歴史と素適なおつきあい

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ちょっとディープな早稲田から神楽坂

歴史と素適なおつきあい・中川歴史ウォーキング 2018・11・17(土)

ちょっとディープな戦争遺跡から都の西北早稲田、そして
おしゃれで昔の風情漂う神楽坂を訪れます


集合:早稲田駅出口3a3b方面改札口

夏目漱石誕生の地・・箱根山・・穴八幡宮・・早稲田大学・・赤城神社
筑土八幡神社・・神楽坂の善國寺・・飯田橋


夏目漱石誕生の地
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漱石は慶応3(1867)年1月5日、この地に生まれた。誕生の地(喜久井町1)から若松町の方へと上がる坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克である。このことは漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷士として土着していた夏目氏は、元禄時代以降、馬場下の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は家紋「井桁に菊」に因み、町名を当家にゆかりのあるものとした。
漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、店先の古道具の横にいつも寝かされている漱石を見た姉が、不憫に思い、すぐに生家に戻された。2歳11カ月になると再び、内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になる。養母は夏目家の使用人である。その後実父と養父の関係がこじれ(養父の浮気が原因で養母が夏目家に帰る)、22歳のときにやっと復籍することができた。
隣家の酒屋「小倉屋」は堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つときに、ここに立ち寄り升酒を飲んで行ったという。(漱石山房HP)

夏目漱石(1867~1916)

小説家・英文学者。本名 夏目金之助。
代表作「吾輩は猫である」「こころ」。正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝大を卒業して松山、熊本で教鞭をとる。その後、英留学して鬱、胃潰瘍に悩まされる。帰国後、帝大で教鞭をとるが、精神的に不安定な日々を送る。教師か小説家か悩んだ末、帝大を辞職し朝日新聞に入社する。精神衰弱を和らげるため高浜虚子の勧めで小説を書き始め文豪への道をたどる。ちなみに漱石は「浪漫、新陳代謝、流石、経済、電力」など多くの造語を作っている。死後、解剖され、脳はエタノールに浸されたまま東大医学部に保存されている。

弁天町に漱石終焉の場所があり、漱石公園となり漱石の胸像、猫塚がある。(漱石山房HP・ウイキペデイア)

穴八幡宮(高田八幡宮)
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祭神: 応神天皇・仲哀天皇、神功皇后
康平 5(1062)源義家が凱旋祝いにこの地に兜、太刀を納め八幡宮を勧請したとある。
寛永13(1636)幕府の御持弓組頭松平直次が、的場を築き八幡宮を守護した。
寛永18(1641)別当放生寺を造営する際横穴が現れ、金銅の阿弥陀如来像が現れた。これにより
穴八幡とよばれるようになった。
このころ、神木の松が瑞光を放っていたので光松山放生寺となった。徳川家光は当社を北の総鎮護とし、幕府の祈願所とした。吉宗が世継ぎの疱瘡平癒祈願のため流鏑馬が奉納された。
又、加賀藩も深く崇敬し金沢城内に勧請している。
明治以降衰微したが、大正天皇が皇太子のとき虫封祈祷を行ったことから崇敬者が増え、現在では「一陽来復」の御札(冬至から節分まで)を求める人で賑わっている。

一陽来復―易経で陽と陰が繰り返し、どん底の状態にあっても又いいことが巡ってくるという意味であるが、ここの参拝客は、お金がまわりまわって自分の懐に帰ってくる商売繁盛の意味ととっているらしい。
このあたり、早稲田大学建設に伴い移転している神社仏閣が多いが穴八幡は江戸時代から同じ場所である。
(ウイキペデイア)
江戸時代、牛込のほとんどの町は穴八幡と赤城明神両社の氏子であるが、牛込には幕臣が多く住み、日光参拝に供奉しなければならなかった。ところが、赤城山の神と日光の神はたびたび戦をして仲が悪い。赤城明神の氏子が日光参拝すると山が荒れるという話があり、牛込の総鎮守は穴八幡とした。
神楽坂の地名の由来は諸説あるが、穴八幡の神楽の御旅所があったことからだという。(赤城台の歴史HP)

箱根山

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新宿戸山に昔尾張藩下屋敷があり、回遊式庭園が造られた。
池を造るために掘った土を積み上げて造られた山で
玉円峰(ぎょくえんぽう)といわれたが、陸軍戸山学校が跡地に
でき、それから箱根山といわれるようになった。
陸軍戸山学校
体操科は剣術、軍学生徒科では軍歌の演奏を学び
野外演奏場跡が残る。

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ここで軍歌の演奏を練習したのだと思われる。
最後の軍学生徒となった118名の成績名簿が発見され、
東京音楽学校から陸軍戸山学校に編入した名前がわかった。

芥川也寸志 首位  さすが・・サキソフォン担当
団伊玖磨 4位・・歌曲のピアノ伴奏が難しい・・バスドラム担当
父高順(斎藤高順・たかのぶ)10位 小津映画の作曲をした 多分サキソフォン担当奥村一 33位 ソナチネやソナタや映画音楽を作曲 オーボエ担当

このメンバーが演奏場で演奏していたと思うとワクワクする

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将校さんの会議室




ところが私は2度訪れたがいつも居心地悪く、
滞在はそこそこにしている。そこで調べてみて驚いた。
幽霊出る・・都市伝説がある・・

おまけに2006年隣の国立病院で
多くの人を埋めたと戦争当時の看護師が証言!
国立国際医療センターがすぐそばにあるが、
兵部省の軍医付属病院が設置され(初代院長は松本良順)
病院は陸軍第一病院、戦後は国立第一病院となった。
ここに陸軍軍医学校、防疫研究室があった。
現在はエイズ研究など行われ、寿産院事件の幼児、第5福竜丸の船員、
横井庄一さん、小野田寛郎さんなど入院した。
1989年国立予防衛生研究所の建設現場から100体以上の人骨が
発見され、戦争中の何らかの遺体であるとされた。
731部隊に関係しているのではないかと疑惑をもたれている。
(オルタ 元朝日新聞政治部長)

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早稲田大学 大隈講堂1927年建設



早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 昭和3(1928)


坪内逍遥博士、古希の祝いに、その半生を傾倒したシェイクスピア全集全40巻の翻訳が完成したのを記念して設立された。演劇、映像の貴重な資料を揃えている。建物はエリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計された。(早稲田大学HP)

會津八一記念博物館 大正14年(1925)

會津八一(1881~1956)は東洋美術の研究者であり、書家、歌人としても有名な人である。坪内逍遥の弟子で、早稲田大学卒業後、英語教師として新潟の有恒学舎、早稲田の中高で美術史の教授として早稲田大学に勤務した。八一は「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法をみてゆくことは大切である。どれ程理論が立派に出来上がっても実物を根底にする真実性が含まれていなければ、即ちそれは空論だ、取るに足るものではない。」と述べた。この趣旨で、昭和9(1934)早稲田恩賜館にコレクションを展示する。昭和29(1954)會津博士記念東洋美術陳列室が移転、再開される。1998年現在の會津八一記念博物館として生まれ変わった。(會津八一記念館HP)


赤城神社 

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鎌倉時代正安2年(1300)赤城山の麓から移住した大胡(おおご)氏・藤原秀郷子孫により創建と伝わる。

江戸時代牛込の鎮守と信仰された。鶴巻町に元赤城神社があり、

こちらは2010年モダンな社となり、ロケも多くデートスポットになっている。

赤城明神の伝説に将門の首が飛んできてここに落下、そのとき木に血がついたため

アカギとなったとある。(赤木台の歴史)藤原秀郷は将門を討った人である。


筑土八幡神社

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祭神:応神天皇

嵯峨天皇の時代(809〜823)老人の夢に八幡神があらわれたことで

創建された。円仁が祠を、最澄が造ったといわれる阿弥陀如来を安置したという。

元和のころ江戸城近くに明神が移転、筑土明神社となり現在は筑土神社となった。

ここには将門の首を入れた桶が残っていたが戦災で焼失した。

もとはこの地に桶があったことになる。

 
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寛文4年(1664)製作
船形で、猿が桃の実を手折る珍しい庚申塔


神楽坂


穴八幡の御旅所があったことに由来する。

他に津久戸明神が牛込に移転する時

この坂が登れず、神楽を演奏したら登れた説がある。

フランスの学校があったことから

東京のシャンゼリゼといわれた。

路地は花街の風情が残るといわれ

今では外国人も多い。


善國寺 日蓮宗

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安土桃山時代文禄4年(1595)日惺上人により創建。

本尊は毘沙門天で江戸時代より「神楽坂の毘沙門様」と信仰された。



 


by gannyan1953 | 2018-08-29 11:52 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

崖山地蔵と榎下城址に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・8・18


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崖山地蔵



夏なのに涼しい・・・即お出かけ
気になっていた崖山地蔵と榎下城
近いじゃないかと行ってきた

中山駅おりたら


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杉山神社


横浜線に沿って歩く
山が見えてきた

きっと城跡だ

旧城寺をめざす

なぜか山のふもとは私有地
不法侵入してしまいそう



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旧城寺
舊城寺とあって最初ふんじょうじかと思った・・
舊は古い字だったんだ

久保山といい、新編武蔵風土記稿によると薬師堂のお薬師様は
行基作だという
この地は山田右京進の居城で
二重の空堀あり。
右京進の家老の石碑がありそれが慶長のころ。蘆垣
蘆垣という名で子孫が残っているらしい

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山門があるところから、もう城である
寺の墓の奥が本丸になる
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榎下城は
上杉憲清が築いたといわれる
その子憲直が1438年永享の乱で足利持氏に加担、
持氏は破れて金沢称名寺で自害
以降城主は不明という
小田原北条のとき小机城の出城といわれる

本丸はあるくことができないが
私有地なのだろうか

寺は慶長8年(1603)あたりに城跡につくられた

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寺へ行く道・・土塁になっている

ここから十日市場にむかうがそこから鎌倉道になる

旧鎌倉街道探索の旅 中道編 :芳賀善次郎
によると

北門地蔵があるという
ボクカドといい、牧門かという
ここに牧の支配者がここにいたのではないかと 

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東名高速をくぐって右に行くと左にこの道
鎌倉道らしい

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右が北門地蔵

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北門地蔵

さらにクモの巣を払いながら
進むと鎌倉道はあっけなく消えた

もどって

ヒーヒーいいたくなる坂が待っていた
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登って笑う
「泣坂」だと・・(名古屋弁)
そこから軽快にズンズン進む
一応鎌倉街道

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246を渡って右、横浜線の鉄橋が見える

単線から複線になったことがよくわかる

ここから長津田の歴史散歩は


を参考に


今回は鎌倉街道を歩く


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ここは大山道でもある
道は整備されている

再開発された長津田駅がみたくて
駅に寄ってみた
マルエツがすぐそばにあって
駅のしぶそばでランチ

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御野点所

ここから昭和天皇が皇太子だったころ
陸軍の演習をながめた
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長津田もマンション増えました
実はこの御野点所の真ん前も
でっかいマンションできた

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この奥に旧鎌倉街道ありという

前回は踏破していないので
ここから崖山地蔵に行けると勇気をだしてはいってみた
民家の横の道が鎌倉街道・・庭先?・・不法侵入した気分

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狭い

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墓ができるらしい

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少し広くなった

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あっ   出口だ

ここから道がわからない
あとで調べたら
本来北に向かわなければいけない
この道は西へ西へ
あげくカーブしてきた田園都市線にまたはばまれ

つくし野駅にむかっていた

しかたなくグーグルで 道を探す

電車の車両がよく見える
陸橋にたどりついた

とっても気持ちいい

山裾をカーブしながら
田園都市線がトコトコ走るのが見える

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東光寺踏切
東光寺跡は近いぞ

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成瀬クリーンセンターテニスコートなるものの
右に崖山地蔵あった


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東光寺村の義民原島源右衛門さんが処刑されたといわれる場所
名主だった源右衛門さんは享保元年に打ち首・家族も処刑されたという



ここは鎌倉街道の処刑場だったといわれる

暗かったのでくらやみ坂ともいわれた

以下 歴史と素適なおつきあい鶴見川流域の鉄と俘囚より


長津田・成瀬ー東光寺
東光寺がかつて存在した。
江戸時代東光寺と長津田との境界争いがあった。
境界と思われる場所に木炭を埋めた。
原嶋源右衛門が木炭が証拠であると幕府の役人に伝え、
境界は定められた。
その後木炭を埋めたのは最近であるとわかり境界を偽り詐称した罪で
源右衛門一家がこの地で処刑されたという。
崖山と呼ばれる所で崖山地蔵が供養に置かれている。
(鎌倉街道中道編より

中世このあたり東光寺村があり鎌倉街道、刑場があった。
家康が入国する村を分断し
そこに新たに幕府の役人井上主水が配属され境界のもめ事に発展、
土着していた源右衛門が処刑されたが、
当地では義民原嶋源右衛門といわれている。

恨み籠る場所として鎌倉街道を行く人に怖れられたが、
街道は大山街道にとってかわり、長津田に宿が移った。
鎌倉時代この道は畠山重忠が通った道である。

参考にどうぞ

念願だった鎌倉道
榎下城址
崖山地蔵
まわってみました

帰りは
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崖山を左に行くとこの道
辻で左すぐに右に行くと農道
つながってる
これぞ長津田にむかう鎌倉街道か
長津田まで一直線

長津田で休憩
マルエツのイートインはあったかいお茶まである
デザートと飲み物を買ったのに
飲み物が無料であった

しばしスマホでゲーム

落ち着いたら
家まで8キロ

歩いて帰った
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246号線から田奈の風景
昔義母の施設があって
よく車いすで散歩した
確かヤギがつながれていてビックリした

今年は義母とガンジー(犬)の十三回忌

今日は19キロ歩きました








by gannyan1953 | 2018-08-19 12:59 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

早稲田にある箱根山

歴史と素適なおつきあい番外編  2018・8・15

今日は終戦記念日

ミステリースポットに先日訪れた話

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尾張藩下屋敷跡

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ここはのちに陸軍の戸山学校があった

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青年将校が使用した将校集会施設
今はその上に幼稚園・教会が建てられている

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体操科では剣術、軍学生徒科では軍歌の演奏を学び
 これが野外演奏場跡

ここで軍歌の演奏を練習したのだと思う

最後の軍学生徒となった118名の成績名簿が発見され
東京音楽学校から陸軍戸山学校に編入した

芥川也寸志 首位 さすが・・
団伊玖磨 4位・・歌曲のピアノ伴奏が難しい・・あとで練習しよ!
父高順(斎藤高順・たかのぶ)10位 小津映画の作曲をした 
奥村一 33位 ソナチネやソナタや映画音楽を作曲 オーボエ担当

このメンバーが演奏場で演奏していたと思うとワクワクする


ところが
私は2度訪れたが
いつも居心地悪く
滞在はそこそこにしている

そこでググってみて驚いた
幽霊出る
都市伝説がある

おまけに2006年に隣の国立病院で
多くの人を埋めたと看護師が証言!

ビビった


あの空気の重さはそこにあったのかと
再度ビビった

あまり詳しくかきたくないので
興味ある人はリンクでみてください


この早稲田新聞は早稲田大学とは関係のない組織だそうです









合掌









by gannyan1953 | 2018-08-15 12:31 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

民間人捕虜の墓が横浜にあった

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・8・15


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保土ヶ谷 英連邦戦死者墓地

英連邦戦没者墓地はそれは美しく維持されており
10数年前に訪れた時
この維持費どこが受け持っているのか気になってしまい・・・ 
一人一人にそれぞれの苦しみ、くやしさを持って
ここに葬られていることに
想いを寄せなかった
反省


終戦記念日の今日最近読んだ本が気になった

図書館の横浜の歴史コーナーで

「赤いポピーは忘れない」という本が目に入った

私的には本にはまり一気読みした

私にとって知らない戦争の話だった

民間人が船に乗っていてドイツに拿捕され
男女約140名が福島のノートルダム修道院に監禁された
乳幼児も含まれる ショックを受けた

ドイツは自分たちが拿捕した船を取り上げ
捕虜として日本に置いていった・・・話

それはナンキン号という船だが他の船も拿捕され、
横浜にあらゆる人種の敵国人が入国した

福島のノートルダム修道院に連行された人々のうち
船で働いていた女性の墓が
横浜の英連邦戦没者墓地に葬られた

ミッドウエイ海戦は日本が敗北した訳だが
その理由のひとつが暗号をアメリカに読まれていた

それがわかるのがナンキン号がその資料を
積んでいたからである

そのため乗員、乗客は特別捕虜となった

特別な捕虜とは待遇が定められていた条約に
反し秘密に収容し、外部との接触を避ける
扱いができたということらしい

ノートルダム修道院は東日本大震災で
被害を受け
残念ながら取り壊された

かつてヘレンケラーが訪れた場所である

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写真:福島市:ノートルダム修道院 より

その後ナンキン号はロイテンと改名され
ドイツの船とともに横浜新港埠頭に繋留中
「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」により
炎上してなくなった

横浜新港埠頭は赤煉瓦倉庫で今では観光地になっている
民間人は目撃はしたものの
どんなことが起こったのか発表されず
戦後もしばらく伏せられていた爆発事件である

義母はまだこのころ磯子に住んでいた
爆発音を耳にしていたかもしれない
 



参考:赤いポピーは忘れない:遠藤雅子






by gannyan1953 | 2018-08-15 11:29 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

岩村城の歴史

歴史と素適なおつきあい番外編  2018・8・5

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さわやかで甘口のお酒でした
ちなみに上のお城はお子様の朝食があの中に
重箱として料理が入ります
うらやましかった・・・

文治元年(1185)頼朝の家臣加藤景廉(かげかど)が
地頭として領し
明治維新まで700年にわたり存続した城である。

標高717mにある。

この地は遠山荘と呼ばれ、長男景朝が築城し、
遠山氏を称した。

女城主
戦国末期 遠山景任が没し、
養子として迎えた信長の五男御坊丸が
幼少だったため
妻のおつや(信長の叔母)が実質的な城主となり
治めていた。

聡明で美しい人と伝わる

元亀3年(1572)武田の将 秋山虎繁が
攻めて来た

信長の援軍を待ちながら籠城作戦にでたが
信長は長島一揆で忙しく手がまわらない。

籠城3ヶ月 食料もなくなり
おつやが秋山の妻となる条件で無血開城をした。

夫婦となった2人は平和に遠山荘を治めたが
御坊丸が武田信玄の人質にとられたことが
信長は許せない。

天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼が
敗戦した時、信長の長男信忠に攻められるが

また6ヶ月の籠城をする。

武田は滅び、開城することになった。
条件はおつや。秋山の命をとらないものだったが、
信長は約束を反故し、
夫妻は磔刑に処せられた。

御坊丸は武田から戻され
犬山城主となる。

本能寺の変で兄信忠とともに亡くなっている
20歳だったそうだ。

最初に武田に攻められた時
この御坊丸を守って秋山との
結婚を承諾したと思うので
信長さんもきつい人ですね・・・

by gannyan1953 | 2018-08-05 16:51 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

岩村城

歴史と素適なおつきあい番外編  2018・8・2

早朝登る
往復1時間くらい

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岩村城 朝




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最初に下田歌子が勉強した父の書斎・復元
ここで、父と祖父の蔵書を読んだ

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下田歌子生誕の地
安政元年(1854)に岩村で生まれ
教育者・歌人で実践女子学園の基礎を築いた

父は勤王派で蟄居させられ
それが解かれ上京した
歌子もいっしょに上京し
宮中に女官として勤める

女子教育に力を注ぎ
英国王室の子女の教育の勉強に
英国に渡り
ビクトリア女王と謁見もした女傑である

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藤坂

初門
一の門と標識が親切に続く

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追手門あたりかな

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霧ヶ井
城主専用の霊泉で井戸に蛇骨を投じると
霧に覆われ城を守ったという

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今でも湧き出ているらしいが濁っていた


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東洋のマチュピチュといわれる
雰囲気がでてきた

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朝日でわかり辛いが六段壁
江戸時代崩落を防ぐため石垣を下に継ぎ足し
この姿となった

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本丸

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古城らしさが出ている

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麓からずっと道に咲いていた花
多分アジサイ

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麓に下りたら
かわいい柴犬がじっと
怪しい奴という目で
見つめてくれた
























by gannyan1953 | 2018-08-03 13:17 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

半分青いロケ地に行ってきた 岩村

歴史と素適なおつきあい番外編   2018・8・2

半分青い  律君が好きでみている

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ロケ風景 写真展示より

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ポスターがあちこちに


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奥に入ると
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疎水が流れる

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藍の染めと機織り


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ふくろう商店街

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明智鉄道乗ったことがない・・・


ここ岩村は何十年も前に
免許取り立てで祖父の命令により
水半のごぼうの漬け物を買いにきた

名古屋から2時間はかかると思う
若さってすごい

でも祖父の命令で奈良も行った
おかげで今でも運転できる


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五平餅のお店は平日だったためか
どこも開いていなかった


でもその日の宿で夕食に出てよかった











by gannyan1953 | 2018-08-02 12:46 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
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