歴史と素適なおつきあい

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老馬谷ガーデン周辺の歴史

この辺りは、老馬谷と呼ばれていました
大昔から人が生活を営んだ歴史ある場所です
ご紹介いたします



古代の遺跡


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老馬谷ガーデンはE7遺跡の左下になります




このあたりの歴史は古く、旧石器時代から人が住んでいたといいます
ガーデンのすぐ近く老馬不動尊のあたりに老馬遺跡・鍛冶山遺跡がありました

老馬遺跡はE6 鍛冶山遺跡はE7です

いずれも縄文早期の遺跡で住居や動物の落とし穴など見つかっています


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街道

東名高速道路があることでもわかりますが
古代からの交通の要衝でした


「古東海道」がとおり、「足柄往還」ともいわれました
租庸調などの年貢を都に納めたり
遠く対馬や九州に行く防人が通る古代からの道でした

そして鎌倉からの「中の道」と交差するところに荏田宿があります

江戸時代になると大山街道といわれ
大山阿夫利神社をめざす人々で賑わいました

白装束で「六根清浄」と唱えながら行く人や

納め太刀といってちょっと粋でしゃれた男たちが
木の刀を背負って歩いて行きました

大山詣りです

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町旅より



老馬谷ガーデン近くに、大橋がありました
生麦事件のあと幕府は外国人襲撃の取り締まりのため
この橋のそばに番小屋を設置しました

昭和の改修で橋はなくなり
先の鍛冶橋を渡って荏田宿にはいることになります

荏田宿

そこには宿の庚申塔があります

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246号線に近づきますと
大山参りの常夜塔が庭先に保存されています
火事で宿は焼けてしまいこの常夜塔だけが残りました
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画家としても有名な渡辺華山は荏田宿の「升や」に泊まりました

荏田宿の飼い犬が狼に食べられてしまったという話を
華山は游相日記に書いています

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渡辺華山が旅の最初に宿泊した「升や」華山画




鍛冶山老馬不動尊

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今でも滝が流れています
岩の上にお不動様がいらっしゃいます
左側のお顔のないお不動様は
関東大震災でお顔を損傷されました



江戸末期、新潟からお不動様を背負って
この地にやってきた諦念法師が
大久保家に宿を借りました

ところが

気に入られその家の婿養子となって
背負ってきたお不動様をお祀りしたことが
はじまりです

今では中川の人々に守られています

鍛冶山の鍛冶は
大久保家の先祖が鍛冶をしたことに由来するそうです

大久保家のルーツ


「お不動さまといっしょ」大久保太一著によると・・・

先祖は武士で戦国時代からの言い伝えです

大久保重成という武士が一族郎党をひきつれ
大山街道から鎌倉街道を北に進み
稲城市矢野口の渡しから多摩川を渡り
狛江村に着きました

ところが俄に強盗(クモスケ)が現れ、馬上の重成が竹槍で殺されてしまいました

クモスケは家来に殺されましたが主人をなくし
路頭に迷いました

そこから10キロほど戻り
老馬の地の住み易さに
この地で一族は暮らすようになりました

馬の牧場をはじめ
じきに年老いた馬が死にました

死んだ馬は三幕堂入口に葬り供養したそうです

この話が「老馬」地名になったともいわれています

三幕堂は
土地の人から聞いた話では
三は産で、このお堂で昔お産をしたとも聞きました

家の中で女性はお産をしなかったのですね


200万年前の地層

早淵川の底は岩盤が多く、水が早く流れるので早淵川といわれた
という説があります

その石は200万年前の岩盤で大変硬い岩です
上総層群といわれ、関東平野の基盤となる岩盤です
老馬谷ガーデンから川を覗き込むと
岩盤をみることができます

中世の城
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荏田城址

鎌倉時代青葉区荏田町に荏田城がありました
城主は源義経の家来荏田源三といわれます

荏田城址は私有地なので見学はできませんが
江田の東名高速道路の陸橋近くで写真をとりました


詳しくは鶴見川の流域の考古学:坂本彰先生の本をご参考に


荏田宿を過ぎたあたりに義経から
譲り受けた馬の供養塔もあります
小黒谷戸庚申塔

馬の名は小黒(こぐろ)といいます

養老山真福寺

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荏田宿には創建は不明ですが
真言宗の寺があります
清涼式釈迦像という美しいお釈迦様が
おられます



刀と大蛇の伝説

劔神社は

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神社脇には鎌倉古道が通っていて
ヤマタノオロチ伝説を思わせる製鉄伝説が伝わります

陸奥から来た炭売りの商人が鎌倉の刀鍛冶に
炭を納めたところお礼に刀をもらいました
帰り道、商人はこのあたりの泉で喉を潤すと
酒を飲んだように眠りこけてしまいます
すると木の上の大蛇が下りてきて
商人を丸呑みしようとしたところ
刀がひとりでに抜かれ大蛇を斬ったそうです

助かった商人が村人に刀を預けたところ
宝刀として
劔神社のご神体となったということです

祭神は素戔嗚尊です


参考
鶴見川流域の考古学:坂本彰
中川の地名:吉野孝三郎
荏田村の地名:吉野孝三郎
お不動さまといっしょ:大久保太一
遺跡写真:埋蔵文化財
鶴見川・境川流域文化考:小寺篤
変わりゆく古里写真集・あざみ野・たまプラーザ・荏田の二十五年より
港北百話:港北区老人クラブ連合会
都筑の民俗
老馬遺跡:港北ニュータウン埋蔵文化財
HP城郭図鑑Wikipedia
歴史と素適なおつきあい














by gannyan1953 | 2017-12-28 21:03 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

中川から大山道と中世の寺家を訪ねて

中川歴史ウォーキング          2015・3月14日



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寺家ふるさと村

集合:中川ケアプラザ9:45集合 天気よければお弁当

中川ケアプラザ・・大山街道・・荏田宿・・荏田城跡(見学不能)・・
小黒谷戸庚申塔・・地蔵堂・・市ケ尾横穴古墳群・・甲神社・・
寛元板碑・・寺家ふるさと村(昼食)・・熊野神社

鍛冶山老馬不動尊 中川の大山道

江戸末期新潟の高田郡の座不動から諦念法師が六部として厨子に入った不動明王像を背負って、このあたりにやってきたところ、夕暮れとなり近くの大久保家の世話になった

六部とは六十六部の略で、諸国の霊場を巡拝する修行者のことをいう。

これが縁となって大久保家の婿養子になった。
滝を掘って荒行に励んだが旦那寺に預けた不動明王が紛失してしまい、
また越後に戻って不動明王を勧請した。

その不動明王を祀ったことがはじまりである。

天明6年(1786)に
矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吒迦童子(せいたかどうじ)を侍らせる。

滝にある石仏の不動明王は諦念法師の作と伝わる。

雨乞い行事があり、雨が降ったらお神酒をお供えする。
昔は滝があったそうだが、開発後も涸れずに水が湧き出ており
霊水といわれている。
この滝壺を掃除したり石仏にバケツで水をかけると大雨になるという言い伝えがある。
(港北の遺跡を訪ねて:港北区役所)



荏田城址 中川〜センター南の歴史散策
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鶴見川流域の考古学:坂本彰より

多摩丘陵の東南にあたり、高さ40mほどの台地にある。
赤田谷からの赤田川はこの台地のふもとで小黒谷から流れる
布川に合流、布川は早淵川に合流する。
現在城跡は大半が山林で平らな部分が竹林、栗畑となっている。

築城は丘陵にあることから中世12世紀から16世紀のものと見られ
空堀、土橋は中世後半と思われる。
後北条氏独特の縄張りがみられる(小机城や榎下城と似ている)
ことから後北条氏の築城ではないか。

荏田城の役割はこの江田に矢倉沢往還(大山道)と鎌倉街道・中の道が
交差する事から昔から交通の要所だった。
小机城の支城としてして後北条氏が茅ヶ崎城とともに
役割は小さくなかったと思われる。

小田原衆所領役帳に
「曽祢采女助(そねうねめのすけ) 七拾七貫五百八十文 小机荏田」
とある。曽祢氏は甲斐の有力な家臣だった。中川の八王子千人同心
(参照:鶴見川流域の考古学:坂本彰)
近くには古代の都筑郡衙(ぐんが)があった。(長者原遺跡)
郡衙とは古代の郡役所である。江田の東名をはさみ両側に広がる遺跡である。
律令時代のもので関東には多くの郡がありそのひとつである。

古くは、義経の配下の江田源三の居城と伝わる。

江田源三とは
「新編武蔵風土記稿」に源義経配下とあり「源平盛衰記」には信濃の人とある。
平家物語に弁慶、熊井太郎、佐藤継信、佐藤忠信とともに、「一人当千の兵」とある。
「義経記」では京都の義経の居館(堀川)で、頼朝が雇った
刺客土佐坊昌俊渋谷荘を訪ねて 金王丸参照と戦い、
矢を受けて討ち死にした。享年25歳だったという。荏田城

NHK大河ドラマ尾上菊之助主演「義経」(俳優:松本朝夫)や、
能の「正尊」(しょうぞん)に登場している。


小黒谷戸庚申塔 
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江田源三は屋島の戦いの恩賞に小黒という馬をもらった。
小黒の厩があった場所と伝わる。荏田城
小黒は義経が奥州藤原秀衝からもらった名馬で、産地は遠野村小黒沢だったことから、小黒と命名した。義経が衣川の戦いで敗走する時離してやると,生まれ故郷に帰りそこで亡くなったという。

遠野の近くの伊豆権現に、小黒の碑が残る。

馬はもらったのではなく、江田源三が馬の世話をしていのだろうか。

地蔵堂
 市ケ尾1628
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創建は江戸初期で本尊は木の地地蔵菩薩。
「お十夜」といって毎年11月30日に双盤をならし
地蔵尊の御開張が行われる。

開山は統誉上人で猿田坂に穴を掘り中に入って入定し、自ら即身仏となった。
念仏を唱える声は美しかったという。

作家佐藤春夫は大正5年神経衰弱を患い、このお堂の一室に
仮住まいした。武蔵野の風景が残るこの地で「田園の憂鬱」を書いた。
(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

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田園の憂鬱の碑

猿田坂
大山道から急勾配の坂道が鶴見川方面におりて行く。
猿田坂と言って「去る」から嫁入り行列が避けたという。

市ケ尾横穴古墳群 市ケ尾1634市ケ尾〜早野
6〜7世紀の横穴式共同墓地で、20基保存されている。
中には骨、刀、土器など埋蔵。
この山は綿屋の所有で元の屋敷は古墳の下にあった。

先祖を祀る祭祀場であったと思われる。この「前庭部」発見は全国でもはじめてで、以後の研究に進展をもたらした。横穴の内部は造られた時代によりさまざまな形をしている。
*綿屋  大山道の宿屋で明冶10年ころ近くの「石橋」からの火事で焼失、再建され現存する。(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

甲神社 鴨志田町296
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祭神は日本武尊(ヤマトタケル)でご神体は石刀のようなもの。
写真をみたが、縄文時代の石棒(せきぼう)に見える。
呪術、祭祀に使用される男根を模したものである。
鴨志田十郎が甲、刀を捨てて離散し百姓になったという。

鴨志田氏
鴨志田氏は谷本川流域寺家鴨志田の谷戸を生活基盤にしていた。
建久元年(1190)頼朝上洛に畠山重忠の随兵に名を連ねる。
寛元板碑の他に建長7年(1255)の板碑も残る。

畠山重忠が鎌倉に向かう途中北条氏の大軍と戦い、二俣川で戦死した。
そのとき鴨志田氏は畠山に加担していた。
それが、北条氏に知れる事となり離散、逃亡となった。
神社の北側に馬場があった。(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

神社裏は段差が大きくありこの地形をを腰巻きというらしい。


寛元板碑 鴨志田町529共同墓地
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寛元2年の供養碑で県で一番古いといわれる。
腰巻という段に平安時代から鴨志田一族が館を構え鬼門に社、念仏堂、観音堂を造ったと考えられる。(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

当初は河原石の小山が3つ並んだ中央に碑面を東側に向けて立っており、
その下に6~7個の河原石に囲まれた蔵骨器が埋葬され、
墓碑的な性格を持ったものだったようである。
板碑は秩父産の緑泥片岩で作られている。
碑面には阿弥陀如来をあらわす種子キリークが大きく薬研彫りされる。
(横浜市文化財HP)
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阿弥陀様のキリーク
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寺家の歴史

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寺家ふるさと村の水車小屋

寺家周辺には朝光寺原遺跡(市ケ尾)、長者原遺跡(江田)稲荷前古墳群(大場町)など古代遺跡が多い。寺家にも横穴古墳(下三輪玉田谷戸古墳群)がある。
古代から人が住み今でも畑から土器がでてくるという。

中世12世紀ごろ在地の武士が力を付け始め、騎馬、弓を中心の戦闘力を持ち
軍事力を背景に開発、開墾が進んだ。

開墾者は国府に開発を申請し、従者や放浪している百姓など集め開発団を組織した。

寺家は谷戸が多くわき水も多いので水田に適し武士団の成長を早めた。
開発された土地は数年間課税されず、その時期が終わると課税を嫌い貴族、
寺社に荘園として寄進し、相応の年貢は納めるが自らは荘司となり
現地の管理者となり支配した。

寺家周辺では榛谷御厨(はんがやみくりや)恩田御厨、小山田荘などある。
御厨とは伊勢神宮領のことである。
国の支配地は国衙領として八佐古郷、佐江戸郷、市尾郷、石河郷、
恩田郷、鴨志田郷、黒鉄郷、勝田郷、麻生郷、河井郷、小山田保などあった。
都筑区に住む人にはなじみのある地名である。
これらの郷には役人が軍司となって在地の武士がこの役を勤めた。

頼朝が挙兵し東国武士の棟梁となった。
平家の武将が頼朝に加担していたのは開墾地の権利保持のためであった。

建久元年(1190)頼朝上洛に従った者に鴨志田十郎、石河六郎、
都筑三郎、都筑平太、江田小次郎奈良五郎など寺家周辺の武士たちが加わった。

これら武士たちは開発地の地名を名字とし、鎌倉に近い領地だった。
鎌倉幕府が滅亡すると寺家周辺の武士の名が見えなくなってくる。
南北朝、室町時代になると周辺の土地は有力寺院の所領になっている。
寺家には天正年間に中興されたという臨水山桂月院東円寺があった。
3代将軍家光の寄進があり代々将軍からの寺領は安堵されていた。
熊野社の祭礼は神仏混淆で真偽真言宗の修法で東円寺が行っていた。
大正11年に王禅寺に合併された。

寺家の地名はこの頃の寺院の所領からの地名なのか。
室町時代の関東は鎌倉公方と関東管領の不和があった。
明応4年(1499)北条早雲が現れ小田原を攻略、関東は後北条の支配となった。

天正9年(1581)寺家と鴨志田を支配する大曽根飛騨守の名が見える。
天正18年(1590)後北条小田原が秀吉に滅ぼされ家臣は秀吉に仕える者、
帰農する者もいた。大曽根氏は寺家の名主になった。

後北条の支配地は家康の支配地になり、関八州と呼ばれた。
寺家は江戸時代初期は天領となり寛永10年(16339には寺家の一部は三
河以来の旧臣である筧正重の知行地になった。その子重次が没しその子正利、正道に分割された。
元禄10年(1697)2年前の天領の検地とこの年の筧両氏の検地の記録が残る。

参考:「寺家の歴史 」大曽根家文書からみる村の暮らし

大曽根氏

鎌倉時代この地を領していた鴨志田氏が失脚し、
つぎに安藤九郎盛長の子時長が治めた。
時長は鎌倉幕府の評定衆で子孫は三河大曽根荘にいたので大曽根と名乗った。
霜月騒動に巻き込まれ安達一族が失脚し大曽根氏は寺家に百姓となって住んだ。
江戸初期に金子と名乗り、のちに大曽根姓にもどった。


熊野神社  寺家町880
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祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコトで、慶応3年にこの地に
移転、平成13年焼失した。現在は再建されている。
寺家の名主大曽根氏が師岡熊野神社師岡熊野神社 から勧請した。
(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

師岡熊野神社に近い所に大曽根がある。地名の由来は地形からつけられたというが、
大曽根氏と港北区大曽根は関係しているのだろうか。










by gannyan1953 | 2015-02-03 19:40 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

中川から大山街道を辿ろう!江戸に向かって

歴史と素適なおつきあい番外編
 


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中川から富士の夕景

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あゆみが丘にあった昔の馬頭観音


 


中川〜ウトウ坂〜馬頭観音碑〜大山道立場・皆川家〜血流れ坂〜さくら公園〜川崎考古研究所〜道標のある馬頭観音〜阿弥陀仏と地蔵尊〜八幡坂〜鷺沼駅(トイレ休憩)〜宮前平の観音堂跡〜八幡神社〜宮前平駅自由昼食〜庚申坂〜宮崎大塚〜梶ヶ谷駅解散

大山街道
古代では「足柄道」といわれ、東国出身の防人たちが通った道でもある(古東海道)。
そして江戸時代「矢倉沢往還」と呼ばれ、静岡のお茶、秦野のタバコ、相模川の鮎など各地の産物を
江戸に運ぶ商業ルートだった。
大山信仰が盛んになると、「大山道」と呼ばれ大山参詣の人で賑わった。
最も盛んだったのは江戸中期で年間20万人の参詣があった。
街道の要所要所に大山灯籠が置かれ白装束の参詣客を迎えた。
ちなみに伊勢参りは年間100万人で日本人の15人に1人は参詣したことになるそうだ。
 
街道は赤坂御門からはじまり、現在の国道246号線とほぼ重なる。 
国道246号線は、大正時代に乗り合い馬車が走り、国道に昇格したのは、昭和31(1965)年である。
伊勢原の大山は阿夫利山(あふりやま)、雨降山といわれ雨をもたらし、農耕を司る山として知られ、古代より修験道が盛んな山であった。

渡辺華山の「游相(ゆうそう)日記」に大山道のことが伝えられている。
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「此地は有馬坂下にて、山多田少し。芝増上寺領、代官奥隅忠左衛門とよぶ。産物なし。村は千二百石。戸数に百。」
江田宿の桝やの主人が言うことに
 「狼近き山中来たりすみて 多く犬をとり喰う。夜な夜な往来へ出て人をうかがふとて 行人絶えてなし。
 人家も又 戸をさしかたふして出ず。」


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ウトウ坂 中川から江戸に向かう道 
後方に荏田宿に続くウトウ坂が続く


ウトウ坂
切通しにある坂、渓谷を越える坂で、全国にある坂名である。ウトウト坂、ウトウ坂、訛ってオトウ坂、現在ウトウ坂を下った右側のマンション名はオトサカである。とろとろ登るので馬子が歌を歌いながら登ったというのんびりした由来ともいわれる。
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馬頭観音碑
馬頭観音は、昭和まで街道沿いの竹やぶにあったという。あとで聞いた話では
この石は現在の馬頭観音碑の下に埋められたそうである。

大山道立場跡(皆川家)
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ここに立場があった。峠なので休憩や、馬、籠の交代をした。

血流れ坂
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血流れ坂?街道の横、標高の高い所

付近には血流れ坂、血流れ田、精進場、刑場跡、ハリツケ場、百たたきなどいかにも、刑場があったと思われる地名が残る。
(中川の地名は明治になってからの呼称で江戸時代ここは大棚村といわれた。)
「血流れ坂」という地名は、2013年「心霊スポットではないけれど、ちょっと怖い地名ランキング1位」になってしまった!

ホントかウソか調べてみた。
地元の人は昔からの言い伝えで刑場があったとほとんどの人がいう。
本で調べるとなかったという説も多い。
「港北100話」にある伝説では

「池田(中川村にある旧地名)の高台、現在竹藪のある場所に死刑場があって、前の谷戸田のことを血流田、血流坂とよぶ。
その昔牢場に罪人をいれて罪人が引き出され、おとう坂をあがって処刑された。
この場所ははりつけ場といわれ極刑の磔刑も行われた。
山を掘ると今でも白骨が出るといわれる。」


これは怖い!
そこで真面目に取り組んでみた。

ロウバの地名について
「ロウバ地名」と思われる地名が、この場所だけでなく、「鶴見川・境川・流域文化考」(小寺篤著・230CLUB新聞)によると、鶴見川周辺に多くあったことがわかった。
(詳しくは歴史と素適なおつきあい・中川と老馬参照)中川と老馬

このあたりのロウバ地名は、主に中世の城から小田原北条の時代まで、
あるいは少し遡り鎌倉幕府があったころの名残ではないかと推察した。


鎌倉時代、鶴見川流域を治めていた領主は、土豪からの領主化で、鎌倉幕府の御家人であった。
その中で渋谷氏、小山田氏など大きな領主を組織したのは後の小田原北条氏である。
江戸時代にはいると、旗本代官がこれを治め、それぞれの知行を持つものはその地を、「法」をもって治めた。

ここは鎌倉道、大山道の交差する場所で、人の行き来があるところである。
昔から境界、宿の近くには、人々への戒めのための刑場があることが多い。
江戸幕府は日光街道に小塚原の刑場、東海道に鈴ヶ森刑場をあえて通行人への見せしめのために置いている。

だから牢獄なり、仕置場のような施設はあったのではないかと考える。
新編武蔵風土記稿(昌平坂学問所により1830年完成)の編纂時にはまだ施設が存在し、
その後住民感情の変化により文字が、牢屋の牢から老いる馬に変化していったのではないか。

ひとつの歴史として受け止めたいと思う。


道標のある馬頭観音
文化2年(1805)11月の銘のあるこの馬頭観音は、かつては上有馬と牛久保の境近くにあった。
今は解読困難だが記録によれば左側面に「大山道」、右側 面に「王禅寺道」と刻字があった。
大山道から分岐して保木の薬師堂を経て王禅寺に至る道標として貴重である。
土地改良事業により現在地に移され、傍らにその経過を記す石碑がある。

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246号線にある阿弥陀仏と地蔵尊


阿弥陀仏と地蔵尊
石仏が二つあり地蔵尊は元禄元年とある。付近で、疫病が流行し幼い子供が多く亡くなった。
その供養と子育てを願って植村家の妻が中心になって建立した。

八幡坂
坂下には「出店」があり、菓子、薬、草履を売っていた。
途中「HAKURAKU]というアパート名があり、ここに伯楽という馬医者がいた。
蹄鉄を作り、馬の治療が評判高く八王子や厚木からも患者がきた。
八幡社があったのでこの坂名がついたが、今では麓の植村家に移された。

小台坂

標高が高く74.66mの三角点が小台自治会の裏にあるという。
ちなみに坂下は標高32mである。
昔は清水が湧き出て道はぬかるみ荷車は難儀したという。
明治時代には坂がきつすぎて迂回路まであった。
「上の店」があって菓子を売っていた。
観音堂の手前に「下の店」があり茶、酒、わらじなど売っていた。

観音堂跡

イヌツゲの木があった。ここに稲毛領観音第26番札所がった。
幕末に火災で焼失。観音立像は難を逃れ馬絹の泉福寺に移された。
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宮前平 八幡神社
八幡神社
庚申様の横を通っていたのが昔の大山街道である。昔の街道は現在より
2mほど高い所を通っていたことになる。
神社の石段を半分にわけ一方は土橋村、もう一方は旧馬絹村に属し
一つの社殿に両村のご神体がある。
右隣は小台稲荷である。
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三又集落

昔街道沿いにあった集落で「馬絹の枝物」で有名だった。
明治中期からはじまり、梅、桜、桃の早咲きの花木を作った。

庚申坂
この近くに庚申堂があった。
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宮崎大塚を登った所にある馬頭観音塔

宮崎大塚
高さ5.5m、径25mの方墳と推定されている。発掘調査はされていない。
武器を隠した塚とか、物見の塚とかいわれる。
戦時中は陸軍東部62部隊の高射砲が置かれてかなり崩された。 
当時150名ほどの兵隊と地方から徴用された軍馬が200頭ほどいたという。
司令部は今の虎ノ門病院分院あたりにあり、この部隊は戦争末期に、南方激戦地に移動したという。
今は住宅の中だが、かつて畑中にあったこの塚は大山道を行き来する人々に とって目印だったという。

参考:川崎国道事務所HP・ウイキペデイア ホントに歩く大山街道:中平龍二郎
   中川の地名:吉野孝三郎  港北百話:港北区老人クラブ連合会 
   鶴見川・境川・流域文化考:小寺篤著・230CLUB新聞 
   変わりゆく古里写真集・あざみ野たまプラーザ荏田の二十五年より
   大山道今昔 :金子 勤  
by gannyan1953 | 2014-02-24 10:08 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

長津田の歴史探訪

RSO 歴史と素適なおつきあい2009・4・10
                           
日時:2009年 4月 10日 金曜日 9:50集合
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長津田歴史探訪マップ・長津田宿の歴史を活かしたまちづくり研究会
よくできている・郷土愛を感じた
マップ紹介の3コースを参考に8.2キロのコースを作って歩いてみた

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御野立所より遠望 昭和天皇の皇太子の時代、ここで演習が行われた

集合場所:東急田園都市線「長津田駅」南口改札口

案内地図
長津田の歴史探訪



コース
JR長津田駅南口―乾繭(かんけん)倉庫跡―御野立所(おのだてしょ)「御野立落雁」ー鎌倉古道―大石神社「大石観桜」―上宿常夜燈―大山道―下宿常夜燈「下宿晴嵐」―片町地蔵―JR横浜線開通時の鉄橋―大林寺「大林晩鐘」―福寿(お七)稲荷―殿様屋敷跡―王子神社「王子秋月」―福泉寺(昼食・弁当)-天王社「天王鶯林(おうりん)」―二十三夜塔―林地蔵―伯楽の山桜―旧大山道―東急田園都市線「すずかけ台」駅

長津田の歴史
縄文時代の貝の化石が崖から発見される。
大昔現在の谷戸は海で、台地の南側斜面などから、縄文土器の破片がみつかっている。
弥生時代の遺物は発見されていない。

古墳時代、縄文の遺物で「砥岩の岩はまぐり」と呼ばれる貝の化石が発見された場所を砥岩といい、そこに「ガンガン穴」と呼ばれる二つの穴があった。横穴古墳だったと思われるが、
大山道、246号線で消えてしまった。

馬の背あたりのことである。

律令時代、古代東海道が通っていた。

江戸時代になると、矢倉沢往還(大山道・厚木街道・青山街道)の宿となり大山参りに行く人、表街道の煩わしさから裏街道の大山道を行く武士たちでにぎわった。

戦国末期から明治まで一貫して旗本岡野の殿様が知行した。

明治になり、鉄道ができ、大山道の旅人相手の宿は衰微したが、鉄道の駅ができたことにより養蚕業で発展した。養蚕は大切な副業だった。

大正以降東京、横浜への野菜供給のため野菜栽培が盛んになった。

戦時中東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所現在「こどもの国」への引き込み線が長津田駅から作られた。駅周辺には関連工場もあった。




昭和40年ころ、東急電鉄、県住宅供給公社の宅地、住宅団地の造成により田園都市線沿いではいち早く急成長し街つくりが行われた。

そのために早く老朽化し今では田園都市線沿いでは近代化に遅れた感がある。

長津田の地名

通説:谷津が多く長い田んぼがあったので、谷津田―やちだ―ながつだという説

長蔦説:古くは長津田は都筑ヶ丘とよばれていた。

1333年鎌倉幕府滅亡の前年に書かれた下長津田(現いぶき野)河原玄三郎の古文書、大林寺の古文書にもある。14世紀は都筑ヶ丘であった。

駅そばにある随流院という寺がある。長津田が文献にでてくる(1559年小田原役帳)前から存在した寺で後醍醐天皇在位の正中元年1324年の創建である。

はじめは長蔦寺であった。慶長6年1601年に現在の向陽山随流院となった。

この寺の名前から「ながつた」―「ながつだ」になっていったのではないか。(林 房幸)

今回は長津田宿の歴史を活かしたまちづくり研究室発行の「長津田歴史探訪マップ」
「長津田の歴史を訪ねて」-長津田風土記―1985年発行―林房幸著
を参考にした。

林 房幸氏明治35年生まれ。長津田に住む。
農業、元国鉄管理職=運輸事務官、農協理事、民生委員、長津田史話会同人

長津田駅

明治41年よこはま鉄道開通からの駅でこの土地は大林寺末寺随流院所有の土地であった。
荷車で絹を運んだ道「絹の道」に私鉄横浜線が1908年八王子―東神奈川に開通、絹の輸送にあたった。

戦時中に長津田駅から旧陸軍田奈弾薬庫への引き込み線(現在のこどもの国線)が敷設(ふせつ)され駅の北西域には弾薬庫にかかわる工場群(マルエツ、厚生病院あたり)があった。戦後、引揚者の住宅、県営、市営住宅などが建てられた。

(余談)田奈弾薬庫跡は今でも「こどもの国」でみることができる。






1000人ほどの朝鮮人労働者を使って手作りでトンネルをほり、コテでコンクリートを塗り床はコールタールで固めてある。
内部はみられない。勤労女学生がここで弾薬作りをしていた。
その平和記念碑もある。
戦後米軍に接収され、朝鮮戦争の弾薬が作られた。
1961年に返還され1965年に「こどもの国」開園となる。あまり知られていないが、ここにはイサム ノグチ氏設計の庭園がある。
自然の地形と一体化した遊具やトイレである。今では使用されていないものもあるが、61歳のときの作品である。赤いテトラは今も250万円で売っているそうだ。(HP イサムノグチ庭園美術館・戦争廃墟)

乾繭倉庫跡(かんけんそうこあと

駅前JA田奈の裏にあった。
繭は10日ほどで、蛹から蛾になるので、10日以内に工場に運ばなければいけない。
繭は生物で、呼吸による代謝熱で蒸れたり、風通しが悪いと中のサナギが死んだり、カビが生えたりする。
そこで繭を乾燥し保存するための倉庫である。この倉庫のおかげで繭は安定供給できるようになる。
近隣から繭を集め倉庫に保管し八王子、岡谷などににまとめて運び、絹織物となってまた横浜港に運ばれた。

この倉庫ができるまで農家はそれぞれ急いで工場に運ばなければならなかったが、皮肉にもそのあと繭の急落で他の運輸に利用されていた。   (はじめてシルクを作る人の本)




御野立所(おのだてしょ)(御野立落雁)
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大正10年昭和天皇が皇太子のとき、長津田駅西の神明ケ丘で陸軍隊演習の総監をしたところである。
このとき皇太子は松を植えた。

鎌倉古道
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ここからつくし野にに抜ける細い道が残っている。

大石神社 (大石観桜)
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2014年工事中だった



王子神社とともに鎮守である。祭神は石で、石神という。
普段はみられないが、元旦と例祭日には開扉する
楕円形の自然石で関東大震災で倒れてしまったので、台石にコンクリートで固めてある。
高さ135センチ、幅110センチ、安山岩で水中に長くあった形跡はあるが、焼けた跡はない。
境内から縄文時代の石器、土器などが出土している。

大石神社の伝説―在原業平の東下の伝説がある。

業平は平城天皇の皇子阿保親王の5番目の子で兄行平とともに在原の姓で臣下に下った。
六歌仙のひとりで、歌人として有名だが、美男の代表で放縦な性格のため伝説ができたのかもしれない。
業平が愛人を連れて武相国境にさしかかった時、追手のため周囲から火をかけられ付近は焼け野原となった。
しかし二人の死体はなく、あったのはこの大石だけであった。
二人は抱き合ったまま焼死し、石になったという悲話である。
武蔵風土記には祭神が業平であるというが、地元には伝わっておらず祭神は昔から大石であるという。

まだ続きがあり、この石があった武相境がどこであったか定かでなく、
長津田辻(R246市境)と亀甲山(旭区上川井IC近く)の間に元石(元大石)という地名があったのでそこではないかという。
ところが石の所有でもめ、長津田のものと決まり、そこから運ばれたという説もある。
下長津田まで運ぶ途中大石山のふもとで動かなくなりその山頂に祭ったという。
村境の峠にはよく境界石がおかれ神をまつり紛争を避け、通行の安全を祈るというがその境界石ではなかったか。

上宿常夜燈 
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大石神社から坂をおりる途中にある。 

旧大山道  
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右側は長津田小学校              


下宿常夜燈 (下宿晴嵐) 
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道路整備で位置が変わっている。このそばに兎来の家があった。
兎来の読みはトライと思っているが、
中平龍二郎氏の「ホントに歩く 大山街道」にはウキとある。
(川口木材倉庫)幕末の文化人で、大林寺に兎来の描いた杉絵が残っているが描いた2年後72歳で亡くなった。
墓は大林寺にある。子供がなくのち再興し、後裔は新倉氏。
琴松の家は兎来の斜め上で後裔は河原氏である。崋山に描いてもらった絵は家宝として子孫に伝えている。

崋山の游湘日記に長津田が掲載されている。

渡辺華山は、天保2年1831年、9月20日に江戸を出て21日に長津田を通って鶴間宿の「まんじゅうや」に宿泊、22日にお銀様を訪ねている。

長津田では俳人「兎来」という号をもつ萬屋藤七の家で休憩している。

「上下蛇行暫く長津田といへるに至る たばこ売屋にやすらう あるじは菊の花を生けて賓ありと知らで言も交えず」無愛想だったようである。

崋山「吾輩は都から来たもので俳諧にはすこぶる関心のあるものだ」といっても返事もしない。

あとで兎来は、崋山の弟子にそれとなく華山の人物について聞いてみた。

華山が有名な人物であると聞いた兎来は驚いて、酒、そばをもてなした。
崋山「このそばは、きよからずして味わろし 麦飯を乞ふいとよし」

そこに俳号「琴松」がやってくる。

琴松は華山を引きとめ、「泊っていってくれ」と頼むが断られる。
「では何か書いてくれ」とせがむので、数枚崋山は書いた。

やっとのことで、二人を振り切って出たが、あとを追いかけてきた琴松が、
竹をふたつに切ったようなものを「餞別に」と渡される。

竹はよくみると銭であった。

誠に興がつきて辞退しようとしたが、いかにも素朴で敬をつくしているので返し難く、
この銭で酒とたばこを買って出ていくとある。

片町地蔵
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三体の地蔵が祀られている。台石に
「向テ右かな川 みぞノ口」
「南つる間 東江戸道」とある。

ここに加藤外記という人の碑があった。

米軍輸送部隊のトラックが「加藤外記の碑」を壊してしまった。

加藤外記は長津田の人で、無許可で長津田より恩田に通じる道を拓いた。

これが領主より反逆の企ての証であるとして捕らえられた。

そしてこの地蔵堂の所に集められた村人の前で処刑されたという。

JR横浜線開通時の鉄橋

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明治41年開通から今なお健在である。複線化したときのものは右側のコンクリート。

大林寺 (大林晩鐘)
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岡野家墓地

慈雲山大林寺 開山:元亀元年1570年英顔麟哲和尚 開基:板部岡江雪 宗派:曹洞宗 

本尊:釈迦如来 岡野家菩提寺 武蔵風土記には、初代岡野房恒(江雪の子)創建とある。

岡野家三代のとき住撰よりここに移った。

領主岡野家代々の墓がある。

他に兎来、琴松、関根範十郎(幕末に岡部谷戸の虚空蔵に塾を開いた人)。

引田天功の墓がある。本堂脇の建物に五百羅漢がある。

道路沿いの板碑―上宿竜昌寺廃寺境内にあったものを明治34年大林寺に移した。

嘉元元年1303年の板碑で緑泥岩で質がよい。
阿弥陀如来を念ずる人々を極楽に収容し地獄には落とさないという慈悲の大きさを表現し、念仏した後に唱える回向文であるという。
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延命地蔵
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奇麗な板碑

長津田領主岡野家について

小田原北条氏の家臣でのち徳川家に仕え、
千五百石の知行を受けていた旗本。領主といっても、住まいは江戸裏二番町に屋敷を拝領し、江戸城に勤務
していた。
最初は陣屋をおき家来が知行し、のちに名主がこれに替わった。

初代の父、越中守融成(みちなり)は歌道、茶道で「江雪」という道号で本名より通りがいい。
北条高時の二男相模次郎時行の子孫という。
父の代から小田原北条に仕え江雪は、4代氏政の命で板部岡を名乗った。
江雪は文筆にすぐれ、知慮深く、清廉潔白なので政務に登用、評定頭人の列に加わり、伊豆七島の代官も兼ねた。
和睦交渉、降伏の説得を得意とした。

沼田、名胡桃(なぐるみ)両城の紛糾が北条の命とりとなったが、この件で使者として秀吉に謁見している。

秀吉の裁決は沼田3万石の三分の二と沼田城を北条に、名胡桃城は真田に残すということであった。
ところが、北条から城代としてつかわした猪俣範直は約束を破り名胡桃城を奪取した。
秀吉は激怒し、天正18年1590年北条の支城を次々陥れ小田原城包囲に至った。

このとき江雪は小田原城に籠城していたが、降伏後秀吉の前につきだされた。

「そちは偽ったか」と責問されると、「我君もとより謀反の心なし。辺鄙の仕が愚で名胡桃をとり、結果北条が滅びること江雪の思慮にては如何とも出来ず。誠に家の滅びる運命とも申すべきもの。

されど日本国の兵を引受しこと北条家の面目なり。」

秀吉は忠義に感じいり、家臣とし、岡野を名乗らせた。
秀吉死後、家康に仕え関ヶ原、上杉攻めにも加わる。
養子の岡野房恒が長津田初代領主となる。
21歳の時、小田原攻めのときは岩槻城を守った。
このときの怪我の療養で妻の実家のある恩田村に身を潜めていた。
秀吉朝鮮出兵のとき家康に従い名護屋に行き、上杉景勝攻め、関ヶ原にも父とともに加わる。
今の大林寺を創建した。

八百屋お七のたたり伝説
房恒から三代平兵衛房勝は盗賊追捕役をつとめた。
岡野家に伝わる「八百屋お七」のたたりの話はこのときのことである。

天和2年1663年天和に火事で避難した先の寺の小姓に恋をし、恋慕のあまり放火して再会を願う幼いお七の事件である。
事件を担当したのは中山勘解由で当時岡野氏とは同職であった。
房勝の孫の嫁が勘解由の娘だったこと、処刑時の馬の手綱を持った、吟味に関係した、とかで、後に起こる
大林寺などの重なる火災、世継に恵まれない、領主が短命だったなど、お七の祟りと思っていたようである。
2013年NHKドラマ「あさきゆめみし」でお七の役を前田敦子が演じている。

岡野家が、どうこの事件に関係したかの記録はない。
岡野家は天正19年1591年から慶応4年1868年まで長津田領主として続いた。

お七稲荷(福寿稲荷)
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お七が祀られている。
殿様の屋敷の中にあったといわれている。

246号線コメダの裏の道沿いで、マンション入り口にあるが、道路におしりをむけた形でみつかりにくい。
ちょっとディープな目黒歴史散歩(お七地蔵と相手の西運について)


殿様屋敷跡

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現在長津田幼稚園が建っている。
最後の領主、岡野由成は徳川について静岡藩に勤め駿河富士郡原村に住んでいたが、廃藩置県後帰農を
申し立て長津田に引き上げた。
その時ここに屋敷を建てた。東は年貢を納めた倉があった。
のち長津田小学校の最初の地となった。
陣屋、御前田の地名は殿様からつけられた地名である。


王子稲荷(王子秋月)
長津田7-5

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江戸初期長津田初代の領主、岡野房恒の創建と言われ大石神社とともに長津田の鎮守となった。
社号は王子権現、明治になって若一王子神社、昭和に王子神社となった。

祭神:伊弉諾命(いざなぎのみこと)・速玉男命(はやたまをのみこと)



福泉寺

古儀真言宗で、恩田村徳恩寺の末寺である。
山号薬王山、本尊は薬師如来
岡野房恒の開基で王子神社の別当寺とした。

岡野家の加持祈祷寺である。
武蔵風土記には不動とあるが、現在は薬師である。
檀家のない寺だったため、明治になり、衰微してしまった。
その後火事にあい、本尊、日光、月光は無事だったが、十二神将は焼けてしまった。
しばらく御堂のない状態が続き、やっと真言宗から山崎改心という僧が派遣された。
師は昔気質の上人生活を身につけた人で、妻帯せず養子を迎え再興にあたった。

武相寅年薬師で12年に一度寅年に開帳される。

休憩場所をお借りしてお弁当をたべさせてもらった。
福泉寺のペット墓の方向に進んで行くと天王社の上に至る。


天王社
 (天王鶯林)
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牛頭天王宮といい、京都八坂神社からの勧請である。
享保年間、疫病がはやり、一生懸命祈願したと古文書にある。
岡野家が長津田を支配する前に引田家が存在し名家であったという。
その引田氏の祖先を祀ったものだという。
岡野家がやってきても、引田氏は従属することができず埼玉の方に追放されたらしい。
この引田家は引田天功の一族である。

元々は少し離れた場所(深田・王子神社寄り)にあったが、寛政8年1796年、福泉寺が願入となり岡野氏に、氏子が多くなり祭事にも狭くなったので領主岡野に替地を願い出たという文書もあった。そのころ現在地に移ったという伝承である。

天王社から鉄塔に向かって進み、舗装道路にでたら左の方におりていく。
右側に二十三夜塔がある



二十三夜塔

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18世紀の後半から昭和の初期にかけて、日本の各地で「講」を組織した人々が集まって月を信仰の対象として精進、勤行し、飲食をしながら月の出を待つ、「月待ち」の行事をした。
供養のしるしのひとつである。
十三夜は虚空菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜を観音様、二十三夜は勢至菩薩を本尊とした。
勢至菩薩は智慧の光であらゆるものを照らし、苦しみを離れ衆生に力を得させるといわれ、月は勢至菩薩の化身と信じた。

(道祖の神と石神たち・穂高神社・西川久寿男著)

林地蔵
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長津田には地蔵が多く37体ある。
願意は念仏供養が5体、念仏と庚申供養を兼ねたもの3体、愛児や親族の冥福を祈る15体、厄除け長寿4体、交通安全3体、その他7体である。
ここの塔は伯楽谷戸と後谷戸(こうやと)の念仏講の女性たちで建てたものである。
信仰だけでなく女性の社交の場としての講であったと思われる。

伯楽の山桜
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樹齢350年の古木である。伯楽とは馬の医者のことで、近くに住んでいたと思われる。
このあたり、岡部谷戸から大山街道にぬける道に馬捨て場が三か所あった。
馬頭観音が三つあったが今は一つになった。アスレチックの境界に道祖神がある。

(余談)246号線のマクドナルドの裏から岡部谷戸に抜けて山道を歩いた。途中、林、畑とのどかな風景が広がる。

馬捨て場ではなく違法ゴミ捨て場がたくさんあった。
その方が不気味である。ここに流通センターをつくる工事がはじまる。

岡部谷戸で古くから住む岡部さんいわく「東急が坪300円で売れって言ってきたときみんなで断ったんだよ。だからこんなにのどかな景色が残ったんだ!!」

旧大山道 馬の背
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馬の背・旧大山街道
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馬ノ背の頂上・標高100mちょっと

林地蔵から北に登り246号線を渡るとすずかけ台駅手前の大山道にでる。眺望がよい

参考: 長津田歴史探訪マップ・長津田の歴史を訪ねて―長津田風土記  :林 房幸 (著)
    ホントに歩く 大山街道:中平龍二郎

by gannyan1953 | 2011-05-22 10:35 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(2)



横浜周辺の歴史散歩
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