歴史と素適なおつきあい

タグ:将門 ( 2 ) タグの人気記事

秩父に行ってきた


歴史と素適なおつきあい     2016年4月7・8日(木・金)



b0228416_09385773.jpg
羊山公園は桜が満開


女子6人旅 ついついきゃぴきゃぴして

電車などご迷惑かけたことと思います・・・

桜がとてもきれいで雨があがると幻想的な

霧がでて秩父を満喫しました 


費用:ジャンボタクシー2日貸し切り  一人分10800円

   ホテル 8050円

   夕食各自だったが私は3800円 飲み過ぎたかな・・・

   交通費 特急使って往復4400円

   その他みやげや昼食2回分で5000円 くらい


秩父錦の霞という季節限定の日本酒ゲット!

       


集合:西武秩父駅 4月7日(木)11:00


7日(木)

秩父銘仙館(9時〜16時・200円)・・(丸通タクシー)聖神社

・・和同開珎・聖神社・・・宝登山神社・・道の駅龍勢会館・井上邸・秩父事件(200円)

・・(椋神社)・・・音楽寺・・・羊山公園


ホテル「ルートイン秩父」1人8050円(税込み)

8日(金)

8:30ホテル出発(丸通タクシー)

栃本関所・・・三峯神社・・(九十九神社・・桔梗塚・・・酒づくりの森



7日

西武鉄道の遅れで予定より遅く始まったが

丸通タクシーさん頑張って回ってくれた


お昼は西武秩父駅近くの天ぷらやさんで

ごま油であげた天丼海老もあるのが500円!!


美味しゅうございました




ちちぶ銘仙館  ちちぶ銘仙館

秩父の織物、銘仙など民俗学的に貴重な資料を収集、保管している。




聖神社   聖神社

慶雲5年(708)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社。

銅の献上を喜んだ元明天皇はここに金山彦尊を祀った。


この神殿がのちに聖神社となった。


神宝は銅の蜈蚣(むかで)である。


社殿は市内の今宮神社から移築したもので彫刻がある。

発見採掘者は渡来人といわれている。


日下部宿禰老(くさかべのすくねおゆ)・

津島朝臣堅石(つしまのあそんかたしわ)

金上元・金上旡(こんじょうがん・・こんじょうむ)

という名が残る。

和銅山の主峰蓑山には知知夫国造の故事が伝わる。

雨が続き祈晴祭を国造がこの山で行い蓑を置いたことから

蓑山と名付けたという。

和銅とは精錬を必要としない自然銅のことでニギアカガネ(熟銅)と呼ばれ、

和銅山には100mを超す二条の断層面があり、当時の露天掘りの跡である。



この和銅で唐の開元通宝を模して「天地和銅」「万物和銅」などの言葉をもとに

和同開珎」が誕生した。

秩父駒で奈良の都へ銅を運んだ羊太夫の話、銅産出地特有の植物「花筏」、

一葉羊歯(ひとつ葉のシダ)が和銅山にあるという話が伝わる。



宝登山神社   宝登山神社

b0228416_15194111.jpg

b0228416_15195584.jpg






道の駅龍勢会館

龍勢とはその昔,宇宙に魅せられた山の民が英知と感性で考案し、

27流派により脈々と守り伝えられた手作りロケットである。


井上伝蔵邸  秩父事件

映画「草の乱」で復元された井上伝蔵邸を秩父事件の資料館として公開されている。

明治代秩父の生糸出が盛んになった。

代半ばから秩父が好だったが、幕末になり、生糸が出されるようになってから
秩父も生糸出に参加し、世界につながるに大きくわった。
フランスの蚕の病で一に日本の生糸が多く出されることになったからである。
秩父は信州などと比べ生糸出に偏っており、

もともとフランス市とのびつきがく、秩父最初の小学校はフランスの援助で建てられている。
幕末にフランス式兵法を取り入れたとき、算もフランス式を取り入れていた。

明治になって、小学校の算もフランス式であったという。

そのためフランス大使書記官が秩父をれているほどで、

小学校のフランス式算をみて感していたという。フランスとの取引が多かったため、

1882年リヨン生糸取引所の生糸 大暴落の影をよりくうけることになった。
家は生糸のり上げをあてにして借金をし、

設備や当面の生活に充当していたので、生糸の暴落はすぐに生活の困を深め、

状につけんだ行、高利しがさらに生活を悲惨な状にした。
例えば100万借金すると二分切りで、手取り80万、さらに1年後は金利275%で

220万の借金になった。えたところで、行や高利しは工をして、

悪徳なやり方だと裁かれることはなかった。
税については、明治になり、地租改正で税を金でめることになったので、

作物を金化してめた。政府は西南争の出うため税を税した。

そして秩父の新道建せられ、ひとときでもかな思いをしてきただけに

生糸の暴落、借金返税は秩父の人々の身にこたえた。これが秩父事件につながっていく。

「恐れながら 天朝 するから しろ」 

明治17年11月1日、自由民を唱え民が蜂起!秩父事件という。
秩父市下吉田の椋神社に3000名が集し、大を目指して進軍始したが・・・

要求は借金返の延期だったが、められなかったからである。

真っ先に高利しを文を却している。
彼らは11月1日、椋神社で困民二大成、五ヵ条の律を定め、

一般の住民に危害を加えることをしく戒めた。

2日、大に入って郡役所を占、3日荒川河畔でと交して退、

4日5日上州金屋と粥仁田台兵と交したが破れ、本は解散した。
だが、一は十石をこえて信州に、9日の東馬流の戦闘を最後に走した。
蜂起参加者は最盛8000人とも1万人ともいわれるが、

有罪判を受けた者3390人

(最高部は死刑か役)、

調書に名を残した者4200人である。
明治政府は、この戦闘で死亡したり負傷したりした人や警察官の遇にあたって、

これを西南の役にずる「争」としてい、その末の告は

大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている。
この武装蜂起で発揮された秩父民の天性や高したエネルギ

それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人々に感をあたえている。

(秩父会吉田町支部HP



秩父事件が起こる前、全国で数々の暴がすでに起きており、

政府も焦燥感を募らせていたので、秩父のへの対応しいものになった。

反や律を守るためのが派遣されており、

政が明治政府の国のあり方だったのかといわれている。
困民党は鉄砲隊、竹槍隊から成っており、

鉄砲といっても(ほとんど火)で、200丁弱だった。

山の中で火っても政府からえてしまい、は50mだった。

する政府は明治13年に作られた国の新式村田は1800m

火力の差は然としていた。


後、天朝に逆らった逆として秩父はく口をざすことになる。



椋神社 (吉田)

祭神:猿田彦大神槌命津主命屋根命
景行天皇の、日本武尊征の、矛を杖にして山路を越え、

この吉田町の赤柴まで来ると、矛が光を放ってんでいった。

尊は不思に思って光が止まったところまで行ってみると、

井ののムクの木から猿田彦命がれ道案内をしたというから、

尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まる。

井椋様(いくらさま)と呼ばれしまれていたが、

ムクといわれることが多くなり「むくじんじゃ」となった。


神社としては和3年(710)に社殿が造されたのを始まりとしている。


国時代、秩父神社と同に永禄12年(1569)に

武田信玄によって失した。天正3年に形城主北条氏邦によって再建。

本殿は永4年に修理された。
明治17年の秩父事件を起こした秩父困民党の集結地になった。

龍勢が奉納される。戦国期ののろしの名残ではないかといわれる。(秩父の古社巡り)



芝桜の丘  羊山公園

秩父のシンボルともいわれる武甲山(1,304m)の麓にある羊山丘陵の斜面を利用して

々な色の芝み合わせて植えられ、

文字通りの「花のパッチワク」といわれる。

植作が行われ、さは17,600平方メトルにがり、

ピンクや白、紫色など9(ハナシノブ科フロクス属)40万株以上となる。

来週から芝桜のお目見え・・・まだぼちぼちの芝桜だったが

桜がすごい!



音楽寺   音楽寺

秩父札所23番で小鹿坂峠の中腹にある。

縁起には天長年間(824〜834)慈覚大師が当地に霊異を感じ堂宇を建立、

観音像を刻んだという。

秩父事件では椋神社に集結した3000人の民衆が武装蜂起し2日目にここに集結、

梵鐘を打ち鳴らし大宮郷に乱入した。

峠を登ると13体の地蔵が並び十三塚といわれる。

武甲山を背景に秩父観光のポスターによく使われている。


秩父神社   秩父神社

崇神天皇の時代、知知夫国造の知知夫彦命が祖神の

八意思兼命(ヤゴコロオモイカネ)を祀ったことが始まりとされる。

祭神は八意思兼命・知知夫彦命・天之御中主神・秩父宮雍仁の4柱である。

学業成就と縁結びにご利益があるとされる。

見所は、神社の東北(表鬼門)を守護する

青龍(つなぎの龍)・三猿・子育ての虎・北辰の梟(ふくろう)。

おみくじには水占と繭みくじがある。


秩父を舞台にしたアニメがあり、アニメの絵馬が多くみられる。

あの日た花の名前を僕達はまだ知らない・心が叫びたがってるんだ)





8日 8時半タクシーで出発



麻生加番所跡 秩父市大滝1316

栃本関所だけでは警備が手薄になるとここも加えた。

現在その時の関番の千島家が住んでいる。




栃本関所   栃本関所

小田原北条氏が秩父に進出してきたことを武田信玄は警戒し関所をおいたのが始まりである。

ここは急峻な道なので小鹿野から十国峠を越える道を利用したので、

結局戦いなど行われることはなかった。(秩父往還道)

江戸時代に入ると、武州から甲州、信州方面へ通じる秩父往還の最奥に設けられた関所で、

慶長19年(1614)に関東郡代伊奈氏が、

この地に逃れ住んでいた武田勝頼の家臣大村忠昌を関番に起用した。

以来明治維新まで250年余り、大村家が関番を勤めた。(じゃらん旅行ガイド)


秩父往還は日本の道100選に選定されている。




三峯神社   三峯神社

祭神は伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)である。

景行天皇の時代、日本武尊が東征し、甲斐から上野そして碓井峠へ向かう途中、

ここに立ち寄り、この地の清々しさに宮を造ったことがはじまりである。


文武天皇の時代、役小角(えんのおづぬ)が伊豆を往来しこの地の修験道が始まった。

淳和天皇の時代、弘法大師がやってきて十一面観音を刻み、

宮の脇に本堂を建てた。神仏習合の始まりである。

鎌倉武士に崇拝されていたが、新田義興が足利氏を滅ぼすため、

ここに身を隠した。新田が滅びたので足利氏に社領を奪われ衰退した。

1533年天台修験の関東総本山となって隆盛した。

江戸時代になるとオオカミ信仰が流行し三峯講が栄えた。

見所は、30基に及ぶ御眷属、三ツ鳥居・ご神木・本殿左の石畳に浮かぶ龍・遥拝所など。

博物館には三峯講の資料やオオカミの毛皮がある。



桔梗(埼玉秩父市大大血川部落)桔梗塚 九十九神社



国道140号を太寺に向かう途中、左に高い位置に民家、畑がある。

将門の妾だった桔梗姫が自害した所である。



九十九神社(きゅうじゅうきゅうじんじゃ)(埼玉秩父市大
国道140号を太禅寺に向かう途中、秩父源流水の工を過ぎ、

すぐの小道にある。
道路からはみえない。

の妾桔梗は将亡き後一族をれてこの地まで逃れてきたが

追手の探索に逃げられないと悟し自害した。

の妾たち、家来、付き人たちが九十九人次々と自害したので、

川は七日七血に染まった。それからこの川を大血川と呼ぶようになった。



酒づくりの森
ここは八尾氏が代々やっている酒造で
近江商人の出自である

お客様にもやさしく酒造りの大切なお米を
飢饉のときには供出したので
秩父事件の困民党はこのお店は焼討ちなどしなかった

すごいですね・・・

締めはやはり「秩父事件」でした







by gannyan1953 | 2016-04-05 20:13 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(0)

秩父 平将門伝説巡り

                                        2010.8.13
b0228416_2124335.jpg

             秩父十三地蔵

将門は秩父にきたのか。

「新編武蔵風土記」大滝村大達原の円通寺縁起、皆野町円福寺縁起の三通にある。

しかしやはり伝説の域はでないが、なぜ秩父にこうも将門関連の言い伝えがあるのか興味がわく。

将門は武器(蕨手刀・直刀からヒントを得て騎乗で戦いやすい反刀を考案)の制作、馬の鐙、農作物の器具制作など、鉱物の多い秩父に関心があったことは確かである。

親王を名乗り各地に国司を任命したとき秩父(武蔵守)の国司を任命していない。

武蔵には瑞穂町の阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)が青梅街道沿いにある。将門の祖父の高望王が創建したと伝えられる。

青梅の金剛寺(青梅の語源)をはじめ奥多摩の将門神社など数多くの伝説が残る。

将門の弟将平、将門の子良門のことが将門伝説に置き換えられたこともあると思う。

敗退した将門軍の行動や反逆のヒーローへの憧れも民衆にあったかもしれない。

b0228416_1820984.jpg円福寺(埼玉県秩父郡皆野町大字皆野293) 
         
 新編武蔵風土記には将門開基とある。

 
日野沢谷の入り口、皆野町の椋神社の下にある円福寺墓地に平将平の墓地がある。
現在では弟平将平の墓といわれている。

「将平は石間村(吉田町)幡武山の城主である。

兄将門が武蔵権守興与王の議を入れて大志をいだき、神託といって僭上の謀りがあったのをこれが諌め、止めさせようとしたが、聞き入れられなかった。

将門は貞盛、秀郷によって討たれ、将平は源経基王によって滅ぼされた。

このことより先に将門はおのが宗地として、当地に一宇の伽藍を建立した。

円福寺開基のいわれである。その所以により、僧侶比丘は将平の遺骸を石間にもとめて

当寺に葬り墳墓を建てた

b0228416_18211675.jpg 城峯神社(埼玉県秩父市吉田石間4716)

将門が、この城峯山に籠もり、追討軍と最後の決戦をしたが、

愛妾桔梗姫の裏切りにより最期を遂げたため城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという。

周辺には、門平、館跡、将門馬場、隠れ穴等、の地名も多い。

新編武蔵風土記では弟がこの城に籠もり、ネズミの大群に武具が襲われそのあと秀郷に攻められたという。

山頂からの眺望は素晴らしく360度の展望である。
城峯山の山頂直下に城峯山神社が鎮座している。
社殿正面には「将門」と書かれた扁額が掲げられている。



九十九神社(きゅうじゅうきゅうじんじゃ)(埼玉県秩父市大滝)

国道140号線を太陽禅寺に向かう途中、秩父源流水の工場をすぎてすぐの小道にある。

道路からはみえない。

将門の妾桔梗姫は将門亡き後一族を連れてこの地まで逃れてきたが追手の探索に逃げられないと覚悟し自害した。
将門の妾たち、家来、付き人たちが九十九人次々と自害したので、川は七日七晩血に染まった。それからこの川を大血川と呼ぶようになった。

b0228416_1824528.jpg 桔梗塚(埼玉県秩父市大滝大血川部落)

国道140号線を太陽寺に向かう途中、左側に高い位置に民家、畑がある。桔梗塚の標識あり。
桔梗が自害した場所。

幸島家(埼玉県秩父市中津川)(210号線中津川キャンプ場近く)
大滝村落合は荒川と中津川の合流点で将門残党を追った追討軍は中津川から流れてきた大きなわらじをみて捕らえられたのが猿島一族でのち生き残った一族は幸島という名に変えて土着した。
のちに平賀源内が鉱山開発のため当家に立ち寄ったという。
by gannyan1953 | 2011-05-07 18:22 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(4)



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
> 歴史好きさん ご訪..
by gannyan1953 at 23:57
始めまして。 阿豆佐..
by 歴史好き at 19:53
> rollingwes..
by gannyan1953 at 14:13
初めまして、ローリングウ..
by rollingwest at 16:31
できればメールでお話しし..
by gannyan1953 at 09:08
新横浜スパインクリニック..
by gannyan1953 at 18:23
読めないんですね。申し訳..
by gannyan1953 at 18:09
> ださぶろうさん ご..
by gannyan1953 at 21:44
楽しんでいただけて大変嬉..
by gannyan1953 at 21:41
長津田の大火の事を調べて..
by shin344 at 21:41
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧