歴史と素適なおつきあい

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都筑区 中川の地名 港北ニュータウン

歴史と素適なおつきあい               2006・7・14
         
中川村の地名                               

地名にはそれぞれの歴史がある。特に明冶以降法令により人為的に定められるようになって地名の変化は激しくなった。

古代からの都筑の地形


工事現場のむきだしの高い崖をみると上から1メートルが黒土、次いで10メートルが赤土、
下部が砂礫層・泥岩となっている。

現在の地形は砂礫層、泥岩の骨格の上に黒土や赤土が肉付けされて形づくられている。

関東地方の基盤をなす泥岩は数十万年前に海底で形成された「三浦層群」である。

その上の貝を含む砂礫層が「下末吉層」で古東京湾が関東平野一帯に広がった下末吉海進期(12~13万年前)に堆積した。
ところが5、6万年前の武蔵野期に海は現在の海岸線付近まで退く。

最後の氷河期が始まり現在の台地の原形があらわれてくる。
その上に富士山火山灰、箱根火山灰が降り積もり(武蔵野ローム層)のちに多摩川、鶴見川によって切り刻まれた。

その後
氷期は頂点に達し、海の深さは100メートル以上しりぞいた。
古東京湾は陸化し、その中央を利根川、多摩川の水を集めた「古東京川」が流れていた。

したがって都筑のあたりは150~200メートルの山の上となった。
この間ずっと火山灰の堆積が続く。

1万数千年前には氷河時代が終わり火山活動もしだいにしずまり、現在の地形に近いものにできあがった。
気候が温暖になり海面が上昇、鶴見川の谷にも海水が入り込んできた。

縄文海進である。

およそ6千年前海は第三京浜道路付近まで広がり「古鶴見湾」が形成された。
それ以後数千年の間に土が谷を埋めつづけ、およそ千年前には川沿いの低地ができあがった。

今日では大規模な土木工事で丘も一部を残すのみとなった。    (坂本彰:鶴見川流域の考古学)

都筑郡の歴史と命名

大化改新で律令制下におかれた東国において、相模八郡と武蔵国南部の三郡が現在の神奈川県にあたる。

武蔵野国三郡は橘樹(たちばな)郡、久良(くらき)郡、都筑(つづき)郡であった。
万葉集には755年に筑紫に派遣される防人の一人として服部於田(はとりべのおた・うえだ・おゆ)の歌がある。
930年頃編纂された「和名(わみょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)」(平安時代に作られた辞書)を見ると都筑には「豆々岐」の読み方がついており「つつき」と呼ばれていたことがわかる。

和銅6(713)年に都から「諸国の郡郷名は好字(よきじ)で著せ」と命じられる。

これにより漢字2字での表記が定まり「つつき」の音から「都筑」「綴喜」が当てられたと考えられる。
都と筑の字は「都賀(つが)、都家(つげ)」「筑紫、筑後(ちくご)、筑摩(ちくま)、筑陽(つきよ)」など古代地名によく使われており、
都:天子が居住する場所、行政、聚(あつ)まる、大きい、盛ん、みやびやか、美しい
筑:琴に似た楽器、湖北省竹山県の筑水川

の意味がある。どの意味が適用されたかはわからないが、

*鶴見川支流にある地形から筑水川(多分長江のこと)に見立てた。湖北省(長江中流域にある)の竹山県の地図をみると鶴見川、早淵川流域の地図と似ている。

*産物である竹からの景観をなす竹林。
(この説については、古代に竹林があったのかわからない。孟宗竹ならば江戸時代に薩摩から分布したといわれているからである)

などが考えられる。                              

なぜ「つつき」と呼ばれたかは不明であるが、
「つき」は貢物・調、土器:杯、けやき・槻の意味がある。これに接頭語の「つ」と組み合わせたとも考えられる。                                            (横浜市歴史博物館「都筑の村々」)

「和名類聚抄」によると、郡内には交通の要所に駅(うまや)が置かれ、朝廷に良馬を提供する御牧(みまき)といった重要な施設が置かれた。
鎌倉時代1254年につくられた「古今著文集」に「武蔵国の住人つつきの平太経家は、高名な馬乗馬飼なりけり」とあるのは古代からの伝統が引き継がれていることがわかる。

江戸時代の都筑郡には41の村があった。
北の端が今の都筑区にあたり正保年間には13の村があった。
山田、牛久保、茅ヶ崎、大棚、勝田、荏田(一部)、東方、川向、大熊、池辺、佐江戸、川和村である。

今回は明冶に命名された中川村の地名について探ってみた。


中川村の誕生

県令第9号
各町村ノ内、内務大臣ノ認可ヲ得、明冶二十二年三月三十一日ヲ以テ別冊ノ通リ分合改称ス        
明冶二十二年三月十一日 神奈川県知事 沖 守固

都筑郡(抜粋)

中川村  (山田村・ 勝田村・ 牛久保村・大棚村・茅ヶ崎村 )     

ここに従来の五ヶ村が合併して中川村となり、中川の地名が生まれたのである。
そして旧五ヶ村名は中川村の大字として残った。

中川の由来

「大日本地名辞書」(明冶32)によると「山田、牛久保、勝田、大棚、茅ヶ崎など合わせ中川村と改む。
新羽、高田の西北に隣り、石川村より来る早淵川を貫き、吉田に至り、鶴見川に入る。
中川はこの渓名ならん。長三里」

とある。

この説は吉田博士の推測らしい。なぜかというと早淵川を中川と呼んだ記録はどこにもない。

明冶22年に村の中央を川が流れているので中川と命名されたものである。

昭和14年(1939)4月1日横浜市は港北区を新設して中川村を横浜市に編入、ここで字は町と変わる。

大字山田は東山田、北山田、南山田(すでに中区に山田が存在していたため一字を冠した。ヤマタと読む)に分かれ、大字大棚は上大棚が中川町に、下大棚は大棚町になった。

昭和37年(1962)「住居表示に関する法律」の施行に伴い何町何丁目何番何号と表示されるようになり大字、小字が消えていった。

古くからの自然地名は法令地名にかわっても会話に残り、バス停、橋名に残ったりしているものもある。

公称地名(土地台帳、戸籍簿)に残る地名もある。

地名はいつ誰が命名したかということはわからないが、東山田の「鎌田屋敷」や南山田の「掘ノ内」は平安末期あたりから、勝田の「鍛冶田」、中川の「鍛冶屋」は鎌倉・室町時代から、中川の「宿の入谷」は江戸時代の命名と思われる。


方言と当て字


地名は言葉、会話によって作られ文字は必要になってから使われた。

その結果言葉が先で文字が後となるため当て字が使われる。先に書いた「好字を当てよ」の命から、
地名の命名に大きな影響を与えた。

二字化のために、大、小、上、中、下などの接頭語、田、川、沼、島、野、井、原などの接尾語をつけたりした。

好字のために徳、久、吉、末、福、富、利、得、梅、柳など多く使われた。
発音から当て字を判断するが発音も時代によって変わる。

*ウトウ坂:オトウ坂ともいう。この地方ではウをオとよく発音するので打越はウッコシがオッコシ、古梅はコウメがコオメとなる。ウトは狭い峠道。

ウト、ウトー、ウド、ウドー:有道、有戸、宇登、宇頭、宇道、宇堂、宇土、宇戸,宇藤、宇簡舞、宇都、有東、凹道、鵜頭、鵜峠、鵜殿、鵜藤、洞、唄 などである。

ウトウ坂は有馬から江田に向い下る坂道だが最近建設された坂途中のマンション名がOTOSAKAになっていた。やはりオトウ坂といわれてきたのか。

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有馬にむかうウトウ坂
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江田宿にむかうウトウ坂


*古梅:梅の古木伝説があるが「埋め」で埋立地である。

大棚村の鵜目は早淵川の流れを南に移動させその跡を埋めた場所が鵜目であり、その裏側の小梅川でなく丘を崩してわずかな谷を埋めたので小埋、埋もれる意味はよくないので梅という好字をあてた。

*権太:人名でも田でもなく低い湿地帯のことをいう。

*牢場:籠はコム・ロウと読み崖地を伴う険しい地形、入り組んだ場所をいう。
牢場は老馬となる。
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老馬不動湧水







神無もコムであるがシンナシと当て字から読みを変えた。

丘陵地の地名

小高い場所を丘、台、小山などという。風土記にある「多摩郡にツツキタル地ナレハ小山カサナリテ連綿タル岡ナリ」は古き都筑郡の地形をよく表現している。

すみれが丘,あゆみが丘など新しく命名された場所は地形を表現したというより、美化した地名で希望がみえる。

傾斜した道を坂、切り立った岩肌、地肌を崖、周囲が高く中央が窪んだ場所を窪、久保という。麓は山、丘、台の裾で根、根岸などという。

麓に近く小高い場所をコシといい、人体の腰にあたる部分で腰の字を当てる。

腰から平地にかけて家を建てると生活がしやすい場所になる

。しかし生活のため住宅、寺社、墓地などは不毛の地を当て、日当たりのいい場所は農耕地とした。

集落と集落を往来するには崖や坂があり登りつめた場所は峠になる。

腰越、打越などで打越は武蔵国に多い。

ハザマ、ヤトは谷の湿地帯である。関東ではヤ、ヤト、ヤツ、サクという。中川ではヤトがほとんどである。

荏田の矢羽、大棚の矢崎は弓矢伝説があるが、川沿いの湿地帯にあるので谷の意味ではないかと思われる。


開墾地の地名


アラク  :荒久、阿良久    オコス:沖ノ谷、奥ノ谷

アラキ:新墾。荒木、荒城    シンボリ、ニイボリ:新墾、南堀(ミナンボリ)

コーヤ:荒野、紺屋、興谷、興野、高野、神野、高谷、幸谷、耕谷

サンヤ:山野、山谷、三家、三谷、三野、散野、散家

デミセ:出店(大棚村鈴木家の屋号)    ウケヂ :請地

開墾地からみて親村のことを本村、中村、本郷、中郷、内郷、中里、内野、本田

開墾地の子村は分村、枝村、脇村、出村、新郷、新堀、新田、出戸、出店といった。

人名からの地名

漆原:南山田の漆原氏で上野国群馬郡漆原村出身。漆原氏と漆原十二騎の名が伝わる。
漆の多い原野だったのだろう。

織茂:南山田の織茂氏で、上野国多胡郡長根村折茂出身と見られる。

朝見:浅見、浅海、阿左美、阿佐美、阿佐見、阿作見、朝見、朝美、芥生、阿射弥、
   田并美、莇

唐戸:武蔵国入間郡河越庄唐人(元川越市江戸町)とみられ秩父平氏の河越氏で畠山重忠とは同族である。

漆原氏、朝見氏、唐戸氏いずれも家紋が三柏である。

参考文献:中川の地名(吉野孝三郎著)
by gannyan1953 | 2011-05-06 12:18 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(2)

浅草神社~白髭神社

東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい番外編      2012・3・18

舟渡御

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平成24年(2012)3月18日14時すぎ
毎年5月に斎行される三社祭は元和元年(1312)に三社の神話をに基づき行われた「舟祭」が起源である。
平成24年は三社斎行700年にあたり、再現された。

江戸時代まで続いていたが、明治時代に途切れ、昭和33年11月に浅草寺本堂再建落慶に記念して復活された。それから54年後に5月22日のスカイツリー完成記念行事と相まって行われた。

53年前の経験者はもういなくなり、昭和33年の写真、江戸時代の屏風絵などの資料を参考に企画が進められた。

一つの舟に三社様の神輿が乗り、七福神や、金龍などがのせられた舟がいっしょに隅田川を行進した。






歴史と素敵なおつきあい 平成15年2月14日(金)

渡来人の足跡を訪ねてー浅草寺・白髭神社
集合日時  :  平成15年2月14日(金)  9:50
集合場所  :  浅草 雷門

浅草寺(浅草観音)

本尊は 聖観世音菩薩で、金竜山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)の歴史は古い。
寺伝では、飛鳥時代の推古天皇36年(628)檜前(ひのくま)浜成、竹成兄弟が隅田川で網にかかった1寸8分(約5センチ)の黄金の観音像を、土地の文化人であった土師真中知(はじのまつち)に鑑定してもらった。ありがたい観音であることがわかり、その頃すでに仏教の信者だった真中知は、お堂をたてて安置した。
大化元(645)年僧勝海が現在地に堂をたて夢のお告げにより本尊を秘仏にした。
天慶(てんぎょう)5(942)年安房国守平公雅(きんまさ)が再建、治承4(1180)年には、下総から鎌倉にむかう頼朝が参詣、寺領を寄進した。鶴岡八幡宮を造営する際、浅草の宮大工を招集している。(「吾妻鏡」)これが史料に浅草の地名がみえる最初である。
戦国時代には北条氏綱によって再建され、家康の時には、幕府の祈祷所となった。
寛永19(1642)年に焼失。関東大震災(1923年)、太平洋戦争(1945年)など数次の被災にもかかわらず、堂宇はそのつど再建され今にいたる。かつては天台宗に属し,東叡山寛永寺に所属していたが、現在では聖(しょう)観音宗をおこして子院24の総本山となった。

ご利益

観世音菩薩は祈る人のすべての願いを分け隔てなく聞き、苦しみを除きその願いを叶えられる菩薩といわれる。松下幸之助も病気快癒の願いが叶ったお礼にと雷門を寄進した。

檜前の馬牧

大宝元年(701)大宝律令で厩牧令がだされ、全国に国営の官牧が39箇所と、皇室に馬を供給するため32箇所の勅旨牧がつくられた。武蔵野国には、「檜前の馬牧」、「浮島の馬牧」、「神崎の馬牧」がおかれた。順に浅草、本所、牛込ではないかといわれる。

檜前氏

明日香村大字檜前は飛鳥時代、渡来人の居住地であった。
ヒノクマのクマは入り込んだ谷間、浦の意味で檜前の地形は低丘陵に囲まれた盆地状の小平地である。
明日香村の檜前には、於美阿志(おみあし)神社があり、百済系の阿智使主(あちのおみ)の居住地といわれる。
異伝では、於美阿志神社は磐橋(いわはし)神社ともいわれ、高市郡久米郷にあって、高市連、安知造らの祖、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祀るとされる。
阿智使主とその子都加使主の都加とは、馬韓北部から安羅(古朝鮮の伽耶地方)に移ったと推定されるが安羅の首長をツカという。そのツカが渡来したものであると思われる。 
天目一箇神は鍛冶神である。 川から引き上げた観音像は金属(砂金)のことでこの地では古くから、金属がとれていたという説もある。
檜前も鍛冶、鉱山関係の家系であるらしい。檜前氏は応神朝に渡来した阿智使主の末で、大和の飛鳥のヒノクマをはじめ、その遺跡が山城、遠江、武蔵、上総、上野、摂津、尾張、石見等に残っている。
武蔵造の族には笠原直、物部直、大伴直、刑部直、土師直、檜前舎人(ひのくまのとねり)らがあり、そのうち檜前舎人は宣化天皇の名代である。
武蔵国にあって、加美、那珂郡(埼玉県本庄市)に分布し、丹党と重なるので、秩父丹党はその末裔ではないかともいわれる。
宣化天皇は尾張氏出身で宣化天皇に仕えた可能性は高いと思われる。 
丹党は妙見信仰があり、妙見は、製鉄、鉱山にかかわる神である。                 
 (日本の神々―谷川健一、神奈備にようこそ)                                                                  

土師氏

南埼玉郡鷲宮町の鷲の宮(はにしのみや)神社は「土師(はにし)の宮」ともいわれ、崇神天皇の時代の創建という。河内国から東国へ移住してきた土師氏が先祖を祀ったもので、浅草寺を祀った土師氏の一族が、利根川や荒川を遡って埼玉郡に移住したと思われる。(坂東千年王国)

浅草寺の秘仏

何年に一回のご開帳すらない完全な秘密を維持している秘仏である。
勝海上人は、視力が衰え困っているところ、夢に本尊の観音像が現れ、本尊を直接みることを
戒めた。
以来、平成の今日まで秘仏にされつづけている。しかし、みた人たちがいたと伝えられる。
明治2年新政府の役人があらわれ秘仏をみたいという。僧達の抵抗、忠告も耳にはいらず、
扉の前に進んだ。
まもなくすさまじい音がし、僧達は床に額ずいていたため何が起こったのかは
わからなかった。
役人たちは、丁重な物腰に変わっており「大切にお守りなさい」といって立ち去った。
それから64年後1933(昭和8)年のこと、役人達のひとりの娘が浅草寺に現れ、扉を開けた途端すごい力で吹き飛ばされて、後悔したが役人たちはその後つぎつぎに亡くなったとのことを伝えた。
徳川吉宗も開いたらしいが、すぐ閉めたという。龍の姿をしていたといわれるが真偽は定かではない。                                (日本史の中のこわい話―三浦 竜)

雷門

浅草寺の総門。942(天慶5)年平公雅により創建。
何度も火災にあい1865(慶応元)年に焼失以来失われていたが、昭和35(1960)年松下幸之助の寄贈で大成建設が請負、鉄筋コンクリートの切妻造で再建。通称雷門で親しまれているが正式には風雷神門である。風神、雷神の二神像が左右に安置されている。門の右が風神、左が雷神。

浅草広小路

雷門前に東西に走る道で江戸時代に火除地としてつくられた


仲見世通

浅草寺の掃除役の代償として営業権が認められ、元禄・享保(17末~18初世紀)から、みられたらしい。

宝蔵門
慶安2(1649)年家光の建立した仁王門が太平洋戦争で焼失。昭和39(1964)年に再建され、寺宝を収納したところから名を改めた。

五重塔

慶安元(1648)年に建立。戦災で焼失後、昭和48(1973)年本堂東側から、西側の塔院に再建。

本堂(観音堂)

昭和33(1958)年再建され、内陣上段の間に秘仏の本尊「聖(しょう)観音菩薩」、下段の間に「御前立(おまえだち)本尊」が安置。外陣には江戸から明治にかけて奉納された谷文晁、高公谷、歌川国芳らの著名な絵師の描く10面の絵馬が掲げられている。

浅草迷子しらせ標

左に「たづぬる方」、右に「しらす方」とあり、張り紙によってしらせあった。迷い子、訪ね人探しに利用されたという。

浅草(あさくさ)神社

浅草寺本堂の東の神社。三社様の呼び名で親しまれている。観音像発見の功労者土師真中知、檜前浜成、竹成を祀ったことから三社という。のち東照権現を合祀したので三社権現ともいう。
社殿は3代将軍家光の建てた権現造りでその後の火災、震災、戦災を免れ江戸初期の華麗な姿をとどめている。本殿、拝殿、幣殿ともに国の重要文化財である。
この神社の祭礼は三社祭といわれ、日枝神社山王祭、神田明神神田祭とともに江戸三大祭のひとつ。現在では5月中旬の土曜・日曜に行なわれるがこのとき拝殿で行なわれる「びんざさら舞」は鎌倉時代からの芸能である。

びんざさら舞

五穀豊穣を願う舞で、笛や太鼓とともに木片を綴ったびんざさらを打ち鳴らし悪霊退散を願って
田楽を演ずる。田楽とは田植え行事を芸能化したもの。

二天門(国重要文化財)

もともと1618年に建てられた東照宮の随身門であったが、東照宮焼失後、そのまま残された。
2体の神像は寛永寺の厳有院(4代将軍家綱)霊廟の二天門の木造持国天・増長天を移した。

待乳山聖天
浅草寺の子院で正しくは待乳山本龍院(聖観音宗)という。本尊は歓喜天でヒンズー教の神であるが、仏教にとりいれられると病難、盗難の災いを除き、夫婦和合のご利益があると信仰されてきた。
境内の築地塀は江戸末期に作られたものである。
真土山ともいい、古くから隅田川の景勝地であった。

亦打山暮越えゆきて盧前の 角太河原に独りかも寝む(万葉集)
まつちやま くれこえゆきて いほさきの すみだかわらに ひとりかもねむ

あはれとは夕越えて行く人も見よ まつちの山に残すことの葉(元禄10年戸田茂睡)

聖天横町

聖天の西側がかつての聖天横町で遍照院裏店で葛飾北斎が90歳の生涯を終えている。
現在の浅草6~7丁目は浅草聖天町といわれ池波正太郎の誕生の地である。

言問橋
昭和3(1928)年の完成で「伊勢物語」にでてくる在原業平の和歌 「名にしおばいざ言問わん都鳥・・・」に由来する。

三囲神社(恵比寿・大黒天)

宇迦能魂命(うかのたまのみこと)を祀る。文和(ぶんな)年間(1352~56)三井寺の僧源慶が荒廃した社を改築しようとした時、土中から白狐にまたがった翁(稲の神)の像がでてきた。
そこに白い狐が現れ、その神像を3周して姿を消したことから、三囲神社と呼ばれるようになった。
俳人宝井其角の雨乞いの句、「ゆふだちや 田をみめぐりのの神ならば」とゆ た かの文字をいれたところ、雨がふり、田の中稲荷として江戸町人の信仰を集めた。

弘福寺(布袋尊)

牛頭山弘福禅寺という。黄檗宗の名刹。鉄牛和尚によって延宝2(1674)年に創建。
鉄牛は明の僧で、インゲン豆を伝えたといわれる宇治万福寺の隠元禅師の弟子である。諸国巡業中、小田原城主の稲葉美濃守正則の知遇を得、正則が老中になった時江戸に同行し、寺を興した。幕末勝海舟が参禅、明治の文豪森鴎外も好んだ。境内には咳の爺婆(じじばば)という咳止めのご利益があるといわれる石像がある。

長命寺(弁財天)

創建は不明。寛永年間(1624~44)の3代将軍家光が鷹狩の途中腹痛を起こし、この寺の井戸の水で薬を飲んだところ、たちまち痛みがおさまった。
喜んだ家光が宝寿山長命寺と名づけた。境内には50をこえる句碑、歌碑、塚などがある。
雪景色の名所。桜餅が名物。虚子の句に「桜餅くふてぬけけり長命寺」がある。
近くに名物の言問団子もある。

白髭神社(寿老人)

天暦5(951)年慈恵大師が関東に下った時、近江国志賀郡打下(うちおろし)の白髭大明神を勧請したものといわれ、近江の本社は比良明神と」称する。
祭神は猿田彦命である。白髭大明神は朝鮮からの渡来人の祀った神で、その分布から古代の渡来人のひろがりを知ることができる。
現在の社殿は元冶元(1864)年の造営。七福神の寿老人がぬけていたのでご神体の白髭明神を寿老人にみたて、七福神をそろえた。

向島百花園(福禄寿)

仙台出身の日本橋、骨董屋佐原鞠塢(さわらきくう)が、寺島のこの地に3000坪(9900㎡)の土地を購入、別荘とした。
交流のあった文人、墨客(蜀山人、亀田鵬斎、加藤千蔭、村田晴海、谷文晁、酒井抱一ら)とともに、三百数十本の梅ノ木を植えて造園にあたった。
その後も文人たちが思い思いの木を持ち込んだことから、大名屋敷や社寺の庭園にみられない野趣に富んだ庭園となった。
昭和13(1938)年東京都に寄贈され、東京大空襲で大きな被害をうけたが、昔の姿をとりもどしている。

多聞寺(毘沙門天)

南から参拝すると、最後は多聞寺で終わりとなる。天徳年間(957~61)年創建。
大鏡山明王院墨田寺という。本尊は不動明王、場所は隅田川神社のあたりにあった。
天正年間(1573~92)年現在地に移り、本尊は毘沙門天にかわり墨田山吉祥院多聞寺になった。
昔、同寺に住み着いて夜な夜な住職を悩ませた古狸を毘沙門天が退治した。
その狸を葬った塚があるので狸寺ともよぶ。山門は茅葺で、四脚門は江戸時代中期の建築といわれ、墨田区最古の木造建造物である。

江戸東京物語―新潮社
 東京都の歴史散歩―東京都歴史教育委員会)
by gannyan1953 | 2011-05-06 12:08 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

小野路~薬師池


東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい

小野路~薬師池

鶴川9:55発(バス)~中宿(徒歩)~小島資料館(当日休館)~小野神社~万松寺~(小野路城址)・(小町井戸)~一里塚~(野津田公園:村野常右衛門家移築)~華厳院~野津田社~町田ぼたん園:北村透谷碑・石阪昌孝家跡(昼食)~自由民権資料館~薬師池公園:はす田・薬師堂(バス)~町田
小野路とは、相模国の国府がおかれた場所が小野の里、武蔵国の府中には小野の宮があり、この二つの小野を結ぶ途中の道を小野路とよぶ。


小島資料館 

毎月第1,3日曜開館。

新選組関係資料、自由民権資料、近世、近代文書など所蔵。
小島家は、和歌、狂歌、漢詩など親しみ文化人を輩出した。これら二十余代にわたる古文書,古書画、古器物を公開している。

小島家は、小野路寄場名主で、応永2(1395)年 室町時代に備後より来住、土着した。庭内には近藤勇の銅像と上野寛永寺にあった石灯籠があり上野戦争の弾痕跡がみえる。

*幕末の小島家と新選組

関東取締役の見張番屋をもち司法の末端を担い、捕り方道具や鉄砲まで所持していた。
幕末には20代目鹿之助が代官所の要請により小野路農兵隊を組織し、小島家所有の山林の一部を整備、屯所を建築し小野路の若者を集めて訓練した。
天然理心流の試衛館から出稽古にきていた関係で新選組とも親しく、資金面での援助など新選組に大きな役割を果たしている。
道場には近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬介らが訪れている。
日野宿の土方歳三の義兄佐藤彦五郎とも親しく、甲陽鎮撫隊に加わった佐藤彦五郎率いる日野農兵隊が甲州街道を進み、小野路農兵隊も参加しようとしたが八王子鑓水(やりみず)で甲陽鎮撫隊敗走の報を聞き、撤退した。

*明冶の小島家と民権

鹿之助は野津田の石阪昌孝と義兄弟となり民権運動を支援した。

その民権運動は薩長土中心の明治政府に対し、理論という武器で挑んだ民衆闘争であり、多摩の人々にとっては戊辰戦争の延長戦に位置する。


小野神社 祭神 小野篁  天禄年間(972年ころ)建立


小野篁(おののたかむら)は平安時代(802~52)の漢学者で、孫が小野道風。天禄年間、武蔵の国司として赴任した小野孝泰による建立という。
小野篁は承和元年(834)遣唐副使に任ぜられたが大使藤原常継と対立、乗船しなかったため嵯峨上皇の怒りにふれ隠岐に配流された。
隠岐では長者の娘阿古那との悲恋も伝えられる。閻魔庁に仕え冥界往還の伝説もある。

時をしらせる鐘が応永10(1403)年に造られたが文明年間(1469~1487)山内上杉と扇谷上杉が戦い、その時山内上杉が陣鐘として持ち去られた。
伝承では再度永承13年北条早雲の三崎新井城攻撃の時にも陣鐘として使われたという。
江戸になって代官長谷川長綱の手にわたり逗子海宝院を創建した際、寄進された。



万松寺  臨済宗建長寺派


小野郷学舎が造られ、大蔵の中溝昌弘、小野路の小島韶斉(しょうさい):鹿之助などが師匠に迎えられた。昭和20年5月29日の空襲で消失、弾痕が土蔵に残る。



*中溝昌弘
布田の医家に生まれ昌平坂学問所で学んだ。



小野路城址 

大泉寺に居城を構えた小山田有重の築城。その子二郎重義が守護にあたった。
築城は承安年間(1171~1174)である。
小山田氏は秩父平氏の一族で頼朝上洛の際三男三郎重成らを京に派遣、鎌倉幕府開府にあたり尽力した。

頼朝死後北条時政のそしりをうけ実朝に長男稲毛重義、その子重政、弟四郎重朝が誅される。
勢力を落としたが、元弘3(1333)年、末裔小山田太郎高家は新田義貞挙兵に加わり北条泰家を追って鎌倉に攻め入った。
建武の中興である。
小山田高家は勢力拡大をもくろむが新田と足利の争いになり、湊川の戦いで新田義貞を救い討ち死してしまう。

その後小山田氏は文明9(1477)年長尾景春勢に攻められ滅亡する。
その後甲斐国に逃れ武田氏に仕える。小山田信茂は滝山城攻略に参加しているが、
織田信長が武田勝頼を攻めたとき,
反旗を翻し勝頼自害に追い込む。主家を裏切ったことを信長に嫌がられ、捕縛されたのち斬首された。


小野路城は武蔵の国境の要衝として扇谷・山内両上杉の拠点として改修された。
本丸を含む二つの郭と土塁、空堀が残る。



小町井戸

小山田氏の飲料水として使われた。小野小町(小野篁の孫ともいわれている)が病を患い千日この水を飲み、目を洗ったら治ったというで伝説がある。



日限り地蔵

日を限って願い事をすると叶えてくれるお地蔵様といわれる


小島家墓


一里塚

旧大山街道で、次の一里塚は木曾町にある。元和2(1616)年75才で亡くなった徳川家康の遺体を久能山から日光に移すため駿河から箱根、小田原、厚木、座間、木曾村、向坂に至り、荷駄の車輪の軸が折れた。

小島家資料によると乞田村から鍛冶屋をよび修理したという。この件で村々は助郷を免除されたという。(木曾村石川家文書)



野津田公園

村野常右衛門生家が移築されている。大正13年に屋根を茅葺きだったのを当時としては珍しい鉄板葺きに改修している。当時の政治家としての村野の活躍ぶりがみられる。



河合家

戦国時代に小代官河合越中守で、古文書を多く残す。名主「野津田年代記」「堰普請」など多数ある。「権兵衛の生涯」は昭和55年町田在住の薄井清氏が本にした。

*権兵衛の生涯

野津田村、百姓代の次男で、生類憐れみの令廃止後八代将軍吉宗が鷹場復活。
権兵衛を駒場に移し「綱差」という役を与えた。
村人は鷹の餌を探す仕事が増え不満であった。兄甚兵衛は村人の苦しみを気にやみ、首をくくって死んでしまった。
村人たちは「百姓が役人になった権兵衛を殺すには祟りが怖い。
自分で死んでくれ」と権兵衛に縄を投げ出した。

♪ 権兵衛が種まきゃ カラスがほじくる ♪ ズンベラ ズンベラ 
♪ 三度に一度は 追わずば なるまい  ♪ ズンベラ ズンベラ 



この歌は熊野古道の権兵衛さんで有名である。
熊野の権兵衛さんと江戸の目黒の権兵衛さんとは20年の開きがあり、
江戸の権兵衛さんが先の話で流行歌として熊野に伝わり、熊野の権兵衛さんがいた三重県海山町で歌いつがれてきたらしい。
江戸の権兵衛さんは、駒場の権兵衛と目黒の川井家の権兵衛と違いがある?!


江戸の権兵衛さんの話

1716年ころ吉宗の命で鷹狩りが再開。目黒の川井家は代々烏見役:鷹の世話係であったが、生類憐れみの令で36年廃業し烏見役の後継ぎがいなかった。
そこで鷹の世話ができる権兵衛を養子にむかえ狩場をはじめた。
鳥をよせつけるため畑に種をまきカラスにつつかれないよう見張り番をした。
その様子を歌ったものといわれる。権兵衛のおかげで鳥も集まりよい鷹場になった。


熊野の権兵衛さんの話

1736年ごろ武士だった父がなくなり父の願いで百姓になった権兵衛さん。

へっぴりごしで慣れない鍬をもつ姿、種を播いてもカラスにほじくられる滑稽さを村人たちが笑った。
が、一生懸命畑仕事に精をこめた権兵衛は村一番の百姓になる。
猟の腕前も上達し、殿様からもお褒めの言葉をもらう。
褒美は、1年間の村人たちの年貢を免除してもらうことを願いでる。
馬越峠に大蛇がでるので退治にむかうが、お守りのズンべラ石を蛇の眉間に投げ退治したものの、毒を被り死んでしまう。
村人達は悲しんだ。
熊野でズンベラはつるつるしたという意味がある。「ズンベラ」は梵語では「ジンバラ」といい光明の意味がある。
お守りにしたことから丸くつるつるで霊力があったのかもしれない。
尾鷲の近く海山(みやま)町には権兵衛の里資料館がありズンベラ石が展示されている。


華厳院

村野常右衛門の墓がある。最初に小野郷学舎がおかれた場所である。


自由民権資料館・凌霜館跡

板垣退助が起こした自由民権運動は、石阪昌孝、村野常右衛門らによってこの多摩の地でさかんに運動が広められた。
この地は野津田の民権家、村野常右衛門の所有地で明冶16年「凌霜館」を建てた。
その後村野家が寄贈し資料館が建てられた。
資料館の展示をみると八王子千人同心~幕末の農兵隊~新選組~民権運動~多摩壮士の繋がりを感じる。

*村野常右衛門 安政6(1859)~昭和2(1927)年

石阪昌孝の片腕として活動した民権家である。28歳の時大阪事件の関与で自首している。
中堅的な活動家として県会議員、衆議院議員、大正3(1914)には立憲政友会の幹事長となる。

 
野津田社

享保2(1717)年、五明神社といわれ明冶22(1890)年、御霊神社になり
明冶42(1909)年、野津田社となる。祭神はイザナギ、イザナミ、アマテラス、ヤマトタケル、クニトコタチ、アマツコヤネ。春日社(上の原)、幸山社(本村)、伊勢社(並木)、御嶽社(川嶋)を合祀。


北村透谷碑(町田ボタン園)開花期以外は入場無料


透谷は明冶元年(1868)小田原の没落士族に生まれ転居により、数寄屋橋近くの泰明小学校に通う。
透谷の名はスキヤからとったものである。

ロマン主義詩人としての透谷は多摩の地で生まれたともいえる。

15才の透谷は八王子(上川口村)にある近在の政治青年が出入りしていた秋山国三郎の家を訪れていた。

国三郎は若い頃天然理心流に入門免許皆伝し、俳句、義太夫そして放浪の旅にも出ていた。
透谷が訪れたころの多摩は自由民権運動に翳りがさし、困民党騒動が起こっていた。
後に国三郎は困民党壊滅後の後始末に奔走する。

国三郎の家に起居したのは友人である大矢正夫がいたからである。
透谷は15才、国三郎は50代であるが透谷は国三郎に惹かれていく。
石阪昌孝の子公歴や大矢らと親交を深め民権運動にも参加していった。
大矢は八王子の教員で熱烈な自由民権論者であった。
後に大阪事件に関与、強盗までした男である。強盗に誘われ透谷は過激な民権運動に失望し、頭を剃り大矢と決別することになる。

政治活動から脱落した透谷は、公歴と諸国回遊をしたころから石阪家に出入りし公歴の姉美那と出会い、紆余曲折の末キリスト教式で結婚、洗礼もうけていた。
石阪の民権運動の懇親会では、徳富蘇峰や足尾銅山事件の田中正造とも同席している。
政治活動からの脱落、現実行動の喪失は文学活動において自己の内面を発見させた。
農民、貧民、強国の名のために切り捨てられていく民衆をみつめ反戦運動もした。

政治家に配った弾劾文には

「賎を苦しむる封建的圧政の力行われ悲しいかな。愚昧なる小権力者相争うて(略)無力なる助けなく友なき多数の貧民の難やめんとしつつある(略)彼等相奪ふ者は何ぞや、是等貧民を圧抑せんと欲する欲権ならぬか(略)請ふ、汝が政治家の仮面を取り去れ、請ふ、汝が愛国者の衣を脱げ、彼等上下を衣ざれども依然として門閥の毒勢を逞しうして良民を残害す。」 明冶24,5年のものである。

農村では小作と地主が対立、各地で騒動が起き、期待された自由党は貧民の期待にはこたえていない。
透谷は明冶27(1894)年妻子を残し、別居中の芝の自宅で縊死した。
透谷の文学者、思想者として支えたのは民権伸張の思想であった。
痛ましい結末は国権に圧殺された民権の死ともいえた。


石阪昌孝家跡

町田市を代表する民権家。透谷の義父。

*石阪昌孝


幕末は小島家で天然理心流に入門、小野路農兵隊に加わり甲陽鎮撫隊にも参加しようとした。
小島家に出入りしていた真下(元神奈川奉行)の開いた「融貫塾」で新しい時代の動きを学ぶ。
明冶6(1873)年早くも地方議会の開催を上申している。 
6年後県議会の議長就任。自由民権を啓蒙する演説会、懇親会に出席し、多摩地方に急速に団結の気運が高まった。明冶14(1881)年自由党に入党。

石阪は実生活に根をおろした運動を目指した。東京生糸商会を設立、外国資本に対する商権回復を計ろうとしている。
困民党騒動の時は嘆願運動に乗り出している。
しかし嘆願という温和な行動は、士族や石阪ら豪農たちの民権とは連携されず、農民が組織した困民党は自力で対決、壊滅するしかなかった。

大阪事件でも関与の取り調べをうけている。
明冶23(1890)年第一回衆議院議員選挙以来数回当選、群馬県知事となるが半年で罷免、その後1年待つことなく亡くなる。

「井戸塀政治家」といわれるが、言葉どおり財産も使い果たし小島家には石阪の借金証文が残っている。
石阪昌孝の子、公歴(まさつぐ)は大阪事件のあと米国に渡った。
実家の建て直しのため実業の勉強が目的であった。
が、在米日本人愛国同盟会の主要メンバーとなり機関紙を発行、日本政府批判をした。日米戦争がはじまると日系収容所に入れられ敗戦の1年前に亡くなった。

公歴の姉、美那は透谷の死後米国に渡った。



七国山

鎌倉街道の難所であった標高120メートルの峠である。
峠には井戸があり、鎌倉井戸といわれた。
今は枯れている。かつて周囲は沼地でその名残が薬師池である。
近くに井出ノ沢古戦場があり、「中先代の乱」建武2(1335)年、北条高時の子時行が鎌倉を占拠した。
井出ノ沢で足利直義を敗走させ鎌倉では護良親王が殺された戦いである。ここは鎌倉の最前線であった。



はす田

大賀ハスは、1951年千葉県検見川遺跡で発見された、2000年以上前のハスの実から発芽させたものである。発掘した大賀一郎博士の名をとった。
7月下旬から8月が見ごろである。
 

薬師堂


もとは華厳院の建物だったといわれる。本尊は平安時代の行基菩薩の伝承をもつ。この場所の前は暖沢(ぬくさわ)にあったが新田義貞の鎌倉攻めのさい焼失、薬師如来は焼失を免れここに納められたという。



多摩の民権

天子様の世になれば暮らしが楽になると思った農民達に、明治政府は徴兵制、地租改正を行なった。

納税額で免除される徴兵は貧しい農民からは逃れられないものであった。
地租改正とは徳川の時代に米で年貢を納めてきたものを、土地の所有者から現金で納めるようになることをいう。
米のかわりに現金で、土地の広さ、価値から地価を税額にした。
土地の私有化は農民にとって驚異的な「開化」だったはずである。
が、実は政府の真のねらいは豊作凶作に作用されず安定した地租を確保できることであった。

商人、職人、役人からは地租をとらないので余計に農民は重税にあえぐ。
不作で払えなければ高利の金も借金して払わなければいけない。
徳川の時代に比べ維新後は生活が苦しくなってしまった。
そこで地租改正反対一揆が各地で起こった。

多摩では秣場(まぐさば)事件があった。
里山など誰の所有かはっきりしないもの、みんなが山に入り薪を拾ったりできる公共と思われた土地の所有権を巡る争いだった。

 関東平野をとりまく丹沢山地、関東山地、秩父山地、八溝山地の連なりがある。
平野とこの山にはさまれた丘陵、すそ野が開港以来花形輸出品となった生糸産地である。
絹の産地はほとんどが山間のやせ地で、畑作収入も乏しかったが桑は良く育った。
横浜開港はこうした農家に現金収入をもたらした。


後に「絹の道」といわれる神奈川往還もできた。
明冶9年には多摩の農業生産のうち40%が生糸、マユであった。養蚕事業は農耕作業と違いまとまった運転資金を必要とする。
好況の波にのって事業拡大する農家も多かった。

そこへ松方正義のデフレ政策により農産物の価格は下落、借金は雪ダルマ式にふくれあがった。
土地の私有化により農民のものとなった土地は担保として取り上げられていく。
小作に転落し地主の農奴になる者、流民もあふれた。
儲かったのは林立した銀行、金融業者であった。

この負債支払い延期願いを要望したのが困民党事件である。

明冶17年 加波山事件(自由党員による専制政治打倒の挙兵事件) 
そして秩父事件(秩父困民党による負債延期、減税を請願した武装蜂起)は、
はじめての軍隊出動で鎮圧された。

明冶18年 武相困民党が横浜に向け請願行動を決行、瀬谷付近で警官隊に阻止される。
壊滅後困民党のことは村々では恥ずべきこととされ、家族達も口をつぐみ、
孫の代になっても知ることがなかったが、関連文書などが発見され今では随分研究されてきた。

幹部の一人須長蓮造は行商人となり諸国を流浪、故郷近くの野原で倒れて死んだ
須長の倒れた原を見おろす丘の上に透谷の碑「三日幻境の碑」が建てられた。

大阪事件とは明冶17年12月に朝鮮での政変をきっかけに
朝鮮の旧守派に対し開化派を支援し民権化しようとした。

国民は政変時の清国介入から清国開戦を主張した。
旧自由党員の多摩壮士たちはこの主張に便乗し、国内改革をして政府打倒をねらった。

透谷の友人大矢が強盗に誘ったのもこの事件の資金作りのためであった。

ところが幹部の裏切りにより未遂に終わり、多摩の民権家たちの逮捕に及ぶ。

大阪事件のあと政府は対外強硬論をあおり、日清戦争へと突っ走っていく。

自由党は伊藤博文内閣に近づき「民党は海軍の敵にあらず」
「政府といえども助くるべきは助く」と富国強兵を推進するようになった。



参考文献: 鶴見川沿い歴史散歩(金子勤)・多摩の百年(朝日新聞)
参考HP: 町田市・海山町・自由民権資料館・板東千年王国・秩父事件・みえ東紀州の民話・鶴巻孝雄研究室
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:49 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

江戸を守護する二大他界ゾーン・千住編


歴史と素適なおつきあい  2006 2・10(金)


江戸を守護する二大他界ゾーン 千住編 

 2015年12月12日 中川歴史ウォーキング開催 終了しました
お天気よく槍かけだんこのお店は新しく立て直されており
荒川の土手で小菅拘置所を見ながら終了


日比谷線「三ノ輪」駅 3番出口9:50集合  2006・2・10(金)
                           

三ノ輪駅・進行方向の出口~永久寺~浄閑寺~回向院~小塚原刑場跡~円通寺~荒川ふるさと文化館~スサノオ神社(天王社)~誓願寺~千住大橋~橋戸稲荷~奥の細道矢立初の碑~やっちゃ場~勝専寺~吉田家~横山家~かどや槍かけだんご~名倉医院~橘井堂跡~金蔵寺~北千住駅

江戸を守護する2大他界ゾーン 地図

江戸を守護する二大他界ゾーンとは?

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江戸は平安京のように「四神相応」という古代中国の陰陽道に基づく呪的理
念によってつくられたという。
風水思想にとっては理想の地であった。
その地に築いた徳川王権を武力だけでなく宗教的に守る空間の存在があった。

内藤正敏氏(写真家・民俗学者)によるとそれを「徳川王権を守護する二大他
界ゾーン」という。

江戸城からみる鬼門の寛永寺、裏鬼門の増上寺を聖とする。
江戸内部の穢れを清め外側からの穢れの侵入を防ぐ場所、それが他界に通じる
空間となる。
家康は奥州街道一の宿千住と、東海道の六郷川(多摩川)に橋をかけた。

二つの街道が江戸城を中心につながり、江戸の境界におかれた二つの
場所が穢れを清める浄化装置の配置とみるのである。

内藤氏は江戸城を真ん中に北と南にそれぞれのびる奥州街道と東海道を同一線上に配置すると、二つの街道が隅田川と多摩川にぶつかる手前の土地である浅草から千住と品川から大井にかけての両側に共通した要素があるという。

その要素とは、密集する寺社群、処刑場、遊里、被差別部落などの存在である。

江戸の南北の両端を結界とする他界ゾーンの役割は、

江戸の中心から離れた境界に死(刑場)・性(遊里)・賤(被差別部落)を配置し、
と同時に外からくるものには,死(刑場)・聖(寺社)をもって畏怖させ性(遊里)で懐柔した。
浅草・千住と品川は江戸の中心を守るための緩衝地帯だったという。





永久寺
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目黄不動といわれている。
一説に江戸の市街地を囲むように「五色不動」が配置されていたという。
①目黒は目黒区の滝泉寺(りゅうせんじ)、
②目白は豊島区の金乗院、
③目赤は文京区の南谷寺、
④目青は世田谷区の教学院、
⑤目黄はもうひとつの候補地である江戸川区の最勝寺とここ永久寺のふたつである。

家光や天海が江戸鎮護のため設置されたというのが通説である。

しかし五不動が存在したかどうかわからない。
五不動説、三不動説(目青と目黄がない)目黄はどちらが本当なのか、陰陽道から、密教からと諸説がたくさんある。

目黒は家光と関係をもち徳川家菩提寺の寛永寺の支配下に置かれる。
目赤は羽黒山の流派からはじまり寛永寺の末寺になって南谷寺となった。
最初に直接幕府が関与したのは目黒だけだったと思われる。

この三不動は幕府直轄の寺の下部組織に組み込まれ、不動尊の霊験と、物見遊山という形で庶民の心に安らぎを与えることとなった。

風景もよく、後期には富籤興業もあった。民衆の安寧と考えれば鎮護の役目を果たしているといえるのかもしれない。
本堂前に鎌倉時代末期の嘉暦3(1328)銘と戦国時代初めの享禄2(1529)銘の板碑がある。

罪人の試し斬りの供養に建てられた永久寺

山野永久が江戸初期に罪人の試し斬りをした。約6000人だったという。
殺された罪人たちの供養のためこの永久寺が建てられ、その子は幕臣となり試し斬りだけでなく
罪人の処刑も行うようになった。
江戸中期に弟子だった有名な山田朝右衛門が代々処刑人となった。
首切り朝右衛門という名で呼ばれた。


浄閑寺
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江戸時代吉原の遊女が亡くなるとこの寺に運ばれ「投げ込み寺」と呼ばれた。
埋葬された遊女は2万人といわれ平均21.7歳であったという。
寛政5(1793)に建てられた昭和4年に改修された新吉原総霊塔がある。
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「生まれては苦界、死しては浄閑寺」(花又花酔の川柳)が刻まれている。
永井荷風は遊女達の死を悼みしばしば訪れ掃除もした。文学碑がある。
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本庄兄弟の首洗い井戸がある。
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鳥取藩士白井権八

本名 平井権八は本庄助太夫を飼い犬の喧嘩が原因で殺し、江戸に出奔、あとを追う遺児本庄助七、助八は三ノ輪に家を借り仇敵白井を探すが逆に白井に知られてしまい、万冶3(1660)浅草田圃で兄助七が殺されてしまう。

弟助八が兄の首を洗っていたところ又白井に襲われ命を落とす。

仇討ちはなかなか成就しないということである。その後強盗をかさね鈴が森で処刑されたというが、幡隋院長兵衛と結びつけられ歌舞伎、浄瑠璃、狂言となった。


「あしたのジョー」は泪橋のたもとの丹下ジムにいた。

品川の鈴ヶ森処刑場の近くにある立会川にかかる泪橋と共に刑場にむかう罪人が家族に見送られて涙する橋である。
ちなみに品川の泪橋は現在「浜川橋」と呼ばれ、かつてボラちゃんフィーバーした橋である。

ちょっと寄り道(2015年11月)


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                                    泪橋

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泪橋交差点から交番、右に曲がると商店街
そこを突っ切ると
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明日のジョーが立っている

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なんかいつものジョーじゃない・・・


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いろは会
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いろは会

山谷をはじめて歩いた
道端でお酒飲んでる人も多かったが
外国人もいた
目にした所ではいちばん安い宿泊が2200円だった(2015年11月)







小塚原刑場跡
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江戸時代に罪人を処刑したお仕置き場跡で、「こつかっぱら」と呼ばれた。

間口60間(108m)奥行き30間(154m)で明冶の初年に廃止されるまで約20万人が磔、斬罪、獄門などに処せられた。

高架わきに延命寺があり小塚原回向院の別院であったが1982年独立した。

寺名は延命地蔵(通称首切地蔵)にちなむ。刑死者の菩提を弔うために寛保元((1741)に建立された。

元は貨物線の南にあったものを現在地に移した。常磐線をくぐって進む道はコツ通りと呼ばれる。
常磐線の陸橋から南に泪橋があるが現在橋はなく交差点の名に残るだけとなった。


コツ通り
平成10年つくばエクスプレスが開通、その工事のとき
おびただしい人骨がでた。
年間1000体 そして220年続いた処刑場だったからである。
が、コツ通りの由来は骨ではない。
小塚原を昔は「コツ」といった。
千住の岡場所のことをそうよんだ。
歌舞伎の演目「小袖曽我」より

「それじゃあ 三次がコツの馴染みは 二枚がけの熱燗だな」

船頭三次との台詞にある。   広辞苑より






小塚原回向院 浄土宗
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刑死、牢死者、行き倒れの死体など両国の回向院に埋葬されてきたが、手狭になったため寛文7(1667)両国の別院として建立された。

橋本左内 (1834~59)
越前藩士で緒方洪庵の適塾に学び藩主松平慶永を補佐、幕藩体制の再建強化と親露反英、新米の開国論を唱えた。一橋慶喜将軍擁立に奔走。井伊直弼大老就任後、安政の大獄によって処刑。

*頼 三樹三郎
 (1825~1859)
尊皇攘夷派の志士。儒者で、「日本外史」を著した頼山陽の3子。安政の大獄で処刑。

*梅田源三郎(雲濱)(1815~1859)
小浜藩士。塾を開いていた。海防策を建白し藩主に疎まれ浪人になる
新選組池田事件の発端となった古高俊太郎の師でもある。
京における尊皇攘夷派の中心となる。慶喜将軍擁立に奔走、安政の大獄によって処刑。

吉田松陰 (1830~1859)

長州藩士。山鹿流兵学を学び東北諸藩を歴訪、海外渡航を企み失敗。投獄される。
獄中で開いた松下村塾からは高杉晋作、伊藤博文など多くの人材を輩出。安政の大獄で処刑。辞世の句が有名である。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」

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奥の墓が松蔭


 観臓記念碑

明和8(1771)前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らはこの地で刑死者の腑分けをみてターヘル=アナトミアの
翻訳を決意し4年後「解体新書」を出版した。

有村次佐衛門 

桜田門外の変の薩摩藩士。井伊大老殺害事件。

金子孫次郎

桜田門外の変の水戸浪士


水戸浪士

老中安藤信正を襲った坂下門外の変。

高橋お伝
明冶9(1876)内縁の夫を殺害、最後の惨殺刑に処せられた。

鼠小僧次郎吉


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円通寺  曹洞宗
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延暦10年(791)坂上田村麻呂の創建と伝えられる。
秩父、板東、西国霊場の観音があったことから百観音と呼ばれた。
鎌倉時代の板碑がある。彰義隊はじめ戊辰の幕府関係者の供養塔、墓がある。
当時の住職が放置されている彰義隊の戦死者を弔った縁で上野寛永寺の総門が移築されている。黒門といい、上野戦争の弾痕跡が残る

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黒門の弾痕

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官営千住製絨所跡


南千住1丁目の交差店西にあった。
蒸気を利用した日本最初の毛織物工場である。
当時の煉瓦塀が残る。東京スタジアムから現在荒川区スポーツセンターになっている。


素盞雄神社
  創建延暦15年(795)伝
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天王社とも呼ばれる。
荊石信仰(石神信仰)の神社で瑞光石なるものがある。
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随光石

石が光を放ち素盞雄命と事代主命(アスカ大明神)があらわれ神託を告げたといわれる。

荒川ふるさと文化館   

荒川の歴史、文化を紹介する施設

誓願寺 浄土宗
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いつも門は閉ざされているのに今日は開いていた
鳥の声がする森のような境内だった
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本尊の阿弥陀如来は聖徳太子造といわれる。家康が腰をかけたといわれる榎があった。親の仇をうった子狸の塚、板碑などがある。

千住大橋
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文禄3年(1594)に普請奉行伊奈忠次によって架けられた。
隅田川で最初にかけられた橋で「大橋」という。日光、奥州街道の出入り口の橋となった。
北詰西に奥の細道矢立初の碑が立っている。
芭蕉の旅立ちは、深川を舟で出発し千住大橋の北岸に上陸したとの考えから建立したものである。


橋戸稲荷

土蔵の観音開きの扉の裏に幕末から明冶にかけての鏝絵(こてえ)(漆喰ぬりの絵)の名工といわれた入江長八の男狐と母子狐の作品が残る。

長八は又の名を伊豆の長八といわれ伊豆松崎に生まれ、左官を学び狩野派の絵師のもとで勉強した。

漆喰でレリーフのように浮き出した絵画、装飾をほどこした鏝絵を芸術の域にした画家ともいえる人である。

震災、戦災で多くを失い貴重なものである。

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長八の鏝絵 レプリカ




やっちゃ場 青果市場
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河原町は江戸時代青果市場があり、現在中央卸売市場がある。
信長が安土城を築いたころからはじまったといわれる。
ここから通りには屋号の看板がある家がおおくなる。

この河原町には尾崎豊の終焉の地「尾崎ハウス」がある。
2011年に取り壊された。

千住宿歴史プチテラス

天保元年(1830)に建てられた横山家の蔵を平成5年に移築。
高札場、一里塚道標

勝専寺 浄土宗
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文応元年(1260)創建。朱塗りの山門から赤門寺といわれ、赤顔、赤腹の閻魔様で知られる。
一説に千住の地名の由来は、本尊の千手観音からきているという。秀忠、家光、家綱など立ち寄ったといわれる。

千住宿本陣跡(3-113)

千住の絵馬屋(吉田家)

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伝馬屋敷 (横山家)
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地紙問屋として栄えた旧家。江戸時代の商家造を残す。
玄関柱の刀傷跡は負けた彰義隊がつけたものといわれている。近くに「かどや」槍かけだんごがある。

槍かけだんごのかどや
以前は古い佇まいだったが改築されたようだ
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いつ食べても美味しい・・・

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名倉医院
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明和年間(1764~72)に開業した接骨医で、幕末に建造された長屋門が残る。
ほねつぎとして評判をよび患者の列が街道にあふれるほどだったという。
ここで技術を学んだ弟子たちは全国各地で名倉の名で開業しているという。
今でもお年よりたちは秘薬の黒膏をお願いするそうだ。

荒川の土手

荒川は荒ぶる川の名のとおり大洪水をよくおこした。
明冶44(1911)に大改修に着手し14年の歳月をかけて岩淵から中川にいたる全長22kmの人工河川である。
荒川方水路とよばれていたが、現在では荒川というようになった。

土手と千住の東にある柳原は金八先生のロケ地である。

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東京拘置所


橘井堂(きっせいどう)跡

都税事務所は森鷗外の父静男が14年間病院を開業していた所で、鷗外も陸軍軍医副に任官しドイツ留学前
ここから三宅坂の陸軍病院に通った。

金蔵寺 真言宗

南無阿弥陀仏とあるのは、千住宿の飯盛女の供養塔。無縁塔とあるのは天保7(1836)の大飢饉の犠牲者
の供養塔。側面に勝専寺、不動院、金蔵寺にそれぞれ埋葬と記されている。

北千住駅

常磐線、東武伊勢崎線(半蔵門のりいれ)、東京メトロ日比谷、千代田、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線があり、
乗換えで重要な駅となり足立区の中心繁華街となった。

参考文献 
東京都歴史散歩上巻・徳川将軍家の謎(別冊宝島)
荒川区HP・鬼平ゆかりの地巡りツァーHP
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:46 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

渋谷庄を訪ねて

歴史と素適なおつきあい 2008

日時:2008年4月11日金曜日・9:50 雨天中止・お弁当持参
集合:相鉄線海老名駅改札口 (相鉄線、小田急小田原線、JR相模線があります)
    相鉄線 横浜駅発 : 8:51 ・ 9:02 ・ 9:10

海老名駅~(バス)~国分寺台7~五社神社(渋谷氏ゆかりの神社)~武者寄橋~江川天神社(渋谷氏ゆかりの神社)~早川城址(渋谷氏の居城跡)~お銀様墓(渡辺崋山)~長泉寺(渋谷金王丸の墓・見学は不可)~小園橋(渡辺崋山)~相模国分寺跡~ビナウォーク(相模国分寺の塔のモニュメント)

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振り返っているのが金王丸 ウイキペディア



五社神社
祭神 天(あま)照(てらす)大日霎(おおひるめ)貴(むち)尊(みこと)・天(あま)忍(おし)穂(ほ)耳(みみ)尊(みこと)・天津彦彦火瓊々(あまつひこひこほのにに)杵(ぎ)尊(みこと)・彦火々(ひこほほ)出(で)見(み)尊(みこと)・彦波瀲武鸕(ひこなぎさたけ)草(う)葦不合(がやふきあえず)命(みこと)の五柱。日本武尊創始。ご神木は樹齢370年の大椎の木。早川城の西、国分寺台の突端にあり、物見の砦によい。

この神社には日本武尊のこしかけ石がある。
日本武尊の野火遭難の地について日本書紀では、駿河国、焼津神社・草薙神社・庵原神社。
古事記・古事拾遺では、相模国 とある。    
ここではこの相模国が野火遭難伝説の地であるという。

そのころは深く入江になっていてこの国分寺台地の麓は海老名からずっと草地であったと思われる。
ここに着いた尊はしばらく軍をやすめさせたと思われる。
この辺に居住する相武の国造りは偽り、尊を迎えていうには、
「この原野に大沼があり、ここに、大変乱暴な神がいる。その神を平らげてほしい」
尊は単身、奥深く進入したところ、突然原野の風上より火をつけられ、危機に瀕した。叔母の倭比売から贈られた剣をもって草を薙ぎ無事をえたという。

武者寄橋
兵の集まる場所だったといわれる。

江川天神社
渋谷氏ゆかりの神社。素朴でいかにも地の神様という感がある。湧水がある。

早川城址
渋谷重国が建てた城。古くはこの早川台地には縄文、奈良、平安遺跡もある。
遺構としては周囲の湿地帯が堀の名残。後北条の支城となり、現在に残る遺構となった。
物見台あとには東郷氏祖先発祥の地の碑がある。現在早川公園として整備されている。

お銀様の墓
田原藩主三宅康友の侍女となり、友信を出産したが、実母が急逝し、やむなく実家に帰る。その実家がこの早川村であった。その後、友信が藩主になるところ、事情で「巣鴨の老公」として隠居せざるを得なかった。その事情とは、藩の財政逼迫のため富裕な藩からの養子を迎えるためであった。
友信の子守役が渡辺崋山であった。藩主になれなかった友信の意中を察して実母お銀様をたずねたことが「遊湘日記」にある。
小園橋は無事お銀様に会って、厚木にむかう崋山を村人たちが見送ってくれた橋である。
その近くにお銀様の墓がある。


長泉寺 曹洞宗
本尊は釈迦如来で、寛永11(1634)年格雲守存により、開基される。
かつてここには渋谷氏の菩提寺といわれる寺があった。
ここに、金王丸の墓があるという。渋谷氏関係者のみの案内となっている。
定心(じょうしん)(入来院氏)は曹司五郎と名乗っており小字名に祖師谷があるため曹司が訛ったのではないかと思われる。
館跡はないがこのあたり一帯に重国の墓という伝承の墓、定心の僧名からそのゆかりが伝えられる。

相模国分寺跡
国分寺とは天平13(741)年、聖武天皇の詔で国ごとにつくられた官寺である。
相模国分寺は法隆寺と同じ伽藍をもつ大規模なものである。

七重塔

温故館という資料館に相模の国分寺の七重の塔の模型があったが、今は閉鎖されて、文化会館に展示されている。
ビナウォーク内にある、海老名中央公園に27、97メートルの塔のモニュメントがある。
実際は67メートルあったそうだ。


渋谷氏家系図


平高望―国香                  (秩父権守)
     ―良兼               武綱―重綱―重弘―重能―重忠
     ―良将 (村岡) (秩父)  (川崎冠者)  (渋谷庄司)      
     ―良文―忠頼―将常―武基―基家―重家―重国―――――光重 ――――重直~相模渋谷氏
                                ―金王丸             ―実重(早川)―忠重―重高~東郷氏 
―重保(吉岡)―重尚―重松~祁答院氏
                                                   ―重諸(大谷)~鶴田氏
                                                   ―定心(曹司)~入来院氏
                                                   ―重貞(落合)
                                          ―高重―武重(渋谷)(長男)
                                          ―時国  
―重助
―女(佐々木秀義室)               








参考資料
渋谷氏
桓武平氏秩父氏の流れで、東京都渋谷、神奈川県綾瀬、藤沢、大和あたりに勢力があった。
のちに薩摩島津氏とともに移住した一族は東郷氏(東郷平八郎)、入来院氏、祁答院(きとういん)氏となった。
基家が前九年の役の恩賞に渋谷郷渋谷庄(東京都渋谷)を賜り、川崎冠者といわれた。
基家をさかのぼると、先祖に良文がおり、平将門の父良将と兄弟にあたる。将門の乱のとき、良文はどちら側だったのかと調べてみると、将門とは敵対していなかったようである。伝承ではやさしい器量のよい人で、923年良文36歳のとき醍醐天皇より関東の賊を討伐せよとの勅命に藤沢市あたりを本拠として賊を滅ぼしたという。村岡郷(藤沢市)のことで良文は「村岡五郎」とよばれた。基家の子重家は、渋谷氏を賜り、渋谷にある金王神社あたりに城をもった。この金王神社はのち金(こん)王(のう)丸(まる)の出現により
金王八幡宮といわれるようになった。領地は、横浜小机をへて、重家の子重国が高座郡渋谷に進出する。
頃は頼朝挙兵前で、平氏か源氏かという時代になる。

佐々木氏
平治の乱で源義朝方について敗れた、近江源氏佐々木秀義は、奥州平泉におちのびる途中、重国の所領地渋谷を通過した。秀義の伯母が平泉の藤原秀衡に嫁いでいたためであったが、遠すぎるからと、重国は佐々木一族を匿う。
それから、佐々木一族は重国とも縁戚となり、20年近く滞在することになる。
佐々木秀義の4人の息子は頼朝が挙兵したときには源氏側にたつ。4人の息子は伊豆の韮山に配流されていた頼朝の家に頻繁に出入りしており、憂慮した平氏方の大庭景親が父親の佐々木秀義に注意をうながした。
「そのうちに、以仁王と源頼政が挙兵するときには、伊豆の頼朝のところにも、令旨がある」 
その情報はいちはやく4人の息子から頼朝に伝えられた。
そして息子たちは、頼朝旗揚げの挙兵に加わり、以後活躍して、近江の佐々木庄にもどった。
佐々木秀義の四男の佐々木高綱は名馬池(いけ)月(づき)(生食、生唼)で、梶原景季の名馬「磨(する)墨(すみ)」と先陣争いをしたことで有名である。横浜市港北区鳥山に居館があったとされる。 乃木希助は、佐々木高綱の末裔といわれる。
近江にもどった佐々木氏はのちに京極氏、六角氏につながっていく。

渋谷重国
佐々木氏庇護の背景として、重国の領地渋谷は現在の海老名東部にあたり、昔国府があったといわれる場所である。
当時、国府は大住から淘綾に移っていたが、国府時代の古道は、太平洋側の道より逃避行にむいていたと思われる。
佐々木氏が源氏方についたとき、渋谷重国は石橋山合戦で頼朝征伐軍として戦うが、のち鎌倉幕府に服属する。頼朝の死後、重国の二男高重は、武蔵七党横山党の横山時重の娘を妻にしていたことから和田合戦では、義盛方についた。
渋谷氏はこの和田合戦の後、勢力が衰退する。が、細々と続いていたようである。
早川城には重国の四男重助の末裔、石川氏がいた。後北条に仕え、「石川衆」と称され、家康江戸入府時には石川重久が城主であった。重国の長男は鎌倉方につき、のちに薩摩に移住、島津氏と並ぶほどにな
るが、戦国時代に島津氏に服属する。
渋谷の道玄坂に、和田一族の大和田道玄が寺をつくったといわれる。地名の由来である。名所図会には和田の残党がこの坂道の窟に住み山賊を業としたとある。渋谷氏と全く関係がないとはいえないかもしれない。

渋谷金王丸
渋谷重国の兄弟といわれるが、定かではない。
平治の乱で敗戦した義朝一行は、近江、青墓(大垣)、舟で愛知県知多の野間の長田忠致(おさだただむね)の屋敷へと平治物語にはある。
ここからは内海のタクシーの運転手の話である。
「青墓から桑名あるいは伊勢から舟で内海へ、それから山中を進み岡部の大岩で腰掛け休憩をした。
農民たちからいろいろ世話をしてもらったため、義朝は、農民たちに大岩の姓を賜った。」
実際その運転手も大岩さんだが、やたら、大岩姓が多い。そして山中を野間に向かったという伝承である。

とにかく野間に到着したが、なぜ野間に行ったかというと、長田氏は源義朝の家来、鎌田正清の妻の実家である。道中4人といわれるが、義朝、正清、金王丸らは、馬、馬具の調達を頼み、急いで東国に落ちのびるつもりだったが、「ゆっくりしていけ」と長田忠致に引き留められる。長田は義朝を裏切るつもりであった。
鎌田正清は山田城主である。都筑区の山田神社の地にあった。
義朝は金王丸に背中を流してもらい湯につかっている。正清は酒の歓待をうけていた。
金王丸は刀をもってはいっていたため、長田の郎党は襲うことができない。金王丸は着代えがないので郎党に声をかけたが返事がない。長田の郎党は、あえて着代えは用意しなかった。しかたなく金王丸は、着代えを取りに外にでた。
そこへ、長田の郎党たちが義朝を襲い殺してしまう。正清は異変に気付き、かけ出すが郎党に囲まれ殺される。
正清の妻は自らの父の裏切りを嘆き、夫の後を追う。
金王丸は急いで戻って戦うが劣勢になるや、馬で飛び出し京都まで戻る。義朝の愛妾常盤御前に知らせ、僧となって
義朝の菩提を弔う。

知多半島の野間には役小角が創建、中興が行基といわれる野間大坊がある。のちに頼朝はここに父義朝、自分の助命をしてくれた池の禅尼、鎌田正清夫妻の供養塔を建てた。

金王丸は興福寺の衆徒となり土佐坊昌俊と名乗る。大和国で乱暴を働き土肥実平に捕えられた。
が、頼朝は昌俊の義朝への忠誠心にうたれ、家臣として迎えた。鎌倉の小町に屋敷跡がある。
頼朝と義経との仲が悪くなり、土佐坊は京都堀河の義経屋敷を襲うよう暗殺を命じられる。いきさつは、誰も義経暗殺を引き受ける者がいないので、自ら申し出て、下野にくらす母親の面倒を頼朝に依頼したという。が、暗殺に失敗し鞍馬山に潜むが、義経郎党に捕まり、六条河原で斬首される。
この土佐坊昌坊は常盤御前に知らせに行ったとき、常盤御前と三人の子の都落ちを涙で送ったというが、果たしてその子義経の暗殺に向かうだろうかと疑問視されている。他説に、義経は父の郎党だったことから、逃がしたともいわれている。
金王丸の話は、謡曲「正尊」 浄瑠璃「御所桜堀川夜討」、狂言になっている。

金王八幡宮
渋谷駅東側、宮益坂をはさんだ小高い場所に渋谷城跡がある。そこに金王八幡宮がある。

当社は第73代堀川天皇の寛治6年(1092)渋谷氏の祖川崎土佐の守基家の創始という。高望王の後裔秩父別当武基は源頼信の平忠常追討に大功を立て軍用の八旒を賜り、内日月二旒を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す。武基の子武綱は嫡子重家と共に義家の軍に従い奥州の金沢の柵を攻略せる功により、名を河崎土佐の守基家と賜り武蔵谷盛の庄を与えられた。これ即ち月旗の加護なりと、義家、基家と共に親しくこの地に来たり月旗を奉じて八幡宮を勘請すと。重家の時始めて渋谷の姓を賜る。渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし代々氏族の鎮守とあがめた。当社は元渋谷八幡宮と称したが、金王丸の名声にちなみ金王八幡宮と称せらるるに至った。これが渋谷の地名の起こりとも言われ渋谷城の当時の砦の石も現存しております。
                            金王丸八幡宮「参拝の栞」より

このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、居館を囲んでいるうえ、かっては数箇所に湧泉があるという好条件を備えていました。
しかしその居館(城)は大永4年(1424)、北条氏と上杉氏の合戦の時、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
                              渋谷区教育委員会
境内には金王桜がある。一重と八重の花が一本の木に咲く珍しい桜で頼朝が植えたといわれている。

長田忠致
現在野間では長田家跡地はいまだに荒涼としている。田んぼの中の荒れ地である。土地の人に今でもよく思われてないからかと思ったが、その地は縄文時代の遺跡であった。
そのすぐそばに磔の松がある。のちに頼朝のもとで功績をあげた長田親子が恩賞に「美濃尾張をくれ」といったことに応え、「身の終わりを授ける」と処刑された場所といわれる。
長田忠致の祖は将門の父と兄弟で領地争いをして、将門の乱では敵対していた。その後一族は流浪したこともあり、ようやく知多に領地をもち開拓していた。そこに、追われた義朝主従が現れたので困惑したはずである。息子と相談の末、このまま義朝が東国に戻っても再起不能だろうと考え、清盛に服すことにした。
清盛からの恩賞は壱岐の守であった。そして頼朝の時代がきてしばらくは壱岐に隠れていたらしい。
壱岐には玄海灘で活躍した長田氏がいたことから子孫は残っていたらしい。

参考:「相模のもののふたち」永井路子ウイキペデイア・尾張歴史と伝説・城郭図鑑・平治物語絵巻・綾瀬市HP・大和市HP・海老名市HP・渋谷氏・金王丸関連のHP・渡辺崋山と大山道・野田かずこ創作切りえ・神奈川県 神社検索
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:36 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

東海道 川崎宿

                        歴史と素適なおつきあい  2006年10月13日(金)

集合:京急「六郷土手」駅 改札口 2006年10月13日(金)9:50 
    (特急、快速は止まりません)

天候がよければ熊野神社境内で昼食をとります。熊野神社の近くのスーパーにお弁当があります。付近で外食も可能です。

「京急六郷土手駅」北野天神~六郷の渡し~明冶天皇渡御碑~川崎稲荷社~「京急川崎駅」万年屋跡~旧田中本陣跡~助郷会所跡~宋三寺~砂子の里資料館~高札場跡~問屋場跡~佐藤本陣跡~小土呂橋擬宝珠~上手土居~芭蕉句碑~「京急八丁畷駅」廃線跡~無縁塚~熊野神社(昼食休憩予定)~「京急鶴見市場駅」市場一里塚~鶴見橋関門橋跡~寺尾稲荷道標~鶴見神社~「京急鶴見駅」


川崎宿
設置:元和9(1623)年  東海道宿駅伝馬制度がしかれたのは1601年
管轄:天領  小土呂、砂子、新宿、久根崎で構成
家数:641軒
本陣2・飯売旅籠33・平旅籠39・名主、問屋、年寄、馬役、歩行役149・屋敷借地26・家398・火の番屋6
人数:2433人 (男1080人 女1353人)
名物:奈良茶飯(万年屋)、ハゼ料理(新田屋)、米饅頭(鶴屋)     (文久3(1863)年調べ)


 東海道で最もおそく開設された宿である。品川、神奈川の伝馬継立が往復十里になるため伝馬百姓の負担を軽くするために設置された。
小土呂方面の生産向上のため新川掘用水が慶安3(1650)年に開削された。
宿起立時には幕府からの援助で常備伝馬の保持を図ったが、伝馬継ぎ立ての重い負担に、早くから疲弊を訴え、たびたび幕府の援助も続いた。が、問屋もつぶれ逃亡する馬百姓も続いた。財政が立ち直ったのは六郷渡しの渡船権を得てからである。宝永6(1709)年に田中休隅の意見が幕府に採用されて、渡船を宿が請負うこととなった。
 又旅籠に飯盛女を置くことが許可され、川崎大師やその南の石観音の参拝者も増え江戸後期には宿の繁栄を見ることになった。
 幕末期の将軍家茂の上洛や長州征伐で助郷体制が賄いきれず、多くの村が助郷に加えられた。助郷だけでなく将軍上洛に伴う御用金の調達も重なり川崎宿では打ちこわしが起きた。米穀商や名主が襲われたため、幕府はその対応に本百姓に非常用の竹槍を与え、富豪の子弟を中心に農兵隊が組織された。
 明冶5年の品川~横浜の鉄道開通にともない宿駅制が廃止になり、宿機能は停止した。
以降商業地域として発展した。

北野天神     祭神―菅原道真

将軍吉宗が乗った馬が暴走した時、落馬を止めた天神としての評判が、旅人たちにより遠くまで広がり、東海道を行き来する大名、武士たちの間で「落馬止め天神」と呼ばれた。ほど近い東海道の一角に「柳生様」とよばれる地があり将軍家剣術指南役柳生家の屋敷があった。北野天神の加護にあやかってこの地に住んだという。

六郷の渡し

多摩川の下流の渡船場あたりでは六郷川という。慶長5(1600)年に家康が橋を架けた。しかしたびたびの洪水で流され貞享5(1688)年に流出してからは架橋しなかった。
渡船になり、その権利をもった宿場は繁栄した。
東海道の四大橋  瀬田・矢作・吉田・六郷
江戸の三大橋   両国・千住・六郷

明冶天皇渡御碑

明冶元(1868)年10月12日、明冶天皇は東下りの道中、川崎田中本陣で昼食を召されその後23艘でつくられた舟橋を渡御された。

大師河原道印石と川崎大師の燈篭

道標の左手に川崎大師への参道の入口があり、ここに川崎大師の燈篭と寛文3(1663)年に造立された「從是弘法大師江之道」と書かれた道標があったが現在は川崎大師にある。

川崎稲荷

昭和26年ころ再建され土留めに二ヶ領用水に架かっていた石橋の部材を使用、又社殿の下に将軍吉宗が江戸にむかう時休んだといわれるけやきの根株が残っている。

万年屋跡

もともと一膳飯屋であったが、そこで出される奈良茶飯が有名になると明和年間(1764~72)から旅館も兼業するようになった。

イギリスの園芸学者ロバート・フォーチュンが万延元(1860)年に在日した時の見聞録「幕末日本探訪記」にかわいらしい女の子が案内してくれ、お膳にお菓子や果物が並べられ女の子はゆで卵をむいて塩をつけて口に運んでくれたと書いている。

万年屋の奈良茶飯は大豆、小豆、粟、栗などをお茶で炊き込んだもので、しじみ汁といっしょに出された。
もともとは東大寺でだされていたもので、起源は寺に納められたお茶を煎じて二煎目のお茶に塩を加えてお米を炊く。蒸らしたあとに一煎目のお茶に漬けて食べる。この中に炒った大豆、黒豆、栗などをまぜたようである。
東大寺二月堂のお水とりで練行衆の食事に茶粥とともに出されていて古くから僧達の厳しい修行に耐えるための大切な栄養源とした必要~生まれた食事だったようだ。
現在の茶飯はほうじ茶をいれ塩、醤油、酒で味付けし焙った大豆をくわえて炊いたものである。「奈良茶飯三石食ふて後はじめて俳諧の意味を知るべし」と詠んだ芭蕉も好み、句会には奈良茶飯がだされたようである。

旧田中本陣

大名、公家、旗本などが泊まる施設で231坪の堂々たる構えであった。
主人の田中休愚(丘愚)は本陣経営、名主、問屋の三役を兼務し六郷の渡船権を江戸側より川崎宿側に譲りうけ川崎宿の財政を立て直した。「民間省要」を著し二ヶ領用水や酒匂川の治水(宝永山の噴火で水害に悩まされていた)に尽力し幕府の役人に登用された。大名なみであったという。

田中休隅(丘隅)

寛文2(1662)年多摩郡平沢村の農家に生まれ絹物の行商をして見聞を広めた。
川崎宿の田中源左衛門の養子になり50才で土木、測量、経済、数学を学んだ。
「民間省要」で、金と商品の流通、その影響と農民との関係を詳しく論じ八代将軍吉宗の目にとまり、活躍した。後には代官(支配勘定格)となり三万石を支配した。百姓から代官になるのは異例の抜擢である。が、5ヵ月後江戸の役宅で享年68才で亡くなった。
「民間省要」の執筆のねらいは民間生活の実態を為政者に再認識させようとしたもので成島筑道により大岡忠助を通じ献上された。この中に穢多のことが書かれているが、「穢多はいかに金持ちになっても四民の上には絶対立てない」とある。身分に対する抑圧政策が強化された時期でもあった。

稲毛神社

平安時代に河崎庄の鎮守として祀られた。祭神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)である。古くは山王社と呼ばれていた。山王銀杏、子の神社、田中休愚一族に奉納された手水石、安政の大地震で倒れた石の鳥居の台座、小土呂橋の遺稿、平成に奉納された天地睨みの狛犬は撫でてお願いすると体の悩みを治してくれるご利益がある。
宋三寺
寺伝によると頼朝の時代に僧玄統が開き建長寺末に連なる臨済宗の寺であった。玄統が若いころこの付近を通りかかると亀があらわれ池に導いてくれたので喉をうるおすことができた。再びこの地を訪れたとき大亀があらわれ亀の恩に報いるため小さな堂を建てたのがはじまりとされる。その後佐々木高綱の菩提寺となったが、のちに衰え後北条に使えた高綱の子孫が鶴見の宝泉寺の僧自山を中興として招き曹洞宗となった。墓地には飯盛女の系譜をひく貸座敷組合が建てた遊女らの供養塔がある。
(2006年お盆前に訪れた時吉原と書かれた風鈴が供えられていた。寺の関係者から風鈴は毎年贈られてくると聞いた。山本)

砂子の里資料館

海鼠壁の江戸町屋の雰囲気があり、東海道川崎宿をテーマにした資料館。
浮世絵を中心に企画展を行い、約200年前の川崎宿の模型が展示されている。

中の本陣

問屋場にむかいあう形で建っていた「中の本陣」は正式には「惣兵衛本陣」といわれ
佐藤、田中本陣の中ほどにあったので中の本陣と呼ばれた。江戸後期に廃業した。

高札場跡

幕府や領主がきめた法度などを木の板札に書いて人目に着くように掲示する所。
江戸から京都にむかう右側にある。

問屋場跡

江戸時代公用で旅をする人たちの便宜を図るため人足や伝馬を常備した。

佐藤本陣跡

惣左衛門本陣といわれ181坪あった。将軍家茂が上洛する時宿泊した。佐藤惣之助の実家である。

佐藤惣之助  詩人

明冶23(1890)年に雑貨商を営んでいた父慶次郎、母うめの次男として生まれた。
小学校高等科を卒業後麻布に丁稚奉公にでた。その後暁星中学で仏語を勉強し、
12才頃から詩をつくっていた。
人生劇場、人生の並木道、青い背広で、緑の地平線、六甲おろしなどのヒット曲も生み出した。

小土呂橋擬宝珠

東海道の新川掘に架かっていた橋の欄干の親柱が残っている。昭和7(1932)年に川は埋め立てられたため交差点脇に置かれている。新川掘は慶安3(1650)年関東郡代伊奈半十郎忠治によって開削され橋の最も古い記録は正徳元年(1711)で板橋であった。田中休隅が享保11(1726)年に石橋に改め、寛保2(1742)年洪水で流されたため、翌年普請奉行水谷郷右衛門によって再建されたものがこの橋である。以来200年間人々が行き交った橋だった。六郷八幡塚村の名工永井左兵衛、仕手吉六(飯島吉六)の名が銘文にみえる。

小土呂橋を渡った象

1729年に吉宗の注文で中国人が連れてきたベトナムの象も歩いたといわれる。雌雄だったのが長崎上陸の3ヵ月後にメス象は亡くなりオス象だけが東海道の箱根も越えてやってきた。長旅の疲れで飼育係の苦労は大変なものだったらしい。室町にも象は渡来したが、今回は陸路をいくことで多くの庶民の目に触れることになった。途中京都においては「従四位広南白象」を与えられ、御所に参内し前足をおり最敬礼の芸をしている。江戸にはいった象は熱狂的な江戸庶民に迎えられ市中を練り歩いている。浜御殿に収容され。二日後には江戸城に参上し、吉宗を喜ばしている。何度か吉宗は江戸城に召し出しているという。
その後1741年「見晴らし」という掛け小屋をもつ中野村の源助という百姓に払い下げられ見世物の他、糞を乾燥して薬として売ったらしい。管理の悪さから一年後に象は病死した。

上手土居

宿場の京都側入口のことで京口土居という。切石がつまれた土居が築かれていた。

芭蕉句碑

元禄7(1694)年5月郷里の伊賀へ帰るため、深川の庵を発った芭蕉は、同行してきた弟子たちとここにあった茶屋で休息した。弟子たちと別れを惜しみつつ詠んだ俳句である。

芭蕉 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

弟子 「麦畑や出ぬけてもなお麦の中」
「刈りこみし麦の匂いや宿の内」   と返した。

この5ヶ月後、芭蕉は大坂で病にたおれ51才でこの世を去った。
文政13(1830)年俳人一種は、天保の三大俳人と呼ばれた桜井梅室の筆による文字を石碑に刻み、俳聖芭蕉を、ここに偲んだ。

廃線跡

大正7(1918)年から昭和48(1973)年まで川崎から浜川崎まで走っていた南武鉄道の廃線跡の煉瓦壁である。イギリス積みである。
東海道線を貨物列車が多く往来していたころ東京の方からやってきた列車を浜川崎や鶴見線方面に向かわせる路線として使われた。首都圏を走る貨物が武蔵野線に迂回するようになって廃線になったようである。往時を偲ぶ少しの間の姿である。
八丁畷の名前の由来は川崎宿から鶴見市場までの間が八丁(870m)あり縄手というのは道が田畑の中をまっすぐのびていることで畷に当てた。道は松や杉、榎の並木が続き八丁畷並木と呼ばれた。
JR八丁畷駅は京急と南武支線があり、尻手から鶴見線の浜川崎までをつないでいる途中駅である。2010年までに新八丁畷駅が開設され今の駅は廃される予定である。踏切には監視員が常駐している。

無縁塚


明冶以降人骨が並木から多数掘り出された。人類学社の調査の結果、江戸時代に災害や飢餓などで亡くなった人を埋葬したのではないかといわれる。これら無縁仏の供養のため供養塔がたてられた。

熊野神社


弘仁年間(810~824)に紀州熊野の別当尊敬の勧請といわれる。
家康が関東入国前に武運を祈ったと伝えられる。鎮守の森はなぜかない。
宮司家に伝承された市場神代神楽が知られる。
近世の実態を詳しく記述している
「萩原文書」があるが、奉納舞に荏田村
からおとよ、数馬らが参加したことが記
されている。現在この熊野神社では神楽が
なく鶴見の矢向の日枝神社に受け継がれ
ている。

専念寺

紫式部の持念仏と伝えられる「市場観音」
が安置されている。富士山から飛んできた
「夜光石」「お乳岩」でも有名である。

市場一里塚

日本橋から5番目の一里塚で、昭和初期
まで大きな榎があった。この向えには
地主が施す「畑の灸」があり、子供の疳
の虫に効くといわれた。有名な円海山の
峰の灸があるが、ここは一里塚の前で、
便利だった。

鶴見橋関門橋跡

安政6(1859)年横浜開港とともに、
神奈川奉行は外国人に危害を加えることを
防ぐため、横浜への主要道の要所に番所、
関所を設けた。
鶴見橋関門は万延元(1860)年に設けら
れ橋の左右に杉の角柱をたて大貫を通し
黒渋で塗った。文久2(1862)年8月生麦事件発生により川崎宿~保土谷宿に20ヶ所の見張番所が設けられた。ここは5番目であった。6番目は鶴見駅前にあった。

寺尾稲荷道標

寺尾稲荷とは今の馬場稲荷で馬上安全、馬術上達のご利益があるとのことで祈願をする人が絶えなかったといわれる。伝えでは寺尾城主5代目の諏訪馬の助は、乗馬が下手で何とか上達するように祈願したところ、馬術は上達し、北条氏康の十勇士の中に名を連ねるようになったといわれる。

鶴見神社

推古天皇のころ創建といわれ、杉山大名神といわれたが、大正9(1920)年に鶴見神社に改称した。昔は5000坪もある大きい古社だった。杉山明神、素盞鳴尊など祀られる。
境内から多数の祭祀遺物が出土し弥生後期から鎌倉時代の土器も出土したことから、横浜では最古の社といわれる。「かげ参り」といわれるが、350年ほどまえ、幸区小倉にあった鎮守天王社(現在八幡社に合祀)の祭礼で誤って御輿を川に流してしまった。これが鶴見川の潮見橋付近に流れ着いたといわれる。以来祭礼の日には「かげ参り」といわれるようになった。
かつて鶴見川は水田の広がる農耕地帯であった。「鶴見の田祭り」は鎌倉時代がはじまりといわれ稲の豊穣を願った祭だったが、水田が消えていくとともに途絶えていた。近年宮司や研究者によって復活した。
仁治2(1242)年 鎌倉幕府4代将軍藤原頼経らが立ち寄る。
仁治3(1242)年 大江広元らが一帯の開拓事業を行う。
元弘3(1337)年 新田義貞が鎌倉攻めをしたさい末吉付近で戦う(鶴見合戦)

信楽茶屋

東海道の立場として栄えた。立場とは宿の間の休憩場で宿泊は許されなかった。「江戸名所図絵」にも描かれ竹の皮に包んだ梅干が好評だった。

鶴見騒擾事件

大正14(1925)年鶴見で起きた乱闘事件。現在の騒乱罪にあたる騒擾罪で500人が起訴された大きな喧嘩騒動であった。主な闘争地は潮田だったため事件の名が適切かどうか問われている。事件は、震災後の東京から神奈川への工場移転が建設ラッシュになり、火力発電所の建設からはじまる。首都圏への電力供給を有利に運びたい東邦電力(首都圏の電力会社と地方からの電力会社の電力戦争が起きていた)が発注した工事をめぐり、受注した元請会社2社の下請け(地元を縄張りとする業者と中央から派遣された業者)の争いである。そこに関西博徒、業界団体、大物右翼が解決にのりこみ死傷者をだす騒ぎとなった。当時は縄張り意識が強い慣習もあり、それなりの挨拶(念達、金銭)も必要だったと思われる。事件を題材にした「闘いの構図」青山光二著は平林たい子賞を受賞している。
犠牲者慰霊地蔵が、池袋荏子田の曹洞宗能万寺にある。

この事件に関わった人物は後に港湾、土木、運送、工場労務事業などで成功したものが多く、現在も関わった人物の流れを汲む企業が多く存在している。

青山芳蔵(池袋のとび職)は事件の裁判、差し入れ等をひきうけ破産している。
「今幡随院」と呼ばれ窮屈したようだが、頭山満(アジア主義の立場の国家主義者)と知己を得て晩年張作霖事件について何か語ろうとしたらしい。

松尾嘉右衛門はこの後、貴族院議員、花月園、花月園競輪場の経営にかかわった。旭硝子の工員から土木建設業界に君臨するまでの成功物語は京浜工業地帯の隆盛を物語るといえる。

総持寺

明冶44(1911)年石川県鳳至郡櫛比荘にあった曹洞宗の本山総持寺が1898年の大火で焼失したため移され、大伽藍が連なる。曹洞宗の本山は二つあり、この総持寺と福井の永平寺である。ここに俳優石原祐次郎の墓がある。




      
参考:HP ウイキペデイア・横浜市・川崎市教育委員会・東海道川崎宿2023
     悠悠人の写真紀行 ・大人の塗絵・横浜市歴史博物館ニュース

   東海道ルネッサンス・・歴史と素適なおつきあい2001年度資料
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:21 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

早稲田周辺散歩

東京都歴史散歩


歴史と素適なおつきあい 2011
日時   : 2011年 3月11日 (金)9:50
集合場所 : 東京メトロ東西線「早稲田」2番出口方面改札口
中野方面進行方向の出口
早稲田2番出口~夏目漱石誕生の地~穴八幡宮~高田馬場跡~水稲荷~甘泉園~胸突き坂(永青文庫・蕉雨園・芭蕉庵)~リーガロイヤルホテル東京(ランチ)~寶(ほう)泉寺(せんじ)~早稲田大学構内(坪内博士記念演劇博物館・會津八一記念博物館~地震のためホテルに避難



       
夏目漱石誕生の地


漱石は慶応3(1867)年1月5日、この地に生まれた。誕生の地(喜久井町1)から若松町の方へと上がる坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克である。このことは漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷士として土着していた夏目氏は、元禄時代以降、馬場下の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は家紋「井桁に菊」に因み、町名を当家にゆかりのあるものとした。
漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、店先の古道具の横にいつも寝かされている漱石を見た姉が、不憫に思い、すぐに生家に戻された。2歳11カ月になると再び、内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になる。養母は夏目家の使用人である。その後実父と養父の関係がこじれ(養父の浮気が原因で養母が夏目家に帰る)、22歳のときにやっと復籍することができた。
隣家の酒屋「小倉屋」は堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つときに、ここに立ち寄り升酒を飲んで行ったという。(漱石山房HP)

夏目漱石(1867~1916)

小説家・英文学者。本名 夏目金之助。
代表作「吾輩は猫である」「こころ」。正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝大を卒業して松山、熊本で教鞭をとる。その後、英留学して鬱、胃潰瘍に悩まされる。帰国後、帝大で教鞭をとるが、精神的に不安定な日々を送る。教師か小説家か悩んだ末、帝大を辞職し朝日新聞に入社する。精神衰弱を和らげるため高浜虚子の勧めで小説を書き始め文豪への道をたどる。ちなみに漱石は「浪漫、新陳代謝、流石、経済、電力」など多くの造語を作っている。死後、解剖され、脳はエタノールに浸されたまま東大医学部に保存されている。

弁天町に漱石終焉の場所があり、漱石公園となり漱石の胸像、猫塚がある。(漱石山房HP・ウイキペデイア)

穴八幡宮(高田八幡宮)

祭神: 応神天皇・仲哀天皇、神功皇后
康平 5(1062)源義家が凱旋祝いにこの地に兜、太刀を納め八幡宮を勧請したとある。
寛永13(1636)幕府の御持弓組頭松平直次が、的場を築き八幡宮を守護した。
寛永18(1641)別当放生寺を造営する際横穴が現れ、金銅の阿弥陀如来像が現れた。これにより
穴八幡とよばれるようになった。
このころ、神木の松が瑞光を放っていたので光松山放生寺となった。徳川家光は当社を北の総鎮護とし、幕府の祈願所とした。吉宗が世継ぎの疱瘡平癒祈願のため流鏑馬が奉納された。
又、加賀藩も深く崇敬し金沢城内に勧請している。
明治以降衰微したが、大正天皇が皇太子のとき虫封祈祷を行ったことから崇敬者が増え、現在では「一陽来復」の御札(冬至から節分まで)を求める人で賑わっている。

一陽来復―易経で陽と陰が繰り返し、どん底の状態にあっても又いいことが巡ってくるという意味であるが、ここの参拝客は、お金がまわりまわって自分の懐に帰ってくる商売繁盛の意味ととっているらしい。
このあたり、早稲田大学建設に伴い移転している神社仏閣が多いが穴八幡は江戸時代から同じ場所である。
(ウイキペデイア)
江戸時代、牛込のほとんどの町は穴八幡と赤城明神両社の氏子であるが、牛込には幕臣が多く住み、日光参拝に供奉しなければならなかった。ところが、赤城山の神と日光の神はたびたび戦をして仲が悪い。赤城明神の氏子が日光参拝すると山が荒れるという話があり、牛込の総鎮守は穴八幡とした。
神楽坂の地名の由来は諸説あるが、穴八幡の神楽の御旅所があったことからだという。(赤城台の歴史HP)

因みに早稲田の東、鶴巻町に元赤城社があり、現在の赤城神社はもう少し東の神楽坂(元赤城町)にある。ここは2010年新しい社殿になり、モダンな造りに圧倒される。

<将門伝説>

赤城明神―将門の首が飛んできてここに落下、木に血がついたのでアカギと名付けられた。
(赤城台の歴史HP)


高田馬場跡
西早稲田3丁目1,2,12,14番地を含む長方形の土地が江戸時代の高田馬場である。滑走路のような形だったという。寛永13(1636)年に造られ、旗本の馬術練習場であった。穴八幡の流鏑馬も行われた。享保年間馬場の北に数件の茶屋ができ堀部安兵衛が叔父の菅野六朗左衛門の決闘の助太刀をしたことで有名である。(東京紅團HP)

水稲荷



祭神: 倉稲魂大神 ウケノミタマノオオカミ 伊勢と同体 豊穣
    佐田彦大神 サダヒコノオオカミ   交通安全
    大宮姫大神 オオミヤヒメノオオカミ 夫婦、人々の円満
元の社地は早稲田9号館の敷地である。
天慶4(941)藤原秀郷が富塚(渡塚~戸塚)―富塚古墳(横穴式)の地に稲荷大神を勧請し冨塚稲荷
  と命名する。
天文19(1550) 牛込主全膳正時国が社殿造営。
天和 2(1682 )佐藤駿河守信次が社殿造営。
元禄15(1702) 神木の椋の根元より霊水が湧き眼病に効くと評判になり水稲荷と改名。
安永 8(1779) 高田村の植木職人・高田藤四郎(日行)が模造富士をここに造った。 
高田富士である。
天明 8(1788)「江戸の水稲荷」と名乗る翁が現れ京都御所の大火に功績を認められ関東稲荷総領
           職を賜る
昭和38(1963) 早稲田大学との土地交換で甘泉園である現社地に遷座する。

堀部武(たけ)庸(つね)加功遺跡の碑中山武庸後堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされる碑。
高田馬場茶屋通りにあった碑が移転された。


太田道灌駒繋の松

この地は山吹の里といい、道灌が農家に立ち寄った際、馬を繋いだ松という伝承が残る。
道灌は、突然のにわか雨に農家で蓑を借りようと農家に立ち寄った。娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。この話を家臣にすると、それが御拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」の歌にかけて、貧しく蓑を持ち合わせていないことを奥ゆかしく答えたのだろうと教わった。

高田富士 (堀部安兵衛碑の前)

高田籐四郎は、富士山烏帽子岩で断食行の末亡くなった食行身禄の弟子で、その墓は宝泉寺にある。この富士塚は江戸最古のもので早稲田大学9号館建設の際、破壊され、今ある塚は早稲田9号館から移設されたものである。7月20日前後の山開きに公開される。講は丸藤(まるとう)宮(みや)元講(もとこう)といい、現在も活動し、無形文化財に指定されている。                            (富士講アーカイブHP)

甘泉園

江戸中期に清水家の下屋敷があった。明治30年相馬家に、昭和13年早稲田大学に、戦後都に移管された。名称の由来は湧きだす水がお茶に適すと評判になったことからついた。(ウイキペデイア)

胸突坂

神田川から目白台に上がる坂で、勾配がきついので休憩所が設けられている。(ウイキペデイア)

芭蕉庵

松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後、神田上水の改修工事を請け負った。この際、延宝5(1677)から延宝8(1680)までの4年間竜隠庵と呼ばれた水番屋に住んだ。といわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。後に芭蕉33回忌に建物が建てられた。現在は講談社、光文社、キングレコードが中心となって設立された関口芭蕉庵保存会によって維持管理されている。(ウイキペデイア)

永青文庫


熊本藩細川家伝来の美術品、16代細川護立の収集品の収蔵、展示をしている。建物は昭和初期の細川家の事務所だったものである。入館料600円。(永青文庫HP)

蕉雨園(非公開)


旧田中光顕邸で明治30(1897)建築。大正になって渡辺銀行総裁(渡辺治右衛門氏)に譲り昭和初期講談社が購入した。
田中光顕―天保14(1843)~昭和14(1939)は土佐出身で武市瑞山に師事しのち中岡慎太郎の陸援隊に加わる。維新後は明治政府の岩倉遺外使節団に加わり外遊し、晩年、宮内大臣職につき宮中に大きな影響力をもった。吉田東洋暗殺に関与したともいわれている。(ウイキペデイア・猫の司書HP)

和敬塾(非公開)


目白の男子学生寮で「ノルウエイの森」の作者村上春樹が在塾、作中のワタナベの寮のモデルといわれている。本館は旧細川邸である。月1~2回の一般公開をしている。入館料1050円。(和敬塾HP)

リーガロイヤルホテル東京


大隈庭園を借景に豊かな緑の中にたたずんでいる。1階ロビー奥に眺めることができる。常時開園はしていない。ホテルは2011年2月21日 TBSテレビ「シリーズ激動の昭和 総理の密使」のロケに使われた。(リーガロイヤルホテル東京HP)

寶泉寺・天台宗(西早稲田1)


水稲荷神社の別当で本堂は早稲田大学大隈重信像あたりにあったという。現在の寶泉寺北側に水稲荷があり、ここに江戸最古の富士塚(高田富士)があった。
和漢三才図会(江戸時代の百科事典)や吾妻鏡によると810年ころの草創と伝えられる。又承平年間(931~938)平将門の乱を平定した藤原秀郷(俗称・俵藤太)の草創とも伝えられどちらにしても千年の歴史をもつ古寺である。南北朝で荒廃したが、文亀元年(1501)上杉朝良が私財を投じ伽藍を復興するも戦乱に巻き込まれ再び荒廃する。その後牛込時国が天文19(1550)に再興した。
江戸時代本堂、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁した。江戸で最初に富くじが行われた。高田富士の富士講が盛んで早稲田大学キャンパスの大部分が寺領であった。(寶泉寺HP)

<将門伝説>


将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の開基といわれる。付近には俵藤太駒繋ぎの松があるという伝承がある。毘沙門堂には藤原秀郷の念持仏が安置されていた。(高田富士HP)


早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
昭和3(1928)


坪内逍遥博士、古希の祝いに、その半生を傾倒したシェイクスピア全集全40巻の翻訳が完成したのを記念して設立された。演劇、映像の貴重な資料を揃えている。建物はエリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計された。(早稲田大学HP)

會津八一記念博物館


會津八一(1881~1956)は東洋美術の研究者であり、書家、歌人としても有名な人である。坪内逍遥の弟子で、早稲田大学卒業後、英語教師として新潟の有恒学舎、早稲田の中高で美術史の教授として早稲田大学に勤務した。八一は「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法をみてゆくことは大切である。どれ程理論が立派に出来上がっても実物を根底にする真実性が含まれていなければ、即ちそれは空論だ、取るに足るものではない。」と述べた。この趣旨で、昭和9(1934)早稲田恩賜館にコレクションを展示する。昭和29(1954)會津博士記念東洋美術陳列室が移転、再開される。1998年現在の會津八一記念博物館として生まれ変わった。(會津八一記念館HP)



東日本の地震とリーガロイヤルホテル


この日、会津八一記念館の一階に下りた時、受付の方が地震だと叫んだ。東日本大震災である。
記念館の受付の女性は耐震工事を済ませているので、外より安全だといわれるが、
古い記念館のガラスが音をたてて揺れるので怖くて建物をでて、みんなでしゃがみ込んだ。
学生たちといっしょにうずくまっていた。
早稲田の先生のスマートフォンの地震情報をみせてもらうと、地図上の宮城に赤の点が集中し、東北全体に広がっていた。
駅までいったが、電車は止まり、マックなどお店は即休業、外に突っ立っているのも疲れるし、
会員全員で、ランチをした早稲田のリーガロイヤルホテルに入り、
夜遅くまでレストランで、様子を見た。
沢山の人がヘルメットをかぶった人、ずっと携帯で話しながら歩く人を眺めていた。
テレビで名取の様子を流していた。
そのまま帰宅難民となり、
結局宴会場を避難所に準備してくれたホテルで、一夜を過ごした。

本当にお世話になりました。ありがとうございました。リーガロイヤルホテル様!!

その日休んだ会員の一人はヨーロッパから帰国する日で、成田に飛ぶ飛行機がなくなってしまい、
ヨーロッパの国々を右往左往して、二日かかって帰国したそうだ。
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:18 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
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