歴史と素適なおつきあい

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旧羽田町を訪ねて

歴史と素適なおつきあい    2018・3・9(金)



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穴守稲荷が現在の空港にあったことがわかる


集合:9:50 京急空港線「穴守稲荷」駅

穴守稲荷駅・・コンちゃん・・鴎稲荷・・赤レンガ堤防・・羽田の渡し・・
玉川弁財天・・福守稲荷・・五十間鼻無縁仏堂・・大鳥居・・白魚稲荷・・
駅前地蔵尊・・天空橋・・穴守稲荷駅前ランチ・・穴守稲荷



羽田の歴史

羽田の漁師は平治年間(1159)に7人の落人からはじまりと伝わる

中世から猟師が定着し小田原北条の水軍だったとも伝えられる
天正18年(1590)までは小田原北条の家臣
行方与次郎という武士の支配地だった

江戸時代参勤交代の船橋、大坂夏の陣には軍船となった
漁場は多摩川河口で大量の栄養が流れてくるので
絶好の漁場だった

干潟が大きく貝が豊富だった
江戸時代元禄の頃田んぼが増えて猟師町にも
農家が増えてきた


羽田の地名の由来は
海に接する場所をハネというから
陶土が出るところを植田(はねだ)というから
などいわれる

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玉川弁天社 広重

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羽田の渡し 広重
広重の羽田の渡しの絵にある常夜灯は弁天社のもので、
龍王院が岸部に竜灯を灯した

海の龍神の火である

玉川弁財天の玉は宝珠のことで
奥多摩日原山に弘法大師の建てた大日堂があり
そこから湧き出る泉の中から宝珠が湧き出て
多摩川を流れ羽田の水中で光っていたという

高野山系の聖が多摩川上流からやってきて
そして定着して龍王院を建てたという話になる

穴守稲荷はそのずっとあとの話で
現在空港のあるところは昔要島といった

浅瀬で新田開発のため干拓された
天明年間に名主鈴木弥五右衛門という人が
海岸に出張っていた洲を開墾したのである
文化12年(1815)完成しその守護のため
稲荷を勧請したという

明治になって穴守稲荷は神社に昇格し
海により近い場所に位置し人々の
信仰が流行していくことになった



穴守稲荷の裏にはきつねの穴があるが
田山花袋は
穴の向うの土手に立って

「大都会の呼吸を聴くような響きがかすかに海を伝って響いてくる」

「東京近郊に縁起が古い訳でもない稲荷が屈指の
流行神になったということは
不思議な現象である」


戦後すぐの強制退去
戦後羽田空港を接収したGHQが
昭和20年9月21日1200世帯の住民に対し
48時間以内の立ち退きを命令した
住民は有無を言わせぬ命令に無念だったことと思う
補償があったのかはわからないが、

当時の羽田は小学校、神社、海水浴場、鴨猟場
競馬場があり賑わっていた

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明治18年(1885)穴守稲荷が勧請され今の空港の位置にあった
明治35年(1902)年蒲田からの電車が通り行楽地となった
大正6年(1917)日本飛行学校ができた
昭和4年(1929)国策会社の日本航空輸送が運行を開始(2年間は立川発着)
昭和6年(1938)東京飛行場開設 羽田空港の歩みが始まる



海苔の養殖も盛んで戦後のGHQの強制移転で
海苔業者は転職を強いられた
このとき都内に17組合4190人の関係者に
330億円の補償金が支払われた


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コンちゃん
おはようございます





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ここ羽田は山田君いっぱいいます


鴎稲荷  祭神:宇迦之御魂命


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創建は鳥居に弘化2年乙巳年3月吉祥日と刻まれていることから

弘化2年(1845)と思われる

鴎が多く大漁の兆しとして祀られたことから

鴎稲荷神社といわれた



赤レンガ堤防

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大正から昭和にかけて多摩川の治水工事で

つくられた堤防である


羽田の渡し

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太子橋
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羽田の渡しの碑


羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎)を渡る「羽田の渡し」があった
約80mの距離で「おーい」という声が届いたという
徳川家康が狩りにきて1人で渡し場にきた
船頭は家康とは知らず馬の鐙を取ったという
2、30人乗れる船で魚介や農産物、衣料品など運んだ
賑わいをみせていたが昭和14年大師橋ができ、廃止された
昭和30年頃までは佃煮業者が多く存在した

正蔵院

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羽田神社
小田原北条の頃牛頭天王を祀ったことから創建された
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登れないが富士塚あり
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凍っています
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山田君





玉川弁財天

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玉川弁財天



弘法大師が護摩の灰を固めて自ら製作したご神体があるという
龍王院が別当寺で上の宮と称した
要島(現在の空港の地)の新田開発で下の宮としてこの地に弁天社が
勧請された
厳島、江ノ島と玉川は日本三大弁天といわれたという
ちなみに普通にいわれる日本三大弁天様は
厳島、江ノ島、竹生島の弁天様である
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水神社



戦後の退去命令により、下の宮に遷し現在に至る
登録は水神社になっている

ちょうど5月11日は祭礼の日で船の渡御だろうか
漁業関係者がスーツを着て現れた
お昼にはあなごの天婦羅を配るそうだ

この日野ランチは穴子の天婦羅
口に入れた時あっと思い出した
ここに戻れば無料だったのに・・・

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福守稲荷
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もしかしたら私有地にあるお稲荷さんかも
現在修理中


松前健著「稲荷信仰」に大田区史から調べられたこの稲荷について
書かれてあった

もとは一軒の地主がいたが没落し
大正時代ここに住んでいた4軒に分割売却された

それからその4軒で守られている
一軒だけが祀るとその家だけが繁盛するので
4軒の真ん中に祀られることになったという

5月に再度訪れたらきれいに直しが入っており
大切に守られている気がした




五十間鼻
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90mの実感ができない
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なんだか怖い
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


洪水防止のため長さ五十間(約90m)石を敷き詰め
急流から岸辺を守るために作られた
関東大震災、空襲など死体が多く流れ着き
五十間鼻無縁仏堂が建てられた
今では初日の出を見る人で賑わう場所である

大鳥居
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弁天橋を渡ると移された大鳥居がある


戦後すぐの9月のGHQによる強制移転で
穴守稲荷は現在地に遷された
この土地も土地の人の寄付によるものである
ところが、元の社殿など壊していくが
鳥居だけは事故など起こり、壊すことができない
そのまま平成まで空港内にとどまっていた
祟りの鳥居とか呪われた鳥居などと言われていた
航空関係社は、事故が起こらないようお参りするようになったという

取り残された穴守稲荷の鳥居は
平成11年(1999)ようやく現在地に移転された
移転費用は有志からの2000万円で行われている
強制立ち退きで現在の所有者が、判明していないからである
平和の扁額は羽田ボランティアの会が掲げたものである

今ではパワースポットとして多くの人が訪れている



白魚稲荷神社 祭神:宇迦之御魂命

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漁師が白魚を奉納する習わしがあったことから
称された
創建年代は不明だが旧羽田猟師町の成立した頃
1600年代(正保から元禄)と考えられている
貝の業者のあと砂利の業者からも慕われている

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飛行機から見える場所にあった看板の廃墟
いまは沖合に滑走路が延びたのでこの看板を飛行機から
見ることはできない
さびついてさびしい


天空橋
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色が茶色
ラピュタのイメージなし


駅名は日本一かっこいい駅名といわれたこともあるが、周囲に
民家もなくもとは羽田空港駅だった

現在は京浜急行とモノレールが接続されている

以前私も天空のラピュタを想像して訪れたことがあるが、
京急線は地下の駅で外に出たら殺風景で
そのまま空港まで誰1人歩いていない道を歩いた
行き着いた場所は研修センターとかで電車に乗って
羽田空港ターミナルに行くしかなく
ある意味面白い場所である

川にかかる天空橋は昔地下に潜る前の
京急線で行楽地に向かう路線だったところを
人道橋にしたという

飛行機好きにはたまらない橋だという
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鉄橋らしさは感じる
飛行機とんだけど遠い!
飛行機見学には向いていない
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京急が地下を潜る前の羽田空港駅前のお地蔵さん


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山田君

天空橋こえると人家はなく
消防署があっただけ


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天空橋から穴守橋渡って穴守稲荷にむかう
飛行機の操縦の練習台だったそうだ
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再度5月に訪れた時ここにある会社の社長さんが
中を見せてくれ
操縦席に座ることができた

天井までびっしりの機械に驚いたが

操縦士2人+機関士がいたことがよくわかる

今じゃこの種の飛行機は飛んでいない

ってこの飛行機御巣鷹に落ちた飛行機と同じ種類だ・・・

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食事処はなく穴守稲荷駅周辺しかなく駅まで戻った
商店街の
居酒屋さんランチ
680円
コーヒー飲み放題サービス

美味しかったです

このランチは下見の時

当日はみんなで穴子の天婦羅食べました
割烹旭



穴守稲荷  祭神:豊受姫命

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名主鈴木家が自宅に勧請した稲荷があった

天保の初めか文政の末か、
堤防決壊の危機にみんなで堤防にあいた穴を塞いだ

被害を食い止めたのは稲荷を祀ったからに違いないと
鈴木家だけでなく地域の信仰の対象になった

穴とは堤防に開いた穴のことで
遊女たちは性病から守る神として信仰があった
稲荷を勧請したのは土手に穴を開けるネズミ退治に
お稲荷さんのきつね様をお連れしたかったからだという

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迫力の面構え



社殿は明治になって暴風雨で壊れたため再建したが
温泉もわき、潮干狩りができ、旅館や芸者の置屋もでき
大変な賑わいを見せた

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いい雰囲気です
鳥居をくぐると
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奥宮です
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役目を終えた鳥居ですかね
ここに御神砂があり自分で袋に詰めます
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いただきました
雪が溶けたら・・庭にまきます







神社がパワースポットと言われるのはお砂のことで
いただいたら、床下や新建築の土地の中央におくという

いわれは

昔々漁から戻って釣った魚を入れるかごを
見ると釣った魚がいません
わずかな砂があるだけです

こんなことが続き、きっと穴守稲荷のきつねの仕業と思い
捕まえてみたもののきつねを放しました

それからその漁師は大漁が続きかごにあった砂を
家にまいたところ大変な富を得ることができました

それから招福の徳にあやかろうと穴守の砂を求めるようになった
といわれます

奥宮の後ろにまたお稲荷さん
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伏見稲荷のミニチュアみたい












羽田空港半世紀の歴史

蒲田・羽田の歴史

大田区HP

猫のあしあと

東京都の歴史散歩 中:山川出版



by gannyan1953 | 2018-01-24 16:51 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

レストラン「かをり」に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・1・17(水)


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今日のランチ



前から気になっていた横浜市役所にあるレストラン「かをり」

家からナビで歩いてみた

約18キロ
4時間半かかりました








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東方天満宮

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東方町 横浜北線工事中

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新川向橋から小机城址をみる


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鶴見川

泉谷寺東でなぜか坂を上がる

土居ノ谷橋を渡り

第三京浜に沿って歩く

十三塚橋
神奈川区菅田町あたりで
月待ち信仰由来の地名だとか・・・

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無茶苦茶ローカルな道

こんなんで横浜市役所行けるのだろうか・・・
ナビは面白い

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車道に出てきた



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三ツ沢競技場

兎山という地名があった

すぐに北軽井沢

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オッ 横浜駅だ


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高い高い電波塔かな
みなとみらい方面に見える
横浜メディアタワーで1999年に建った
なんで気づかなかったのか・・・

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東京の吉原で海老フライ食べれるかと
思って入ったらソープランドだった・・・角海老の横浜店が見える

調べてみたら吉原の老舗とは違い
名前を拝借したらしい

ちょっとつまらない・・・


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都南ビルというレトロなビルに山田君

昭和3年に建ったという
この道はもとは吉田川だったそうだ

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やっと市役所着いた


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だいたい600円前後の価格かな

ランチ美味しかったです

かをりのレーズンサンド
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宝石ゼリーを購入

お菓子も販売してます



























by gannyan1953 | 2018-01-17 18:46 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

招き猫の発祥の地を訪ねて

中川歴史ウォーキング         2018・3・17(土)

大河ドラマ「直虎」の井伊家の殿様が由来する
かわいい招福招き猫のふるさとです
ひこにゃんのモデルにもなっています
戦国時代の楽市が今でも続くボロ市
そして泣き泣き高杉晋作らが
松蔭先生の亡きがらを葬った松蔭神社があります


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豪徳寺の招き猫







集合:9:45 東急「三軒茶屋」中央改札口出たところ


三軒茶屋・・電車「宮の坂駅」下車・・世田谷八幡宮・・勝光院・・世田谷城址公園・・
豪徳寺・・勝國寺・・松陰神社・・世田谷代官屋敷・・世田谷区立郷土資料館・・
大吉寺・・常磐塚・・駒留八幡神社・・三軒茶屋



三軒茶屋
国道246号線(玉川通り)と世田谷通り(津久井往来)の分岐点で、
江戸時代この地に茶屋が3軒あったことから地名の由来になった
現在は田中屋が陶器店として残っているがもう店を閉めているようだ
世田谷線は荒川線とともに残る路面電車である。
全長5キロで今回は2、7キロ先の宮の坂駅まで楽しむ

世田谷八幡宮 祭神:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
源義家が後三年の役の戦勝を記念してたてたといわれる
天文15年(1546)吉良頼康(よりやす)が再建し
吉良家の氏神となった

勝光院 曹洞宗
建武2年(1335)世田谷城主吉良治家(はるいえ)開基で
吉良家の墓地がある

天正元年(1573)吉良氏朝が父頼康の菩提を弔うため
横浜小机の雲松院から僧を招き中興した
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河吉良荘より起った
世田谷吉良氏は庶流で、14世紀後半から世田谷を支配した
16世紀氏朝のころは小田原北条氏と婚姻して
北条とともに没落した
徳川の時代になると上総寺崎村に所領を移すが
旗本として存続しこの寺はずっと菩提寺とされてきた

二つのシラサギ伝説

めでたい伝説
「愛縁仏縁起」によると北条氏康の娘・崎姫が永禄元年(1558)
蒔田から三千石を持参し吉良家に嫁入りした。
天文6年(1537)春薬師如来のお告げがあり、
シラサギの足に和歌を書いた短冊を
つけて放したら、頼康の鷹がこれをとらえた
その縁で嫁入りをしたという
愛縁薬師如来は2尺の木像で運慶作と伝えられる

悲しい伝説
奥沢城(九品仏)に伝わる話で
奥沢城主の娘常磐が頼康の側室となり
懐妊するが12人の側室に妬まれ
無実の罪に問われる
常磐は奥沢城にいる父にあてた手紙を
シラサギの足に結んで放つが
父には届かずシラサギも常磐も追われて死んでしまう
シラサギの死んだ場所からサギソウが生えたという

のちに冤罪とわかり陥れた側室たちも殺される
そして常磐をふくめ十三の墓をつくり
十三塚と呼ばれた

目出たい話と悲しく陰惨な話が
伝わったことが興味深い

常磐の亡くなった場所には常磐塚がある

世田谷城址公園
吉良氏8代二百数十年の館跡で空堀をめぐらし、
烏(からす)山用水、北沢用水に囲まれた
平山城(ひらやまじろ)である
南北朝のころ足利氏の祖と同じくした吉良氏は
三河吉良氏の後裔で上野国飽間(あきま)郷を領し
貞治5年(1366)鎌倉公方りる世田谷を拝領した
長尾景春の乱では道灌とともに戦っている
小田原北条氏とも縁組みをして、吉良氏は蒔田城に移り、
世田谷城は北条氏が領した
秀吉の小田原攻めでは戦わず逃亡したが徳川の時代になると
高家として蒔田氏を名乗った

豪徳寺 曹洞宗
高輪泉岳寺の末である。文明12年(1480)
世田谷城主吉良政忠が母の菩提を弔うため建立したことが
はじまりである。天正12年(1584)に臨済宗から
曹洞宗に改宗、寛永10年(1633)彦根藩主井伊家の菩提寺になった
徳川四天王の1人井伊家の菩提寺としての威厳をもつ
仏殿は黄檗様式で裳階屋根に「元禄三年」銘の三世仏の扁額があり
阿弥陀・釈迦・如来の木像坐像が安置されている

墓地には桜田門外の変で暗殺された、井伊直弼の墓がある
井伊というと井伊直弼が有名だが戦国歴女は
井伊直政をよく知っている
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戦国無双 井伊直政


井伊家の墓だが直盛、直親、直虎、直政までは
井伊谷(浜松)の龍潭寺(りょうたんじ)にある

大河ドラマ「直虎」の父が直盛、次の代が直親だったが、
今川の謀略で殺されてしまい、直盛の娘直虎が女城主になる

直政は直親の子で徳川四天王となる

その子直孝から墓は豪徳寺になった
その直孝が鷹狩りの帰り小さな寺の前を通ると
猫が手招きをする仕草をした
中に入ると突然雷雨になり
雨宿りをさせてもらったことが縁で
井伊家の菩提寺となり直孝の法名にちなみ
豪徳寺となった

猫の手招きから寺の隆盛のきっかけになったことから
招猫堂が建てられた
願いが叶うと奉納するので
招き猫がいっぱいになる
ひこにゃんは豪徳寺の猫が
モデルになりひこちゃんも墓参りに訪れている

定かではないが直孝の奥様は蜂須賀小六の孫阿喜姫である
その姫の飼い猫がモデルになったという話もある

三重塔には干支の動物がいるのだがここはネズミと一緒に
招福猫がいるので必見である

勝國寺 真言宗
世田谷城の裏鬼門を護るという

国士舘大学  できればランチ

松陰神社
安政6年安政の大獄に連座し処刑された吉田松陰が祭神である
文久3年にようやく遺体を引き取りここに改葬された
この地は長州藩の別邸だった
明治15年墓の横に松陰神社が建立された
11歳で殿様の先生になるほど勉強がよくできたので
学問の神様として崇敬がある

吉田松陰は(1830)萩で生まれ
学業をたしなみ国をよくする手段として
勉学のため下田からアメリカに渡ろうと図るが失敗、
井伊直弼が大老の時行った安政の大獄で
萩の牢に入るが、そこで塾を開き
伊藤博文、高杉晋作、山県有朋たち
多くの将来の志士たちに教えた。


千住の小塚原については


世田谷代官屋敷
井伊家の代官大場家の私邸、役宅である
大場家は鎌倉時代の大庭景親の流れという
戦国時代吉良四天王のひとりとして武勇があったが、
秀吉に小田原北条が滅亡したことでこの地に帰農した
寛永10年(1633)井伊家が世田谷を領有することになり
代官となり世襲された

隣接して世田谷郷土資料館がある
世田谷の歴史をわかりやすく展示している

大吉寺
吉良家の祈願寺である
寺内大吉の生家である
「はぐれ念仏」で直木賞をとった作家であり
スポーツライターであり
僧侶で増上寺の法主も勤めた人である
2008年に亡くなった

常磐塚
常磐がこの地で亡くなりお腹にいた
嬰児8ヶ月もここで亡くなるが
胞衣に吉良の紋章があらわれたという
この塚は13塚のひとつとも言われるが
あとの塚は現在そんざいしない
ここの13塚は常磐を妬み後にに殺害された
側室たちの塚だと伝わる

駒留八幡宮
徳治3年(1308)北条左近太郎成願が馬が立ち止まった
ところに八幡大神を勧請したことが始まりで
室町時代常磐がこの近くで亡くなり死産したその子供を
祀り若宮八幡と称した
常磐は弁財天として祀られた


参考:猫のあしあと・ウイキペディア・各寺社HP・東京都の歴史(山川出版)












by gannyan1953 | 2018-01-15 12:14 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

2018年七福神 向島七福神



歴史と素適なおつきあい番外編   2−18・1・6(土)


押上から鐘淵まで歩いた

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スカイツリー
あけましておめでとうございます


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ウシジマ神社
山田君お参りに来たのかなあ

鳥居が三重になっている
三ッ鳥居


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撫で牛

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堀辰雄旧居近くの墨田公園


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古東海道だった

三囲(みめぐり)神社


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ライオンさんにはびっくり


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多くの稲荷社

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ドスの利いたこんこんさん

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今度は三つ巴のようになった鳥居::三柱鳥居
太秦にもある・・渡来だからか謎めいておもしろい


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恵比寿様と大黒様

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弘福寺の前の天婦羅屋さん

弘福寺
布袋尊
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かめさんがいる

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咳の神様


長命寺

弁財天

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家光が飲んだ水は手水になっていた
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桜の葉も一緒に食べると塩味が美味しい


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左の少年って王さんだよね


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王さんが少年時代プレーした野球場

奇しくもこの日

星野仙一さんが亡くなった

長命餅食べてしばらくして知った

ショックだった

10代からファンだった


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星野仙一記念館

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長命餅食べたので食べなかったがもう少し安いといいな


鳩の街商店街

レトロな街だった
赤線地帯もあったらしい

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一歩はいるとこの景色

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すぐに山田君


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これが商店街

一歩裏に回ると

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タイルで飾られた赤線特有の建物みつけた

向島百花園
福禄寿
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来る道ずっときびだんこの宣伝が電柱にあった

屋台の店だったと思ったら出張販売


白鬚神社

寿老人
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黒人塚って何か?

色黒のお医者さんの歌碑だそうだ



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お犬様

木母寺方面へ
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隅田川神社
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かめさんコマ亀


木母寺

高貴な男の子がさらわれ途中で亡くなりおかあさんが探しにきた話


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木母寺


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蛇さん


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都営住宅のそばに榎本武揚像があった
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木母寺の梅若塚


多聞寺
毘沙門天
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多門寺の山門はカッコいい


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なぜ狸が?

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狸塚があった


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いたずらする狸に和尚様が怒って
出てけと言ったら
狸が死んでしまったという

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帰り道の山田君


鐘淵駅にむかう

なんとも狭いメインストリートだった

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駅前の碑


終了



























































by gannyan1953 | 2018-01-06 18:18 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

自由が丘から駒沢オリンピック公園

歴史と素適なおつきあい    2018・2・9(金)
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栗山久次郎の顕彰碑



田舎者には、セレブな町自由が丘はまぶしかった
娘がピアノを習いに自由が丘に通い始めたら
庶民的であったかい一面もみえてきた
なつかしい東京オリンピックの開催地にも近い

集合:9:50 東急自由が丘駅正面口

トモエ学園記念碑・・熊野神社・・内村鑑三旧居跡・・東光寺・・
常園寺・・東京オリンピックメモリアルギャラリー・・駒沢大学駅

自由が丘
駅のあたりは衾沼(ふすまぬま)という沼だったので丘というより低地だった。
荏原郡碑衾町から自由が丘になった。
自由ヶ丘とは、舞踊家石井漠が最初に研究所の名称に使ったらしい。

昭和2年(1927)栗山久次郎氏が鉄道を誘致を勧め
東京横浜電鉄(現東横線)が開通し「九品仏前駅」ができ、
この年自由ヶ丘学園もできた。
昭和4年に九品仏浄真寺門前に駅ができることになり、
地名の「衾駅」となるところ、
「自由ヶ丘駅」に改名した。
目黒区自由ヶ丘から現在では住所も駅名も
自由が丘になっている。

トモエ学園
自由ヶ丘学園の創始者が亡くなり経営難になり、
幼稚園・小学校を小林宗作が引き継ぎ
トモエ学園となった。

リトミックを通し、自由な創造を大切にした教育だった。
卒業生に黒柳徹子(トットちゃん)津島恵子、池内淳子
物理学者の山内泰二(たいじ)らがいる。
山内泰二はトットちゃんの同級生で
エピソードが話に出てくる。
小林宗作校長は国立音大で美輪明宏にリトミックを
教えている。

戦災で焼失し学校はなくなった。

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自由ヶ丘の山田君

熊野神社
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熊野信仰は平安時代中期に盛んになったが、
ここは鎌倉時代より東国武士、庶民のあいだに
西方熊野を極楽浄土になぞらえて
参詣が盛んになった。当神社もそのころ
勧請されたものではないかと思われる(御由緒より)

みこしはかつて三島由紀夫がかついだことがある
三島は上流階級の育ちで厳しい祖母のもとで
みこしを担ぐことを禁じられていた

31歳になった三島はボデイビルに通い体もたくましくなっていた
神輿を担ぎ方に食い込むみこしの重みと熱狂に陶酔している

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内村鑑三旧居跡 開館 月・水・金曜
明治40(1907)年に大阪の香料商から内村鑑三に寄贈された建物で
北新宿にあった。取り壊されるところ、弟子たちの奔走により
この地に移築された。

内村鑑三とは・・・幕末に高崎藩士の子として江戸で生まれた。
明治10年札幌農学校でクラークの影響で農学校の学生たちはキリスト教が多く、
先輩たちに無理矢理キリスト教に改宗させられたが、
内村は神社でいちいち敬礼しなくてよくなったことを喜んだという。
しかし同期だった新渡戸稲造や宮部金吾(植物学者)とともに
真摯にキリスト教を学んだ。
明治、大正時代の代表的キリスト教の指導者、伝道者である


小杉山常圓寺
天正18年(1590)創立で、開基は小杉甚七(常圓)という。
拠点の法華寺が不受不施派に対する幕府の弾圧で
天台宗に改宗されたため、ここは身延山久遠寺末の寺となった。
中興した日長は小杉甚七の実子で優秀な子供だった。
36歳のとき
将軍家光やお万の方の勧めで谷中感応寺9世となった。
そして疲弊していた実家の寺を再興した。


東光寺 曹洞宗

泰陽院霊徳院という。世田谷城主吉良治部大輔治家が
10歳で早生した嫡子の菩提を弔うため創建された
東岡寺といっったが後東光寺と改めた
青梅の海禅寺末(将門の梅がある寺)で
天文19年(1550)には寺領30石を拝領している

元の寺名は東岡と書いて「とうこう」と読ませた。
東の谷に円融寺という大きな寺がある。
東光寺の真東にあたる谷である
そこから太陽が昇るので東岡というのではないか。
そこで碑文谷の地名の由来は日の門の谷から
碑文谷になったと思われる。(碑文谷地名考)

円融寺もまたさきの常圓寺と同じ不受不施派の弾圧で
苦しんだ寺である。

その円融寺の梵鐘と感応寺の梵鐘は同じ日に作られた
同じ作者の梵鐘だと言う。
ここで常圓寺を再興した日長との関係がわかる。
梵鐘の注文者は日長で、寄贈者だった
(圓融寺こぼれ話より)

この梵鐘は除夜の鐘に使われ、最近の圓融寺は
光のマジックが大晦日に奉納され賑わっている

東光寺境内には
白山堂、心字池がある

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吉良家について
吉良と言えば一番の有名人が赤穂浪士に討たれた
吉良上野介である

吉良氏は愛知県三河吉良が出身地で
清和源氏足利氏一門である

三河、奥州、土佐と別れ
この地の世田谷城主治家は奥州吉良家の流れである

ちなみに吉良上野介は三河吉良氏の流れである



駒沢オリンピック公園

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第18回オリンピック競技大会の第2会場として整備された
駒沢競技場にある

サッカー(陸上競技場)入口正面にサッカー会場だったと銅板にある
ホッケー(第一、第二球技場、補助競技場)
レスリング(体育館)正面左にレスリング優勝者銘板がある
バレーボール(屋内球技場)二階正面に東洋の魔女と刻まれている

で熱戦が繰り広げられた。

中止となった第12回の幻の東京オリンピック(1940)の主会場になる地だった
オリンピック記念塔の池の中に聖火台があった
陸上競技場内にも聖火台があり全国4コースの
聖火リレーの点火式が行われた

東京オリンピックメモリアルギャラリー
東京オリンピックの関係展示物が見られる

元は東京ゴルフクラブというゴルフコースだった
昭和天皇がイギリスの王太子エドワードとプレーしたこともあった
1953年プロ野球東急フライヤーズの本拠地となったが
東京オリンピックのため東京都に用地返還した
高山英華を中心に設計は芦原義信ら5人だった























by gannyan1953 | 2018-01-04 14:07 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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