後吉良から蒔田の姓になった。

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勝國寺手前の公園のきつね



勝國寺
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吉良氏の菩提寺である。
政忠の菩提寺としてその子成高の建立と伝わる。
松陰神社の隣にも勝國寺がある。

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蒔田城址

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遺跡の案内はあるが、蒔田城址の案内はない

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蒔田城は世田谷城主・吉良成高の子で、北条氏綱の娘婿である吉良頼康の居城。
頼康は「蒔田殿」と呼ばれた。小田原北条滅亡と同時に廃城になった。
足利の血筋でその後も家康にも認められていたが赤穂事件で、
吉良氏が断絶したので蒔田氏から吉良氏に改名した。
この跡地で火鉢のかけらが発見されたが調査されることもなく
今は横浜英和女学院が建っている。

百階段
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百ではなく156段の階段で、歴史はわからない。
今回は下ります!

弘明寺 

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真言宗で天平9年行基により開基された、横浜で一番古い寺である。
養老5年(721)インドの僧善無畏(三蔵法師)がこの地に結界をつくった。
七ツ石がその結界といわれる。
三蔵法師というと西遊記の人?と思うが別人である。
高僧のことをいい、玄奘は西遊記、ここでは善無畏である。

天平9年(737)行基が勅命で十一面観世音菩薩像を刻み、
堂宇を建立したので、行基開基といわれる。
ハルニレの木で、鉈彫りの仏様である。
明和3年(1766)本堂が再建された。
寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により本堂が建立され、
その時の床板が再建したときに
使用されている。
是非座って平安時代の床板に
ふれてみたい。

他に室町時代の漆の花瓶、山岡鉄舟の扁額がある。

空海が彫ったと伝わる歓喜天が聖天堂に安置されている。
鎌倉時代は将軍家の祈願所であった。
戦国時代は北条早雲、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り信仰を集めた。

弘明寺商店街
闇市からはじまった商店街で、レトロな昭和を感じる場所である。

銭湯「中島湯」は黒湯である。地下鉄弘明寺駅から徒歩3分で便利。


寄り道
蒔田城址の中腹にあるお稲荷さんに行ってみた

西森稲荷

赤い旗があるのはわかるが、道がわからないという
ひっそりと山の中にたたずむ社

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ちょっと荒れた感じが
お稲荷さんらしい不気味さをかもし
よかった・・・

弘明寺公園


公園を登る登る・・
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いやいや登った



京急の弘明寺駅近くの公園で、目的は弘明寺にあった
温泉旅館・・中里旅館・・30年程前に訪れた

そのときはにぎやかだったが
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庭だけ残し
最近解体されたとか

寂しい


































by gannyan1953 | 2018-09-19 18:01 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

民間人捕虜の墓が横浜にあった

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・8・15


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保土ヶ谷 英連邦戦死者墓地

英連邦戦没者墓地はそれは美しく維持されており
10数年前に訪れた時
この維持費どこが受け持っているのか気になってしまい・・・ 
一人一人にそれぞれの苦しみ、くやしさを持って
ここに葬られていることに
想いを寄せなかった
反省


終戦記念日の今日最近読んだ本が気になった

図書館の横浜の歴史コーナーで

「赤いポピーは忘れない」という本が目に入った

私的には本にはまり一気読みした

私にとって知らない戦争の話だった

民間人が船に乗っていてドイツに拿捕され
男女約140名が福島のノートルダム修道院に監禁された
乳幼児も含まれる ショックを受けた

ドイツは自分たちが拿捕した船を取り上げ
捕虜として日本に置いていった・・・話

それはナンキン号という船だが他の船も拿捕され、
横浜にあらゆる人種の敵国人が入国した

福島のノートルダム修道院に連行された人々のうち
船で働いていた女性の墓が
横浜の英連邦戦没者墓地に葬られた

ミッドウエイ海戦は日本が敗北した訳だが
その理由のひとつが暗号をアメリカに読まれていた

それがわかるのがナンキン号がその資料を
積んでいたからである

そのため乗員、乗客は特別捕虜となった

特別な捕虜とは待遇が定められていた条約に
反し秘密に収容し、外部との接触を避ける
扱いができたということらしい

ノートルダム修道院は東日本大震災で
被害を受け
残念ながら取り壊された

かつてヘレンケラーが訪れた場所である

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写真:福島市:ノートルダム修道院 より

その後ナンキン号はロイテンと改名され
ドイツの船とともに横浜新港埠頭に繋留中
「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」により
炎上してなくなった

横浜新港埠頭は赤煉瓦倉庫で今では観光地になっている
民間人は目撃はしたものの
どんなことが起こったのか発表されず
戦後もしばらく伏せられていた爆発事件である

義母はまだこのころ磯子に住んでいた
爆発音を耳にしていたかもしれない
 



参考:赤いポピーは忘れない:遠藤雅子






by gannyan1953 | 2018-08-15 11:29 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

江田から歴史散歩

中川歴史ウォーキング42        2018・10・27(土)

江田駅近くに7世紀のお役所「都筑郡衙」があります。
武蔵国の都筑郡の中心にあり行政や秩序を守る役割が
ありました。江田が郡の中心だったことに
想いを馳せて歩きましょう。

集合:2018年9月15日(土)9:45  田園都市線「江田」駅
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都筑郡衙のまわりの郡
これでも武蔵国の一部






赤田2号墳

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赤田2号墳


6世紀後半のころの、自然地形を利用した横穴古墳で
石室には玉類、太刀、鉄鏃(ぞく:鉄のやじり)、
鈴釧(すずくしろ:腕輪)須恵器などの副葬品が納められていた。
この赤田谷戸は42の横穴墓群が、昭和61年(1986)発掘された。
都筑郡衙が近いことから
関係した人物の墓といわれている。

そのころ私は横浜に引っ越してきており
その時古代に興味がなかったことが悔やまれる

江田から市ケ尾の電車の景色が赤い土に覆われた
だだっ広い土地が広がるのを見ていた。
ただの土地開発だと思っていた。

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鈴釧(すずくしろ)


大入公園
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慶應義塾大学付属の学校のそばの公園で
このあたりに米軍のファントムが墜落した。

1977年のことである。

♫えいちゃんの家にジェット機が落ちたら♫

というべ平連が歌い、放送禁止になった
「えいちゃんのバラード」の
3番の歌詞が

「あなたの家にファントムが落ちたら」

だった。

現実に起こってしまった。

このあたりの家20軒(ウイキペディア)
(他に被害者家族の手記は9軒となっている)
が燃えた

幼い兄弟ふたりと、その後全身火傷の
治療に苦しんだ母親和枝さんは
4年後心因性の呼吸困難で
亡くなっった。
あと近所の6名が負傷している。

米軍の乗員は墜落前にパラシュートで脱出し、
無事救出されたが、
操縦不能の飛行機がパイロットなしで、ここに墜落した。

アニメ映画「パパママ バイバイ」は涙なしでは
みられない映画だった。

今年で41年目になる。追悼・・

長者原遺跡(都筑郡衙跡)

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江田猿田公園
谷本川と早渕川のはさまれた台地にあった。
新編武蔵風土記稿にこのあたりの地名が
長者丸とあったこと、長者伝説があったことから
長者原と名づけられた。
昭和54年(1979)から発掘され都筑郡の役所が
(郡衙・ぐんがとも郡家・ぐうけともいう)
あったとみられる。
全国的に10世紀には衰退している。

大宝律令(701)に制定された地方の行政を行う
国(こく)、郡(こおり)、里(さと)が採用された。
現在の都道府県と市、町の関係と同じである。

ここに米や布など集められ江田を通っていた
古代東海道で都(平城京・平安京)まで送られた。
租庸調である。今は学校では租調庸と教えている。
なぜそうなったのか・・・
租と調は物品であるが庸は労働力だから
順番が変わったらしい。

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再現された模型



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朝光寺原遺跡
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三角板鋲留短甲と眉庇付兜
さんかくいたびょうどめたんこう と まびさしつきかぶと
1号墳の副葬品

昭和42年(1967)に発掘された。
鶴見川本流の谷本川北岸の台地に築かれている。
弥生時代の環濠集落と3墳の円墳が発掘された。
5世紀後半から6世紀後半のものである。
多くの武具が埋葬されており
ヤマト王権とかかわりのある人物の墓といわれる。
都筑郡衙も近い。


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とても景色がいい。

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朝光寺

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天文年間(1532)創建の曹洞宗の寺である。
創建した東全和尚はみたけ台の祥泉院も創建している。

佐藤春夫は大正5年に本堂の一室に住み
当時の住職のことが「田園の憂鬱」に書かれているという。

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養蚕指導者謝恩の碑
碑文はひろたりあんの広田新聞を開業した広田花崖(かがい)だそうだ。
都筑区の農家の6割が養蚕に関係したという。

東福寺

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開山は不明で、本尊は大日如来で上原家の菩提寺。
上原家は小田原北条のころの人で上原出羽守といい、
小机市郷67貫780文を与えられたという。
ここに上原家の屋敷があった。
天文15年川越合戦の直前岩付城主を
北条氏に寝返らせた功績で
市ケ尾の地を与えられた。

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東福寺近くの旧家っぽい家

杉山神社 市ケ尾
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祭神はイタケルノミコト(素戔嗚尊の子)

市ケ尾の名前の由来は市が尾根にたったからという。

ここで終了

まだまだ歩ける人は川和駅まで
谷本川散歩

天神橋
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いつかは定かではないが北八朔側に天神様が流されてきた。
住民は梅の木を植え塚を作った。
耕地整理の時八朔の十二神社に合祀された。

塔林坊

僧のいる坊跡ではなく「とうせん坊」のことという。
西八朔に仙覚坊という地名がある。見晴らしのいいばしょだったという。
寺の形跡はなかったという。
やはり通せんぼなのだろうか・・・


立場
川和高校入口の交差点あたりに昔立場があった。八王子往還が通っていた。
川和は明治の時都筑の中心地で郡役所があった。」

八幡神社
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創建は不明だが新編武蔵風土記稿に
ご神体は3体の弥陀が鋳出したものだという。
銅鏡のことと思われる。

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瑞雲寺への途中にあった祠

道祖守 稲荷がある。

瑞雲寺


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開山は貞治2年(1363)で臨済宗、円覚寺末である。
本尊は釈迦座像。
元治元年(1864)に境内で角力(かくりょく・相撲)があり、
力士と川和連中とけんかがあり
23名の死傷者がでたという。















































by gannyan1953 | 2018-06-13 15:17 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

みなとみらいに行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編  2018 5・30

曇っていたので歩きたいなと新横浜からみなとみらいまで歩いた



先日中川歴史ウォーキングで歩いた
神奈川宿あたりを歩くことになる

新横浜〜岸根公園〜六角橋

西神奈川の交差点からすぐ斜めの道を右折
ここから海まで一直線

二ッ谷

土橋寿司から川沿いになる

先日歩いた道で慶雲寺が左手にあった

綿花橋

なかなかいい名前だが由来がわからない

神奈川1丁目が綿花町だったらしい
ここに綿花の倉庫があったらしい
コットンハーバーなるお洒落な名前があること



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中央市場が見える

市場内でランチしたかったが
そもそも一般人がはいれるのかわからない

そうこうしている間に水曜は市場が休みだった

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海です

ここで右に曲がります
橋があります
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右手の景色

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左前方の景色

いいじゃないか

歩いてきてよかった

みなとみらいホールで1ドルコンサート

パイプオルガンとってもよかったけど
途中寝てしまった

申し訳ない・・・


















by gannyan1953 | 2018-05-30 17:14 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな横浜散策

歴史と素適なおつきあい  T氏作成 2018・6月8日(金)


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はまレポより
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集合:市営地下鉄ブルーライン吉野駅 改札口

吉野町駅・・お三の宮日枝神社・・中村川大岡川分岐点・・久良岐橋
・・浦舟水道橋・・三吉演芸場・・堤石鹸工場跡・・
金比羅大鷲神社(真金遊郭跡)・・横浜橋商店街・・歌丸桜・・大井戸
・・清正公堂・・横浜厳島神社・・伊勢佐木長者町





吉田新田

当地は、北の野毛山と南の山手という洪積台地にはさまれた谷戸状の地形で
縄文海進によって溺れ谷となり、その後湾口に砂州がのび釣鐘型の内海となった。

この沿岸では横浜村、野毛村など村民が、少ない田畑を耕したり、塩田を開いて
生活した。

明暦2年(1656)この地形が埋め立てに適しているとに着目した
江戸の材木商・吉田勘兵衛が、江戸幕府から埋め立て、新田開発の許可を得て開始。

沿岸の村民も広い田畑を求めて賛同した。

しかし・・天神山や中村大丸山から土を運んで現在の関内駅付近に築いた
潮除堤(しおよけづつみ)が翌年の明暦3年(1657)の梅雨の長雨に
耐えきれず崩壊した。埋め立ては断念されたと思われたが、
渋る村人を説得し工事を再開した。万治2年(1659)にはじまり寛文7年(1667)に
完成した。野毛新田といわれた。

このときの潮除堤は波に流されないよう安房と伊豆から運ばれた石で
石垣が組まれ、埋め立ての用土は天神山、中村大丸山、洲干島(しゅうかんじま)から削られた。

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天神山土取跡

州干島は湾口にできた砂州で厳島神社があるところである。
2015年新市庁舎建設に伴い遺跡として調査された
関東大震災で壊れた建物の跡があった

吉田勘兵衛
慶長16年(1611)〜貞享3年(1686)
摂津国能勢で戦国大名の一族である数掛山城主波多野秀親の孫
江戸での商売に憧れ、血縁関係の能勢領主・能勢頼次に従い
江戸に移り、日本橋材木町に住み木材と石材の商いを始めた
火事の多い江戸で商売は繁盛し、やがて幕府御用達となり
江戸城修理も行った

新田開発は吉田新田以前に隅田川沿いの湿地帯、
千住中村の音無川流域(現在南千住)を干拓している

寛文9年(1669)4代将軍徳川家綱は、勘兵衛の功績を
讃え、新田名に吉田新田と改称し、名字帯刀を許した

新田完成後、新田内の日ノ出町付近に住み続け
今でも不動産の吉田興産(株)を経営している


お三の宮日枝神社  祭神:オオヤマクイノミコト

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寛文13年(1673)吉田新田を開発した吉田勘兵衛が
江戸の山王権現を勧請、吉田村の鎮守とした

山王宮が訛っておさんの宮となった

他におさんの人柱伝説が伝わる

おさんさんは
吉田勘兵衛の下女だった説:干拓失敗に同情
癩病だったおさん:役に立ちたいと思った
烈女おさん:勘兵衛の助けで夫の仇うちを果たし感謝して

などいろいろ話はふくらむが
大正9年(1920)日枝と稲荷の本殿内陣を調査したら
ご神体の下から「大乗経」の木箱が発見された
身延山に祈願、その結願の日に勘兵衛が書写し
埋納されたといういわれがある
その後大震災で焼失してしまうが、
この埋納が人柱伝説として伝わったと
昭和2年(1927)に吉田家から
刊行された「吉田勘兵衛事績」に書かれている
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堰神社
今では咳に効くといわれる



中村川・大岡川分岐点
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ここは大岡川のかつての河口にあたり、
水源は磯子の氷取沢で蒔田公園で分流

この分岐点で右手は中村川、左手は大岡川となる

中村川、堀川は現在の首都高速の下を流れ
大岡川は京浜急行に沿って流れる

久良岐橋
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昔の郡名を残す橋で中村川と堀割川の分岐である。

関東大震災で崩壊、大正15年(1926)にガス灯を模した
親柱を施し改築された
橋桁は昭和63年(19889に付け替えられた
この中村町は関東大震災のときに
関西からの援助金で被災者が収容され
54棟のバラックと13の仮病院が設置され
「関西村」とよばれ2000人が住んだという

震災前はこのあたりは県立揮発物貯蔵庫があり
震災の時大きな音で爆発炎上し
川は一面火となり橋も人も焼けた
久良岐橋はかろうじて焼失を免れ
被災者の収容に使われた
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堀割川は大岡川の分流で
明治初期に開削され横浜の水運、治水に役割をはたし
河口付近の石積護岸が当時の面影を残す
土木遺産に指定されている

浦舟水道橋
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国内最古のピン結合プラットトラス鉄橋
三角形に繋がる構造をトラスといい
ピン結合とは、部材と部材を1本のボルトで結合したものである

橋は移設されここに落ち着いたと思われる
明治26年(1893)に山下町の方に架けられていた
鋼材は英国シェルトン社製で設計者は
神奈川県技師の野口嘉茂である

神奈川県埋蔵文化財センター
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 旧中央衛生試験所だったとても古い建物である
明治35年(1902)にペスト検査所として発足した
昭和12年中央衛生試験所と改称した
廃墟と思われているが見学可で内部も見られる
私の大好きな顔面土偶がある
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三吉演芸場
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2020年に開館90周年を迎える

もとは銭湯だったが昭和5年(1930)に貸席三吉としてはじまった
昭和48年(1973)大衆演劇専門となり
多くのファンがいたが
観客数が減り建物の老朽化で廃業寸前となった
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ドラマに使われたかつての演芸場

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館内にあるかつての写真

ぜひ残したいという「三吉演芸場を残す会」が発足
会長は地元出身の桂歌丸だった

父をなくした歌丸は父方の祖母の経営する永真遊郭富士楼で育った

横浜橋・三吉橋両商店街の協力もあり
寄付が集まり平成10年(1998)に立て替えられた

近くに歌丸を讃えて「歌丸桜」が植えられている

堤石鹸工場跡
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磯子村の堤磯右衛門:天保4年(1833)〜明治25年(1892)

堤が明治6年に造った製造所の跡地で
国産発の石鹸を作った

明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会で磯右衛門の石鹸は
花紋賞を受賞し、それから香港、上海に輸出するなど最盛期を迎えた

全国的に不況に見舞われ磯右衛門の死後2年で
跡継ぎもなく廃業した
横浜博覧会で復刻され
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横浜土産として売られている

歌丸桜
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横浜橋商店街90周年のとき
福島県三春から三春滝桜(枝垂れ桜)の孫を植えた



金比羅・大鷲神社(真金遊郭跡)
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安政6年横浜開港にあたり岩亀楼の店主が讃岐から金比羅大権現を勧請
横浜スタジアム付近にあった港崎遊郭内に祀った
その後豚屋火事で焼失

それからは遊郭の移転が続き、いっしょに移動している

移動先は


明治3年 羽衣町、吉原遊郭と呼ばれた
明治5年 30軒程が高島町、このとき大鷲神社もいっしょに
明治15年 真金町 永楽町

そして現在地に遷座した

関東大震災、空襲で焼失
現在の建物は昭和25年の再建


 横浜橋通商店街
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昭和3年(1928)商店街の原型ができたがそれ以前
遊郭が近くにあったので商店街のようなものは存在していた

終戦後闇市となって賑わい
現在も賑わう商店街である

毎年11月の金比羅大鷲神社の祭礼ではとくに賑わう

大井戸
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吉田勘兵衛の住宅跡にある
吉田新田開削の折用水が必要で掘ったところ岩盤を
突き破り湧き水があり
工事関係者、住民の飲み水となった
横浜発展の記念碑的存在である



清正公堂

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加藤清正は慈悲深く熱心な法華経信者だった
開運の神様として
吉田勘兵衛が新田の守護と供養のため創建した

はじめは常清寺に奉安されたが
度重なる火災、最後は空襲で寺は清正公堂とともに
久保山に移転した

付近住民の尽力で平成10年(1998)に
建てられた


横浜厳島神社  祭神宗像三女神

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最初にあった場所が州干島の先端(弁天橋付近)で、治承年間源頼朝によって
土肥から勧請された

足利氏満は般若経を奉納
太田道灌は社殿再建
家光は朱印地を与えた

浜辺の松林に覆われた社殿は景観がよく
「州干雪」と神奈川宿からの眺望十五景に選ばれた

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関内新聞


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関内新聞


一の鳥居は現神奈川県立歴史博物館あたりにあり四の鳥居まであった

秀閑寺という寺が別当だった廃寺
慶安年間元町の増徳院境内に仮殿を造り、
上之宮杉山弁天(元町)と唱え
平日は元町にご神体を奉安した

明治2年街区拡張のため現在地羽衣町に移転し
厳島神社となった

弁天と海の神様宗像三神は蛇つながりである

州弁天は蛇伝説がある
多くの大蛇と住民は仲良く暮らしていた
羽田の漁師と争いになった時
横浜村の漁師たちに味方したという


参考:横浜市南区 魅力ポータルサイト
かながわの橋100選
   各々 寺社HP
南吉田町内会 長者町商栄会
   はまれぽ
   ウィキペディア



これは孫を連れて吉田新田のまわりを歩いた記録です

夏休みの自由研究にしました































by gannyan1953 | 2018-05-26 14:07 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

東横廃線跡と神奈川宿ぶらーり 写真集

中川歴史ウォーキング40


地図がサイトに組み込めなかったのでこちらに



廃線跡
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フラワー緑道
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高島屋トンネル
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本覚寺
ハリスが白く塗ったペンキ跡が胸に残る
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ハリス
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本覚寺本堂

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高島山公園
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大綱金比羅

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州崎大神
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幸ヶ谷公園
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宗興寺 ヘボン博士
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神奈川宿本陣跡
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滝の川公園のかっぱのモチーフ
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成仏寺


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慶雲寺

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神奈川地区センター
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熊野神社


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こどものかわいいお尻


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火防の木

金蔵院
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京急が高架にしたときのレンガの壁
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笠䅣稲荷

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神明宮
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能満寺
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by gannyan1953 | 2018-05-13 10:19 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(1)



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