歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:鎌倉の歴史( 13 )

大仏切通に行ってきた



歴史と素適なおつきあい番外編  2018・10・30


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大仏切通

北鎌倉から登ったり下りたりを繰り返し
やっぱり鎌倉は着物よりスニーカー


まずは北鎌倉下車
裏から出て、友人に八雲神社の清明石を案内した
なぜかというと足の健康に効果ありといういわれがある
というか
石を踏まなければ足が丈夫になる
この石は鎌倉幕府のときの
陰陽師が使用した石で
もとはふもとの十王橋にあった

進駐軍が祈りの井戸も壊したらしい
そして八雲神社境内に
鎮座

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さあこれからハイキング
といいながら
アンティークの店でしばらく目の保養

浄智寺に着いたのが11時前
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葛原岡神社

日野俊基が明治天皇によって
祀られている

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供養塚

後醍醐天皇の側近でお公家さん
藤原鎌足の子孫である

鎌倉幕府打倒の企みが発覚し
ここ葛原岡で斬罪された

それから一年後鎌倉幕府は滅びる

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右が男石 左が女石
平成22年に置かれた新しいパワースポット
 木の像は二宮尊徳邸の楠から彫られた像

石は赤い糸で結ばれ
おまもりには由比ケ浜の桜貝がついているとか

新しい名所もちゃんとお参りしました

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ハイキングコースに鶏がいました

佐助稲荷に寄りたくて
急坂を下りて

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お気に入りの佐助稲荷

ところが

静かだった隠れ里にある佐助稲荷
なぜか
人とキツネ様の像でいっぱい

宮司さん・・・3年前に長島一茂君がやってきて
キツネを奉納したら
それからいっぱい人がきてね・・・
と嬉しそうでした


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この雰囲気は変わらず、たまらなくいい

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白い小さいのがキツネ様の像
一体1500円くらいからだったかな

以前こんなになかったので
風景がごちゃごちゃしてしまっているが

大好きな神社が人気になり
嬉しいやら寂しいやら・・・


佐助稲荷から登って登って
大仏ハイキングコースに戻る

埼玉の修学旅行の小学生や
品川の遠足の小学生がヒーヒー 
キャーキャー歩く


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大仏切通に到着

鎌倉七口のひとつ
一部旧道で
明治に人力車が通れるように整備されたという

稲村ケ崎や極楽寺を通る事の方が
多かったらしく
ここが鎌倉時代の道であると言う確証がないという

鎌倉から深沢にでる道である

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やぐらがありました

1時半・・火の見下バス停にでたが、

鎌倉駅まで30分なので
セブンイレブンで買ったサンドイッチ
食べながらプラプラ


最近みんなのお気に入り
餃子の王将で
乾杯!!


















by gannyan1953 | 2018-10-31 15:05 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

崖山地蔵と榎下城址に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・8・18


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崖山地蔵



夏なのに涼しい・・・即お出かけ
気になっていた崖山地蔵と榎下城
近いじゃないかと行ってきた

中山駅おりたら


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杉山神社


横浜線に沿って歩く
山が見えてきた

きっと城跡だ

旧城寺をめざす

なぜか山のふもとは私有地
不法侵入してしまいそう



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旧城寺
舊城寺とあって最初ふんじょうじかと思った・・
舊は古い字だったんだ

久保山といい、新編武蔵風土記稿によると薬師堂のお薬師様は
行基作だという
この地は山田右京進の居城で
二重の空堀あり。
右京進の家老の石碑がありそれが慶長のころ。蘆垣
蘆垣という名で子孫が残っているらしい

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山門があるところから、もう城である
寺の墓の奥が本丸になる
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榎下城は
上杉憲清が築いたといわれる
その子憲直が1438年永享の乱で足利持氏に加担、
持氏は破れて金沢称名寺で自害
以降城主は不明という
小田原北条のとき小机城の出城といわれる

本丸はあるくことができないが
私有地なのだろうか

寺は慶長8年(1603)あたりに城跡につくられた

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寺へ行く道・・土塁になっている

ここから十日市場にむかうがそこから鎌倉道になる

旧鎌倉街道探索の旅 中道編 :芳賀善次郎
によると

北門地蔵があるという
ボクカドといい、牧門かという
ここに牧の支配者がここにいたのではないかと 

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東名高速をくぐって右に行くと左にこの道
鎌倉道らしい

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右が北門地蔵

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北門地蔵

さらにクモの巣を払いながら
進むと鎌倉道はあっけなく消えた

もどって

ヒーヒーいいたくなる坂が待っていた
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登って笑う
「泣坂」だと・・(名古屋弁)
そこから軽快にズンズン進む
一応鎌倉街道

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246を渡って右、横浜線の鉄橋が見える

単線から複線になったことがよくわかる

ここから長津田の歴史散歩は


を参考に


今回は鎌倉街道を歩く


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ここは大山道でもある
道は整備されている

再開発された長津田駅がみたくて
駅に寄ってみた
マルエツがすぐそばにあって
駅のしぶそばでランチ

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御野点所

ここから昭和天皇が皇太子だったころ
陸軍の演習をながめた
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長津田もマンション増えました
実はこの御野点所の真ん前も
でっかいマンションできた

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この奥に旧鎌倉街道ありという

前回は踏破していないので
ここから崖山地蔵に行けると勇気をだしてはいってみた
民家の横の道が鎌倉街道・・庭先?・・不法侵入した気分

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狭い

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墓ができるらしい

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少し広くなった

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あっ   出口だ

ここから道がわからない
あとで調べたら
本来北に向かわなければいけない
この道は西へ西へ
あげくカーブしてきた田園都市線にまたはばまれ

つくし野駅にむかっていた

しかたなくグーグルで 道を探す

電車の車両がよく見える
陸橋にたどりついた

とっても気持ちいい

山裾をカーブしながら
田園都市線がトコトコ走るのが見える

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東光寺踏切
東光寺跡は近いぞ

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成瀬クリーンセンターテニスコートなるものの
右に崖山地蔵あった


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東光寺村の義民原島源右衛門さんが処刑されたといわれる場所
名主だった源右衛門さんは享保元年に打ち首・家族も処刑されたという



ここは鎌倉街道の処刑場だったといわれる

暗かったのでくらやみ坂ともいわれた

以下 歴史と素適なおつきあい鶴見川流域の鉄と俘囚より


長津田・成瀬ー東光寺
東光寺がかつて存在した。
江戸時代東光寺と長津田との境界争いがあった。
境界と思われる場所に木炭を埋めた。
原嶋源右衛門が木炭が証拠であると幕府の役人に伝え、
境界は定められた。
その後木炭を埋めたのは最近であるとわかり境界を偽り詐称した罪で
源右衛門一家がこの地で処刑されたという。
崖山と呼ばれる所で崖山地蔵が供養に置かれている。
(鎌倉街道中道編より

中世このあたり東光寺村があり鎌倉街道、刑場があった。
家康が入国する村を分断し
そこに新たに幕府の役人井上主水が配属され境界のもめ事に発展、
土着していた源右衛門が処刑されたが、
当地では義民原嶋源右衛門といわれている。

恨み籠る場所として鎌倉街道を行く人に怖れられたが、
街道は大山街道にとってかわり、長津田に宿が移った。
鎌倉時代この道は畠山重忠が通った道である。

参考にどうぞ

念願だった鎌倉道
榎下城址
崖山地蔵
まわってみました

帰りは
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崖山を左に行くとこの道
辻で左すぐに右に行くと農道
つながってる
これぞ長津田にむかう鎌倉街道か
長津田まで一直線

長津田で休憩
マルエツのイートインはあったかいお茶まである
デザートと飲み物を買ったのに
飲み物が無料であった

しばしスマホでゲーム

落ち着いたら
家まで8キロ

歩いて帰った
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246号線から田奈の風景
昔義母の施設があって
よく車いすで散歩した
確かヤギがつながれていてビックリした

今年は義母とガンジー(犬)の十三回忌

今日は19キロ歩きました








by gannyan1953 | 2018-08-19 12:59 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

効率よく一日で歩く鎌倉十三仏めぐり 

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・6・30

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海蔵寺


6月最後の土曜日 暑いけど風があるので
スポーツウエアを着て鎌倉に出かけた

かなりの人出で行きの電車も満員 遅れ・・・

みんな明月院や長谷寺に向かうらしい

効率のいいまわり方

条件:御朱印なし

北鎌倉駅から

① 浄智寺  6番 
② 円応寺  5番 建長寺の向かえにあるのでさきにまわった方がいい
③ 海蔵寺  7番 円応寺から来た道戻って亀ヶ谷坂・・つきあたり右
④ 寿福寺  9番 
⑤ 浄光明寺 4番 鶴岡八幡宮を通り抜ける
⑥ 来迎寺 10番
⑦ 覚園寺 11番
⑧ 浄妙寺  2番 
⑨ 明王院  1番
⑩ 報国寺  8番
⑪ 本覚寺  3番
⑫ 虚空蔵堂12番
⑬ 極楽寺 13番

極楽寺駅
江ノ電で鎌倉駅にもどる

約17キロ
所要4時間半
休憩 30分2回

  
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小町通にあった・・寄ってみたいけど時間がない
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鶴岡八幡宮 ハス

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ベンチで人と一緒にハスを見る鳩

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報国寺は竹だけじゃなく入口の苔もきれい

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ほんとはこの下をとおる極楽寺坂を歩くのだが
この景色がみたくて・・・

ヨン様もきた成就院


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前回は遅くなりもう門が閉まっていた極楽寺










前回義理の姉の供養にでかけたものです










by gannyan1953 | 2018-06-30 22:48 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

ちょっとディープな鎌倉深沢散歩

中川歴史ウォーキング36        2018・2・17(土)

ちょっとディープな鎌倉深沢散歩


鎌倉街道が通り交通の要衝だったため戦場にもなった旧深沢村をめぐります
観光客が訪れることのない静かな里が続きます


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集合:9:45 「北鎌倉駅」ホーム後方
大船方面寄り改札口からでます
(トイレに行かれる方は前方に行き
線路を渡るとあります。
またホームにもどってください)

北鎌倉駅・・雲頂庵・・八雲神社・・光照寺・・稲荷神社・・神明神社
・・其中山房・・山崎天神・・泣塔・・大慶寺・・駒形神社
・・東光寺・・梶原屋敷・・御霊神社・・等覚寺・・湘南深沢駅(モノレール)


雲頂庵
北鎌倉駅のトンネルが通行不可になり、
ホームを大船方面に戻り改札を出る


北鎌倉からすぐの雲頂庵から山ノ内の里をみる


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拝観不可

雲頂庵は古くは大崎山長勝寺といったが鎌倉幕府滅亡、室町幕府と鎌倉公方の戦いで衰退し
文亀元年(1501)長尾忠景により再興、江戸時代円覚寺の塔頭となった。
本尊は木像宝冠のお釈迦様

八雲神社


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祭神は素戔嗚尊
山内上杉氏が文明年間(1469~1486)京都八坂神社から勧請した

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境内に清明石がある

清明とは陰陽師安倍晴明のことで
言い伝えによると
鎌倉に入った頼朝が住んだ家は
山ノ内にあった知家事兼道という人の館を
移築して住んだ(吾妻鏡 治承元年)
家には「清明朝臣鎮宅の符」があったため
200年間火災がなかったという

この清明石は十王堂橋(北鎌倉駅前の鎌倉街道)近くにあったらしいが
山ノ内には大火がなかったといわれる

もうひとつ清明石にはいわれがあります
訪問したときに明かしますのでお楽しみを


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なんと小径を進むと

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立派な庚申塔
鎌倉で最古の庚申塔といわれる


光照寺

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門にはクルスがある
昔キリシタンを受け入れていたらしい


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境内にあったキリシタン灯籠と思われる灯籠
90度傾けると
文字がlhqになる

調べるとイエズス会やエホバなどでてきて
「主よ」とか
「集会」という意味があるという
ホントかなあ・・・


台の里 稲荷神社


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幻想的でした

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地蔵堂があった場所

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台の里  神明神社



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元亀年間(1570年〜1573年)に創建されたといわれる。
疫病が流行した際に、村人4人が伊勢詣に出向いて賜った神札を祀ったのが起源とされている。
祭神は天照大神・須佐之男命など



山崎の里 其中山房(きちゅうさんぼう)

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北王路魯山人が孤独を楽しむために生活した場所である
骨董と自然を師に芸術生活を送った人である
昭和2年 ここに魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本
格的な作陶活動を開始する

イサムノグチと当時の妻山口淑子が一時期滞在した

話がそれるが
魯山人で思い出すのは京都の二条城の乳金具といって
形がおっぱいで門によくある金具である



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クサマンさんのフォト

母を慕って二条城の金具をさわったりしていたらしい
それからあちこち寺社でみられる乳金具が
おっぱい金具と思ってしまうようになった
固いおっぱいだ

母屋は昭和40年に笠間に春風萬里荘に移築
残った建物は平成10年管理人の放火そして自殺により今はない


‥‥僕がはじめてここに窯をつくった時には、北鎌倉の駅もなかったし、
もちろんバスもない、
電灯もなければ、薬屋、豆腐屋、なんでも不便。
田舎どころの騒ぎではない、
野と山とがあっただけだ。
近所に家がないから、煙が出ても文句を言う奴がない。
つまり景勝の地で、うるさくないというのでここを選んだのだ。
二十五年前のことである‥‥。
  昭和二十七年(一九五二)の『芸術新潮』十月号で北大路魯山人がこう語った。

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昔の姿

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藤沢から移築された魯山人邸 (黒田草臣ブログ)

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臥龍峡:(黒田草臣ブログ)
昭和3年に久邇宮邦彦殿下を慶雲閣に迎えるために手堀した切通し
戦前には電柱がなく、夜は真っ暗闇となった。(写真は『星岡』より転載)

棚田もあったが、現在は小学校






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マンション前にきれいに移されている







昌清院

残念ながら拝観不可だが、
荒れているといより
とても自然で拝観してみたかった

裏手には新田義貞の子 義興が一時隠れていた弁天様があるという

後醍醐天皇側だった義興はその後多摩川で戦い亡くなった

(中先代の乱)

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山崎天神






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州崎古戦場の碑

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新田義貞の鎌倉攻めで60回もの戦いの末鎌倉方が破れ、
90人以上が自殺したという



陣立の泣塔


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新田義貞に負けた州崎の戦いで亡くなった
武士たち北条軍の慰霊の五輪塔である
昔からオカルトスポットといわれており
移動すると泣く・・近所の人が貧乏になる・・
訪れると一週間以内に幽霊を見る
爆破しようとしたら事故が起きた
将門首塚と似ている

銘文は、深沢文和五年銘塔という名称である

“願主行浄」預造立」石塔婆」各々檀那」現世安穏」後生善処」
文和五年申丙」二月廿日」供養了”

と刻まれていて、
これは、“塔は、願主(塔を建てようと思った人)の行浄(人の名前)が、
各々檀那(塔を建てるのに力をかしてくれた人たちのこと)たちの
現生での安穏、後生(来世)での善処を願って
文和五年二月二十日に建てて供養した、という意味のもの

ハマレポより

文和元年とは1355年のことである
その寺は手広の青蓮寺のことだという
ここより江ノ島よりにある

「荒俣宏日本妖怪巡礼団」に詳しくある
(1989年刊行)

訪れた時はまだJR大船工場だった時である
元寇三年
両軍多数の死者が出て北条は数万騎で対抗したが
激戦のあとわずか三百騎が残っただけである

戦後20年ほどして地元民が戦死者を供養するために建てた
法印塔がこの泣塔である
巨大な岩山の中腹に、いま泣塔の一部が祀られ、
まさしく「やぐら」の不気味さを残している

だだっ広いJRの工場内に、そこだけこんもり山がある
たぶん泣塔はこの岩山にこしらえたやぐらとワンセットに
なっていたのだろう

「不気味ですわ いまでも北条の怨霊を感じます」と歩き巫女
泣塔は近所の噂によれば
このあたりに土地を持つと貧乏したり、不運がつきまとう
だから地主が年中変わる
そこで泣塔を青蓮寺という寺に移したところ、
毎晩夜泣きをはじめたので、
こわくなって元の場所へ戻したそうだ
昭和になると軍需工場ができ、塔と岩山を
爆破しようとしたところ、事故が発生し死者がでた
さらに岩山から奇怪な煙が発したという

戦後は旧国鉄の工場になったが、
塔を移転するたびに事故が起き
多数の死者がでた

そこで移転や爆破を断念し、毎年12月1日を
供養の日とし、今も礼拝をかかしていない

青蓮寺さんの話では
祟りを怖れた結果残され、文化財として
貴重なものになった

現在はスポーツ広場になっている
やたらカラスが多く泣塔を守っているように
みえる
私はヒチコックの「鳥」を思い出し
そちらの方が怖かった・・・

私は2度訪れたことがあるが、
幽霊は見ていない


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ウイキペディアより

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ウイキペディアより




大慶寺




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臨済宗円覚寺派の寺で北条時宗の子貞時(9代執権)の法要が行われた
そのとき出席した僧は83名と伝わる
五つの塔頭を持つ関東十刹に数えられ
大きな寺だった

新田義貞の鎌倉攻めで焼かれ
その後の戦乱でも被害を受け荒廃した

塔頭のひとつ方外庵が今の大慶寺となった

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駒形神社

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大庭景親(おおばかげちか)の所領地にあり景親により祀られたといわれる
本来馬を守る神であるが天候不順の折
大庭氏の代参の者がお参りに来たという

東光寺

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天照山薬王院東光寺といい、真言宗である
寺は大庭景親創建と伝わる
景親は頼朝挙兵の折は平家方の武将で
藤沢大庭に大庭城があった
頼朝の鎌倉入府後に滅ぼされた
寺は一時荒廃し
永享3年(1431)高野山の僧により
再建された

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御霊神社


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中学のあるあたりは梶原景時の屋敷跡である
歌舞伎「暫」で有名になった権五郎景正が祭神である





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梶原景時の父子墓

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正治2年(1200)一族郎党が、京都にむかう途中
静岡市の清見ヶ原にさしかかったとき
武士団に襲われ自害したと伝わる

非業の死をとげた景時の供養を
村人たちが行ったという

深沢小学校内にある



等覚寺



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真言宗の寺で新田義貞の鎌倉攻めで
亡くなった多くの人をここで供養したという











by gannyan1953 | 2017-08-17 23:16 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

まんだら堂やぐらから中世の城住吉城へ

中川歴史ウォーキング21      2016・3・19(土)

2016年3月20日にご案内します
参加ご希望の方は中川歴史ウォーキングでお申し込みください

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集合:鎌倉駅東口改札口  9:30 バス3番乗場「緑が丘入口」乗車
昼食:小坪 できれば「ゆうき食堂」他2軒あり

緑が丘入口・・まんだら堂やぐら群公開中・・小坪・・和賀江島・・正覚寺・住吉城址
・・昼食・・OP大崎公園・・披露山庭園住宅通過・・浪子不動・・(盧花記念公園)
・・六代の墓・・逗子駅
昼食後のコースは盧花記念公園までバス停がありません。
逗子駅まで歩く方、駅前に人気の魚屋さんがありますので
買い物される方はクーラーバッグの準備を・・・ない場合氷をつめてくれます。

まんだら堂やぐら

2m四方の横穴が150以上集まったやぐら群で、
その穴には多数の火葬した骨が納められた五輪塔が設置されており、
中世の集団墓地であった。
武士や僧侶、富裕な商人などが中心であったと考えられる。

平場では火葬跡があり、斬首された頭蓋骨も出土している。
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名越切通しがあり、みせしめの処刑場があったと思われる。
戦国末期には地名はまんだら堂と呼ばれており、
近くの法性寺が日蓮宗であることから、
日蓮宗の「法華曼荼羅」からついた地名ではないかと思われる。

名越切り通し

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法性寺

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法性寺の大切岸



小坪
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古東海道が通り交通の要所であった。
ここから三浦半島走水に出て、舟で房総半島に渡った。
狭い湾で坪のようだと由来にある。

和賀江島

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わが国最古の築港跡といわれる。
貞永元年(1232)執権北条泰時の時代、7月15日に工事がはじまり、
8月9日に工事が終了、非常に短期間で完成した。

僧の往阿が進言し、幕府の要人や多くの人の助けで作られた。
極楽寺が管理し関米を徴収した。
何度も高波などで崩落し修理されながら、唐船、宋船など来航したという。
江戸時代には鶴岡八幡宮の修繕の石材運搬や、小坪の漁船が係留された。
明治のころには水没していた。
干潮時に往時を偲ばせる半円状の跡が見え、
石柱は船の係留に使われたものである。

六角の井
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鎌倉十井の一つで、源為朝伝説が残る。
伊豆大島に流された為朝が光明寺の裏山天照山を狙って射った矢が
18里の距離を飛んでこの井戸に落ちたという。
保元の乱で後白河天皇と崇徳上皇の対立のとき、為朝は崇徳側についたが、
後白河の勝利で捕縛され肘を切られ伊豆大島に流された。
とても強く体も大きく、弓矢で為朝に勝てる者はいなかったという。

正覚寺

戦国時代はじめの住吉城址で、1243年に然阿良忠(ねんなりょうちゅう)上人が
光明寺を建てる前に、留まったといわれる浄土宗の寺である。
然阿良忠は、ここで荼毘にふされたといわれる。

住吉城跡
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住吉神社

北条早雲が築城したとき「故城」に作ったと「小田原記」にある。
すると北条早雲築城前に城があったことになる。
昭和55年逗子市教育委員会の調査で
北条泰時が名越切り通しを中心に要害を構築したとき、
この丘陵に大切岸(斜面を削って断崖とすること)を作り、
北条早雲が一時先端部を城郭としたがのちに放棄、
そのあと三浦道寸が再興した城である。
三浦道寸と弟道香が籠もり、北条早雲を迎えて戦った。
奮戦むなしく落城し、道寸は新井城に逃れ、
道香は逗子の延命寺で主従七騎とともに自刃した。

道寸は平安時代から続く三浦氏で、鎌倉時代に滅ぼされてから
その子孫が相模三浦氏となる。
その末裔にあたり平塚の岡崎城主だったが、
のち新井城で相模三浦氏は滅亡する。

そのとき海に流れた血が広がり油壺の名称になったという説がある。


住吉城は、しばらく場所も特定されず明治まで遺構を残していたが、
やっと昭和55年頃に調査された。
光明寺裏山から逗子にかけての丘陵全体が城の遺構だったが、
まわりはほとんど開発され海も埋め立てられた。

明治になり正覚寺東の高台平場が「げんじやと」とよばれ邸宅が建った。
本丸と思われる場所である。

玄関の扁額は西園寺公望の筆で大正天皇が葉山御用邸を利用する頃は
幣原喜重郎の別荘だった。時に大臣たちが集まり会議も行われたという。
住吉神社から「げんじやと」に通じる隧道はこの邸宅が建ったときに閉じられた。
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住吉神社右にある閉じられた隧道

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大崎公園

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眺望のよい公園で泉鏡花の文学碑がある。
陽だまりの彼女・流星の絆(どちらも嵐のメンバー)のロケ地である。

披露山公園
将軍への献上品を置く為の場所があったとか、披露したという話が残る。
憲政の神尾崎行雄の碑がある。

浪子不動
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白滝山高養寺・真言宗の寺。昭和28年(1953)に葉山の慶増院から
移築されたものだが、
高橋是清、犬養毅の援助により建てられたので
その名が残る寺名になっている。

古くから浪切不動として漁師から信仰されていたが、
徳富蘆花の小説「不如帰」のヒロイン浪子から
今では浪子不動と呼ばれるようになった。

海に碑があるが、盧花の死後兄の蘇峰の字で書かれ、
石碑の石は、江戸初期江戸城築城のための石材を
鍋島藩が運搬中沈没し、海に沈んでいた石を引き上げて
使われた。

盧花記念公園
この上に逗子郷土資料館がある。
大正元年に横浜の実業家の別邸として建築されたと伝えられ、
大正6年からは、徳川宗家第16代当主家達の別邸として使われた由緒がある。

六代御前の墓
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平維盛(これもり)の子で平清盛の曾孫である。
平家滅亡時、母と京都の菖蒲谷に隠れ
捕縛されたが、文覚上人の嘆願で助命された。
その後高雄の神護寺で僧となったが、頼朝の死後文覚上人が
反逆罪で佐渡に流されると六代は関東に連れてこられ
田越川のほとりで斬首された。六代の家来が墓守になった。

参考:神奈川県の歴史散歩
   逗子市教育委員会の「住吉城」

by gannyan1953 | 2016-01-06 23:06 | 鎌倉の歴史 | Comments(1)

鎌倉光明寺に精進料理をいただきに

歴史と素適なおつきあい         2015・11・13

集合:9:50 鎌倉駅東口 

バス7番のりばから逗子行き10時5分発乗車・・光明寺前バス停降車
・・和賀江島(11:35干潮)・・鎌倉十井 六角の井・・飯島崎
・・正覚寺住吉城跡・・(住吉神社)・・光明寺11時に受付・拝観・・
昼食11時半(4500円)

和賀江島
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和賀江島の碑


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少し干潮

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わが国最古の築港跡といわれる。貞永元年(1232)執権北条泰時の時代、7月15日に工事がはじまり、8月9日に工事が終了、非常に短期間で完成した。
僧の往阿が進言し、幕府の要人や多くの人の助けで作られた。極楽寺が管理し関米を徴収した。何度も高波などで崩落し修理されながら、唐船、宋船など来航したという。江戸時代には鶴岡八幡宮の修繕の石材運搬や、小坪の漁船が係留された。明治のころには水没していた。
干潮時に往時を偲ばせる半円状の跡が見え、石柱は船の係留に使われたものである。

六角の井
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残念なことにゴミが多い

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鎌倉十井の一つで、源為朝伝説が残る。伊豆大島に流された為朝が光明寺の裏山天照山を狙って射った矢が18里の距離を飛んでこの井戸に落ちたという。保元の乱で後白河天皇と崇徳上皇の対立のとき、為朝は崇徳側についたが、後白河の勝利で捕縛され肘を切られ伊豆大島に流された。とても強く体も大きく、弓矢で為朝に勝てる者はいなかったという。

飯島崎
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正覚寺


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夏は草に覆われ奥に進めない
秋に再挑戦


戦国時代はじめの住吉城址で、1243年に然阿良忠(ねんなりょうちゅう)上人が光明寺を建てる前に、留まったといわれる浄土宗の寺である。然阿良忠は、ここで荼毘にふされたといわれる。

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住吉城は北条早雲が築城してとき、「故城」に作ったと「小田原記」にある。
すると北条早雲の築城前に城があったことになる。
昭和55年逗子市教育委員会の調査で
北条泰時が名越切り通しを中心に要害を構築したとき、
この丘陵に大切岸(斜面を削って断崖とすること)を作ったと
推察した。
その後北条早雲が築城し、一時先端部を城郭としたがのちに放棄、
そして三浦道寸が再興した城である。
三浦道寸と弟道香が籠もり、北条早雲を迎えて戦った。
奮戦むなしく落城し、道寸は新井城に逃れ、道香は逗子の延命寺で主従七騎とともに自刃した。
道寸は平安時代から続く三浦氏で、鎌倉時代に滅ぼされてからその子孫が相模三浦氏となる。
その末裔にあたり平塚の岡崎城主だったが、
のち新井城で相模三浦氏は滅亡する。

そのとき海に流れた血が広がり油壺の名称になったという説がある。


住吉城は、しばらく場所も特定されず明治まで遺構を残していたが、
やっと昭和55年頃に調査され、鎌倉時代の築城とわかった。

光明寺裏山から逗子にかけての丘陵全体が城の遺構だったが、
まわりはほとんど開発され海も埋め立てられた。

明治になり正覚寺東の高台平場が「げんじやと」とよばれ邸宅が建った。
本丸と思われる場所である。
玄関の扁額は西園寺公望の筆で大正天皇が葉山御用邸を利用する頃は
幣原喜重郎の別荘だった。

時に大臣たちが集まり会議も行われたという。

住吉神社から「げんじやと」に通じる隧道はこの邸宅が建ったときに閉じられた。

住吉神社
正覚寺本堂の右側から登るか、正覚寺の左の道を登ってすぐにある細い通路
を行くと住吉神社がある。
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  隧道がある

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隧道を覗いてみた
どこまで行くとふさがれているのか見えないが
入るのは躊躇する


光明寺 天照山蓮華院光明寺 浄土宗

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山門





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大堂



寛元元年(1243)に然阿良忠上人により開基された。良忠は浄土宗3世で鎌倉幕府に帰依を受け、後土御門天皇から関東総本山の称号を与えられ国、国民のための祈願所となった。
徳川家康は関東十八壇林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となった。壇林とは徳川幕府が定めた学問所のことである。今でも引声念仏(歌うような念仏)が10月に行われている。大殿は元禄11年(1698)建立で100本柱といわれ鎌倉最大の九間堂である。本尊は阿弥陀如来三尊。山門は弘化4年(1847)に再建された鎌倉最大の門。以前の門は鶴岡八幡宮から移築した門だったといわれる。二階には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られる。山門に掲げられた額は永享8年(1436)後花園天皇の筆だが、現在は拝観できない。夏になると古代蓮を含め庭がとても美しい。
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光明寺では精進料理「蓮月御膳」4500円をいただいた。
少し煮びたしが甘かった
こんにゃくの刺身の白和えが美味しかった

食後に本堂と幼稚園の間の道から天照山に向かった
曇っていたが景色がよく道なりに下りてくると右側に内藤家墓所がある。


内藤家墓所
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延岡藩主内藤家の歴代墓所があり見応えのある墓所である。



参考:ひげの梶さん鎌倉を歩こう・逗子市住吉城60.4MB
光明寺HP・風雅庵の日々
by gannyan1953 | 2015-10-07 17:35 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

鎌倉十三仏めぐり

歴史と素適なおつきあい番外編        2014・10・19
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チベットの閻魔様(やま)

十三仏とは

仏教で十王をもとに作られた日本独自の信仰である。
人が亡くなると冥界の十三の仏様がその人を裁決する。
又、13回の追善供養をそれぞれ司る仏様である。
南北朝に成立し鎌倉では昭和58年(1983)に定められた。

残された人々が亡くなった人を供養する事によって
自分が亡くなったとき冥界の裁きから救済されるそうだ。
怖いからお参りしたくなる。
毎年行うことがよいとされる。

が・・・
私の家は浄土真宗なので冥界に行く事はない。
死去するともう仏様になれる宗教である。そのままで浄土に行けるのだ。
「ご冥福をお祈りいたします」も言わなくていい。冥界にいかないのだから。

浄土真宗の場合の遺族への言葉

「謹んで慶弔の意を表します」とか
「しばらくのお別れですが、長い間お世話になりありがとうございました」
(いつか自身も浄土に迎えられるのだから)
「御遺徳をしのび、哀悼の意を表します」などなど。いやァ 難しい!

閻魔様とは会わなくていい!

自分で選んだ宗教ではないが、なぜかホッとする。

といいながら、ウォーキングしてみた。寄り道含めて20キロくらいだと思う。
 
北鎌倉駅から歩いた順番で右往左往しながらのコースである。





浄智寺
六番 弥勒菩薩  9:40
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ここから海蔵寺に向かうのに葛原岡ハイキングコースから分かれていく
道をいこうとしたが、わからず葛原岡神社に到達してしまった。
 
葛原岡神社   10:00

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祭神:日野俊基
後醍醐天皇の側近で鎌倉末期の文章博士である。
鎌倉幕府に不満をもつ武将が多く後醍醐天皇を中心とした
倒幕計画を進めた。修験者に身をかえ勤王武士を集めるが、
密告により失敗する。(正中の変)

首謀者として鎌倉に送られ佐渡に流された。
再び失敗する。(元弘の変)
後醍醐天皇は隠岐に流され日野俊基はここ葛原が岡で処刑された。
(葛原岡神社由緒より)

浄智寺に戻り、亀ケ谷切り通しを通って海蔵寺へ
あとでわかったが建長寺の前に円応寺があった・・・・・

海蔵寺   10:55
七番 薬師如来
那須の殺生石の源翁禅師で知られる。
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寿福寺   11:10
四番 普賢菩薩

政子、実朝の墓がある。

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浄光明寺   11:25
九番 勢至菩薩

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鉄の井
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円応寺   12:10
五番 地蔵菩薩

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昼食 12:45 鎌倉宮の前にある定食屋さん
   豆腐ハンバーグ定食 730円
   ヘルシーで安くてよかった
   鎌倉夫人っていうお店かな?


覚園寺  13:15
十一番 阿閦如来(あしゅくにょらい)
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明王院  13:50
一番 不動明王
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浄妙寺  14:10
二番 釈迦如来
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報国寺  14:15
八番 観世音菩薩
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文覚上人屋敷跡

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釈迦堂切り通し
もう少し見られるかと思って立ち寄ったが随分手前で
立ち入り禁止になっていた。残念・・・・

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来迎寺    15:05
十番 阿弥陀如来
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本覚寺   15:30
三番 文殊菩薩
恵比寿様で有名
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ここから下馬に出て御霊神社へ
キョンキョンのドラマファンが多く
ロケ地を楽しんでいた。
権五郎の力餅をみやげに
煎餅を歩きながら食べた

虚空蔵堂 ・成就院  16:30
十三番 虚空蔵菩薩
  

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成就院に行く坂道を振り返らず黙々と登る
登ったところで振り返る 
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すごくいい景色

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成就院にあるパワースポットとして人気の縁結びのお不動様

極楽寺  16:40
十二番 大日如来
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閉まってました・・・・終了
柴犬朔太郎が待っているのでジョージア至福の微糖を飲んで
超レトロの極楽寺駅から江ノ電に乗って帰宅。



















by gannyan1953 | 2014-10-20 11:37 | 鎌倉の歴史 | Comments(1)

1192つくろう?!で覚えた鎌倉幕府成立から滅亡まで②

歴史と素適なおつきあい番外編           2014・9・

英勝寺・・寿福寺(政子・実朝の墓)・・正宗の屋敷稲荷・・巽神社・・小町通で自由昼食・・段葛・・鶴岡八幡宮・・畠山重忠屋敷跡・・
大蔵幕府跡・・白旗神社・・法華堂跡(頼朝の墓)・・宝戒寺・・土佐坊昌俊の屋敷跡・・東勝寺やぐら・・鎌倉駅


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亀谷山寿福寺 臨済宗建長寺派  (きこくさんじゅふくじ)
鎌倉五山の第3位。開基は北条政子、栄西。本尊は釈迦如来。

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寿福寺参道

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実朝の墓
やぐらの中には彩色された跡があるという

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政子の墓


義朝の邸跡で、頼朝はここに館を建てようとしたが、少々手狭でとりやめた。
仏殿は非公開だが、釈迦像、菩薩、実朝像、栄西像などある。
政子、実朝の墓の他、高浜虚子、大仏次郎、睦奥宗光らの墓がある。

北条政子
伊豆に流されていた頼朝と恋に落ち、頼朝が鎌倉幕府を開くと、御台所と呼ばれた。
頼朝が亡くなると尼になるが、幕政の実権はにぎっていたので今度は尼将軍と呼ばれた。
長男頼家が伊豆で幽閉殺害、次男実朝は鶴岡八幡で頼家の息子一幡に殺害、大姫は早くに亡くなり
頼朝の血脈は途絶えた。しかし政子は実家北条一門を繁栄させることはできた。
エピソード
夫の浮気を許さず相手の家に火をつけたこともある。
義経が奥州平泉に逃亡したとき静御前は捕縛され、鶴岡八幡で舞いを踊る。
頼朝は機嫌をそこなうが、政子が諌めている。
鎌倉で静御前は男子を産むが、すぐに引き離され男児は殺害されている。


正宗稲荷・焼刃稲荷
鎌倉の刀工正宗の屋敷稲荷と伝わる。
正応の頃、執権北条氏に招かれた刀工が各地より集まり、鎌倉鍛冶の基礎を築いた。
五郎入道正宗は相州鍛冶の祖となった。後に小田原北条に仕えその後徳川家御用鍛冶として栄えた。
現在も子孫が24代刀工として続いている。(正宗工芸美術製作所より)

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正宗の屋敷稲荷

巽神社 

寿福寺の巽(たつみ)の方角にあり、寿福寺の鎮守とされる。坂上田村麻呂によって葛原岡(くずはらおか)に勧請されたものを
八幡太郎義家の父源頼義がこの地に移したと伝わる。
源頼義は平安時代、前九年の役の陸奥鎮守府将軍である。


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巽神社

段葛  (だんかずら)
鶴岡八幡宮の参道である。
鎌倉幕府設立時、屋敷を作るため平地の少ない鎌倉の山を削り、平地を作る行程で山の保水力が減り
雨が降ると道がぬかるんだ。政子の安産祈願で御家人たちで石を積んだという。
八幡宮に近づくと、道がだんだん狭くなっていく。遠近法で軍事上道が長く見えるようにつくられている。
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段葛
 鶴岡八幡宮

明治までは寺であった。
源頼義が石清水八幡宮を材木座に勧請したのが始まりで頼朝がこの地にうつした。

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鳩サブレの名前の由来
豊島屋の久保田久次郎が鶴岡八幡宮を崇敬しており、
本宮の掲額の「八」が鳩の向き合わせであることと、
宮鳩が多数いるところから着想を得た

太鼓橋の左右に源平池がある。
右が源氏池で島が三つある。三は産で産むの意。
左は平家池で島は四つある。四は死で滅亡の意。
昔は源氏の白旗で白い蓮、平家は赤旗で赤い蓮だったという。

鎌倉幕府成立から滅亡まで

後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)は治承4年(1180)に平家追討の令旨(りょうじ)を出した。
諸国の源氏や諸寺社に届けられ、呼応した木曾義仲が挙兵し京都に登る。
が、義仲は朝廷とうまく折り合わず同じく挙兵した頼朝に滅ぼされる。
当時頼朝は伊豆に流されていたので、まず伊豆の目代(もくだい・国守の代理)山木兼隆を滅ぼした。
石橋山で平家に味方する在郷武士に完敗、千葉に逃亡するが、千葉氏、三浦氏の加勢で
鎌倉入りした。令旨から半年後のことである。
ここに鎌倉幕府が成立、武士政権が生まれた。
ここで「1192つくろう鎌倉幕府」の暗記言葉が生まれたわけだが、
鎌倉幕府は、1192年征夷代将軍に任官して始まったとされていた。
しかし頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、実質的な成立は
1192年より前の1185年とする説が、2006年頃からは優勢となっている。

治承4年(1180)に大蔵御所が置かれ、朝廷は頼朝に東国の荘園、年貢納入を保証し、東国支配権を与えた。
文治の勅許(1185)には、与えられた諸国の守護、地頭職の設置、任免を許可した。
そして(1192)に征夷大将軍に任官した。

といわけで「いいはこつくろう鎌倉幕府」に変わったという。

その後、3代将軍までは頼朝のの血をひいた将軍だったが、それからは摂関家の頼朝の遠縁からの幼児が迎えられた。
以降将軍は傀儡で、実際の政治は北条一族が執権として続いた。
元弘3年(1333)に北条高時のとき新田義貞軍に攻められ、ここに鎌倉幕府は崩壊した。


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若八幡遥拝所

若八幡とは元八幡のことで、康平6年(1063)に源義家が石清水八幡宮に前九年の役の戦勝祈願し、
勝利したそのお礼にユ由比の地に勧請した。
治承4年(1180)に頼朝が安房から鎌倉入りしたときに参拝している。
そして現在の鶴岡八幡宮の地に移した。ここがその遥拝所である。



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白旗神社

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畠山重忠屋敷跡

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大蔵幕府跡

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清泉小学校によるガイド

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白旗神社



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頼朝の墓
なぜか訪れたとき外国人が多かった。


北条義時法華堂跡

平成17年、頼朝の墓東隣に北条義時ののものといわれる法華堂が発掘された。政子の弟である。
頼朝が亡くなり御家人の政権争いに深く関わったとされる人物で父時政を追放し二代執権になった。
実朝を暗殺した公暁も操っていたのではないかと言われる。承久の乱を鎮圧した。
62歳で亡くなるが側室伊賀の局に毒殺されたという暗殺説もある。跡継ぎ争いだったという。
伝わる死因は酩酊し縁側から落下、頭を打って昏睡の末亡くなったという。

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大江広元の墓
大江広元
早く幕府成立のころから頼朝から文筆を認められ側近だった。頼朝の死後政権争いにくれる幕府の中
一貫して義時につき幕府を支えた。

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島津忠久の墓
島津忠久
鎌倉の御家人で薩摩島津氏の祖である。
頼朝の乳母の子であり、早くから頼朝に重用された。
重用されたために、頼朝の子という話もあるが、学会では認めていない。
重用された理由として
出身の惟宗家は近衛家に務めてきた家で近衛家に仕えながら頼朝の御家人であった。比企氏、畠山氏と関係し、儀礼に通じていたため
頼朝の信任を得ていたことがあげられる。



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北条義時法華堂跡



金龍山釈満院円頓 宝戒寺   天台宗
北条義時からの執権の屋敷跡といわれる。
鎌倉幕府最後の執権北条高時の慰霊のため後醍醐天皇が建立とあるが、
実際は後醍醐天皇による建武の新政の崩壊により、足利尊氏が開山したのではないかと
推定される。本尊は子育て地蔵である。萩寺といわれている。
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土佐坊昌俊屋敷跡

土佐坊昌俊 
興福寺の堂衆で、年貢の件で代官を襲い土肥実平に預けられ、のち御家人となる。
頼朝の命で義経暗殺を計り失敗、六条河原で梟首(きょうしゅ・さらし首)された。
金王丸と同一人物かどうかを金王神社の宮司さんに尋ねたら同一人物だと言われた。
金王丸については、当ブログ「渋谷荘を訪ねて」「閑静な渋谷の歴史散歩」参照


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青砥藤綱の碑

青砥藤綱
公正、硬直な人物といわれる。
エピソード
夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。
「採算が合わないのではないか」というと、
「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる
よって50文は自分の損になるが、松明を買ったお金は人の利益になる」と答えた。
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東勝寺跡
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腹切りやぐら

東勝寺
3代執権北条泰時が創建。
元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めで新田軍が迫ったことを知った14代執権北条高時は
一族郎党870名余りと立てこもり火をかけた。
腹切りやぐらで自刃したわけではない。
東勝寺はすぐに再興されたが、戦国時代には廃寺になった。

釈迦堂切り通しのそばを最近発掘した所多くの焼けた人骨と元弘3年銘の宝塔があったという。
由比ケ浜も多くの人骨が埋まっていた。
東勝寺跡から人骨がみつかっていないので、釈迦堂や由比ケ浜に
時宗僧により葬られたとも考えられる。
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腹切りやぐら
2014年11月22日に再度訪れたら
先日亡くなった高倉健さんの卒塔婆がずらり
健さんがいたので怖くなかった



by gannyan1953 | 2014-08-31 14:39 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

1192つくろう?!で覚えた鎌倉幕府成立から滅亡まで①

歴史と素適なおつきあい番外編             2014・9・24

北鎌倉駅集合
北鎌倉・・東慶寺・・亀ヶ谷切り通し・・薬王寺・・岩船地蔵堂・・扇の井(見学不能)・・阿仏尼の墓・・英勝寺



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東慶寺
  松岡山東慶総持禅寺
建立・弘安8年(1285)臨済宗円覚寺派
開山:覚山志道尼  開基:北条貞時

北条時宗の夫人覚山尼が開創、ここに駆け込めば夫婦別れができると
開山以来600年近く女性を守ってきた。
覚山尼は時宗の死後、実家の安達家が滅亡した(霜月騒動)。
寺を開創するときに、女性が夫と縁を切りたいときこの寺で3年間修行すれば
縁が切れるという寺法を作った。(これも家康が千姫と豊臣家の縁を切るために
寺法を作ったともいわれる。)

後醍醐天皇の皇女・用堂尼が入られてから「松岡御所」と呼ばれ
寺格の高い尼寺とされた。
用堂尼は兄の大塔宮護良親王の菩提を弔うためにこの寺に入った。
その後秀吉の孫千姫も夫の豊臣家との縁を切るため、もう一つの駆け込み寺である
群馬の満徳寺に入山するが、身代わり説もある。
そして本多忠刻(ただとき)に再嫁した。

大阪城から逃れる時秀頼が側室とのあいだに生まれた姫を千姫は擁護している。
そしてその姫は天秀尼となって東慶寺の20代目の住職になった。
8歳で寺に入り、豊臣家の縁を切るためと思われるが、
豊臣の血をひく天秀尼に対し徳川幕府の保護も厚かったという。
境内の奥にやぐらがあり、右に用堂尼の墓、柵を越えて右奥が覚山尼の墓、
大きな卵塔が天秀尼の墓である。




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亀ヶ谷切り通は右に入る
亀ヶ谷切り通
あまりの急坂に亀も音をあげることからつけられた。
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坂の途中にある六地蔵


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薬王寺手前にあった仏様

大乗山 薬王寺 日蓮宗 本尊は釈迦牟尼
寛永年間(1624〜1644)創建
2代将軍秀忠の次男忠長の供養塔がある。
忠長は、父の死後兄家光によって自刃に追い込まれた。
母親はお江様である。
忠長の妻は日蓮宗を信仰していたので、ここに建立したと言われる。
寺が販売しているパワーストーンのグッズはご利益があると言われている。

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境内

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忠長供養塔

 
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左にある階段を登ると観音堂がある
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観音堂の奥には、やぐらがある
永代供養墓らしい・・「久遠廟」という・・販売中
やぐらにあるお墓ってカッコいい

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久遠廟からの眺め

岩船地蔵堂
源頼朝の長女大姫の墓と伝わっている。
義仲と頼朝は従兄弟の関係だが過去に父親同士が敵対し、義仲の父は討取られた。
それで義仲は幼くして木曽に逃れていた。その後義仲は頼朝と悶着があり、義仲の長男義高は
鎌倉に人質として送られた。その義高と大姫は許嫁になり、仲が良かった。
ところが義仲が挙兵し、京都を治めるが、朝廷と折り合いが悪く、頼朝の命で義経に滅ぼされると
頼朝は義高殺害を決める。
大姫は義高を助けようとするが、無念にも義高は殺害された。享年12歳だった。
大姫はそれから10年以上鬱々と暮らし20歳で亡くなる。

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大姫の守り本尊

このお堂の床下にお地蔵様があり、その光背が船形だったことから岩船地蔵の名がついた。

相馬師常やぐら
鎌倉幕府設立のころの御家人である。奥州征伐など戦功を挙げている。


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阿仏尼の墓

阿仏尼は歌人・女御で「十六夜日記」(いざよいにっき)の作者である。
失恋を機に尼になるが、のちに還俗し、藤原定家の息子藤原為家の側室になる。
為家は正室の子を差し置いて、側室の阿仏尼の子に相続すると遺言を残したため、
その死後正室の子と相続争いが起こった。
所領よりも、和歌の名家の相続争いであった。その訴えを起こしに鎌倉にやってきた。
30年かけての判決は勝訴であったが、その前に阿仏尼は亡くなっている。
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東光山 英勝寺 浄土宗
寛永13年(1636)に英勝院によって開山。尼寺である。本尊は阿弥陀三尊。
英勝院は家康の側室でお勝といい、太田道灌4代目の娘である。この地は太田道灌邸の跡である。
英勝院は家康の子頼房の養母になり、頼房は初代水戸藩主となった。
その娘玉峯清因尼を門主に迎え開山した。そのため水戸御殿とも呼ばれた。
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関東大震災で壊れてしまった山門は篤志家によって山王ヶ谷に保存されていたが、
解体し、英勝寺に再建された。
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本堂
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阿弥陀像
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山門
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唐門

















































by gannyan1953 | 2014-08-31 10:16 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

鎌倉七福神めぐりに行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編          2014・1・29

鎌倉七福神

北鎌倉〜浄智寺〜鶴岡八幡宮〜宝戒寺〜妙隆寺〜本覚寺〜長谷寺〜御霊神社

11時北鎌倉ー16時半鎌倉 徒歩

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浄智寺ー布袋
おん まいたれや そわか
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鶴岡八幡宮ー弁財天
おん そらばていえい そわか
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宝戒寺の写真を撮ることを忘れてしまった
宝戒寺が管理している北条腹切りやぐら

今日は晴れてていいけど鎌倉を訪れ始めたころここに来た。
天気は曇りで、ドヨドヨしていた。
あまりの怖さにしばらく鎌倉にきたくなかった原因となった場所である。
今じゃすっかりオドロオドロしい場所に慣れてしまった
といいながら遠巻きにしか写真がとれなかった
よろしければ当ブログ「鎌倉の歴史」参照
オドロオドロしい鎌倉の闇が見える!

宝戒寺は「はぎ寺」といわれているが、今の時期すいせんの香りでいっぱい
宝戒寺ー毘沙門天
おん べいしら まんだや
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妙隆寺 寿老人
おん じゅろうそんてん そわか
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本覚寺ー恵比寿
おん いんだらや そわか
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長谷寺ー大黒天
おん まきゃらや そわか
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御霊神社ー福禄寿
おん ふくろくじゅそん そわか
面掛行列のお面のひとつに福禄寿がいる

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御霊神社から海岸伝いに鎌倉駅まで
犬の散歩が多い
早く帰って柴犬朔太郎の散歩をしてあげなくては・・・
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朔太郎

by gannyan1953 | 2014-01-30 13:06 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)



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