歴史と素適なおつきあい

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閑静な渋谷の歴史散歩

歴史と素適なおつきあい

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 渋谷金王丸

ハチ公前集合10時〜14時 昼食は国学院大学レストラン


東福寺〜金王八幡宮〜豊栄稲荷〜氷川神社〜塙保己一資料館〜吸江寺〜白根記念渋谷区郷土博物館

渋谷一族は谷盛七郷(渋谷・佐々木・赤坂・飯倉・麻布・一ッ木・今井)を
領有し渋谷の地名の由来となった
義経を暗殺しようとした土佐坊は渋谷金王丸なのか?
塙保己一とグラハム・ベルそしてヘレンケラーとの関係は?
剣客商売秋山小兵衛の無外流とは?
若者の街渋谷の昔と今



渋谷山 東福寺 天台宗 (渋谷区渋谷3−5−8)
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東福寺は金王八幡宮の別当寺として建立され、渋谷区最古の寺院といわれる。
梵鐘の鐘銘によると、のちに源頼朝が修復し渋谷山 東福寺とした。この梵鐘には宝永元年(1704)の銘があり、金王八幡の縁起など渋谷の歴史が刻み込まれている。
当時は渋谷の地名を 谷盛庄と呼んでいたことがわかる。

金王(こんのう)八幡宮 渋谷区渋谷3−5−12
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祭神:応神天皇
渋谷駅東側、宮益坂をはさんだ小高い場所に渋谷城があった。城跡には「金王八幡宮」がある。
社伝によれば寛治6年(1092)渋谷氏の祖河崎基家(渋谷重家)によって創建された。
その息子の金王丸の名から金王と称されるようになった。
現在の社殿は、徳川家光が跡継ぎにきまった時、守役の青山忠俊と乳母の春日の局が慶長17年(1612)に造営したといわれている。
その後、度々修理されたが、江戸時代前期から中期にかけての建築様式をとどめている。
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鎌倉時代の神輿


このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、居館を囲んでいるうえ、かつては数箇所に湧泉があるという好条件を備えていました。しかしその居館(城)は大永4年(1424)、北条氏と上杉氏の合戦の時、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。渋谷区教育委員会
境内には金王桜がある。一重と八重の花が一本の木に咲く珍しい桜で頼朝が植えたといわれている。

豊栄稲荷(とよさかいなり)(渋谷区渋谷3−4−7)
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鎌倉時代金王八幡を創建した基家の曾孫渋谷高重によって現在の渋谷駅近くに祀られた。
渋谷川が渋谷城の堀に使用され文化の頃までは「堀の外稲荷」と称された。
その後「田中稲荷」「川端稲荷」とも称され、昭和31年道玄坂にあった豊澤稲荷と合祀された。
豊澤稲荷は、元は猿楽町の京極家下屋敷に祀られていたが、明治になって道玄坂に移され、さらに昭和36年区画整備により、金王八幡ゆかりの社ということで現在地に遷座した。

氷川神社 (渋谷区東2−5−6)
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祭神:素戔嗚尊・稲田姫命・大己貴尊・天照皇大神
古くは氷川大明神と称し、渋谷村、下豊沢村の鎮守であった。
景行天皇のころ日本武尊東征のおり素戔嗚尊を勧請したと伝わる。のちに、弘化年中(810〜823)慈覚大師が宝泉寺を開基し別当になった。正徳3年(1713)に宝泉寺が出火、史料が焼失した。境内に土俵があり、江戸時代「郊外の三大相撲」として大井の鹿島神社、世田谷の宮坂八幡神社と共に人気があった。かつてご神木の松があり「常磐松」とよばれ常磐御前が植えたという伝説が伝わる。現在の社殿は昭和13年氏子町内の寄付で造営され戦災にもあわず残った。

塙保己一(はなわほきいち)資料館・温故学会会館(渋谷区東2−9−1)入館料100円
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温故学会会館は、「群書類従」版木(国・重要文化財、17,244枚)を管理・保存する目的で、斎藤茂三郎初代理事長が渋沢栄一、三井八郎右衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て、大正15年8月に着工され、昭和2年3月に完成。震災の経験を生かし堅固、耐震耐火を基本として建設された。
郡書類従を編纂した塙保己一とは
延享3年(1746)に武州児玉郡で生まれ幼くして視力をなくす。検校について按摩・鍼・音曲を学んだが上達せず絶望のあまり自殺まで考えたが、雨富検校に救われ、学問がしたいと話した。
雨富検校は保己一の学問の才能を見いだし、あらゆる学問をさせた。天明3年(1783)検校となり、記録や手紙にいたる様々な資料、歴史史料を蒐集編纂したものが「郡書類従」である。
ヘレンケラーの両親は「塙保己一を手本にしなさい」と教育したという。1937年にヘレンケラーはここを訪れ、保己一の木像に手を触れ、感謝とお礼の言葉を語ったという。
ヘレンケラーの両親が保己一のことをどうして知ったのか
電話を発明したベルは三代続いた唖者の教育一家だった。それでヘレンケラーが6歳のとき両親から相談を受けた。このときベルはサリバン女史の紹介と保己一のことを話したそうである。
グラハム・ベルは保己一のことをどうして知ったのか
日本人留学生井沢修二はベルの元で視話術を学んでいた。そのときベルに詳しく保己一のことを話したという。のちに井沢は盲唖教育に力を注ぐ教育者となり、唱歌「紀元節」の作曲者である。

普光山 吸江寺(きゅうこうじ)臨済宗(渋谷区東4−10−33)
慶安3年(1650)麻布桜田町に石潭良全(せきたんりょうぜん)によって開基。二代目神州良紙の時、渋谷に移った。板倉家累代(安中藩・新島襄出身地)の墓があり、当時茶を通じ大名たちが出入りする寺であったという。開基の石潭良全が近江の辻月丹(江戸時代の剣客・慶安元年1648〜享保12年1727)に禅を教え「一法実無外 (一法実に外無し) 乾坤得一貞 (乾坤一貞を得) 吹毛方納密 (吹毛まさに密に納む) 動着則光清 (動着すれば光清し)」という偈(げ・禅宗の仏の教え)を与えたことにより辻月丹は、無外流を開いた。麻布にあった頃のことである。
誓詞によると、1万石以上の大名32家、直参156人、陪臣930人とある。柳沢吉保も門人だった。
土佐藩では山内容堂はじめ上士が学ぶ剣法で、幕末まで続き坂本龍馬も土佐で学んだといわれる。
新撰組の斉藤一、池波正太郎・剣客商売の主人公秋山小兵衛、大治郎親子、ほかに映画の「雨あがる」で、主人公三沢伊兵衛が無外流の使い手として設定されている。映画では、無外流居合の基本の形が使われた。

白根記念渋谷区郷土資料館 (渋谷区東4−9−1)
渋谷区議会議員の故白根全忠氏より寄贈を受け、「渋谷区立白根記念郷土文化館」として1975年に開館した。渋谷の地理・歴史・民俗などを総合的に学ぶことができる。

常磐松の碑
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伝説では常磐御前が植えたという。近くの渋谷城主金王丸が源義朝、頼朝2代に仕えたので生まれた話なのかもしれない。このあたり御料牧場でその前は島津氏の土地だったが常磐松は名木として人気があった。

金王八幡宮参考資料(渋谷庄を訪ねてより)

渋谷氏


桓武平氏秩父氏の流れで、東京都渋谷、神奈川県綾瀬、藤沢、大和あたりに勢力があった。
のちに薩摩島津氏とともに移住した一族は東郷氏(東郷平八郎)、入来院氏、祁答院(きとういん)氏となった。
基家が前九年の役の恩賞に渋谷郷渋谷庄(東京都渋谷)を賜り、川崎冠者といわれた。
基家をさかのぼると、先祖に良文がおり、平将門の父良将と兄弟で将門の叔父である。将門の乱のとき、良文はどちら側だったのかと調べてみると、将門とは敵対していなかったようである。伝承ではやさしい器量のよい人で、923年良文36歳のとき醍醐天皇より関東の賊を討伐せよとの勅命に藤沢市あたりを本拠として賊を滅ぼしたという。村岡郷(藤沢市)のことで良文は「村岡五郎」とよばれた。基家の子重家は、渋谷氏を賜り、渋谷にある金王神社あたりに城をもった。この金王 神社はのち金王丸の出現により金王八幡宮といわれるようになった。領地は、横浜小机をへて、重家の子重国が高座郡渋谷に進出する。時代は頼朝挙兵前で、平氏か源氏かと迷う時代になっていた。

渋谷重国

佐々木氏庇護の背景として、重国の領地渋谷は現在の海老名東部にあたり、昔国府があったといわれる場所である。当時、国府は大住から淘綾(ゆるぎ)に移っていたが、国府時代の古道は、太平洋側の道より逃避行にむいていたと思われる。
佐々木氏が源氏方についたとき、渋谷重国は石橋山合戦で頼朝征伐軍(平氏)として戦うが、のち鎌倉幕府(源氏)に服属する。頼朝の死後、重国の二男高重は、武蔵七党横山党の横山時重の娘を妻にしていたことから和田合戦では、義盛方(反北条)についた。
渋谷氏はこの和田合戦の後、勢力が衰退する。が、細々と続いていたようである。
重国の長男は鎌倉方につき、のちに薩摩に移住、島津氏と並ぶほどになるが、戦国時代に島津氏に服属する。早川城には重国の四男重助の末裔、石川氏がいた。後北条に仕え、「石川衆」と称され、家康江戸入府時には石川重久が城主であった。
渋谷の道玄坂に、和田一族の大和田道玄が寺をつくったといわれる。地名の由来である。名所図会には和田の残党がこの坂道の窟に住み山賊を業としたとある。渋谷氏と和田氏は全く関係がないとはいえないかもしれない。

渋谷金王丸

渋谷重国の兄弟といわれるが、定かではない。
平治の乱で敗戦した義朝一行は、近江、青墓(大垣)、舟で愛知県知多の野間の長田忠致(おさだただむね)の屋敷へと平治物語にはある。
なぜ野間に向かったのか!長田氏は源義朝の家来、鎌田正清の妻の実家であった。道中4人といわれ、義朝、正清、金王丸ら は、馬、馬具の調達を頼み、急いで東国に落ちのびるつもりだったが、「ゆっくりしていけ」と長田忠致に引き留められる。実は長田は義朝を裏切るつもりであった。
鎌田正清は山田城主である。都筑区山田神社の地にあった。
義朝は金王丸に背中を流してもらい湯につかっている。正清は酒の歓待をうけていた。
金王丸は刀をもってはいっていたため、長田の郎党は襲うことができない。金王丸は着代えがないので郎党に声をかけたが返事がない。長田の郎党は、あえて着代えは用意しなかった。しかたなく金王丸は、着代えを取りに外にでた。
そこへ、長田の郎党たちが義朝を襲い殺してしまう。正清は異変に気付き、かけ出すが郎党に囲まれ殺される。正清の妻は自らの父の裏切りを嘆き、夫の後を追う。
金王丸は急いで戻って戦うが劣勢になるや、馬で飛び出し京都まで戻る。義朝の愛妾常盤御前に知らせ、僧となって義朝の菩提を弔うことになる。

知多半島の野間には役小角が創建、中興が行基といわれる野間大坊がある。のちに頼朝はここに父義朝、自分の助命をしてくれた池の禅尼、鎌田正清夫妻の供養塔を建てた。

ここからは金王丸と昌俊は同一人物か定かではないことを前提に話を進める。

金王丸は興福寺の衆徒となり土佐坊昌俊と名乗る。大和国で乱暴を働き土肥実平に捕えられた。
が、頼朝は昌俊の義朝への忠誠心にうたれ、家臣として迎えた。鎌倉の雪ノ下に屋敷跡がある。
頼朝と義経との仲が悪くなり、土佐坊は京都堀河の義経屋敷を襲うよう暗殺を命じられる。いきさつは、誰も義経暗殺を引き受ける者がいないので、自ら申し出て、下野にくらす母親の面倒を頼朝に依頼したという。が、暗殺に失敗し鞍馬山に潜むが、義経郎党に捕まり、六条河原で斬首される。
この土佐坊昌坊は常盤御前に知らせに行ったとき、常盤御前と三人の子の都落ちを涙で送ったというが、果たしてその子義経の暗殺に向かうだろうかと疑問視されている。他説に、義経は父の郎党だったことから、逃がしたともいわれている。
金王丸の話は、
謡曲「正尊」、浄瑠璃「御所桜堀川夜討」にある。


参考HP:東京散歩・散策 金王八幡宮 塙保己一資料館 無外流兵法譚 渋谷氷川神社
    鎌倉散歩 ウィキペディア 歴史と素適なおつきあい「渋谷庄を訪ねて」
参考書籍:「相模のもののふたち」
by gannyan1953 | 2013-12-28 18:24 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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